想いを描く創作、とは

 

金曜の夜、あるドキュメンタリーに釘付けになっていた。

昔からテレビのドキュメンタリーが好きで、若い頃、こういう映像を作る人になりたい、と憧れていたこともある私にとって、この番組の主人公である木村栄文氏の語りには、グイグイ引き込まれていった。なによりも、一番心が揺さぶられたのが、次のフレーズ。

「ドキュメンタリーとは、自分の想いを描く創作である」

不偏不党、客観性、事実をありのままに伝える・・・こういった「縛り」に囚われて、すっかり面白くなくなっている最近のテレビに比べて、なんとはっきり、なんと分かりやすいメッセージか! そして、そういうが満載の木村氏の作品は、そのダイジェストを垣間見るだけでも、どれほどその世界に引き込まれていくか。今だときっと「やらせ」とか「虚実ない交ぜ」とかいわれそうだが、全くそういう批判は当たらない。木村氏の「想いを描く創作」として、見事に彼のドキュメンタリーは見る人をその世界に引き込んでいく。(このあたりは読売新聞の特集にも詳しい)

実はこの「想いを描く創作」というのは、何もドキュメンタリーに限ったことではない。優れた社会学系論文も、同じく「想いを描く創作」の部分が強いのではないか、と感じている。

例えば以前書いたが、マックス・ウェーバーだって、「想いを描く」ための分析であった。

「具体的な実践的提案を科学的に批判する場合、その動機や理想を明らかにすることは、その根底にある価値基準を他の価値基準、とりわけ自分自身の価値基準と対決させることによってのみなされうるということがきわめて多い (中略)ある実践的意欲の『積極的』批判は、必然的にその根底にある価値基準を自分の価値基準と対決させつつ明らかにすることである。」 
(大林信治著、『マックス・ウェーバーと同時代人たちドラマとしての思想史』岩波書店 p51)

ウェーバーは、「自分自身の価値基準と対決させること」の中から、様々な価値基準や歴史的事実に対しての「『積極的』批判」を続けてきた。でも、これは「自分の想いを描く」ための、「創作」の一手段として整理することが可能だろう。また、こないだのコラムで書いた阿部謹也氏は、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」の模索の中で、中世のドイツ史に行き当たり、そこから自身が「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」へと見事な連絡、結びつきを続ける中で、ハーメルンの笛吹男などの「創作」へと結びついていかれた。この際、木村氏はフィクションで、ウェーバーと阿部氏はノンフィクションだ、なんて単純に分化出来ない。どちらも、ご自身の切実な「想い」に端を発し、その表現方法が、映像か文章か、ドキュメンタリーか歴史分析の論文か、の違いだけだ。かつて大熊一夫氏は繰り返し、「優れたドキュメンタリーはすぐれた論文と全くひけを取らぬ価値がある」といっていたが、まさに木村氏の作品を見ていて、これほど立派に論文が対象に迫れているか、を反省させられる内容だった。

大熊さんや木村さんはジャーナリズムの世界から、阿部さんやウェーバーは研究者の立場から、ともに「自分の想いを描く創作」としての大作を作り上げられている。富士山の頂上はひとつ。でも、登り方は色々ある。論証の仕方、ストーリーの組み込み方、ロジックや表現方法、には、各登山路で、独自のやり方がある。それに拘泥するのではなく、あくまでも「創作」の向こう側にある「自分の想い」に目を向け、それをやり遂げること、そこらあたりに、ノンフィクションや論文が持つ特有の「面白さ」があるような気がしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。