「遅発性筋肉痛」になってしまった。
と書くと、何となく格好良さげだが、何のことはない。昨日、久しぶりにコッテリとテニスのストロークをしたものだから、今日内股がいてて、で、階段の上り下りが辛いのだ。単なる運動不足の結果である。ああ、情けない。
テニス部の顧問の先生が音頭を取られ、学内の教職員有志で、立派な強化選手用のコートを使わせて頂く。国際試合も可能な立派なコートは、私のようなヨチヨチプレーヤーには何とも勿体ない。でも、すごく打っていて、気持ちの良いコートだ。あとは、この筋肉痛さえ何とかなれば・・・。これから毎週開催のようなので、テニスとプールで、何とか冬の間に少しは痩せれるかしら・・・。
そういえば昨日は冬空にもかかわらず、他の人の倍以上のドップリとした汗をかく。帰ってパートナーに報告すると一言、「太りすぎやからやで」とのこと。何だか寂しい限りだ。そう言えば、先週末出張で上京した折、大学時代の友人に10年ぶりに再会した。その友人曰く、「全然変わってないけど、お腹がねぇ・・・」。このように、ここ最近釘を刺されまくっているので、ええかげん「口だけでなく行動」が求められているのだ、と深く反省。でもこの問題、反省だけでなく、反省を通じて変わらなければ、その昔の広告じゃないけど、「反省だけならサルでもできる」からねぇ・・・。
で、反省や内省を行為へと変えていく、ということについて、最近調べる中で興味を持ったあるフレーズを引いてみる。
「行為の中で省察するとき、その人は実践の文脈における研究者となる。すでに確定した理論や技術のカテゴリーに頼るのではなく、独自の事例についての新たな理論を構成している。彼の探求は、その目的について、あらかじめ一致が見られる手段について考察するにとどまらない。彼は手段と目的を別々にしておくのではなく、問題状況に枠組みを与えるように目的と手段を相互作用的に規定する。彼は思考することと行動することを分けていない。行為へと後で変換していく決定の方法を推論しているのであり、彼の実験は行為の一種であり、行為の事項が探求へと組み入れられていく。このように『行為の中の省察』は、『技術的合理性』の二分法に縛られていないので、不確実な独自の状況においてさえも、進むことが出来る。」Schon, D.(1983)Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action (『専門家の知恵』佐藤・秋田訳、ゆるみ出版、引用は訳書p119-120)
このReflective Practitionerとは、教育の分野や医療福祉といった「現場での知」が大切にされる分野で「使える理論」として、日本でも90年代以後、少しずつ導入され始めている。これを先のタケバタの事例でいけば、次のようになるだろうか。
「何だか最近ベルトを一つゆるめてしまった」「大学時代に買ったブランド物のスーツがとうとうパッツンパッツンになっている」という状況を「問題状況」として「枠組み」化するために、「口だけでなく本当にやせたい」という目的と、「でも仕事も忙しいので週に1度のテニスと後は週に1・2度のプールの時間を何とか確保しよう」という手段を「相互作用的に規定する」。「技術的合理性」からすると、食べる量を減らす、酒を飲まない、夜8時以後は食べない、などの解決策もあるが、それでは不規則な生活時間や押し寄せてくる急な仕事といった「不確実な独自の状況」を解決出来ないので、あくまでも「相互作用的」「規定」をそのつど捉え直しながら、目的を果たすための最前の手段を、そのつど再定義し直す。
ダイエット話になると実に馬鹿馬鹿しい例だが、障害者支援の現場でも、こういう「そのつどの再定義」はすごく大切になってくる。だが、従来の支援者の価値観・経験・知識に縛られている支援者ほど、「そのつどの再定義」を拒む人も少なくない。「俺はこうやってきた(乗り越えてきた)のだから」ということは、謙虚な自信に繋がればよいのだが、時として唯我独尊的なモードに変わってしまう。ダイエット話でいえば、「今まではこういう食事量やライフスタイルでも太らなかった」という言明は、現に変わっている体重を前に、何ら説明因子として機能しない。単純な分析だが、大阪にいた時代は「駅まで自転車で通っていた」「いろんな現場を掛け持ちしていたので、とにかくよく歩いた」という状況があったが、山梨に来てから「家の目の前の駐車場から大学の駐車場まで車で通勤」「平日は学内以外を歩くケースは少ない」という状況自体に変更があるのだ。すると、もし僕自身がReflective Practitioner(内省する実践家)ならば、与えられた今の問題状況を適切に枠組み化した上で、目的と手段の相互作用的規定が求められるのだ。単純にいえば、「昔の理屈で行くと、もっと太る。だから、痩せるためには、ちゃんと運動せねばまずい」とね。
でも、人間、この以前まで実践してきた論理を変更し、新たなミッションなり目的を内在化させること、そしてそのための手段を忠実に履行すること、これは、自己変革が求められている部分が大きければ大きいほど、超えねばならないと感じるハードルのバーも高くなる。特に、もともと運動が好きでない僕にとって、この「運動せねば」という新たミッションは、すごく超えづらい壁だ。わざわざブログにそんなつまらん分析を書いているのも、自分のハードルを外在化させて、プレッシャーをかけるのと、少しでもバーを下げよう、というささやかなる試みゆえである。
多分、現場で自己変革を拒み、昔のやり方に固執している支援者の中には、組織論の大家であるシャイン博士の言う「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」が大きい人も多いのかもしれない。自己変革や新たな学びへの不安は、その閾値(ハードルのバー)を下げる個人の側の努力と、それを暖かく見守る組織の後押しの両方が繋がるなかで可能になる。僕の場合も、自分が努力するだけでなく、テニスの同好会が出来た、とか、ジムに毎月会費を払ってしまっている、という外的要因が、「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」の閾値を下げてくれているのだ。なので、今科研の研究費を頂いてやっている支援者変革の研究でも、こういった「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」を下げて組織変革に結びつけるために、組織側、個人側に求められている課題は何か、を追求していきたい、と考えている。
とうだうだ書いてきたが、えっ、何だって? 「能書きの暇があったら早くプールにでも行ったらどうだ?」ですって。だから言ったでしょ。今日は筋肉痛でいけないのです。とほほ。