カチャカチャとコリコリ

 

風邪の初期症状のようである。鼻水が出て、何となくだるい。

昨日から甲府もグッと冷え込んできた。しかも、昨日久し振りに講義で「スベって」しまい、冷や汗をかき続けた結果、アンダーシャツだけでなく、Yシャツもぐしょぐしょになった。こりゃヤバイ、と思って、さっさと帰宅し、一寝入りした後、快復したので合気道に出かける。11月は6級の昇段審査を受けるので、行ける時に手を抜くわけにはいかない。両手取二教の裏、ってどうするんでしたっけ、と、有段者の大先輩に教えて頂きながら、汗をぐっしょりかいて、遅めの夕飯を頂く。そして、今朝になって鼻がシュンシュン。どうも夏用の布団+毛布、では、もう足りないようだ。

で、そんな身も心もあまり優れない中、何となく書架の「積ん読本」になっていた一冊を読み始めると、なかなかしびれるフレーズに出逢う。

「タイプライターで書くことは、鍛冶屋が鉄のかたまりから何かを作り出す作業に似ているといえるかもしれない。つまり、書くことは、ある意味では、ハンマーの代わりに、キーボードによって、何か対象を形作っていくことであり、いったん作った形が、つぎに、どこをどう削るべきか、可能な道筋を示しているのである。ときには、削ってしまった対象が、袋小路のように、つぎに削るべきところ、あるいは、行きべき場所を示さないように見え、作り直す必要があるにしても、行くべき方向性は、そのつど形作ったものの中に探すほかはない。そして、この書くという作業は、キーボードを打つという行為と同期した行為なのである。」(上野直樹『仕事の中での学習-状況論的アプローチ』東京大学出版会 p28-29)

認知科学の専門家による学習過程に関する概説書。Learning Organization論の文献を読む中で引っかかってきた本、だと思う。バタバタしていて、何故この本を買ったのか、覚えていないのが、お恥ずかしい限り。でも、読み始めたら、その分析の鮮やかさに、ワクワクし始める。

確かに、このブログがその典型例だが、書く前にモチーフや結論が明確に決まっている、なんてことはあまりない。鍛冶屋が火をおこし、鉄の塊を入れて溶かし、ハンマーを叩くプロセスと、考えてみれば似ていることをしている。とにかくPCを立ち上げて、テキストエディーターを前に、カチャカチャ打ち込み始める。書き始めて、何となく流れに乗れると、「いったん作った形が、つぎに、どこをどう削るべきか、可能な道筋を示しているのである」。でも、その流れを感じられずに、あてど無く打っていると、時として、「袋小路のように、つぎに削るべきところ、あるいは、行きべき場所を示さないように見え」ることもある。でも、「行くべき方向性は、そのつど形作ったものの中に探すほかはない」のである。そこで、形作られたものを見直す中で、「こりゃ、使えん」と削除するにせよ、こう書いてみようか、と新たな方向性が浮かぶにせよ、選択肢が立ち上がってくるのである。

そして、経験的に言えば、自分の元々のアイデアや想念から一旦離れて、「そのつど形作ったものの中に」「可能な道筋」を見出す方が、時としてブレイクスルーとなるようなアイデアや考えにつながる事もある。まさにブリコラージュ的な、何のために使えるのかよく分からないものを集めて組み合わせる中で、思わぬ効用をもたらすのと、似ている。そういう、自分自身に風穴を開けるようなキーボード打ち、は、その作業があるからこそ、まさに書くという創作行為が開けてくると言う意味でも、「同期」しているのである。キーボード打ちより、あるいはペンで書くことより、「書く」という実態が前に来ることはあり得ない。

そう、キーボード打ちだけでなく、ペンで書いていても同様の事を、強く思う。原稿や学会発表の初期段階の構想は、PCではなく、ノートに万年筆で、というアナログチックな取り組みを初めて1年あまり。ミヤモトさん辺りから「また形から入って」と苦笑されそうだが、さにあらず。実際、ノートにコリコリと書くのは、PCよりも遙かに負荷がかかるが、何かを生み出さなければならない、一定のテンションが必要な時には、実は必要な負荷なのではないか、と感じる。また、一覧性の強い紙面に、見開きレベルでコリコリと書きながら考えあぐねているうちに、つながりと見通しが出来てくる事もしばしばある。つまり、カチャカチャであれ、コリコリであれ、実際に手を動かしてみることによって、初めて世界が見える形で立ち現れてくるのだし、その立ち現れた現物を眺めながら、次の行路が、「可能な道筋」が、見えてくるのである。

その際、実社会でも同じだが、耳をそばだてることが大切なのだろう。この「いったん作った形」は何を求めているのだろう。どういう「可能性」を秘めているのだろう。これを、自分の思いこみだけでなく、対象化(=活字化)された形を眺めながら、そこから出される声なき声にチューニングを合わせる。それが上手くできたら、独りでにキーボードに次なる言葉が打ち込まれる。言葉が出てこないのは、そのチューニングが出来ていなかったり、あるいは聞こうとせずに自分の思いこみだけを勝手に打ち込むからだ。

そういう意味では、書いている私と書かれている活字、とは、私という媒介項を接してはいるが、同じではない。その際、どちらかだけを重視すると、「行き止まり」になる。「書いている私」の我が強い時ほど、「書かれている活字」の方にも気を配ると、案外デッドロックを切り抜けるドアが、ちらりと開いていたりするのである。自動書記、というと、イタコやシャーマン的になるが、書かれた文字と対話しながら、その文字の書かれる即興感の流れを止めない形で、「書くに任せる」というのも、時として大切なのだと思う。ほうら、今日もそうしているうちに、こんなにウダウダ叩いてしまった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。