「宿命論」と恋バナ-限界状況を超えること(その2)-

 

「眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる。男が女を愛しいと思う。女が愛しいと思うその気持ちに名をつけて呪(しば)れば恋」(岡野玲子「陰陽師1」白水社p85)

昨日ブログに陰陽師のことを思い出して書いていたが、実は当のコミックをなくしてしまっていたので、早速帰り、近所の本屋で購入。あらためて、この漫画のクオリティの高さに恐れ入る。と同時に、前回書いた安倍晴明の文言が全く漫画の文章と違うことに驚き。自分が記憶しているのは、自分の記憶したい様な記憶の仕方であるんだなぁ、と改めて思う。

で、改めて引用してみて思うのは、「眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」ということの重みだ。それに「宿命論」をかけると、どうして「名付け」(=name)に自分がピピッときたのか、がよりクリアに整理できる。

なぜだか知らないけれど、僕は昔から「どうせ・・・」「○○したってしゃあない」という諦めの文言が大嫌い、という癖をもっていた。参議院選挙の報道でも、選挙には関心があるけど、自分の一票で変わると思わない、と考える層が少なくない、という調査結果が出ていた。そう、このような、最初から「どうせ」と既定路線の枠組みに宿命論的に従う、ということに、生理的違和感や嫌悪感を感じているのだ。確かに諦めなければならない時も、僕自身にもたくさんあった。でも、何でもかんでも「どうせ」で片づけて、そのくせ飲み屋の端っこでくだを巻いているオヤヂにだけはなりたくない、そういう気持ちを子供の頃から持っていた。変な少年である。まあ、たぶんに小学校の頃からテレビっ子で、特にニュース番組大好きっ子だった事も左右しているのかもしれない。アニメやドラマよりはニュースステーションや報道特集、NHKスペシャルに鼻をふくらませていた変なガキんちょだったので、そういう「刷り込み」があったのかもしれない。そのあたりは定かでないが、とにかく「どうせ・・・」と言ってしまうことは、体制内順応であり、結局何も変わらない事を唯々諾々と受け入れる、そのガス抜きの文言として「どうせ・・・」という言葉があるんだ、と何となく受け止めていた。

で、フレイレに戻ると、昨日この部分を引用していた。

「対話とは、世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間との出会いである」(訳文p97)

なんだか日本語のつながりがわかりにくいので、昨日アマゾンからもう届いてしまった英語版をひいてみると、この部分はこんな風にかいてある。

“Dialogue is the encounter between men, mediated by the world, in order to name the world.”Freire pp88)

下手くそながらこんな風に訳してみると、自分では腑に落ちた。

「対話とは、『世界』によって左右される二人が、その当の『世界』に名付けを行うために、邂逅することである」

ここで二人がmenと書いてあるのは男性中心主義だ、と1970年の文章に対して、今の文脈や政治的正しさ(political correctness)から目くじらを立ててはいけない。そうではなくて、英語を読んでみてわかったのだが、当の「世界」に縛られているはずの二人、しかも抑圧者と被抑圧者の関係にもなりうる二人が、偶然に出会って、そこからお互いが納得できる形で新たに「世界」を名付けなおす。既存の「世界」への言明に唯々諾々と従うのではなく、二人でコンセンサスを得る形で、「これってこうなっているんだよね」と状況を主体的に定義し直す。その過程の中から、「どうせ」「しゃあない」と諦めきっていた状況が変化し、「もしかしたら変わりうるかもしれない」「事態が打開できるかも知れない」という希望が宿ってくる。つまり、この対話の過程に、希望の生成過程があるのではないか、そう感じたのだ。

先ほどの陰陽師の話に戻ると、「あ、俺って恋しているかも」って心の中で唱えることによって、恋が始まるケースなんて、これまで少なくともタケバタにはたくさんあった。正直に言えば、気が付いたら誰かを本当に好きになっている、なんてことはなく、「好きなんじゃないかな」という名付け(name)が心の中でなされてから、後付的に心の中にその気持ちが宿り、時間を経て熟成されていったような気がする。その行為をクールに言えば、岡野玲子が安倍晴明に語らせた様に、「愛しいと思うその気持ちに名をつけて呪(しば)れば恋」なのだ。

ここで肝要なのは、「気持ちに名をつけて呪(しば)」ることである。つまり、名付ける時点までは「なんとなく」というとりとめもない感情に、「恋」という一つの概念、イメージ、方向性を与えて固定化・確定化させてしまうことが、「呪」の本質である、ということだ。その時点までは、友達以上恋人未満、で、なんか良い感じ、だけど、どうなんだろう・・・っていうもやもやした中途半端な気持ちに、「恋」という命名をしてしまうや否や、私たちは当該文化における「恋」のドレスコードに見事に拘束される。「これって恋、かも!!??」という枠組みに囚われるやいなや、それまで意識しなかったのに急に相手のことを意識しはじめるし、どきどきもするし、他人の恋バナが急に気になるし、めざましテレビの「今日の占いカウントダウンハイパー」を急に真剣に眺めはじめるのだ。いやはや、人間って、なんて単純なんだろう。(え、人間じゃなくて、それはあんた自身のことじゃないかって?ええ、その通りでございます)

恋愛話で脱線したが、日本語を運用する私たちは、日本文化がその言語に託したイメージを、その語を口にすることによって、内面化してしまうのである。だから、「しゃあない」「どうせ」と口にすればするほど、そのイメージなり世界を内面化してしまい、ますます「しゃあない」「どうせ」スパイラルに陥るのだ。(また脱線するなら、演歌的歌詞の世界はスパイラル世界の究極的形、とも言える。) そして、そこから抜け出す方法として、フレイレが「対話」という手法を編み出したから、この本が世界中で売れた名著になったのだ。そういえば真っ赤な表紙の英語版は30周年記念版なのだが、「世界中で75万冊売れた」って書いてあるしね。

で、恋バナ関連で妙に盛り上がってしまったので、肝心の「対話」の話を書こうと思ったら、あれまあ今日もお弁当を作る時間になりました。では、続きはまた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。