とほほな松の内

 

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

正月の実家廻りから甲府に帰ってみたら、とほほな事が二つ起こる。

一つは、体重がついに!限界の84キロ!!に。
この年末から正月にかけて、丸3キロは太ったことになる。唖然もあぜん。挨拶回りの際、恩師に真顔で「その年でその太り具合はいかん!」と言われたのに・・・。というわけで、今日から猛烈ダイエット。昼はプールでこってり泳ぎ、夜は納豆でおなかをある程度ふくらませてから、粗食中心の晩ご飯。実家ツアーの最中は連日飲んでいたので、当然今日は禁酒。節制な日々のスタートである。

節制といえば、年始に立ち寄った京都の本屋で、気になっていた光文社古典新訳文庫シリーズを立ち読み。面白そう、と購入した中に、その昔挫折したカント先生の論文も。中山元氏のわかりやすい翻訳なので、出だしから、厳格なカント先生の言葉がグサッと突き刺さる。

「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。」(カント「啓蒙とは何か」『永久平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫p10-11)

そうであります。私の「怠慢と臆病」ゆえに、「自分で食事を節制する」という理性を未だに働かせずにきたのであります。カント先生は「考えるという面倒な仕事」を「他人にひきうけ」させている、僕のような人間を「未成年の状態」にある人、と一刀両断しているのだ。すいません。

で、このカント先生のお言葉がグサグサ来たのは、これだけではない。「未成年の状態」がもたらした帰結として、昨日自宅に帰って年賀状のチェックをして居たとき、二つ目の「とほほ」に出会う。そう、とある学会誌からrejectのお知らせが舞い込んだのだ。二人の査読者の評価が別れ、第三査読でrejectという決定になった、とのこと。嫌な予感はしていたが、現実に目の前にお知らせが届くと、正月から「とほほ」である。

だが、C評価をしてくださった査読者のコメントを読んでいて、自分に足りなかった部分が実に的確に指摘されていて、声が出ない。そうなんです。今回、あらたなジャンルに挑戦したのだが、不勉強な部分をみっちりとした論証で固めることを怠り、「自分の理性を働かせる代わりに書物に頼」ってしまったのが、最大の敗因だった。厳しい評価者のコメントは、見事にその「理性を働かせ」ていない部分に注がれている。もうすいません、としか言いようがない。

落ち込んで、悔しくて、風呂の中で以前読んだ「創造的論文の書き方」を二度読みする。今回はrejectされたブツを念頭に置きながら読むと、まあなんてこの本もグサグサと突き刺さるのだろう。

「多くの場合誤りとして起きるのは、理論を無理矢理適用して違和感も何も感じず、歪んでいる実感もなく、『これで説明できました』と称する結論を出してしまうことです。そんな論文もしばしばある。」(伊丹敬之「創造的論文の書き方」有斐閣 p42

お恥ずかしい限りだが、この指摘は今の自分にそっくり当てはまる。用いた理論ときちんと真正面から格闘していないから、違和感や歪みを感じながらも、中途半端な生成物を出してしまい、rejectの憂き目にあうのだ。M先生に言われた、「雑学王からの脱出」が出来てないのも、ひとえにこの部分に由来する。そして、それを克服するためにも、「考えるという面倒な仕事」を自分で引き受けて、最後まで貫き通す必要があるのだ。

「人に読んでもらう論文というのは、ある意味でプロとして人に読ませる論文でなければいけない。そうすると、読み手の側に立って、この論文でどういう結論が出てくるのか、ということを最終的には伝えるのが目的である。どうしてその結論が出てくると言えるのか、ということを説得するプロセスが、論文だと。そのつもりで論文全体を書かなければいけない。
 したがって、その説得のプロセスに、舞台裏が一部役に立つというのであれば、舞台裏を意図的に見せることはあってもいい。しかし、舞台裏だけ見せて、表舞台がないというのは困る。舞台裏を見せることを許すと、しばしば表舞台がないレポートが論文として出てきてしまう。したがって、『プロは舞台裏は決して見せてはならない』ということを強調する必要が出てくる。」(同上、p69)

そう、今回rejectされたのは、「説得するプロセス」が不明確だった、という部分も大きかった。ぐちゃぐちゃ書いていたら、こんな結論が出てしまった、という「表舞台がないレポート」だったのだ。そういう意味では、プロの論文ではなかったのだ。本当に、穴があったら入りたい心境である。

で、今回なにゆえこのような「舞台裏」を書きつづったのか。
ひとえに、書いて追い込む、という手法である。というのも、このふたつの「とほほ」も、放っておけば「フェータルな傷」(@志賀直哉)に直結する。そこで、今年、真正面から向き合って、一皮も二皮もむけて、「未成年状態」から脱出する必要を切実に感じている。だからこそ、ネガティブな情報の開示と、改善に向けた所信表明をしておきたかったのだ。つまり、今年の抱負としては、「明確な体重減」と「プロの書き手への進化」という二つの「変容」を宣言をしたかったのである。

ちなみに、去年の所信表明演説としては、「教育と研究、社会活動にプライベートの4者のバランス」、「薄く浅く、よりは濃く深く」、「イズムに流されるのではなく」、「現場主義」、「・・・にもかかわらず、諦めないで」を標榜していた。1年後振り返ってみると、ずいぶんと漠然とした所信だったような気がするが、一応どれも及第点は取っていたような。今年は、この昨年のベーシックな所信を引き継ぎつつ、新たな、そして明確な二つの所信をどう貫徹するか。大きな曲がり角にさしかかっているような気がしている。とほほ。

*ちなみにあまりに「とほほ」ゆえ、タイトルを間違えたことに5日になって気づきました。あな、恥ずかしや。とほほ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。