残念な読後感

読み終わった後、これほど「残念」さを持つ本に、最近あまり出逢わなかった。というか、テーマが違ったら、決して最後まで読み通せなかっただろう一冊がある。

「調査を進めながら、私は一度も自ら『研究の中立性』を主張したことはない。決して『中立的な』研究はないし、福祉推進派にも福祉見直し派にも属さない自らの立場があると思った。ただし、立場が異なる人々が存在するなかで、対象が偏るとバイアスが生じる恐れがあることは自覚していた。こうした私の立場は、『研究の中立性』を求める人々にも、過去の福祉政策が正しかったと確信している人々にも理解されることは難しかった。私は、調査対象の偏りを避けること、また調査結果から得られた知見を忠実に記録すること、決して『結論ありき』の調査はしないことだけは約束した。実際の研究結果が、福祉推進派の期待も福祉見直し派の期待も『見事に裏切る』ことができること、これこそが私の目標であった。」(『地方自治体の福祉ガバナンス-「日本一の福祉」を目指した秋田県鷹巣町の20年』朴姫淑著、ミネルヴァ書房、p15-16)
この著者の博論に基づく一冊は、確かに読者の1人である僕の「期待も見事に裏切る」内容であった。しかも、それが残念な形で。
ただ、急ぎ付け加えておくが、僕自身も、「中立的な」読者ではない。僕の師匠は、この本曰く、「早い時期から鷹巣町の福祉政策において、距離を置いた外部支援者というよりも、当事者に化してしまった」(p79)大熊一夫氏である。僕自身、師匠に同行させて頂き、何度か鷹巣のケアタウンなどに見学にお邪魔した事がある。明らかに、この本のカテゴライズで言うところの「福祉推進派」のバイアスがかかっている。(ちなみに、鷹巣福祉のことをネットで知るには、この本曰く、福祉推進派の「外部支援者」である大熊由紀子さんのHPに色々掲載されています)
その一方で、なぜ鷹巣福祉が2000年代以後、急速に凋落していったのか、そのわけを切実に知りたい、と思う読者の1人でもあった。その顛末は、いくつかの師匠の本にも書かれている。だが、「福祉見直し派」の内在的論理も知りたい、と思って、この本を手に取った。師匠が福祉推進派の「当事者に化した」と評されるなら、外部研究者という「非当事者」が「自らの立場」で、福祉推進派・見直し派の双方の中心人物に長時間インタビューした記録は、師匠とは違う切り口で、鷹巣福祉の変遷の本質を描き出してくれるかも知れない。それが、7000円を超える高額な本を購入した最大の理由だった。だが、結果は、「残念」の一言であった。
何が「残念」だったのか。それを説明するために、著者の次の表記が手がかりになる。
「私が鷹巣町で目撃したのは、誰かがつくり上げたものを、誰かが根源から破壊することであった。その破壊力はどこから来るのだろうか。その力は必ずしも利害関係でもない。いつか深く傷つけられた記憶が、その政策を破壊する原動力になっている場合もある。福祉政策を批判した人々は、これまでの鷹巣町の福祉政策の成果を自分たちのものだとは思わなかった。『我々の福祉』ではなく、デンマーク型福祉に憧れた政治家や外部支援者、一部の住民によってつくられた『あなたたちの福祉』だと思った。その破壊する力には、長い間の恨みや嫉妬が含まれていた。福祉政策を批判する人々は、これまでの福祉政策をつくり上げた人々の独善と放漫を厳しく批判した。『日本一の福祉』政策を実現することは、政策に反対する人々からすると、自分たちが否定される過程でもあった。」(同上、p342)
これは、事実かどうかはは判断が不能である。ただ、「福祉見直派」の心情や内在的論理が、割としっかりと把握されている記載であると感じた。「福祉見直し派」とカテゴライズされる人は、「鷹巣町の福祉政策」に関してこんな風に見ていたのか、という事を、鷹巣町に通っていた大学院生時代の僕は知らなかった。そういう「見直し派」の内在的論理を、丁寧な聞き取りで描き出したのは、「知らなかった事を知れた」、という思いがある。
ただ、このような「恨みや嫉妬」という「深く傷つけられた記憶」に関して、正直に申し上げて、著者は「不用意」に聞いてしまったのではなかったか。それゆえに、この「恨みや嫉妬」という感情を、そのままこの本の中に投影してしまった。それが、この本を読むのが途中で苦しくなった、最大の理由である。「恨みや嫉妬」を、研究者の視点で解毒すること無く、そのまま書き示す。この著者がとった方法論は、僕は良しとしない。なぜなら、それは結果的に「恨みや嫉妬」の感情を反復させることであり、その反復によって、そのマイナスの悪循環は、治まるどころか、高速度回転する可能性がある。そう、以前のブログで引いた、アーリの発言のように。
