whatとwhy

 

正月に84キロという過去最高の体重について書いたところ、何人かの方からお声を頂いた。

そんなに太るって、ストレス太り?

いえ、単に不摂生です。

なので、今日もプールで泳ぐ。最近、毎日お風呂上がりに体重計に乗っているのだが、今日は81.6キロまで下がった。まあ、正月の不摂生から戻ってきた、という単純な理由なのだろうが。でも、これに弾みをつけて、何とか75キロくらいまでは落としたい。ほんとの目標は70キロだが、とにかく、まずは目指せ75キロ、である。

で、プールで今日も泳いでいたのだが、泳いでいる最中には、色々思い浮かぶ。今日は、この前、私のブログを読まれた某先生に言われたことが頭によぎる。「タケバタさんは言葉に反応するんだね」

どういうことですか?と訪ねると、その先生はこう解説して下った。「タケバタさんは、本を読んで、気になる言葉やフレーズをブログに書かれている。僕は、その書かれたフレーズを見て、どういう理論や背景から、そういうフレーズをその人は出してきたのか、が気になる。」 それを伺って、whatとwhyの違いを思い知らされたような気がした。タケバタは常にその言葉が何か、というwhatを気にしているが、ご自身の中である程度の体系的思考が出来ている方なら、単純なwhatの内奥にあるwhyに注目されているのだな、と。

誰だって、whatのレベル、つまり口だけなら何とでも言える。でも、そのアウトプットとして出てきた言葉の背景に、どういう思惑や、どういう相手の論理、あるいはその組織の論理なり、主義主張の論理があるのか、という背景分析としてのwhyを見据えておかないと、簡単に「言葉」に騙されたり、踊らされたりする可能性があるのだ。特に、「先生」と呼ばれる人は、豚もおだてりゃ、ではないけれど、甘い「言葉」に騙されやすい。相手のロジックや路線に乗りやすい、という構造的危うさがあることを、よーく肝に銘じておかなければならないと思う。

相手が自分と同じ前提だ、と思いこみ、その前提条件について無批判であると、いつしかwhatばかり気にするようになる。でも、違う出所から来た、違う考えの持ち主の集まりが、この人間世界だ。ならば、自分の当たり前の前提条件こそを疑う。そして、そこから、whyという思考をくせにして、何らかの問題を考え続ける。そういうスタンスが必要なのではないか、

プールでひいひい汗をかきながら、そんなことを考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。