ある言説を批判する際、その言説と対になる、という点で、同一平面上からの批判に陥る場合が少なくない。根元的な批判をしているつもりでいて、実は批判対象と同じ土台にいるということに無自覚な場合である。例えばこんな風に。
「旧改憲派は、自分たちをナショナルな他者、国内の他者との関係で自己同定化(アイデンティファイ)している。そこには国外的な他者との関係が脱落している。(略)しかし、旧護憲派も、その事情は変わらない。彼らは、この旧改憲派のナショナルな共同性を否定し、自分たちをインターナショナルな他者、国外の他者との関係で自己同定化することで、反共同性の立場に抜け出たと考えるが、それは単なるイデオロギー的な反転にすぎない。そこでのインターナショナルな他者との関係も、それが国内の他者を廃した同一の他者とのイデオロギー的な連帯に過ぎない以上、わたしのいうイデオロギー的な共同的関係のままである。彼らの理論が、二千万人のアジアの死者への謝罪をいいながら、三百万人の自国の死者をその関係のなかに位置づけられないのは、これも、そこにあるのが単一な他者との同一的な-つまり共同的な-関係であることの現れなのである。」(加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫、p342)
あるものごとを批判する時、そういうやり方ではダメで、こういうやり方こそ正しい、と説く。だが、「そういうやり方」と「こういうやり方」の両者が、その基盤に置く認識自体が共通である限り、優劣を決することができない、つまりはどっちでも「半人前」であることがある。加藤氏はそれを敗戦後の戦争責任における「ねじれ」の問題として鋭く整理し、わかりやすく提示してくれている。だが、これは日本の戦争責任問題に限ったことではない。
最近とみに感じるのだが、私自身も「○○はダメだ(問題だ、おかしい…)」という時に、そのダメだと思う状態の文脈を支配する論理の上で、その議論を展開していることがある。まるで、「ダメだ」と主張することによって、返ってそのダメだと言われる主張を反射的に必要とし、強調しているかのように。
ある物事を感情論や表層的な論理でのみ批判していると、批判されている物事と、前提の認識が同じ、ということもある。本当にその物事がダメだ、と思うのであれば、前提の認識こそ揺さぶるような「対論」を出さないと意味がない。しかし、認識そのものを焦点化するにはじっくり考えた上での論理展開が必要。それならば、目の前で出てきている現実をとりあえず叩き、そうではない別の現実を提示すればいい、という理屈になりやすい。だが、その別の現実も、目の間の現実との対比関係の中で初めて現実味を帯びてくる、という前提付きのものであれば、普遍性に欠ける。
正-反-合という弁証法的展開を考えた時、ある「正」に対して「反」を考えるのはもちろん大切。だが、同一平面を考えるだけでは、その両者を止揚する形での「合」にたどり着けない。時代を突き抜け、膠着した局面を打開するためには、正と反が陰陽のように両立するその「同一平面」こそを正反(陰陽)両面から分析し、その両者の存立基盤となる「同一平面」こそを覆すような「合」という新たな局面から、状況を捉え直す事が大切だ。これは、実社会においても、ある活動の肯定的言説と否定的言説を、合わせ鏡のように捉えて見ると、実感することでもある。時として、あることの否定は、その否定された対象への強烈な憧憬を陰に秘めている場合が少なくないからだ。
同一平面の分裂状態を見抜くためには、二項対立的状況に安住するのではなく、その認識基盤そのもの(=つまりは自分の信念そのもの)をグラグラ揺らしてみなければならない。最近身の回りに起こる様々な陰陽図を眺めていて、そう深く感じ入ったのであった。