積極的中途半端さ

 

成田エクスプレスの車内は暖房が効きすぎた。Tシャツ一枚で、雨模様の空を眺めながら、しかし車窓から梅の花を見て、帰国した事を感じる。

2週間弱、サンフランシスコに調査に出かけていた。これで4度目になる彼の地での障害者の権利擁護に関する調査研究だ。いつもより少し滞在期間を延ばし、腰を据えて調査に取り組んだ。それと共に、たまに日本を離れることを幸いに、少し自分のスタンスを俯瞰的に見つめ直すチャンスがあった。

とはいっても、4回もサンフランシスコに行っているのに、一度もゴールデンゲートブリッジ行く暇もないほど、なんだかんだ予定が詰まっている。日程表上では空いていても、調査先の関連資料の予習をしているうちにあっという間に時間は経つし、それだけでなく滞在期間中やその後すぐの〆切の「宿題」もわんさか抱えてきた。我ながら因果な商売だが、まあ引き受けた事には一応のけじめを付けなければならない。そうは言いながらも、ちゃっかりブータン展をやっているアジア美術館に2時間ほど滞在して、曼荼羅を久しぶりに至近距離で眺めていたりもしたのだが

で、ある場所を定点観測的に眺めていると、その現場の変容を感じられるだけでなく、その現場を眺めている自分自身の変容をも感じる事がある。今回は特にそれを実感する。これまでなら見えていなかった視点、感じ取れなかった事が、「そうだったんだねぇ」と腑に落ちる。この腑に落ちかたは、新たな発見による納得も勿論あるのだが、それよりも自分が「わかる」範囲の外にあった(=故に未分化・未消化で検討の対象外だった)ものが、急に眼前に拡がる鮮やかさ、とでも言おうか。そういう理屈でこの仕組みが成り立っているんだね、と気づくことで、今まで断片化されていた知識が、少し整ってくるというか、そういう感じだ。

この種のバージョンの再編や改変は、やはり現場に行かないと見えにくい。ただ、だからと言って現場が全て、の現場第一主義者でもない。それなら、研究なんぞしているより、どこかの現場に専心した方がよいからだ。当たり前の話だが、医療でも福祉でも法律でも、現場の最前線で生起しつつあることは、研究者ではなく臨床家こそがダイレクトに接している。ただダイレクトに接しているから、といっても、その生起しつつある事がどのような価値を帯びていたり、今までの有り様とどう違うのか、という俯瞰的な眼差しをもっているかどうか、はまた別問題であるし、そんなことは臨床家には関係ない場合も少なくない。一歩引いて普遍的に言えることはどうだ、と講釈をたれても、今そこで困っている特定の○○さんの今日明日の暮らしにダイレクトに響かない場合の方が多いからだ。

でも、そうは言っても、明後日の、半年1年後の現場の現実をより良いものに変えるためには、それなりの戦略がいる。漫然と昨日から受け渡された今日、明日を続けているだけでは、バケツリレーは出来ても、そもそもバケツリレーを本当に必要としているのか、違う方法はないのか、バケツリレーの副作用は無いのか、ということを根本的に考えることが出来ない。だからこそ、一歩引いた抽象性や客観性が求められる。

ただ、生身の人間の性の有り様に深くコミットするソーシャルワークや社会政策の領域では、理論的な善悪を論ずるよりも、より良い明日のためにどうすればいいか、についての「具体の方法論」を求められる事も少なくない。準拠点になるものが、○○理論ではなくて、障害者の地域自立生活支援を実現するためにはどうしたらよいか、という前提に立てば、○○理論のadvocatesとは違う形での価値や態度表明になる。勢いその価値には純粋な理論的価値基準より、生の人間の感情が色濃く反映されたものになりやすい。だからこそ、学派間の論争とは違う形での「神学論争」的な、頭でっかちの議論になる可能性もある。

そうであるからこそ、たまには頭を冷ますために、現実に深くコミットしすぎている場合は理論的な水準に立ち返る必要があるし、逆に理屈で詰まっている場合には、いろんな現場を比較検討して歩く中で、よりよいものは何か、についての再評価をし直すことが求められるのだ。安易な神学論争に陥らないためには、「具体の科学」とグランドセオリーの間を、実践と理論の間を、何度もなんども自分の足で歩き、往復し続ける中で考えるしかない。そして、複合科学として人びとの生活のありように深くコミットする学の分野であるだけに、結局の所、現場に貢献する理論というか、理論的に高められる現場実践の抽象化というか、つまりはメゾ的なものが求められる。そう、積極的な中途半端さが肝要なのだ。

今まで、この中途半端さが、自分にとっては一番嫌な側面だった。もっと白黒はっきり付けたい、とそう思った。だが、この福祉の分野で、白黒を単純に表明することは、安易なイズムや主義につながる。そして、イズムや主義につながったものは、その色とは違う価値観を持つ人が、全く耳を傾けてくれない、それこそ「神学論争」になる。どちらにも態度保留な中途半端さではなくて、ある価値基盤に基づいてはいるけれど、その基盤以外は全く目にも耳にも入らないのではなく、積極的に吸収し、その基盤をより良い者にするために応用する、という意味での「具体の科学」の大胆さが求められるのだと思う。

カリフォルニアまで行ってみえてきたのは、そういう己のこれまでの器の狭さと、ちびっとではあるがその器の小ささも含めた自身の中途半端さを積極的に引き受けよう、という心の変化である。結局どこに行っても見ているものは一緒じゃんか、と言われたら、そりゃそうだ。同じタケバタヒロシなんだから。でも、環境を変えるからこそ、大事なことを発見出来る時もある。そんな、4回目のカリフォルニアからの帰りであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。