今日から仕事始め。
とあるテキストの原稿の締め切りが1月末なので、うんうん言いながら、アイデアツリーに放り込んであった書きかけのメモと格闘する。ほんとは5日から格闘しはじめたのだけれど、どうも正月気分が抜けきっていないのか、あるいは気乗りがしないのか、全く書き始めることが出来ない。なので、5日もせっせとプールで汗をかく。あせっかきの僕は、プールの中でもちゃんと汗をかいているようだ。休憩中に、額からぼとぼと零れてくるのがわかる。これでないと、ダイエットには直結しない。
昨日の6日は大学の新年会があり、今日明日の休みが実質的にこの原稿に取り組める一番いいチャンス、なので、今日は午後から本腰を入れてモードを切り替えていく。ようやっと夕方くらいになって頭がそのモードになってきた。これなら、明日も大丈夫だろう。詰まっていたのは、とある部分についての調べ物がちゃんと出来ていなかった点と、別の部分について構想を練り直す必要があったから。とにかく、仕切直しの整理が出来たので、明日中にエイヤッとある程度固めてしまいたい。
そうやって午後、ずっと机の前にいたので、食事前にのんびり風呂読書。甲府は雪空で、電気あんかをしていても手足が冷え切っていたので、単に暖まりたかっただけなのに、手にした読みかけの新書をぼんやり読んでいるうちに、目から鱗の箇所に出会う。自分の今にとって実に大切な部分なので、少し長くなるが、引用してみたい。
「社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。
一方は、喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。
(中略)
前者は、関係の積極的な実質を創出する議題。
後者は、関係の消極的な形式を設定する議題。
(中略)
社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、こんにち対立するもののように現れているが、たがいに相補するものとして考えておくことができる。一方は美しく歓びに充ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散らすことがあるが、一方のない他方は空虚なものであり、他方のない一方は危険なものである。それは、このような社会の構想の課題の二重性が、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応しているからである。」(見田宗介「社会学入門-人間と社会の未来」岩波新書、p172-174)
見田氏の前著「現代社会の理論」(岩波新書)が発刊された96年当時、大学で社会学をかじりかけていた僕は、すごく心惹かれながら読んだ記憶がある。ただ、当時の青臭い僕には、バタイユの「至高性」に基づきながら「生の直接的な充溢と歓喜」について論じている最後の部分が、よくわかっていなかった。正直、甘美な議論で、リアリティがないのでは、とすら、不遜ながら考えていた。それから10年あまり。以前のわからなかった箇所の事などすっかり忘れて読み進める中で、「関係の消極的な形式を設定する議題」と対比される形で出てきた「関係の積極的な実質を創出する議題」という表現が、すとんと腑に落ちた。なるほど、僕の頭から抜け落ちていた視点だ、と。
僕は昔から、なんだか不思議な志向性を持っているようで、おこがましいかもしれないが、自分なりに「社会の理想的なあり方を構想」したいなあ、と考えてきた。それは義務感でやっている、というより、何となく趣味的に、というか、そういうことを考えるのに違和感がなかった。だが、いつの頃からだろう、僕が普段から考えることの中心は、「人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするもの」で占められていた。そして、「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」という部分は、少なくとも自分の研究の中で重きを置いて来なかった気がする。
それゆえに、「両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散ら」してきた、という見田氏の指摘は、ほんとに心から納得する。福祉分野で「関係の積極的な実質を創出する議題」に接する時、それを素直に喜ぶどころか、「他方のない一方は危険なものである」と批判的にそういう議題をとらえ、だから「関係の消極的な形式を設定する議題」の方が切実であり第一義的に大切だ、と声高に叫んでいるタケバタがいた。でも、見田氏が言うように、それらは対立的なものではなく、「たがいに相補するものとして」捉えるべきものなのである。この部分をちゃんとわかっていなかったが為に、結局片手落ちのアンバランスな思考回路になり、相補的議論に耳を傾けられない『体質』になってしまっていたのだ。
最近よく引用する伊丹敬之氏が「見えない構造」と指摘している、自身のものの見方に関するこの偏り(=『体質』)に関して、見田氏の指摘は、より広い布置から相対化すると共に、新たな地図を指し示してくれているような気がする。そして、新たに広げられたこの地図を眺めてみて、相補的なもう一方にも、見覚えがあることに、今更ながら気づかされる。これって、プライベートで大切にしていることじゃん、と。
結婚してから努めて大切にしていること、それは「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすもの」そのものである。特にスウェーデンで半年暮らした後、このことを切実に感じるようになりはじめた。日本人ほどギチギチに働かない人も少なくないが、他方家庭生活をすごく大切にしている光景をしばしば現地で垣間見た。ノーマライゼーション実現のため、法制度など「ルールを明確化」してきた部分に憧れ、その部分を勉強しにいったのだが、半年住んでみる中で、多くの人々が、プライベートの部分で「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し」ようとしている姿に遭遇した。そういう姿を妻と共に垣間見たあとだからこそ、日本に帰って定職についた後も、なるべく大切な人との「関係の積極的な実質を創出する」ための時間的余裕を作ろうとしている。それがあるから、生きている喜びなのだし、それがないと、仕事もうまくいかない、と考えるようになってきたのだ。
そう、プライベートな部分で「関係の積極的な実質を創出する議題」の大切さを身にしみて感じ始めていたのに、研究の部分では「関係の消極的な形式を設定する議題」にのみ没頭している、というのも、アンバランスといえばアンバランスだったのだ。
そういえば今、アミューズメントに関するとある研究プロジェクトで、権利擁護研究という「関係の消極的な形式を設定する議題」を研究させてもらっている。何でこの二つがつながっているのか、直感的な把握をうまく言語化出来ていなかったが、見田氏の言葉を使えば、アミューズメントという「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」論題を、その相補的な側面から捉え直す、そんな研究をしていた、そうも言えそうだ。自分の中でごっちゃになっていた部分を、「社会の構想の課題の二重性」という形ですっきり整理してもらったおかげで、今抱えている研究の方向性についても、示唆をもらってしまった。
なんだか二重にも三重にも、自分の歪みやひずみ、知らなかった部分を教えてもらえ、整体をしてもらったような清々しさを感じた。さて、明日も頑張って原稿に励んでおかないと、来週末、スキーに行けない。「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求」ためにも、目の前の仕事からどんどん片づけなければならないのだ。明日も頑張ろうっと。