おでんと想像力

 

昨夕、生まれて初めて自分でおでんを作ってみた。
週末大阪出張で、久々に自宅に泊まっていた時、母親が夕飯に出してくれた「残り物のおでん」がめちゃくちゃ旨かったのである。「こんな美味しいの、どうやって作ったらいいの?」と食いしん坊は思わず口に出してしまう。すると、母親は「そんなん簡単よ」とレシピを教えてくれた。ま、レシピ、というほどでもないのですが。そのレシピでおでんを作り始める。もちろん、がんもどきも忘れない。

がんもどき、実家のおでんの定番メニューであり、外食おでんと「ひと味違う」ところ。なんのことはない、あぶらげの中にゴボウやにんじん、鶏肉を詰めて、爪楊枝で蓋を閉めてできあがり、のやつである。父親が大好きで、おでんでは毎回出てくるのだが、我が家では一気にパクパク食べていた。で、今回自分でつくってみて始めて気がついたこと。がんもどきを作るのは、結構手間がかかるのだ。

ごぼうをまず切って洗って、ささがきにする。にんじんも同様。そのあと、今回はえのきを切ってボウルに混ぜ、その具と鶏肉をあぶらげの中に入れていく。この作業、楽しいのは楽しいのだが、意外に手間がかかるのだ。そういう手間をかけながら、気付いた。「こうやって手間暇かかるってことに、僕自身は感謝もせずに食べていたよなぁ」と。そう、実家に住んでいたころ、こうやって母が手間暇かけてつくってくれるものが「当たり前」だった。だから、当たり前のごとく、感謝もせずに、食べていたのだ。いやはや、有り難いことだったのに。一人暮らしを始めた後、自炊をするようになったが、今では忙しいから、そうそう手の込んだものは作れない。確かにおでんは簡単な方であるが、それでも作り込むための下準備に手間はかかる。この手間をかける、ということの、有り難さ、に、自分が手間取りはじめてようやく気付いたのだ。そう、手間暇への想像力に欠けていたのだ。

この他者への想像力というものを働かせるのは、自分自身でも、すごく難しい。母の料理の手間暇という身内への想像力だって、なかなか羽ばたかないのだ。ましてや、自分の身内ではない、社会問題への想像力に至っては。授業で障害者の問題を扱っていると、この社会問題への想像力の翼をどう学生に持ってもらうのか、で苦労する。学生に「僕の授業では出来る限りコメントで本音を書いてほしい」とお願いしたことが功を奏し、いろんな本音が寄せられる。中には、「障害者に先生は甘すぎる」「過保護だ」「もっと自立するために障害者も努力すべき」という声も。こういう声を前にして、“You are wrong, I am right.”というのはたやすい。だが、そうではなくて、いかに本人自身が何かを気付き、自分で変わろうとする変容プロセスに教員の竹端がアシストできるか、そのあたりが大変難しいのだ。

想像力を身につけるとは、水平的知識の拡大ではなく、「自分が知らないと言うことを知ること」、内田樹氏流に言えば、「階段を上がること」である。こういう世界があったんだ、自分はその世界にまったくコミットしていなかったのだ、知らなかったよ、ということを、他人事ではなく自分事としてどう知覚してもらえるように、授業を通じてアシスト出来るか? これは大変難しい課題だ。明日の朝一の地域福祉論の授業では、その難題に取り組んでみよう、と思う。ひたひたにつかったがんもどきや大根をハフハフ言わせながら、シャルドネの辛口と共に頂きながら、そんなことを考えていた・・・。というのは、半分だけ本当で、実のところ、食事中はもっぱら「のだめ」に心を奪われていたタケバタであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。