「生き延びたいなら、前進したいなら、状況を相手に、あるいは人々を相手に、最悪の事態を予想してはならない。そう、あたしにはあたしの乗り越えてゆくべき道がある。レイラーには若々しいシナモンとバラの香りに満ちた未来があり、マルジャーンには次々と見事な料理を創り出す才能があるけれど、それらは二人の旅であり、あたしの旅じゃない。自分の強みがなんなのかはまだわからないけれど、それは見つけ出されるべく行く手にあるのだ。」(マーシャ・メヘラーン「柘榴のスープ」白水社 p248)
革命時のイランを間一髪で抜け出して、アイルランドの小さな村でカフェを開く三姉妹の、過去と現在、アイルランドとイランを織りなしながら、ぽっかり空いた傷口を希望の入り口へと変えていくお話。長女マルジャーンが作るハーブたっぷりの料理に多くの人々が心の強ばりがほどけ、三女レイラーの美貌に多くの男性がいちころになる。一方のバハールは、一番大きい傷口を抱え、姉と妹の「旅」をうらやみながら、自身の偏頭痛とトラウマを結びつけ、なかなか「旅」に出れずにいた。それが・・・・。
大阪の書店で、装丁が魅力的で、「ペルシャ料理のレシピ付き」というそれだけの理由で買ってしまったこの本。「柘榴のスープ」だけでなく、一つ一つのレシピが、お話の中で実に効果的に味わいを出してくる、実に深みのあるストーリーだった。著者は後書きで、こんな風にも言っている。
「料理は、愛を表現する完璧な手段です。料理を通して相手に自分を与えているとき、それは、相手の空腹を満たしてあげているだけではなく、気兼ねなくくつろげつ場所を求める気持ちに応え、自分がここに属しているという感覚を与えているということなのです。あなは私の世界のかけがえのない一部なのよと伝えているわけです。」
久しぶりの休日だった昨日、午前中はぐっすり寝て、午後何気なく読み出したら止まらなくなり、夕方読み終える頃には、「ちゃんと今日はご飯を作りたい」と思うようになっていたのだから、まあ単純と言えば単純な私。近所のスーパーであじの開きと茗荷を買い、天ぷらとかき揚げを作る。親が送ってくれたニシンの昆布締めをナスと煮付けにする。あと、10月下旬から販売を再開した、大学の近所で買う絶品のハウストマトもさっくり切る。きりりとした辛口の白ワインが実によく合う夕食となった。かけがえのない時間を、今日も二人でおいしく過ごせることに感謝しながら。
冒頭に触れたバハールの言葉に戻ると、僕自身、昔から結構、「状況を相手に、あるいは人々を相手に、最悪の事態を予想」していた。新たな局面にさしかかるときは、根は楽天的なはずなのに、しばしば予想される「最悪の事態」を先取りして、ため息をつくことがある。正直、僕自身の旅は順風満帆ではないし、現時点でもこれからどういう「旅」になるのか、は予想がつかない。でも、バハールの言うように、「それは見つけ出されるべく行く手にあるのだ」。そう思うと、自分の中の強ばりが、少しだけ溶けてきたような気がした。さて、とにかく先に行ってみますか。