「真にすぐれた作家はすべての読者に『この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ』という幸福な全能感を贈ってくれる。そのような作家だけが世界性を獲得することができる。『コールサイン』のもっとも初歩的な形態が『本歌取り』である。(略)
あらゆる作品は(音楽であれ文学であれ)、その『先行項』を有している。その先行項をどこまで遡及し、どこまで『祖先』のリストを長いものにすることができるか。読者が作品を享受することで得られる快楽、ひとえにそこにかかっている。」(内田樹「X氏の生活と意見」)
先行研究の大切さについて、これほどわかりやすく書いてくれている題材はない。
そう、オリジナリティあふれて、しかもめちゃオモロイ論考って、結構「本歌どり」をしていたりする。「先行項」の「遡及」が多いからこそ、そこから引き出せる学恩も多いし、実りも多い、ということ。
オリジナリティとは、完全に自分だけで作りだした、というものではない。もちろん、そういうスタイルもある。だが、そう自画自賛しているものの大半は、ストックフレーズがあったり、あるいは何らかの元ネタがあるもの。で、それに無自覚に、かつインディペンデントな振りをするより、どうせなら、自分の引き継いだ恩恵に自覚的でありたい。僕自身も、今まで色々まとめる際にオリジナリティばかり着目して、返ってストックフレーズに埋没していた傾向がある。そうではなくて、学恩を徹底的にしゃぶり尽くし、先行研究の良さをなめ尽くす中から、より多くの叡智を引き出すことが可能なのだ。つまり、「本歌どり」に耐えうる偉大な作品から引き出そうとするなら、無限の叡智を引き出すアクセスを確保したことになる。逆に言えば、「本歌どり」に耐えられないクズ作品に関わっていては、無駄になる、ということだ。
そうやって振り返ってみると、僕の回りにも「本歌どり」したくなる作品は少なくない。だが、それらを本気でしゃぶりつくし、「本歌どり」しまくったか、といわれると、心許ない。受け継げるものときちんと引き継いでいるか。今からの作品に「本歌どり」が応用できるか。それらが、自分に試されていると思う。