ファシリテーターという「御用聞き」

イギリスのコミュニティ・ワークの定番教科書に、ある中国の名言として、こんなフレーズが出てきた。

‘When excellent leaders have been at work, the people say “We did it ourselves.” ‘
直訳すれば、「ある優れたリーダーが事をなし終えたとき、住民たちは『それは自分たちがやった』と言うだろう」
出典は書かれていないが、これは言わずと知れた老子のフレーズである。久しぶりに昔読んだ解釈書をめくって当該箇所に行き当たる。
「最上の指導者は誰れも知らない。
(略)
仕事が行われ、事業がなしとげられたとき、
それはひとりでにそうなったのだと人びとは言うだろう。」
(老子 第17章「最上の指導者」 張鍾元『老子の思想』講談社学術文庫、p112)
「ひとりでにそうなった」と「自分たちがやった」とは、東洋と西洋での大きな解釈の違いだ。だが、ここではそれを強調したいのではない。大切なのは、事が成し遂げられたとき、その成果がリーダーに帰するのではなく、ひとりでにそうなった・あるいは自分たちの手で成し遂げた、と住民たちが感じるということである。この際、リーダーは一体何を成し遂げたのだろうか。そのヒントは、リーダーの力を借りながらも、住民たちが、自分たちの力で事を成し遂げ、その成果も自明のもの・自分たち自身のものである、と感じていることにある。実際には、リーダーの支援があったから、事が成し遂げられた。にも関わらず、それを自明のもの・自分自身の成果、と感じている。老子を引用した著者は、そのような存在を、’local leader’はなく、’facilitator’, ‘enabler’と表現する。「地域のリーダー」ではなく、「ファシリテーター・可能にする人」である。これは一体どういうことか?
この本の主題は、コミュニティ・ワークである。地域を活性化させる、住民たちがより良い暮らしを実現する為に、自発的な住民活動を行うことを活性化・支援することを主題としている。また、貧困層や障害者、子どもなど社会的弱者のエンパワメントと、コミュニティの中での生活改善・自発的な活動の促進を促す仕事として、コミュニティ・ワークを規定している。その時、コミュニティ・ワークを行うソーシャルワーカー(CSW)は、「地域のリーダー」ではなく、「ファシリテーター・可能にする人」であるべきだ、と言っているのだ。
もう少し現実に即して考えてみよう。
高齢者の地域包括ケアシステムや障害者の地域自立支援協議会などの、「地域福祉の(再)活性化」が国でも称揚され、専門職種の国家試験でも「地域福祉」に焦点が当てられ、アカデミズムでも議論が盛んだ。少子高齢化が進み、社会保障費が膨らむ中で、いつまでも全てのサービスを行政によって提供するわけにはいかない。地域で出来ることは地域で、と、社会保障制度改革国民会議の最終報告書でも、要支援を介護保険サービスから外し、住民たちのボランティアを活用しようと方向転換を考えている。
「要支援者に対する介護予防給付について、市町村が地域の実情に応じ、住民主体の取組等を積極的に活用しながら柔軟かつ効率的にサービスを提供できるよう、受け皿を確保しながら新たな地域包括推進事業(仮称)段階的に移行させていくべきである。 」
これに関する解説記事は、次のように伝えている。
「市町村独自の事業では、市町村の判断でボランティアやNPOを活用するなどして、地域の実情に応じて柔軟な取り組みができるようにしています。ボランティアなどを活用することで費用を抑えるとともに、きめ細かい生活支援が提供できるとしています。」
これは、現在介護保険事業として行っている、要支援者へのサービスを、ボランティアやNPOの活動に切り替える事で、「費用を抑える」ことを目的にしている。下手をすれば、ボランティア動員論にも繋がる。地域福祉は、常にこのような「ボランティア動員論」の危険性を孕んでいる点を忘れてはいけない。(このことは以前にブログでも書いた)
で、僕が今回書きたいのは、この国が主導する、介護保険の費用抑制の為の「動員型ボランティア」のことではない。動員型であれば、あくまでも動員主体である行政が、「地域のリーダー」として、表面上は「お願い」という形を取っても、実質的には国の意向を上意下達するトップダウン的に住民を「動員」する構図である。だが、僕はこの「動員」型が21世紀の時代、上手くいくわけない、と思っている。ただでさえ、動員型半強制コミュニティである町内会・自治会、PTA活動などは、その曲がり角に来ている。それと同様の手法を、要支援の介護サービスに創設したって、うまくいくはずがない。
その理由は、動員型半強制コミュニティは、人びとの「納得」ではなく、一方的「説得」の論理で動いているからである。多くの人は、強圧的な「説得」では動かない。
もし、住民の「納得」に基づいて地域福祉を展開しようと考えるなら、そこで求められるのは、トップダウン的(=説得的)な「ローカル・リーダー」ではなく、対話的なファシリテーターなのである。
地域支援を行う存在として、保健師や社会福祉士、ケアマネージャーなどの存在がいる。地域包括支援センターや基幹相談支援センターなどが、地域作りの拠点として期待されている。また近年、社会福祉協議会がコミュニティー・ソーシャルワーカーを置いて、住民活動の組織化支援を行っているところもある。だが、それらの組織・人材が、地域福祉のリーダー的な動きを果たしている限り、行政や社協が描く「あるべき姿」に近づけるために住民を「活用する」という意味で、あくまでも「ボランティア動員論」に繋がりかねない。
一方、先のイギリスの本に戻れば、本来のコミュニティ・ワークとは、「ボランティア動員論」ではなく、「住民たちがより良い暮らしを実現する為に、自発的な住民活動を行うことを活性化・支援すること」である。一方的な「説得」ではなく、住民の「納得」に基づく「自発的な住民活動」の活性化支援に必要なことは何か。それは、国や自治体が「あるべき姿」を一方的に規定するのではなく、あくまでも「住民の声」に基づいて「あるべき姿」をかんがえる、ということである。言い換えれば、国や自治体の「あるべき姿」を住民に教育・指導するのではなく、あくまでも住民の声に「御用聞き」として耳を傾ける、ということである。
ようやっと表題の、ファシリテーターという「御用聞き」、という部分に繋がってきた。
ファシリテーターとは、触媒役である。住民たちが、自分たちが安心して地域の中で住み続けるために、様々な課題や問題を意識化する。その意識化支援を行いながら、自分たちなら何が出来るか、を考え、実践していく支援である。その前段階として、まず住民の様々な本音に耳を傾け、その中から地域課題を析出するお手伝いをする。行政側の「あるべき姿」を指導・教育する、という一方的、「説得的」視点ではなく、住民活動につながる「本音」を探り出し、その中から住民自らが活動化・組織化できることを一緒に探る、という「対話的」姿勢。それが、ファシリテーターという「御用聞き」に求められている課題なのである。
いま、日本のCSWは、どちらの姿勢を向いているのだろうか?
国や行政の「御用聞き」ばかりしていないだろうか? 住民の率直な本音にこそ、じっくり向き合っているだろうか?
国が「住民主体の取組等を積極的に活用しながら」というとき、そこには「ボランティア動員論」という問題に突き当たる可能性は、多分にある。ゆえに、実際に「住民主体の取組」を支援する専門家こそ、専門家主導で住民を「教育」「説得」する専門家なのか、当事者主体で住民の「御用聞き」をするプロセスを通じて住民の「納得」に基づく自発的活動を促す専門家なのか、という立ち位置が問われているのだ。
「ある優れたリーダーが事をなし終えたとき、住民たちは『それは自分たちがやった』と言うだろう」
この発言は、「説得」ではなく、「納得」からしか、生まれな

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。