この前、某自治体職員と雑談していたとき、こんな話をきいた。
「厚生労働省は、総合福祉法を本気でやる気など、一ミリもなさそうですね。だって、こないだの主管課長会議でも、来年4月からの改正自立支援法の説明ばっかりで、総合福祉法の話なんて、話題になったのは、たったの5秒ですよ。8月に骨格提言が出て、その後の厚労省の会議で全く説明されないなんて、普通に考えればあり得ない話であって、随分変ですよね」
哀しいけど、さもありなん、と思いながら、その話を聞いていた。以下書くことは、その話を聞きながらふと頭をよぎった、事実に基づく僕の妄想であることを、始めにお断りしておく。
先ほど話題にしたのは、障害保健福祉関係主管課長会議と呼ばれる、厚生労働省が都道府県や政令指定都市の担当者向けに行う会議のエピソードである。確かにHPで出されている上記会議の資料をざっと眺めてみても、障害者自立支援法を廃止し、新たな法律を作るために、私も委員として関わった内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会の骨格提言について、まったく触れていない。私たちは昨年の4月から議論をスタートさせたが、震災で2ヶ月ほど進度も遅れ、拙速にまとめられないから、出来れば1,2ヶ月結論を出すまで時間がほしい、と再三厚労省にお願いした。だが、厚労省は平成25年8月に施行するためには、来年の通常国会に載せなければならないので、8月末の〆切りは絶対に譲れない、と主張。その厚労省の意見を受け入れる形で、8月30日に骨格提言を作り、親会議を通じて蓮舫大臣にも手渡した(この骨格提言の内容や意義については、8月30日のブログにも書いた)。つまり、国の審議会として、正式に国にその内容を上程したのである。しかし、それを担当課である厚労省が全く無視している。これは実に異常な事態である、と共に、霞ヶ関の官僚支配の本質を垣間見たような気がしている。
官僚の仕事の重要なミッションは、「継続性と安定性」の確保、である。ルーティンワークをルーティーンたらしめる継続性と安定性にかけては、「お役所仕事」と揶揄されるほど、彼らの本領を発揮する。だが、震災のような安定した規範の消失した現場では、この「継続性と安定性」の土台が崩壊している。震災時から復旧や復興支援、あるいは原発対応を巡って役所が機能不全を起こしたのも、そもそもこの「お役所仕事」の基盤である「継続性と安定性」そのものが崩れ、圧倒的な「前例なき事態」に押し流されたからであった。そこではボランティアやNPO・NGOのような即興性をもった支援が活かされたのも、阪神淡路大震災や中越沖地震と同様であった。
そして、今、社会保障領域においては、震災時に匹敵するような、「継続性と安定性」の危機にある。増大する社会保障費を前にして、増税という選択肢を取る事が、政治・政局の問題として、何度も否定されてきた。すると、特に介護保険制度財政的にを破綻させないためには、介護保険の被保険者(つまり保険料を支払う人)を40歳から20歳に引き下げ、安定的な独自財源を確保したい、というのは、厚労省の悲願であるはずだ。だからこそ、障害者自立支援法は、将来的な介護保険との統合を前提した制度設計を行ってスタートさせた。であるがゆえに、厚生労働省と自立支援法違憲訴訟団との間で取り交わした、「介護保険との統合を前提としない」という基本合意文章は、おそらくは厚労省にとって「目の上のたんこぶ」の存在であるだろう。しかも、この基本合意文章に基づいて作られた、制度改革推進会議の総合福祉法部会では、介護保険の根幹である要介護認定やそれに基づく支給決定が、障害者の地域生活には不適合である、という整理の基で、新たな支給決定の枠組みを提案した。これは、自治体でやられている支給決定の実態にかなり近いものであるが、これを認めてしまうことは、厚労省の枠組みの否定であり、かつ将来的な介護保険と障害者福祉法の統合=介護保険の被保険者の拡大論をつぶしてしまう。介護保険の「継続性と安定性」を守ることが本丸である霞ヶ関側にとっては由々しき事態である・・・こんな認識なのではないか。だからこそ、厚労省の制度改変を伝える会議で、2ヶ月前に出された障害者自立支援法に変わる新法の骨格提言について、全く紹介しない、という異例な事態になっているのではないだろうか。
