「学びの本質」を学ぶ

僕は、受験勉強なるものには、馴染めなかった。自分の頭で考えることは好きだったのだが、闇雲に暗記するというプロセスはどうにも好きになれなかった。中学時代の社会科は大の得意だったのに、高校の日本史や世界史では暗記的勉強が嫌で挫折。今から思えば歴史を放棄した事の代償は大きいと悔やまれるが、後の祭り。

でも、学ぶことは、素直に好きだ。クイズ王的に知識を溜め込むことには何の興味も持てないが、何かを学び、それによって自分の内側の組織編成が変わり、成長できるプロセスは、すごく魅力的だ。大学以後、試験科目に縛られない自由な学びの世界に見開かれ、専門や領域を限定せず、心の赴くままに学び続けて来た。そんな「学び」のプロセスや本質が、ものすごくわかりやすく書かれている本に出逢った。
「私見によれば、ドラッカーのマネジメント論の要点は以下の三つである。
   ①自分の行為のすべてを注意深く観察せよ、
   ②人の伝えようとしていることを聞け、
   ③自分のあり方を改めよ。
自らの世界に生じているものごとの本質に触れたなら、世界の見え方は一変する。世界の見え方が変われば当然、そのなかにいる『自分』のあり方も改まる。この時まさしく、パッと目の前が大きく開けた感じになり、自然と涙があふれてくる。そこには『恐れ』はない。」
(安冨歩『ドラッカーと論語』東洋経済新報社、p24)
このドラッカー=安冨論の要諦は、他者や世界を知る前に、まず自らの行為に目を向けよ、という部分。そういえば、安冨先生は、数年前に出された『生きる技法』の中で他者との比較に目を奪われ、憧れか自己嫌悪に終始することを「自己愛」と呼び、それとは反対に自らのあるがままの等身大の姿を受け入れることを「自愛」と呼んでいた(そのことは以前のブログも参照)。自己愛と自愛の最大の違いは、②→①か、①→②か、の違い。まず、「他者との比較」が先に来てしまうと、自分の実像がわからないままなので、ついつい他者の良い部分に目を奪われ、憧れや自己嫌悪を抱きやすい。でも、それで「あるがままの自分自身」を理解せずに、他者の真似ばかりしていたら、心ここにあらず、でいつまで経っても苦しい悪循環から抜け出せない。思えば20代前半まで、僕もこの回路にはまり込んでいた。
ゆえに、その悪循環の反復から抜けるためには、②ではなく①から始めよ、とドラッカー=安冨論は伝える。これは、言うは易く行うは難し、の世界である。なぜなら、膨大な情報の海に流されずに、自分のあるがままとは何か、今していることはどういうことか、を「注意深く観察する」のは、「時流」に反することだからである。「時流」=世間の流れに乗る方が、一見するとラクに見える。だが、それは憧れや自己嫌悪の無限増幅回路に乗っかる事をも意味する。この無限地獄から降りる為には、時流に反してでも、まず「自分のあるがまま」を注意深く観察することがある。そこに、マネジメントの入り口というか、本質が隠されている、というのだ。
上記の部分は、僕が『枠組み外しの旅』でウンウンと考え続けてきたことを、実に平易な日本語で鮮やかに示されていて、まさに脱帽した。と同時に、何度も何度も頷いていた。
論語に関しても『生きるための論語』という示唆深い作品を出しておられる安冨先生は、ドラッカーと孔子の本質的な共通点を次のように語る。
「フィードバックなしに組織は決して作動しない。これは、学習回路の開いた『君子』が存在しなければ、国家は存続が危ういと述べた『論語』と同じ主張である。社会のあらゆる組織の根幹には『フィードバック』がなくてはならない。ドラッカーは二十数世紀前に孔子が唱えた『學而時習之』を、現代の組織運営に再発見した人物と言えないだろうか。『マネジメント』の根本概念は何かと問われると、『顧客の創造』をあげることもできようが、私は『フィードバック』こそがドラッカー経営学の最重要概念だと考えている。」(同上、p46)
フードバックに基づく行動や認知の変容
これが学びの本質であると、ドラッカー=論語=安冨論は語る。自分の中に取り込んだ「入力」によって、以前の自分とどんな違い(=「出力」)が生じたのかを理解するというフィードバック。これは、自らの学習回路を開き、「自分が何を知らなかったか・わかっていなかったか・出来ていなかったか」を理解するプロセスである。このメタ認知がないと、どう変わるべきか、の具体的戦略が描けない。そして、その前提として、自分の未熟な部分も含めて、まず「あるがまま」の等身大を受け入れる必要があるのだ。
卑近な例だが、昨日まで韓国の国際学会に出かけてきた。社会起業家精神という言葉がここ数年の研究上のキーワードであり、それを深く学べそうな学会で、様々な発表を聞き、僕自身も発表してみた。アウェーな領域で、海外の学会。当然、誰も知り合いはいない。かなり緊張もしたし、準備も相当大変だった(何せこの1ヶ月で3つの学会発表のフルペーパーづくりに追われていた)。でも、そういう新たな場に身を置いて、アジア各国の研究者の発表を聞いたり、そこで知り合った日本人研究者と飲みながら議論している中で、「自分が何を知らないか・気付いていないか」に気づく事ができた。
英語がうまくしゃべれない。きちんと聞き取れない部分もある。フレンドリーに英語で話しかけるのが苦手だ。ディスカッションの輪の中に入りにくい自分がいる。懇親会ではやっぱり「壁の花」になりそうだ・・・。そういう苦々しい思いは、4年前の国際学会の時からあまり変わっていない。そういえば、そのトルコの学会発表の後の4年間は、障がい者制度改革推進会議と二冊の単著執筆に忙殺され、国際学会から遠ざかっていた。
ただ、4年前より少し成長しているのは、様々な「出来ない」「わからない」事に関して、そういうストレスフルな自分をありのまま受け入れようとし始めたこと。英語でアウェーな情報が渦巻く環境の中でも、②に巻き込まれる前に、①を少しは自覚していたこと。そうは言っても、憧れや自己嫌悪がもたげそうになったけれど、でも何とかフィードバックに基づく学習モードを維持できたこと。だからこそ、「己のわからなさ」を自覚した上で、「他人の伝えたいこと」から学び、自らの学習=変容課題に少しは気づけたこと。これが最大の収穫。その中で、住民主体型のcommunity developmentが、僕のここ最近の仕事を包含するキーワードであることを再確認できた。このフィードバックは、自分の次の学びの目標を定める上で、凄く大きな収穫であり、成果である、と感じている。
そういうフィードバックに基づく学習こそ、「学びの本質」である、と改めて安冨先生の本から学ばせて頂いた。新たな学びを忘れないうちに、備忘録的に書き記しておく。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。