頑張れ、日本の新聞!

新聞を変える時、それは僕にとっては一つのパラダイムシフトの時であったりもする。

前回の変更は、高校生の頃。実家の京都では、ずっと地元紙を取っていた。父は帯屋の営業。西陣で話をするには、京都の話題が豊富に載っていることが大切だから、というのが、地元紙を取っていた理由だった。だが、その新聞を大手紙に変えるように迫ったのが、高校生の僕。きっかけは、とある出来事だった。
僕の出身高校はある仏教の宗派が持っている高校だった。その高校の校長が、先物取引に数千万、突っ込んでいた。しかもその出所が、学生の保護者から個人的に貰った「御礼」のお金であったり、学校関係の資金、はたまた寺の資金であったり・・・。その由々しき事件のお陰で、いつの間にか月に一度の宗教の講話の時間には「校長職務代理」という先生が替わって話をするし、地元紙だけではさっぱりわからなかった。だが・・・。
「あ、このことやろ」と、新聞記事を見せてくれたのは、同じ写真部の仲間。そう、某四大紙にはデカデカと、事の詳細の報道がスクープでなされていたのだ。その後、地元紙でも小さくは扱うが、積極的に報じているようにも思えない。小さい頃から憧れていた新聞記者。テレビやニュースへの信頼。なぜ信頼出来る「はずの」記事が・・・と思っていた時、誰からから、聞いた。「だって、地元紙なら、部数確保のため、遠慮して書けないでしょ」。世間に批判的な割には、批評のソースである新聞記事やテレビ番組の無謬性を信じ込んでいた自分の枠組みが、ガラガラと崩れ去った局面。なるほど、新聞もテレビも、株式会社ですもんね、と。以来、父は躊躇したが、頑として譲らず、その記事を載せていた某A新聞に実家は変更した。
それから20年。今も一応その新聞はとっているけど、最近二紙目を取りだした。某経済新聞? 違います。中東革命にものすごく興味があるのに、我が国では本当に報じる量も質も不満がある。我が家は未だにアナログゆえに、BSニュースも見れない。その不満を解消するため、買った後で放ったらかしにしていたキンドルを復活させ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(略してヘラトリ)のお試し版を読み始めた。すると、中東関連の記事が国内紙に比べて遙かに充実している。しかも、わからん単語は、キンドルなので、スクロールさせると、ちゃんと出てくる。昔、紙のニューズウィークは一年購読したけど、単語を引くのが面倒で挫折してしまったが、これなら続きそうだ。というわけで、ここ1ヶ月ほど、読んでいる。
中東の記事でも、国内紙が報じない多角的な記事内容に、引き込まれる。ツイッターに備忘録で放り込んだものだけでも、例えばこんな感じ。
3/1 21:26
ヘラトリは、アルカイダも曲がり角、と論評。確かにジハードではなく、民主化熱波が独裁政治を倒してしまった。「全ての前提条件が崩れ去った」との識者の指摘が印象的。アメリカ外交も2001年より遥かに大きな政策転換に直面している、とも。
 
2/28 13:13
ヘラトリでスウェーデンの移民問題を読む。確かに昨年訪れたマルメは移民都市だった。今では人口の4分の1が外国籍かその子孫だとか。彼の地でもやはりムスリムとの対話が大きな問題。失業や社会不安を「内なる他者」に押し付けるのは、寛容な国の伝統に反すること。どう闘うのか、が試されている。
 
2/16 7:30
昨日のヘラトリでは、チュニジア・エジプトと続く革命の連鎖の背景についての解説。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、と。
 