さらに邪推すると、来年4月からの改正自立支援法は、「改正」と言いながら、大幅な制度改変を予定している。相談支援や虐待防止が強化されるが、その中でも現場にはかなりの変更を強いられる部分が多い。そういう圧倒的な制度改変のリアリティを来年4月に持ってくる意味は何か。もちろん、表面的には「障害者支援の現実を一刻も早くよりよいものにしたい」という言葉が聞こえてくる。しかし、平成24年4月という時期に大幅な制度改変をすると、当然25年8月にまた新法への改正をする、なんていう気力が自治体担当者や福祉施設の現場の人びとに沸くはずがない。それを承知で厚労省は「今後3年間の間に改正自立支援法を完全実施すればいい」などと述べている。つまり、平成25年8月に自立支援法の枠組みを捨てる気などさらさらなく、この改正自立支援法こそを着実にしたい、そのための仕掛けをしっかりしているように思えてならないのだ。
そういう指摘は、総合福祉法部会でも出された。だが、そのときの厚労省側の答弁は、「政治家が出された法案を着実に執行しているだけですから」とポーカーフェイスで答える。だが、来年4月から始まる改正自立支援法案は、厚生労働省が元々原案を作り、障害者団体の反対で一旦阻止された内容をほぼそのまま踏襲していることは、業界内での「常識」である。かつ、この間、厚労省側が、与野党の厚生労働関係の国会議員周りをしながら、総合福祉法は予算が青天井であり、実現は無理と吹聴して回っている可能性も十分にありうる(その片鱗は小宮山大臣の発言にも見て取れる)。
継続性と安定性の話に戻ろう。いったい、誰のための、何のための、継続性や安定性が大切なのだろうか。
霞ヶ関で働く一人一人の官僚は、障害者の暮らしの継続性や安定性向上を願って働いておられる方も少なくない。これは、霞ヶ関に通いながら、官僚の方と出会いながら、感じていることである。だが一方、省としてこの間の厚生労働省の動向を、部会の一委員として眺めていると、どうも厚労省の考える「継続性と安定性」とは、厚労省の施策体系の「継続性と安定性」であり、障害者の地域生活の「継続性と安定性」が第一義に置かれていないような気が、ふとしてしまう。これが非現実な僕の妄想であればよい。だが、先ほどから書いていた断片をつなぎ合わせてみると、どうも現実感の希薄な空想に思えないような気がする。
青臭い話を敢えて書くが、法律や制度、政策や予算は、人びとの暮らしを豊かにするための方法論にすぎない。そして、その方法論が実態と乖離しているなら、抜本的に見直す、あるいは法律を作り替えて対応する必要がある。2年前に取り交わされた国と訴訟団の基本合意文章が示しているのは、現行法の改正では障害者の地域生活支援の実態に合わないということであり、だから新法を作り直し、パラダイムシフトする必要がある、ということを、国が約束した文章でもある。総合福祉法部会が1年半かけて必死になって作り上げたのは、そのパラダイムシフトの具体的な内容であり、55名という立場もスタンスも異なる障害者団体間で、何とかまとめ上げた、障害者の地域生活支援を実質的に保証する為の、あらたな骨格であった。しかし、その実質的内容を、厚労省は実質的に反故にしようとしている。
誰の、何のための、継続性や安定性の確保なのか? 守るべきは、変えるべきは、一体何なのか? この点について、官僚や政治家の間できちんとした認識がなされないと、真剣に内容を検討することなく「予算がない」という安易な言い訳にすがり、制度改革そのものが流されてしまう。総合福祉法部会は制御不能なアンコントローラブルな部会だったから無視をして、制御可能な自立支援法で対応する、というのが妄想でなければ、優秀な官僚の皆さんは、一体何を支配したいのか、どの継続性や安定性を確保したいのか、誰の何のためなのか、大きな疑問がうかぶ。まさかその答えが「省益」なんてちんけな答えであるはずがない、ということを、祈るばかりだ。