ダイエットと民主主義

 

ようやく筋肉痛が治る。

月曜夕方にテニスをしたのだが、火曜から水曜にかけて、本当に階段の上り下りがつらかった。で、ようやくその痛みが治ってきた頃に、さらに追い打ちをかけるようなお知らせが、木曜日に届く。健康診断の結果である。眼はいい、血圧もまあよい、そして見ていくうちに、肝臓系などの数値が「要再検査」。やはり、飲み過ぎがたたっているのか・・・と急に落ち込む。ただ、その結果は今、実はよくわからない。というのも、研究室に持ち帰ったはず、の結果が書かれた紙の入った封筒が、どこをどう探しても、見あたらないのだ。30分以上研究室を探しまくったが、出てこない。うーん、フロイト先生の言うところの、無意識的な意図による失錯行為、なのだろうか。

で、この無意識的な意図による物忘れなどの失錯行為、といえば、その日に調べ物をしていたら、こんな風に述べている文章に出会った。

「もしかすると、ジェンダーフリーに反対する人は、『男らしさや女らしさは生まれついてのものだ』という信念を実験で検証すること自体が嫌なのかもしれない。試すというのは、仮定の上にせよ、その信念が間違えている可能性を視野にいれることだからだ。
 私も保守的な人間なので、そういう気持ちはわからないでもない。だが、自分は絶対的に正しいとするのは、民主主義ではやってはいけない反則である。フェミニズムに反対する人も、賛成する人も、お互い間違うかもしれない人間として、いっしょにやっていく。それが民主主義の大原則であり、あえていえば『日本人らしい和の心』でもあるのではないか。
 そういう原則や心を見失うとき、私たちは男らしさや女らしさよりも、もっと大事なものをなくす。私にはそう思えてならない。」(佐藤俊樹「『ジェンダーフリー』叩き」山梨日日新聞20061213日)

自らの「信念が間違えている可能性を視野にいれる」ということは、大変つらいことだ。前回のブログ同様卑近な例でいけば、木曜日に届いた検査結果によると、僕がこれまで毎日のようにパートナーと晩酌していたことや、ジムにお金を払っているけど忙しさを理由に週1回程度しかいけてない、そのような事実を「良し」とするその信念自体が「間違えている可能性」が高い!という指摘なのである。人間何が嫌って、自分の生活習慣を変えることが一番嫌だから、わざわざその手の病気に「生活習慣病」と名付けられたくらいだ。当然、この自身の「信念」を変えるのは本当にかなわない。特に、もともと体を動かすのが好きでもない、お酒や食べ物を我慢するのも好きではない、という人が、わざわざその「好きではない」ことに取り組まねばならない、という現実を突きつけられても、なかなか認めたくないのだ。そう、頭では「そろそろ酒も控えんとなぁ」「やっぱり週に二日はプールにいかんと」と認めなければならないのはわかっているのだけれど、やっぱり嫌だ、という無意識が先走る時、検査結果をなくす、探し出せない、という失錯行為といて、無意識的意図のコントロール化におかれてしまうのである。

この無意識的意図のコントロール化に身を置くこと、つまりは「信念が間違えている可能性を視野にいれる」への拒否状態、について、よく引用する内田先生も次のように書いている。

「私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは『アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから』ではなく、『中国が嫌いだから』(そして『どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない』)という自身の原点にある『欲望』と『無知』のことは心にとどめていた方がいいと思う。」(内田樹ブログ2006年1月11より)

この引用の語句の「中国」を「ジェンダーフリー」に、「アジアの国際状勢」を「日本人の情操教育」とでも書き換えてみたら、あら不思議、佐藤氏と内田氏は、テーマは違うけど、結構近似している枠組みでものを眺めていることがわかる。そして、佐藤氏の言う「信念が間違えている可能性を視野にいれること」が出来る人の事を、内田氏はその日のブログで、「欲望を勘定に入れる習慣をもった人間」とも言っている。自身の無意識化の意図(=欲望)を、完璧にコントロールするのは難しい。フロイト先生が言っていたのは、どんな人間であれ、そうやってコントロールしようとしても、するりと抜けて出てくるのが、失錯行為と呼ばれる産物であった。それは、どういう「信念」を持った人でも、共通である。でも、その失錯行為の背景にある「欲望」がある、ということについて、「勘定に入れる習慣を持った人間」か否か、には大きな違いがある。両氏はそう教えてくれている。

確かに、「『欲望』と『無知』」を心にとどめておけない場合、人間は論理的な推察が出来にくくなる。自身の健康診断の検査結果を見て「なんで俺に限って」「一生懸命働いているのに」と言い訳をはじめるのは、まさに他責的であり、「欲望」の温存と、その状態に関する「無知」そのものである。そして、そういう自分の「欲望を勘定に入れる習慣」を度外視することは、「自分は絶対的に正しいとする」ことそのものであり、「民主主義ではやってはいけない反則である」のだ。そうか、僕自身が生活習慣を変えようとせずに、ダイエットをしないことにいろいろ小理屈をつけるのは、民主主義の根幹を揺るがすことにつながっているのか。あな、恐ろしや。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。