2/12 12:08
ヘラトリでエリ・ヴィーセルのインタビュー記事。強制収容所体験を持つ彼は、今のエジプト革命に寄せて「技術の進歩ゆえ、知らないとは言えない時代」と。だか、色々聞こえてくるけど、ちゃんと耳を傾けているか?悲劇の教訓から学ぼうとしているか?話す前に考えているか?を問いかける。重い言葉だ。
国内紙で「全然書けていない」と不満だったが、不満なら、別の新聞を読めばいい、という当たり前のことを忘れていた。英語なら、何とか読めるし、文字数も格段に多いので、深くまで掘り下げた記事に出会える。特に日本のメディアは中東情勢の分析がどうも弱いようだが、国際的なメディアは、深く現地に根ざした記者も多い。もちろん、ニューヨークタイムズの国際版なので、アメリカに引きつけた(偏った)記事が少なくないが、アメリカ政府・アメリカ人が考えていることをきちんと眺めるには、もってこいの記事。なので、ついつい読みふけってしまう。
その一方・・・朝日新聞の月曜日の社説を読んで、「あのねえ」と腹が立ってきた。(そう、ここまでは壮大な「前置き」だったのだ)
インドネシアとのEPAで看護師候補が沢山やってきたが、看護師の試験に出てくる用語が難しすぎて受からない、だからこそ滞在期間は延長させるべきだし、もっと看護師が日本に定着出来るように障壁を下げるべきである、と。国内の看護師の労働環境の厳しさや、有資格者が60万人も離職している現実も伝えながら、結論は、「看護や介護と言ったケア人材についても、開国に向けた改革へと踏み出すべきだ」と。
人材が不足している→海外から人を入れるべし。これは必ずしも直接の因果関係にはならない。だって、弁護士が不足している→法科大学院を沢山作る、医師が不足している→医学部の定員を増やす、という解決策をとっているのだ。実際東欧では、医師もお金が稼げるフランスやドイツに沢山流出している、という。ではなぜ、「看護や介護と言ったケア人材」だけが、学校を増やす選択肢を取らずに、「開国」なのか。理由も、この朝日の社説には書かれている。労働環境が低すぎて、離職者が多いからだ。これは介護であっても同様。ついでに介護は、看護師よりも給料が低く、夜勤がない地域支援では、家族を支えられるだけの給料がでず、「結婚したから入所施設や病院で働きます」というワーカーも少なくない、という現実がある。
この現実を所与のもの(変える必要のないもの)とした上で、低賃金で激務で日本人のなり手が少ないなら、安い給料でも満足してくれる、アジアの労働者を入れたらいい。医師や弁護士は「輸入せよ」と書かず、看護師や介護士は「人の開国」と書く論理矛盾。ここには、医師や弁護士と比較して、看護や介護の専門性が低いから、給料や労働環境が低くとも、他国の人なら働いてくれるはず、という職業および人種蔑視的な上から目線を感じるのは、僕だけだろうか。
半世紀前、アミタイ・エチオーニという社会学者が、弁護士や医師というfull professionに比べて、看護師、教師、ソーシャルワーカーはsemi-profession(準専門職)だ、と言った。確かに当時は専門性が低く、「センスの良い近所の主婦でも代用出来る仕事」だったのかもしれない。しかし、これらの対人直接支援の専門職は、近年、その力を上げてきたし、逆に専門性が低いまま接している「でもしか教師」による、セクハラや体罰などが大きな社会問題にもなっている。更に言えば、教師も不足しているから「輸入しましょう」という議論も聞かない。一方、看護師や介護士も、専門性の高い支援が求められる状況が増え、介護保険導入以後、その介護の質やケアのあり方に関する研究や実践の改善も、少しずつ進んできた。これは少しでも取材すれば、わかるはずである。
ついでに言えば、積極的な社会保障と財政、というのなら、看護師や介護士のライセンスを持ちながら、、給料や労働環境が低いが故に現場から離脱している有資格者を現場に復帰させる優遇策を講じた方が、扶養家族も減り、つまり納税者が増え、外国人労働者に国費(介護や看護には大量の税金が投入されている)を海外に送金されるより内需拡大にもつながり、社会保障的にも税収的にも、向上が期待されるはずだ。そういう視点だって、持つことはできないだろうか。
つまり、この「輸入=人の開国論」は、介護や看護は専門性も大して高くないはずだから、低賃金重労働で安価な外国人でよい、という非常に安易な前提(為政者や政府の説明)を鵜呑みにした上での記事としか思えない。国内問題の「所与の前提」を根本的に変えようとすることなく、いい加減なグローバルスタンダード理解を都合良い場面でのみ当てはめる、という「つまみ食い姿勢」。確かに物事をわかりやすく伝える事が報道機関に求められている事はわかるが、安易で暴力的な単純化(=思いこみ)を、社説として掲げる事自体に、何だかなぁ、という強い不満が残るのである。
別にヘラトリにそういう事が書いてある、という訳ではない。だが、他国の新聞が、一歩も二歩も深く突っ込んで報じているのを読めば読むほど、それとの比較の中で、我が国の新聞が、本当に不甲斐なく思えてくる。新聞社には優秀な人材が沢山揃っているのも知っている。だが、総体としての日本の新聞社・新聞記事の劣化を、最近、とみに感じている。もっと頑張ってよ、日本の新聞!

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。