内容と形式

 

「考える人にとっても、考えない人にとっても、言葉は誰のものでもあり得ないという事実です。考えない人は、言葉は自分のものだと思っているから、『自分の言葉を持て』『自分の言葉で語れ』といったことを安直に言いますが、これは逆です。私に言わせれば、人は、『自分の言葉』を語ってはならない。言葉すなわち意味の不思議を自覚して、はじめて人は、相対的な自分を超えた、誰にでも正しい本当の言葉を獲得します。したがって、自分の言葉だと思って語られる言葉など、たんなる個人の意見ですから、そんなものをやたらに主張すべきではない。これは自分の言葉ではないと、自信をもって語れるようになるまでは、沈思しているのがいいのです。沈黙は大事です。」(池田晶子「自分の消滅」『暮らしの哲学』毎日新聞社所収、p71)

この2月に亡くなった、私が大好きな哲学の巫女、池田晶子氏のラストエッセイの一冊。彼女が亡くなった直後から、いずれ池田晶子氏について何か書こう、と思いながらも、なかなか契機がつかめないうちに日々が過ぎていった。で、ようやく夏休みモードでじっくり仕事が出来ている時期なので、ふと手に取った未読の一冊。氏の著作の殆どを読んでいるけど、これは一風変わったエッセイ。直感に基づいたロゴスの展開を直裁的にズバッと切り込んでいくスタイルの彼女の作品では、心象風景はたまに舞台裏として出てくるものの、ほとんど表に出ない、あくまでも「裏」側であった。でも、タイトルが指し示すように、「暮らし」に焦点を当てた作品として、心象風景が割と前面に出てくる作品。さらりと、でも深みもあるこのエッセイ集が絶筆になるなんて。もっと読みたい、と思わせる「暮らしのロゴス」な内容である。

で、一番興味が惹かれるのが、「誰にでも正しい本当の言葉」というくだり。沈黙が怖くて、沈思が苦手で、ついついベラベラしゃべってしまうタケバタは、相対的な自分に囚われた、視野狭窄の「主張」をまだしているんだろうな。そうではなくて、きちんと考え抜いた上で、自分の枠組みからも自由になった、「本当の言葉」を語りたい、心からそう思う。特に、学生を前にして、福祉現場で、私は自己主張に終始していないだろうが。与する相手に、きちんと心にまで届く、「誰にでも正しい本当の言葉」を語っているのだろうか。それが紡ぎ出せるように、自身が「沈思」出来ているのだろうか? このあたりが、悩ましい。で、希代の名哲人は、次のページにこんな恐ろしいことまで、さらりと書き付けている。

「なお厳しく言うと、普遍の真理を独自のスタイルで表現できないということは、じつはその真理は完全にその人のものとなってはいないのではないか。肉体となり血流となってはいないのではないか。文体は肉体、それこそが、その人であって他の人ではないことを示すその独自性だ。この世におけるその覚悟だ。だから文体を所有しない人は、思想家としても本物ではあり得ないはずだと、私は思っています。
 さっきは、内容を掴んだら、誰がそれを言ったかは関係ないと言いましたが、今度は逆、内容ではなく形式こそ命、文体が印象されなければ、何を言っても同じです。『何を言うか』ではなくて『どう言うか』。そうでなければ、文章を書く必要なんかないでしょう。」(同上、p72

「誰にでも正しい本当の言葉」ならば、内容については真に決まっている。すると、「その人」を「普遍の真理」が通過した証としての存在証明になるのが、「どう言うか」という「独自のスタイル」。自分が掴んだ、しかも自分の主張ではなく普遍的なロゴス。ただ、竹端某、などの固有の身体と精神を通過しているからこそ、きちんと咀嚼が出来、自分の「語り」として伝わる。そのための形式が大切であり、その形式を持てない間は、内容すら掴めていない、という厳しい指摘なのである。

そう、「正論だけどねぇ・・・」なんて言う時、その論ではなく、「どう言うか」の部分が全く受け入れられない形式なので、拒否されていることもある。福祉の分野では、わりとそういう「受け入れられない正論」が多い。そして、その背景には、「誰にでも正しい」普遍的真理の探索、というよりも、「あいつが間違い・悪い。(そして私は正しい)」という二項対立的、要求反対陳情的コミュニケーションがあるような気がする。こういう自身の中で完結した善悪の枠組みは、大変閉塞的であり、煮詰まってしまう。なんせ、みんなが「あいつが悪い」と責任をなすりつけあっていたら、全くコンセンサスなど生まれないからだ。

コンセンサス、つまりは積極的妥協、とは、そういう二項対立的是非論ではなくて、お互いが歩み寄れる、かつ「誰にでも正しい」言葉や実践にたどり着けるよう、お互いが一肌脱ぎながら、どう模索し、構築することなのではないか、そう感じている。この模索の際に大切なのは、どちらの方がより「正しいか」という内容についての討議・探索ではない。往々にして、どちらにも一定の理がある場合が多い。その理は尊重しつつ、「誰にでも正しい」言葉や実践という核心は残しつつ、両者が「どう歩み寄れるか」という形式の部分が大きな問題になる。その際、「肉体となり血流とな」った「形式」を駆使する中で、もしかしたら内容的な一致点(共通言語)は見出され、難局は超えられるのではないか。その共通言語の内容と形式こそ、「誰にでも正しい本当の言葉」への鍵だとも思っている。

確かにこういう模索や探索は、しんどいし、隘路を行く思いである。「あいつが悪い」となじっている方が、どれだけ楽か。でも、自分自身の中で咀嚼しきった「形式」で、誰にでも了解可能な「内容」(=誰にでも正しい本当の言葉)を伝える。これこそ、哲学の巫女が全著作を通じて私たちに教えてくれようとしたものではないか? 今になって、遅まきながら、ようやく気づいた。そして、私自身の仕事も、この隘路を突き進むための「内容」の探索であり「形式」の模索でないと、巫女のご宣託を全く「わかっていない」=「変わっていない」ということになるんだなぁ、と感じながら、読みふけっていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。