物語を書き始めようとしている。
といっても、小説ではない。ある一つの主題を巡る、大状況と個別具体の人々の交錯関係を巡る物語。年明けから、少しずつそのテーマが響いている。そのことを何人かの同僚にお話しすると、関心にピッタリとあう本をご紹介下さる。たまたま手にとって読み進める本が、「ストーリーテリング」の方法論や、あるいは分析の視座を構築する際、非常に役立つ何かだったりする。
セレンディピティ
偶然性の産物。単なる錯覚、なのかもしれない。もともと向こう見ずな表面と、どこかで手堅さを求める深層の二面性を持つ自分にとって、深層の自分は表層を抑圧的に見てきた。それが、良い意味では抑制と自己統御になり、悪い意味では偏見や囚われ、ともなっていた。
昨年の途中当たりから、そのシャッターを下ろす防御機制の水門を、開け始めた自分がいる。様々な流れが、一気に体中に流れ込み、一時は溺れそうになりかけた。心がかき乱されるとはこういうことか、と実感したこともある。だが、徐々にその水圧や、新しい流れとも、うまくフィットするようになってきた。
新たな流れを受け止め、日常の自分に戻った時、これまで自分が死蔵していてすっかり忘れていた様々なパーツがくっつき始めている。今まで「関連づけ」というものは、表面的には意識していたが、学問的なルールに従う事が「適切な身振り」であると無意識的に感じ、あまり旺盛な「関連づけ」をしていなかった。だが、「遠い太鼓」がなっているなら、その通層低音に耳をそばだて、とにかく音の出る何かを探り当て、論倫的にどう繋がるかの前に、感覚としてまずくっつけてから考えてもよい、と思い始めた。論理より直感を大切にし、自分のテーマに大切にしよう。そう思えば、いわゆる「守備範囲」から外れる、と外形的に思われる本であるか否かは全く関係なく読んできた。
そして、その経験を重ねていくうちに、少しずつ、物語として何かが書きたい、というイメージを強く持ち始めた。それはちょうど村上春樹氏のインタビュー集を読み終えた頃から、明前となり始める。僕にとって、村上春樹氏の著作全ては、自分の人生の中で、かけがえのない何かであるとこは間違いない。折に触れ、何度も読み直している。だが、まさか彼の作品を読んで、自分も物語が書きたいと思うなんて、想像だにしなかった。
だが、彼が物語の創作の秘密を語るインタビュー集の中で、物語作成について、深い井戸を掘り、何らかの普遍(それが純粋な悪という形態を取る場合が多い)とアクセスする「僕」の物語を書き続けた著者の、普遍とのアクセスについての物語創世記から、強い影響を受けた。そう、井戸を掘って、私という個性を通じて、普遍の魂にアクセスする。それなら、僕にだって出来るし、確か以前掘った井戸がある。その井戸は、博論を書く混乱の中で、8年前に掘り終えて、そのまま放ったらかしてある。今、その井戸を模倣するのではなく、もう一度新たな気持ちで、一から掘り直してみたら、色々なものと出会えるのではないか。
そう思い始めると、読書においても、様々なものがシントピカルに見えてくる。多分、書きたい物語が具体化・前景化し始めたので、それとの「関連づけ」で様々な本と接していることが、大きな理由だと思う。まるで探偵であるかのように、様々な断片をつなぎ合わせて、推理の仮想実験をしていく過程。ボンヤリとした枠は決まったものの、その内実はまだ、謎だらけ。ゆえに、一つ一つの断片が、パズルのピースをつなぎ合わせるような楽しさ。
今朝書いているこのブログも、こんなことを書くとは全く思っていなかった。そもそも、普段のこのブログは、他人のテキストと対話しながら、考えあぐねがら、1時間とか2時間かけて書く、というのが定番だった。たった半時間も経たないうちに、わーっと自分の想いをまとめていく、というスタイルのブログではなかった。
そういう意味では、昨晩飲まなかったので、久しぶりに河井隼雄氏の『陰の現象学』を何となく読み直し始めた影響が大きいのだと思う。これも自分はまだ学部生だったころに確か読んだきりだった。あのころの記憶は全く忘れているが、多分すごく難しく感じながら、読んでいたのだと思う。一回り以上たって、今の自分は違う読み方をしている。それだけでなく、あのころより色々な形で、自分の今と「関連づけ」を意識化出来ている。お勉強として学ぶ、のではなく、アクチュアルな自分の課題と関連づけながら、読み進めている自分がいる。そうして、その影響を受けて、このブログで、表面上の取り繕う自分の水門を文章でも外して、とにかく感覚的に書き飛ばしている自分がいる。そして、書き飛ばしてみて、案外面白く繋がっていくことに気づいている自分もいる。
別にシュールレアリズムやオートマティズムではない。確実に僕の意識は文章に関与している。
これに関連して、思い出したことがある。もう10年以上前の大学院生の頃、人生が八方ふさがりになった時期があった。その頃、僕の言動によって、様々な方々に多大な迷惑をかけてしまった。それまでは、今よりも遙かに勝手なほら吹きが多かったが、その反面、文章も伸びやかに、というかある種の無知な純朴さで、感覚的に書き飛ばしていた。その中に面白さの断片があったようで、あるミニコミで何度か連載を持たせて頂く事もあった。だが、僕の中では衝撃的なその事件以後、感覚的な側面で書き飛ばす、という事を、見事に封印した。蔵の奥底にしまい込んで、重くて厚い扉をしっかりと閉め、出てこれないように閉ざした。
封印と言えば、もう一つ思い出すのは、昔、僕は小学校時代からラボという英語教室に通い、そのテープを繰り返し聞いていたので、ヒアリングも発音も、割と出来ていた。だが、中学の塾に通い始めた時、過度な巻き舌が、周りの仲間の嘲笑の的になった。それ以来、僕はその巻き舌を封印し、以後月並みなジャパン・イングリッシュ使いになったのを思い出す。今、その封印を解いてもよいと頭で分かりながら、巻き舌が使えない自分がいる。
そう、過去に封印したものは、それを解いてもよい、と思っても、なかなかその封印は解かれない。自分にかけた呪縛は、ほどけるまで時間がかかる。だが、もしかしたら感覚を重視させた文章を書く、という事は、今少しずつ解凍され、その書き方を思い出しつつあるのかもしれない。ただ、以前とは全く同じではない。論理の規制というか伴走者がいる。その伴走者と共に、でも直感的に魂が、僕の個性という乗り物が感じる事を、書き出してみて、見知らぬ「あなた」へとアクセス出来ないか。その手段として、ある物語を書くことが出来ないか、と感じている。
そろそろ始まりの時なのかもしれない。