限界状況を超えること(その1?)

 

日曜は東京で有志が集まっての勉強会。真面目に議論する場があると、にわか勉強にも弾みがつく。取り上げたのが、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)。30年以上前の古典だが、噛めば噛むほど味わい深い。以下、議論で出たことも踏まえながら、備忘録的に面白かった部分をふくらましておきたい。

全員が各自本を読んだ上で、担当者がレジュメを切って発表、というスタイルだったのだが、当日発表者のHさんの次の箇所にまずはピピッと来てしまった。

「相互主体的な関係にある人と人の間で世界を指し示す(name)言葉が発せられ、対話となる」(Freire pp.88-89)

nameなんて部分があったっけ?と思って本をめくるが、なかなか該当箇所にたどり着かない。それもそのはず、Hさんは英語版の“Pedagogy of the Oppressed”を読んでいて、それを元にレジュメにしてくれていたのだ。で、該当部分を確認して、日本語訳を見てみると、こんな風に書いてあった。

「対話とは、世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間との出会いである」(訳文p97)

「命名」と言われても、もう一つピンとこなかったのか、ここにチェックは入れていなかった。だが、世界を「指し示す」(=名付ける“name”)といわれて、しかも、Hさんのレジュメのその下には、こんな気の利いた参考文献までついていた。

「ものの根本的な在様を縛るというのは、名だぞ」「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」(夢枕獏『陰陽師』文春文庫)

僕は思わず膝をたたいた。何故って、僕もこの『陰陽師』の「呪」(しゅ)という考え方を思い出していたからだ。聖書の「初めに言葉ありき」も同じだが、世界に名前を付けて、口に出すから、その世界が始まる。たしか、安倍晴明は、口に出して言うということは、すなわちそこに言霊が宿り、そこから恨みも含めた気持ちが込められる、だから安易に口にしてはならない、というようなことを言っていたなぁ、と、岡野玲子のクールなタッチの漫画を思い浮かべながら、連想していたのだ。(本当はこの先に言語論の展開もあるのだが、「ある」ということを知っているだけで、不勉強なタケバタはそれ以上論じる力量はございません)

で、世界を「指し示す」(=name)することが出来る、ということは、その世界に対して自らが枠づける(frame)ことも出来るし、場合によっては枠組みを変更する(reframe)ことだってできる。キリスト教的にはこの命名は「神のみぞ知る」世界なのかもしれないのだが、実は「被抑圧者の教育」においても、このことは決定的に大切な要素を持ってくる。「どうせ世の中って・・・」と悲嘆にくれる、現実世界を「諦め」ている人々の多くが、自らが決めた枠組みではなく、他人の(=フレイレの文脈では「抑圧者」の)枠組みを「宿命論」として受け入れている。そして、「宿命論」として受け入れている枠組みに対しては、疑う、という行為は起こりようがない。だが、自らを呪縛している枠組みの状況(=フレイレはそれを「限界状況」(=limit situation)と整理している)について自覚的になり、これってこういう枠なんだよねぇ、と世界を「指し示す」ことが出来れば、その枠組みに対する「捉え直し」をすることが可能であり、それはこれまで宿命論的に受け入れてきた自身の世界観の変更(reframe)にもつながるのだ。

「この状況そのものを課題として人間につきつける。状況がかれらの認識対象になるにつれて、かれらの宿命論を生み出してきた閉じられた呪術的知覚は、現実を知覚する時でさえもその知覚行為自体を知覚することができ、かくして現実を批判的に客体化することができる知覚に道を譲り渡すのである」(訳文p90)

そして、この「呪術的知覚」と「知覚行為自体を知覚」の違いの背景には、教育観の二つの違いがあるのだが・・・ぼちぼちお弁当を詰めて「テスト監督」に出かける時間なので、この続きは、また次回に。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。