何のための研究?

 

今週の前半は関西で調査をしていた。

以前から追いかけているフィールド地で久しぶりに丸2日、じっくり腰を据えて、色々お話を聞く。どんな現場でも「何となくブラブラする」なかで、色んな人とお話しする中で、様々な光景を垣間見る中で、少しずつ課題や論点を探っている僕にとって、この「ブラブラ」は大切な時間だ。今の自分の仕事のスタイルは、現場で伺う様々なエピソードから論点を絞り出し、何らかの考察に高めていく、というフィールドワークのスタイルなので、どうしてもこうやって「現場に入り込む」期間が必要になる。朝の会議から、送迎の車、夜の会議にその後の飲み会まで、丸2日、現場漬けになっていた。

質問紙を用意して、こちらが聞きたいことを効率的に次々と大規模に聞いて回る、というやり方の調査もある。僕もそういう調査研究にも関わっている。だが、それよりも僕の性に合うのは、今のところ、ブラブラする中で論点を探り当てる、という先ほどの方式だ。これは一見非効率で、ブラブラを何度か重ねる期間には、いったい何が見えてくるのか、自分自身でも予想がつかない。だが、ある瞬間、ある言葉やエピソード、ある光景などから、突如として「これってこういうことなんとちゃうんか?」という視点、というか、枠組みのようなものが舞い降りてくる。その瞬間から、ブラブラが俄然、枠組みやその作業仮説を検証するためのブラブラとなるのだ。この瞬間が、調査初日の朝一に降りてくることは、まあない。事前に用意しておいた枠組みを当てはめて見て、あたることもあまりない。それより、現場でブラブラして、一杯しゃべって、色んな人、色んな場面に遭遇する中で、ようやく見つかってくる。今回の場合は、フィールドワークの二日目くらいにある作業仮説が見つかった。

ただ、2日で見つかる、というのは、既にこの現場に何度も足を運び、一度は論文にもまとめ、という継続的おつきあいをしているからである。全く新しいフィールドでこんなに簡単に事は運ばない。そして、面白いのは、今回の視点、というか、枠組みは、実は前回論文にまとめたときの視点なり仮説を否定する、新たな作業仮説なのである。つまり、自分でそうだろう、と信じて、先行研究なども参考にしながらまとめ、当の現場の方々からも一定の評価を得られ、出来あがったつもりになっていた枠組みでは、肝心な部分が抜けているのではないか、というのが、前の論文から1年半ほど経って、見えてきたのだ。

これは、当然その枠組みについて考えている僕自身の変化によって見えてきた部分でもあり、現場自身の変化でもあり、その両方でもある。前の枠組みがあったからこそ、そのめがねでは不全感のある部分が前景化した、ともいえる。そういう意味では、今回の枠組みだって、仮説検証の中で、論文としてまとめる中で、あるいは新たにその後ブラブラする中で、否定されるかもしれない。でも、こうやって何度もやりとりをしていくうちに、そのうち、「否定されても残る」部分が出てくるかもしれない。それが、一定の普遍性なり理論化なりにつながっていくのではないか。今のところ、そう感じているし、この現場のことを扱った以前の論文でも、結果の部分については、一定の普遍性はまだある、と思っている。

何のための研究か、と問われると、僕は、こういう現場とのやり取りの中で、一定の普遍性を導き出し、そこから、少しは現場に返せる理論なり枠組みなり視点を提供するための研究、と今のところ、考えている。もちろん、これを通じて、学問体系や理論に一定の貢献はしたいし、出来うる、と思っている。ただ、あくまでも「現場に役立つ」、ということは、僕の中で前提条件であり続ける。理論にさえ貢献出来れば、現場になんて何にも役立たなくて良い、という考えは、他の人はどうであれ、少なくとも僕の研究では全くの想定外である。多少なりとも現場の方々に期待して頂いた上で、多くの現場の方々に協力いただき、現場で「ブラブラ」出来ているのである。研究を通じて何らかの「お返し」が出来ないようなブラブラは、単なる現場にとってのじゃまでしかない。研究と実践が結びついている社会福祉の分野だからこそ、この視点は、僕の中でははずせない枠組み、である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。