風通しのよさ、を欲している。心も身体も。
引越しをしたのも、以前の家が本当に風通しの悪い家だったからだ。隙間風は吹きすさび、冬には凍てつく寒さになる鉄筋コンクリート建てマンションの3階。それが夏になると、隙間風どころか、わずかな涼風も吹かない。さらに、照りつける厳しい日差しは、最上階の我が家の気温を面白いほど上昇させ、篭った熱気と湿気は風が吹かない分、熱帯夜をさらに暑くする。引っ越した後に痛感したのだがついたのだが、コンディション的に相当過酷なマンションに6年も住んでいたことになる。
だが、山梨に赴任してからの6年間、なかなか出て行くことが出来なかった。大家さんが良い方だったから、というのもある。妻は3年目くらいから、SOSを出していた。でも、僕自身が、なんとなく引越をするだけの気力やモチベーションを保持していていなかった。暮らしていたマンションも風通しが悪かったが、それ以上に自分自身の心と身体の風通しが悪かったのかもしれない。だからこそ、物理的風通しの悪さに、文句を言いながらも鈍感になり、そこから脱出する、という具体的方法論を模索することのないまま、澱んでいたのかもしれない。
そんな生活との転機が訪れた今年。物理的に引越しをすることによって、風通しのよさ、ということを体感することが出来た。何事も、比較軸を手にしてみないと、それまでの状態がどうであったか、を相対的に評価することは出来ない。たとえば入所施設や精神科病院に長期間「社会的入院・入所」している人に、「今後どこに住みたいですか?」と聞いてみると、一度目に聞いてみるならば結構な割合で「ここに暮らしたい」とおっしゃる。だが、それは、すでに地域生活という比較軸を長期間の入院・入所で実質的に失っているから、他の別な選択肢が想像できないが故の、「もうここでいい」というメッセージの場合が少なくない。現に、長期間施設入所をした後、地域生活を再開された知的障害者への聞き取り調査を数年前にしたことがあるが、誰も「施設に帰りたい」とは言わなかったのが印象的だった。地域に出たいと最初は思っていなかった人でさえも、同様だった。地域生活という別の暮らし方を実感してみて、初めてそれ以前の暮らしが「風通しの悪い暮らし」だった、と実感しておられたのである。
僕自身も、ある意味そのような浦島太郎状態だったのかもしれない。比較軸を手に入れてみて初めて、それ以前の生活が「不便」で「風通しの悪い」生活だった、と遡及的に振り返りつつある。そして、そういう「風通しのよさ」を手に入れると、次は自分の仕事や暮らし方、日々のすごし方といった部分での「風通し」はどうだろう、と気にし始める。すると、どうやら僕を構成する様々な時間的・空間的配置や、僕の働き方そのものが、「風通しの悪い」ものである、ということに気づき始めた。なんだかしんどいなぁ、と思っているものの少なからずは、単なる加齢に伴う体力低下や運動不足といった表面上の問題ではなく、自らの実存上の風通しの悪さという本質的な何かとリンクしているのではないか、という仮説が、より強いリアリティをもって、身体の中で鳴り響き始めたのだ。
たとえば仕事について。ここしばらく、西村佳哲さんの本を何冊か、集中的に読んでいる。彼は「働き方研究家」であり、その処女作は以前に文庫版で斜め読みをしていたが、その際には僕自身の心にインパクトを持って響かなかった。しかし、こないだ出かけた小淵沢のリゾナーレ内にある、県内ではよいセレクションをしているブックス&カフェで、震災後の「どこで生きるか」を主題とした『いま、地方で生きるということ』(ミシマ社)と偶然出会ったことが、大きなきっかけとなった。震災というとてつもない出来事を未だに租借できぬまま、6月に引越しをするからと現地にボランティアにも行けぬまま、悶々としていた心が引越し後に少しずつほぐれていく中で、西村さんや、西村さんが主題化する東北で生きる人々の言葉が、文字通り乾いた心に吸い込まれるように、僕の心の中に染み入った。そんな浸透の様子に初めて、自分の心がカラカラに乾いていると気づいた。そして、次々に西村さんの本を買い求め、どれも貪るように読んでいる自分がいる。
西村さんは、仕事を単に「食い扶持を稼ぐため」という表層レベルでは解釈しない。その人の考え方、だけでなく、生き方・ありかた・実存といったBeingの問題として捉える。どれだけ魂とつながった働き方が出来ているか。どれだけ心からのワクワク・ドキドキが湧き上がってきているか。自分の実存に正直で、嘘をつかない誠実さを仕事に反映できているか。そして何より、世間の空気を読むのではなく、自分自身の中に吹く(時にはか細い)風を読んで、風通しのよさを心にも身体にも持ち続ける事が出来るか。そのためには、時にはNOを言うことを辞さない原則を持ち続けられるか。彼が主題として選んだ「働き手」たちは、みんな上記のポイントを必ずクリアしている人々だった。そして、書き手の西村さん自身がそのプリンシプルを著作を通じて体現しておられることが、よーくわかった。だからこそ、風通しの悪い以前の僕にはそのよさが理解できず、今になって急激に貪るように読みたくなってきたのである。そして、改めて上記の問いが、僕の仕事、働き方、実存に向けて振り向けられる。
自らの不全感・中途半端さ加減の少なからぬ部分が、この風通しの悪さである、と気づいたのは、彼の著作を読み進める中でのことだったと思う。しばらく前から薄々感じ始めていたが、確信を持てたのは、西村さんが紹介してくださった多くの「働き手」と自らの働き方を比較する、その比較軸を西村さんが提供して下さったからだと思う。比較には、「見ないほうが良かった」という比較だってあるとは思うのだが、この比較軸は、自分の中でなんとなく不全感や疑問として感じていた事をはっきりと言語化し、かつ背中を押してくれる貴重な枠組みとして、僕自身は受け取った。「風通しの悪い人生なんて、つまんないじゃないの」と。
だからこそ、久しぶりに京都→三重と出張を続けた帰り道のスーパーあずさの中で、改めて見つめなおす。僕自身にとって「風通しのよさ」とはなんだろうか。どうすれば、日常世界における澱みを少しでも減らし、今よりは心地よい、風通しの良い心身を保てるだろうか。そのために、働き方や生き様をどう変えていけばいいだろうか。持つべき比較軸や羅針盤は、世間的な価値観や評価軸ではない。自分の魂にとっての風通しのよさ、という比較軸であり羅針盤。その枠組みを気づいたら手にし始めている。だからこそ、これからの航海が、澱んだ内海の吹き溜まりではなく、まだ見ぬ大海原という外海に漕ぎ出し初めている、ということも、少しびびりながらも、感じているのである。もちろん、行き着く宛先は、未だはっきりとした輪郭を帯びてはいないのだが、とにかく風を信じて漕ぎ出すしかないのだ。