「反復によって、『局所的』な変化で最も小さいものが、無数のたび重なる行動を通じて、予想外の、予想不可能でカオス的な帰結をもたらし、そして時としてエージェントが、自らがもたらそうとしていたものとは正反対のものを生み出すことになる。」(『グローバルな複雑性』ジョン・アーリ著、法政大学出版会、p71)
鷹巣町の政争の「推進派」「見直し派」の主要人物にインタビューした著者が解明すべきだったのは、この「推進派」と「見直し派」が、どのような「反復」を繰り返すことによって、「予測不可能でカオス的な帰結」をもたらしたのか、それが両派の「もたらそうとしていたもの」と、どのような「正反対のものを生み出すこと」になったのか、という、その悪循環の構造の解明ではなかったか。著者も、結論部分で次のように語っている。
「結果的に、福祉政策を進めるなかで、ますます住民が分断されてしまうことが非常に残念に思われた。人々を和解させ、連帯させるのではなく、人々を分断させ、敵対させるとはいったい何なのか。」(朴、p343)
これは、「推進派」「見直し派」双方が、実は深く感じていた疑問であり、いらだちであった、と想像出来る。だからこそ、どちらの「味方」にも属していない、第三者であるこの著者に、これだけ沢山の人が自分の思いを語ったのではないか。そして、その際、著者に期待されていたのは、「人々を分断させ、敵対させる」現状をどうしたら回避できるのか。旧鷹巣町の「人々を和解させ、連帯させる」ためにはどうすればよいのか、という筆者なりの処方箋ではなかったか? そして、そういう期待をこそ、この本は「見事に裏切る」ことになった。
確かに研究者には、研究の自由が保障されている。僕は他の研究者の「研究の自由」を毀損するつもりはない。だが、この事例は、猛烈な「破壊力」を前に、「推進派」「見直し派」の双方の、多数の人々が「深く傷つけられた記憶」を辿る研究である。流された血の跡にようやく出来た瘡蓋を見せて下さい、と頼むインタビューである。そこには、他方に傷つけられた「痛み」や「苦しみ」が、つよく作用している。そのような「生々しい感情」は、話す側にも、聞く側にも、蔓延しやすい、毒性化しうるものである。だからこそ、ふぐを調理するように、発言からきちんと毒を腑分けする能力や、その毒に感化されないセンサーが必要だった。だが、この本全体を通じて、様々な立場の「毒」をそのまま記載することにより、両者の「深く傷つけられた記憶」そのものを「反復」してしまっている。これでは、「分断」や「敵対」を加速させる効果はあっても、「和解させ、連帯させる」ヒントをこの本からは得られないのではないか。それが、一読者の感じた、素朴な疑問である。
筆者は「両者の間には、コミュニケーション自体が成り立たない深い溝があった」(p17)という。その両者と「コミュニケーション」できた著者だからこそ、その「深い溝」という悪循環の構造を解き明かし、「和解」や「連帯」に向けた、好循環の可能性を探るべきではなかったか。それが、著者のタイトルにある「福祉ガバナンス」の可能性ではないのか。その可能性を追うのではなく、多くの人々のあまりにも生々しい感情的な発言を「そのまま」掲載することによって、「恨みや嫉妬」、「深く傷つけられた記憶」といった「破壊力」を「鎮魂」するのではなく、むしろ「反復」する結果にはならなかったか。
「実を言うと、鷹巣町の人々がすべての問題を『政治家のせい』にしたり、すべての結果を『政治が変わったから=町長が変わったから』のように説明することに対して、私は強い違和感を覚えた。(略) そうした態度では、相手に対する批判だけあり、自分自身に対する反省はないように思われた。」(p18)
鷹栖町の人々が「相手に対する批判だけ」に終始するのは、20年以上にわたって蓄積された「深い溝」ゆえである。だからこそ、ある種の「感情癒着状態」から抜け出せず、その「破壊力」を制御できず、苦しんでいる。両者への聞き取りを通じ、筆者はそのことを充分に知っているはずである。なのに、「自分自身に対する反省はないように思われた」と、ある種”クール”に指摘してみせる。だが、インタビューに応じた語り手たちが求めているのは、「反省のなさ」に対する批評ではない。両者が抜け出せない悪循環構造をこそクールに分析し、「和解」や「連帯」という「福祉ガバナンス」実現にむけた鍵や好循環の可能性を検討することではなかっただろうか。
僕が読後に感じた「虚しさ」は、このあたりに渦巻いている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。