誰の何を調べるのか

 

「私は『自閉症の特異な記憶力』などと呼ばれて学者の間で珍重されてきた現象も、もっと私たちがふだんしている現象の中で理解すべきものではないのかとずっと感じてきた。そしてあるときにふと、『自閉症の特異な記憶力』というのも、『特異な記憶力』なのではなく、彼ら特有の『記憶術』によて覚え込まれているものなのではないかということに気がついた。そう考えることで、彼らと自分の距離はうんと縮まったし、さらには自分たちの『記憶術』について考え直す視点を与えてくれることになった。
(中略)
 しかしながら、大学の研究者は、自分たちのもっている知能検査法の尺度で『おくれ』をもつ人の行動を測るばかりで、一人一人違うその人の記憶術の所在を調べようとはしてくれなかったように私は思う。だから研究者の記述には決まって、彼らの『記憶術』のからんだ行動を、判で押したような『常同行為』とか『執着行動』として見てしまうところがあった。実際には『自閉症児』と呼ばれてきた人達の『記憶術』は、一人一人みんな違っていて、その実態はその人と付き合う中でしかみえてこないはずのものだったのである。」(村瀬学「自閉症-これまでの見解に異議あり!」ちくま新書p80-81

お隣の長野県で明日から明後日にかけて、知的障害者で、大規模入所施設を出て、地域で暮らしておられる方々へのインタビュー調査に出かける。このとりくみは「地域移行検証プロジェクト」として、HPでも紹介されているので、ご参照頂きたい。長野が全国に先駆けて行っている地域移行の取り組みを、実際に出た人へのインタビューからフォローしていこう、という取り組みである。で、もともと精神障害者の問題をやっていた僕なので、勉強の意味もかねて、インタビューをしながら色々知的障害関連の文献を読み始めているのだが、その中で思わず「そうよねぇ」と膝を打った言葉。

村瀬さんは、「自閉症」とラベリングされる人々の行為を、「異常な行為」とラベリングすることに深い憂慮と嫌悪感を示している。むしろ、私たちが幼稚園から小学校段階で獲得していく、様々な認知上のスキームや、あるいはマッピング機能について、それを不得意な「自閉症」とラベリングされる人々が、自分が持つリソースを使いながら最大限の「防御反応」をするときに、こういう形で表象せざるを得ない、ということを分析している。その表象を、いわゆる専門家は「症状」と捉え、特異な例として研究対象に挙げてきたのだが、このラベリング機能そのものが、業界用語以上の意味があったのか、と筆者がずばりと攻め寄っているところが、すごく面白い。

専門家の外形的判断を退け、ご本人の立場なら「どう見えるか」を問いかけ、「なぜその手法を取ったのか」を論証していく、こういう作業が必要になってくるのではないかと思う。だが現状では、「自分たちのもっている知能検査法の尺度」以外のものをオルタナティブとして示せていない。そういう研究者への厳しい警告の言葉でもある。己の明日以後の調査にも、当然批判の刃は向いてくる。気をつけなくっちゃ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。