民主主義の絶対条件

 

ジェラルド・カーティスと言えば、日本の政治に精通しているアメリカ人研究者。彼が大学院生の時に大分の自民党議員の選挙事務所にボランティアで入り込み、日本の選挙風土を実に丁寧にフィールドワークとしてまとめた出世作「代議士の誕生」(サイマル出版会)は、読み物としても大変面白い。現場にじっくり入り込んだ上で、その現場から一歩引いて日本の政治風土全体のコンテキストの中で問題点を指摘する。彼のクールヘッドとウォームハートに基づく分析を読みながら、私自身も彼の研究手法から多くのことを学ばせて頂いた。

そのカーティス氏が、実に興味深い事を書いていた。

「国家権力があくまでも公平・公正に使われていると国民が信じられることが、民主主義の絶対条件である。いま日本では政治家もマスコミも、さらには国民一般も、この問題にあまりにも鈍感になっていないか。今回の事件は一人の野党リーダーの問題だけではない。党利党略ばかりを考えず、法治国家としてのプロセスの正当性を守る意味においても、麻生首相をはじめ与野党の政治家たちは、検察の責任者が公の場に出てきて国民に説明責任を果たすよう求めるべきだ、と私は思う。」(朝日新聞2009年3月12日 私の視点)

国家権力の正当性という問題を、このように真正面に捉えている論調が、日本の新聞自体の社説なり論調に出ているだろうか。確かに、この記事は大新聞に掲載されたが、あくまでも新聞社の主張・社説ではなく、研究者個人の考えである。カーティス氏はその記事の中で、このようにも述べている。

「朝日新聞は3月10日、『民主党、この不信にどう答える』と題した社説を掲げたが、どうして『検察、この不信にどう答える』と問いかけないのか。検察のやることは絶対に正しく、疑う余地もないことでも思っているからなのか。マスコミは検察側が不機嫌になるような報道を自己規制して控えているからか。」(同上)

私がアメリカ滞在中に突如沸き上がった、野党第一党の党首を巡るスキャンダル疑惑について、事の真偽はわからない。別に、私はこのブログで、その善悪の判断をする気もなければ、どこかの党の主張と同調する気もない。でも、カーチス氏が言うことに、すごく同感する。日本のマスコミの論調は、「関係者の話に依れば」「調べに対して」といった形で一応の言い訳はつけるものの、国家権力の発表を「事実」のような体裁で表記している場合が少なくないからだ。「検察のやることは絶対に正しく、疑う余地もないこと」というカーティス氏の分析が、決して彼の妄想や誇張に思えない場合があるからだ。

私自身、日本という国に住む市民として、日本社会がより安定的なものであってほしいと希求している。だからこそ、「国家権力があくまでも公平・公正に使われている」と信じたい。この前提が崩れたら、「民主主義の絶対条件」にも曇りが生じる、と思う。だからこそ、日本をよく知る外部の目からのこの警告には、きちんと耳を傾けたいのだ。本当に国家権力が公平・公正であるのか、と。過度な一般化は常に禁物と思いつつ、佐藤優氏の一連の著作を読んでいても、「国策捜査」という文言が、頭の端をよぎる。

権力が悪、と言っているのではない。権力は、統治機構の維持において、必要不可欠である。だが、その権力に自覚的であるかどうか、また権力の無謬性に対して懐疑的かどうか、は常に大切なポイントではないか。無自覚な権力者は、意図的な権力者と同じくらい、権力の濫用に鈍感であり、それほど問題の根は深い。そして、無自覚な権力への同調者は、意図的な権力への同調者と同様に、これらの濫用を促進させる。国家の統治機能を真っ当に維持するために、住みやすい国を保つためには、警察や検察だって、「おてんとうさまに照らしても、真っ当と胸を張って言える仕事」をしてほしい。この3月に巣立つ我が学科の卒業生も、警察官になる学生が多いからこそ、切実にそう思う。

真っ当な主張と、真っ当な議論、そして真っ当な批判が、この問題に対してもなされることを祈るばかりだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。