自己変革へのアシスト

 

今日は出張で静岡に宿泊。静岡の友人と久しぶりに議論していた。

あんたの関心の中心は「人」なんだね、と解釈され、改めて自分の研究を振り返ってみる。確かに、社会に変わってほしい、組織も変革してほしい、と思うけど、「その前に個人が変わらなきゃ」と博論以来一貫して主張し続けている自分がいる。いや、起源をさかのぼれば、大学生になる以前から、「○○だからしかたない」という言説が大嫌いだった。あれって、自己変革しない言い訳、他責的文法で逃げるための方便だと思う、というので、意見が一致。そういう無責任が一番問題である。特に、若い頃「社会変革」をしきりに叫んでいたのに、自分がいざ「変えうる」ポジションについた時に、保身と事なかれ主義にどっぷりつかって何も変えないどころか、下の世代の変革の芽を積極的に潰している団塊の世代について議論が白熱。私たちの社会でどのように「言い訳」から自由になるか、言い訳というロジックを使わないで、きちんと向き合えるか、そのために教育は何をなすべきなのか、などについて議論を重ねていった。

そう、議論といえば、友人の職場でも、私の職場でも、どうも議論そのものに慣れていない世代が増えているのではないか、という話になっていった。ある議題について、つっこんで話をする、ということはなく、「わからない」「興味ない」「つまんない」と簡単にふたをしてしまう場面が、大学だけでなく、多くの職場でもみられる、という。他者と議論する土壌が貧しくなる中で、自分の知らないことに対する畏敬の念や、謙虚な自信、あるいは知らない世界への想像力の翼、といったものが少しずつ失われつつあるのではないか。そして、そういう世代に対して、「最近の若者は」という古典的説話形式から抜け出せない、私たちより上の世代に問題の固有性や深刻性が横たわっているのではないか、という話につながっていく。もっと言うと、「わからない」と口にする若者を、無視したり論外と切り捨ててきたのは、他ならぬそういう「昔若者」の市民なのだから。

今、自分が「職員研修」「現任者教育」に大きな興味を寄せているのも、このあたりが所以なのかもしれない。個々人の素質や先天的能力に問題をすべて押しつけるのではなくて、個々人が何に困り、どう解決し(できなかったのか)の分析の中から、何らかの「カイゼン」なり、個人や組織・社会の自己変革や成長へのアシストが産まれてくるのではないか。そんなことを話していた。

そう、静岡といえば濃いだしの静岡おでん。今日はいけなかったが、美味しいお店も紹介していただく。明日こそは、そこに出かけてみよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。