久しぶりにのんびりと終日勉強できた。
昨日もとある先生から「最近更新されていないのでお忙しいのかと・・・」と電話を頂いたが、本当にここしばらくあわただしくて、日々のタスクの「バケツリレー」をしているうちに、あっという間に過ぎ去っていったのである。この「バケツリレー」というルーティーンワークは、当然大切な営みであり、一つ一つは心を込めて行っているのだが、「バケツリレー」のみに終始していると、言いようのない消耗感や焦燥感に覆い尽くされる羽目になる。特に、バケツの中に新しい何かを注げるような機会のないままリレーを続けているとなおさら、である。なので、こうして久しぶりにリレーの日々から離れて、ゆっくり文献を読みながら「新しい発見」が出来るのは、文字通り「至福の瞬間」である。
法学部に所属してラッキーだったのは、僕があまり強くはなかった行政や政治学、法学の書籍に触れる機会が格段に増えたこと。先日、大学の書籍センターで偶然目にとめたある本も、関西にいた時ならば、目にとめるチャンスは訪れなかった可能性が高い。
「ビジネスのためではなく、日常生活のために『制度』を創るとしても、そこでいう『制度』には、法律主導型=トップダウンのもの(全国レベルの大きな制度)と現場創発型=ボトムアップのもの(地域レベルの小さな制度)とがありうる。(中略) こうした小さな制度づくりは、工夫をこらせば誰にでもできる。よりよい生活のために、手作りの小さな『制度』をつくる。実際にも、そうした営みは全国のあちこちで様々な形で行われている。各種の試みを紹介し、法的な観点から、問題点を指摘し、解決の方向を示すことによって、同様の試みをしようという人々をサポートすることが、本書の中心的な目的の一つである(制度作りの実態の提示)。」(大村敦志『生活のための制度を創る』、有斐閣 p14,16)
民法学者が、子育ての問題やNPOなどの「制度化」に向けての問題点や解決策を示そうとした本書は、福祉やNPOを現場から眺めている僕にとっても、「待ってました」の切り口であった。そう、介護保険にしても、障害者福祉の現場にしても、大村氏の言うように「現場創発型=ボトムアップ」の手作りによる「小さな制度」が、「大きな制度」(=立法化)へと繋がったケースは多い。例えばそれまで50人~100人規模の大規模一括処遇が中心だった特別養護老人ホームにおいて、数名規模の「ユニットケア」という発想が各地の現場で実験的に取り組まれ、数名規模の空間の方がそのケアの質が高まることが広まっていき、それが「小規模多機能型」として改正介護保険の中で組み入れられるようになった。こういった現場発のケアの実践は、高齢者・障害者問わず、いまや全国的に情報交換がなされ、よいものは制度として組み込まれている。
とはいえ、昨今の介護保険の改革、あるいは自立支援法にいたる障害者福祉の改革は、こういった良いケア(小さな制度)の実践を「大きな制度」として高めて全国的に展開する、というポジティブな改革の一面があるにせよ、それより先に財源の改革、社会保障費を切りつめるためにどうしたらよいか、に終始する改革の側面が非常に大きい。介護保険の改正にあたり、介護保険の生みの親のお一人も、次のように警鐘を鳴らしておられる。
「注意しなければならないのは、新しいケアの思想や技術は常に現場の経験からしか出てこないという事実である。行政や制度がリードしたり側面支援したりする場合もあろうが、それが常態となるのは好ましくなく、ケアマネジメントは常に現場の経験に開かれたものであるべきなのである。」(堤修三 「介護保険が目指したものと2005年改正」 病院経営2006.1.5 p11)
介護保険法にしろ障害者自立支援法にしろ、「大きな制度」の改変にあたり、それが「現場の経験」という「小さな制度」に「開かれ」、そこに根ざした、耳を傾けた改革となっているかどうか、は大変重要なポイントである。形作れど魂入らず、では全く意味がない。「大きな制度」という「形」に「魂」があるかどうかを問うにあたり、堤氏の次の言葉も、重い意味を持ってくる。
「介護サービスは地域性が強いので、要介護者に対するサービスの在り方を議論する際、往々にして介護保険の問題として議論されることがあるが、要介護者に対して提供されるサービスと、それらの費用のファイナンスとは分けて考えられなければならない。換言すれば、適切な介護サービスは、介護保険制度の動向とは別の次元で常に追求されなければならないということである。介護サービスの事業経営が介護報酬など介護保険の動向に左右されることは確かであるが、サービス事業者には、まず、市場における介護サービスの提供と購入があって、介護保険はそれをファイナンスするものであるということを忘れないでもらいたいのである。(中略)サービス事業者が介護報酬や制度の従属的地位に甘んじ、その動向に左右されるようでは、わが国の介護サービスの向上は望めない。」(同上、p24)
堤氏の言うとおり、サービス事業者がファイナンスの有り様(形)にのみ囚われていては、良いサービス(魂)の充実には繋がらない。確かにその通りだ。自立支援法においても、スタートしてから事業者の間で飛び交っているのはもっぱら「この単価でやっていけるか」というファイナンスの議論ばかりで、ヘタをすれば「当事者の地域での自立生活をどう構築していくか」という魂の部分が抜け落ちた議論になりがちである。確かにこの部分には警鐘は鳴らされなければならない。だが一方で、低い単価で低賃金労働を強いられている多くの福祉現場職員にとって、この「正論」は時には過酷に聞こえはしないか。
「わが国では、現在、若者の労働市場において、一ヶ月の総所得が、生活保護費の総月額を下回っているケースがかなり見られる。福祉労働、とりわけ、介護保険や支援費の居宅支援労働はまさにその線上を浮き沈みしているといえる。障害者のミニマムな生活保障に対する国民的合意の足を引っ張る一翼を、もし福祉労働者が担うような羽目になれば、それこそ悲惨である。」
(北野誠一 「『障害者自立支援法』をどう捉えるのか 」 精神保健ミニコミ誌「クレリィエール」No.339
次のHPに転載されている。)
ファイナンスではなく、良いサービスの追求のためにサービス事業者は専心するべきである。そして、その中から現場の良い実践を「小さな制度」として積み重ねて、その積み重ねられた現場の智恵や経験を「大きな制度」の礎にすることが、制度設計役には普段に求められている。だが、現場の事業者からすると、ファイナンスが覚束ない中で、良いサービス追求のためにどこまで「高楊枝」をくくれるか、事業者は一方では「喰わね」ば死んでしまうじゃないか、という悲鳴も聞こえてくる。鶏が先か、卵が先か、の議論になりそうだが、どちらの場合であれ、制度設計側の「予算がないから」の一言で、現場の「小さな制度」の実践も、そして福祉労働者の「高楊枝」をも、蹴飛ばしてしまうようなものであっては、最終的にとばっちりを食らうのは、制度設計側でも福祉労働者でもなく、その議論から往々にしてはずされがちな障害当事者である、という事実を、私たちは忘れてはならない。