手綱を緩め、場に任せる

そのことに気付けたのは、僕にとっては、決して小さくはない変化である。
 
福祉分野の研修を依頼されることが、少なくない。現場職員のスキルアップの研修を、沢山引き受けてきた。
研修の場で、これまでの僕は、その場をうまく収めることを意識していた。僕はなるべくいろんな人に発言を求めるのだけれど、その話を聞きながら、全体の流れの中に入れ込むことを常に意識していた。時として、想定外のボールがくると、たじたじになったり、あるいはお恥ずかしい話だけれど感情的になることだって、あった。そうして、必死になってハンドリングして、何とか一定レベルの研修の場を作ろうとしてきた。だから、一日研修の終わりは、たいがいグッタリしていた。
場のコントロールに必死になり、手綱をしっかりと握り、とにかく一日が終わるまで、ハイテンションだった。「元気を貰いました」なんて言ってもらえるのを喜んでいたけれど、それだけ「気」を使い、僕自身の生きるエネルギーというか、僕の気の流れは悪くなっていった。ここ数年、漢方治療に取り組んでいるが、一番最初に主治医に言われたのが、「気の巡りが悪い」ということ。つまり、文字通り「身を削って」研修していた。「もう少し、講演も研修もリラックスしたら?」とアドバイスされるのだけれど、せっかく話を聞いてもらえるチャンスなのだから、とどうしても必死になり、入れ込んだ話になっていた。
でも、昨日の研修現場では、ふと、手放してみたくなった。無理して発言をハンドリングするのではなく、その場の力を信じてみようと思った。全体討論の中である人から提起された、少し想定外なボール。「これに対して、誰か応えられる人はいませんか?」と、場全体に問いかけてみた。すると、ちゃんと応えてくれる人がいる。僕がアヤシイとってつけた発言をしなくとも、現場のリアリティに基づきながら「私なら、こうする」と言ってくれる人がいる。そこに、僕が合いの手を挟みながら展開すると、無理なく自然に落ち着くべきところに収束していく。
これまで、収めることばかりを意識化して、もしかしたら場全体の力を信じていなかったのかもしれない。いや、僕自身が場全体の力を信じ切れるほどの力量がなかったのかもしれない。でも、ふと、手放してみたら、場全体の物語が進行し始めた。そして、その場全体の物語の傍観者になっているほうが、随分と実りが豊かで、面白かった。そうなってみて初めて気づいたのだが、これまでは僕自身の物語に場を押し込んでいたのかもしれない。だからこそ、必死になって手綱を握りしめ、ぐいぐいと押し込んでいくことしか出来なかった。だから、研修の感想には、「面白かった」「元気を貰った」という感想と共に、「少し強引な展開に思えた」というのも、時として混じっていたのだ。
昨日の研修では、特に全体討論の時間で、場全体にバトンを託してみた。すると、僕が言及しておきたかった事が、どんどん会場内の発言から出てくる。僕は、それに対してポジティブな評価をしていくだけで、するすると進んでいく。参加者たちも、大学教員のきれいごと、ではなく、会場内の同業の研修仲間から出てきた迫力ある発言ゆえに、学びが多い。みんな興味深く話に聞き入り、メモを取り続けている。単なる双方向の空間を超えた、濃密な学び合いの空間が、気付いたら構築されつつあった。何気なくマイクを差し出した相手が、前の発言者の話を受けて議論を展開するシンクロニシティが、何度も起こっていた。僕は、マイクを持って歩きながら、その場全体の流れの展開の面白さに、ある種、くぎ付けになっていた。そんなライブだからこそ、終わった後は、心地よい疲れ、だった。いつものようなグッタリとした感覚は、全くなかった。
実は、僕自身が、研修のリーダーシップをとることに、これまで必死になっていたのかもしれない。でも、僕に求められる役割は、ファシリテーション。参加者がもともと持っている経験値や潜在的な可能性をうまく引き出し、別の角度から再検討し、新たな可能性を見出す支援。リーダーからファシリテーターへの変革は、支援者だけでなく、僕にも不可欠。1年前にブログで整理していたことは、支援者の変容課題だけでなく、僕の変容課題でもあったのだ。
昨日感じた解放感とは、無理にリーダーシップを取らなくてもよい、ということの解放感だった。取るべき責任と、取れるはずのない責任。それを見間違うと、自分がしょいきれない重荷を抱え込み、不全感を抱く。思えば大学教員になって、研修や講演の場で、必死になって求められることに応えようとしてきた9年間は、そんな背伸びばかりする、力みまくりの日々だった。
ここ5年くらい稽古に励んでいる合気道につなげて考えるなら、力づくの技が、一番ダメだといわれる。相手の身体のエネルギーや動きたい方向性を邪魔せずに、かえってその動きを活かしながら、その力も活用しながらこちらの技を導いていく。すると、小さなエネルギーでも、簡単に相手の動きを変え、こちらと一体になり、相手を崩すことが可能になる。
研修で必死に手綱を握りしめていた僕は、合気道の練習で体ががちがちになり、とにかく技を決めることに必死だった時代を思い起こさせる。有段者の兄弟子たちは逆に、しっかりとしたぶれない筋を持ちながら、柔軟に、こちらの力量を見極めながら、こちらの技にあった展開をしながら、うまく導いてくださる。これも、一つのファシリテーション。大切なのは、相手の動きをしっかりみて、その動きに合わせながらこちらの出力や方向性を変えていく柔軟性。でも、技を決めることに関しては、ぶれない一貫性をもちづける。この二つの絡み合ったファシリテーション。
一貫性にばかり目を向け、必死になっていた僕も、ようやく場全体の力を信じ、その場に身をゆだね、そのエネルギーにそった展開に歩みだす柔軟性を、少しはもち始めたのかも、しれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。