ルチャ・リブロの青木ご夫妻と、現代書館の編集者向山さんの4人で、「生きるためのファンタジーの会」を続けている。(その経緯は以前のブログにも書いた)
今回の課題図書は、ファンタジーの代表作とも言えるミヒャエル・エンデの『モモ』(岩波書店)。鉄板中の鉄板で、僕も持っていたし、読んだつもり、になっていた。でも、今回読み直して、以前はちゃんと読めていなかったのではないか、と疑うほど、内容は覚えていなかった。でもいまの僕には深く突き刺さった。
モモは実はダイアローグの名手である。
「小さなモモにできたこと、それはほかでありません。あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能を持っていたのです。
モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモはそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したり、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくるのです。」(p23)
冒頭に出てくるこの部分が、僕は好きだ。そして、深く頷く部分でもある。
「話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。」
話を聞くことは、簡単なことではない。それは聞いているうちに、ついつい聞いているこちら側が、他のことを考えたり、聞いているうちに心に浮かんだことを言いたくてうずうずしたり、としているうちに、「注意ぶかく聞く」ことが疎かになるのだ。ゆっくりと時間をかけて、相手の話を遮らずに、最期まで聞く。しかも、その間、相手に心身を集中する。それは簡単ではない。でも、もしそれが出来ると、相手は自分の話だけでなく、存在そのものも受け止めてもらったと安心する。だからこそ、「あいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくる」のだ。
そんな貴重な存在が街の噂になり、「モモのところに行ってごらん」と口々に唱えるようになった。だからこそ、彼女は色々な人から食べ物を提供され、満足した生活を送れていた。時間泥棒の灰色の紳士たちがやってくるまでは。
この灰色の紳士たちは、人々に、生産性や効率性の概念を植え付ける。もっと時間を効率的に使い、短時間でできる限り労働生産性を上げ、無駄なことをするな、という考え方である。そして、モモのところにってじっくり話を聞いてもらう、というのは、金銭的価値を生み出さない、という意味で、無駄なこととカウントされる。
この時間泥棒が植え付けた概念は以下の通りだった。
「時間節約こそ幸福への道!
あるいは
時間節約をしてこそ未来がある!
あるいは
君の生活を豊かにするために—時間を節約しよう
けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。もちろん、『モモのところに行ってごらん!』ということばを知りません。」(p103)
「時間節約こそ幸福への道」という標語は、ぼく自身の中でも深く内面化していたものである。効率的に働くために、出張中の電車内でもノートPCをカタカタ打ち続け、todoリストを徹底的に潰しながら、原稿をできる限り早く書こうとあくせくしてきた。でも、そうやって時間節約に必死になっていた時は、「ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つき」だったと思う。そして、多分その時代に『モモ』を手に取ったとしても、内容を理解出来なくて、というか、その内容を理解することが己への批判になりそうで恐ろしくて、本質的な理解を拒んでいたのだと思う。もちろん、その当時の僕は「『モモのところに行ってごらん!』ということばを知りません」し、モモのメッセージにも耳を傾けられなかった。
そんな時間泥棒の虜になっていたぼく自身だが、モモが読めるようになったのは、多分二つの契機がある。一つは2017年に受けたダイアローグの集中研修であり、もう一つが同じ年に生まれた娘の存在だ。
2017年にオープンダイアローグの集中研修を受け、対話の認識が文字通り変わった。それまで、相手が話す前に自分が話をしようとしたし、相手が話をしている間も、次の展開をどうすれば良いのか、を必死に考えていた。良い聞き手、ではなかった。インタビュー調査もしていたけど、相手を誘導することもあったかもしれないし、相手により良く評価してもらおうと気の利いたコメントをしていたのかもしれない。とにかく、我が我が、という部分があって、注意深く聞くことが出来ていなかった。
でも、オープンダイアローグの研修で教わったことは、モモが地でいくことである。先入観や専門知識を横において、ただただ相手の話を最期まで遮らずに聞くこと。そして、聞いた内容が合っているか、きちんと相手に確認すること。それに対してコメントや意見をしたくなったら、「いま・ここ」で心に浮かんだことに限定して、相手に確認を取ってから、短めに場に差し出してみること。そうやっていくと、相手の差し出した音と己の音が、一つの音として調和するのではなく、違う音として響き合うポリフォニーが生まれる。すると、そのポリフォニーのあとで、お互いの他者の他者性がよりクリアに理解出来るようになる、というのだ。すると気がつけば、「じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくるのです」という経験を、ぼく自身も何度もしている。
これは1:1の対話に限らない。ゼミであっても、オンラインの研修打ち合わせであっても、授業の場であっても、「ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけ」で、物事が動き出し、無理にまとめようとしなくても、自ずからまとまっていく経験を積み重ねてきた。
でも、このじっと聴き続ける、というのは、時間泥棒の敵である。相手が何を話してくれるのか、は予想不可能という意味で、不確実性が高い。一見すると、生産性に乏しかったり、リスクが高まるようにも思える。でも、ここでいう生産性やリスク管理とは、昨日うまくいったやり方の延長線上での今日という意味で、前例踏襲的な生産性・リスク管理である。そこにはまり込むことが「時間泥棒」と言われているのは、ある種の無時間モデルというか、時間的な変化を考慮に入れず、同じことを、同じように繰り返す、という意味で、標準化・規格化された生き方に縮減することだからである。その反復強迫を「世の中こういうもんだ」「どうせいっても仕方ない」と鵜呑みにするからこそ、生産性と効率性は上がり、その分の生きがいのようなものも、時間泥棒に奪われていく。
一方、そういう灰色の世の中に対して、モモは決然とNOを言う。安易に従おうとしないし、人々の生の実存や喜びをじっくり分かち合いたいと願う。そういう、ある種の「前近代性」というか時間の呪いから自由だからこそ、彼女は時間の国のマイスター・ホラと出会い、時間泥棒たちとの命がけの闘いに向かうことが出来たのだ。
10歳くらいの読者には、そのモモの問いかけを、ストレートに受け止める器量があるのだろう。でもこの本を最初に買い求めたのは、奥付から想像すると1996年なので大学生のころ。すっかり僕は能力主義の虜だった。大学院生の頃とか、社会人になって、何度か読もうと思ったが、そういえば挫折していたのだと、改めて思い出した。
そんな僕がモモを読める主体に変化したもう一つの理由が、僕にとっては子育てだ。特に子どもが小さかった頃、子どもの全存在と向き合う日々で、家事育児に必死になっていたら、時間泥棒の入る隙間がない。その当時は「戦線離脱」と思い込んでいたけど、今となっては、「時間節約家」としての戦線離脱だったのかもしれない。そう考えたら、これは名誉な撤退ではないか!と改めて気づくことが出来た。
ただ、あまり書きすぎると、オムラヂの収録で話すことがなくなるので、今日はここまで。『モモ』を巡る対談の収録も楽しみだ。