前回のブログで資本主義を問い直す本を取り上げたが、たまたまそれと関連する、別の切り口の本を読んだ。実は資本主義ががっちりと組み込まれる以前のヨーロッパでは、今で言う「怠ける」は「楽しむ」というラベルが貼られていた、というのである。
「革命期の農民たちは、実業家から見れば不規則で身勝手なリズムに従って働いていた。労働時間は天候や季節、祭りや祝祭日に左右された。生活は充足と欲求を軸とし、必要なだけ働くと、残りの時間はダンスをしたり、談笑したり、ビールを飲んだり、とにかく『楽しむ』ことに費やした。(略)
しかし、1500年代の支配階級にとっては問題だった。支配階級は農民の祭りを苦々しく思い、彼らの『勝手気ままな行動と自由』を非難した。農民の生活様式は、資本を蓄積するために必要な労働とは両立しない。必要を満たすだけの労働では到底足りない。労働は生活のすべてになる必要があった。囲い込みはこの問題をある程度解決し、農民は飢餓を恐れて互いと競い合うようになった。だが、それだけでは足りなかった。囲い込みの結果、ヨーロッパには『貧民』と『浮浪者』があふれた。土地を追われ仕事を失った人々や、新たに誕生した資本主義的な農場や工場の過酷な環境で働くことを拒否した人々だ。彼らは物乞いや行商としたり、食べ物を盗んだりして、生き延びた。
この状況はおよそ3世紀にわたって、ヨーロッパ諸国の政府を悩ませた。増える一方の下層階級が政治的脅威になるのでは、という支配階級の恐れを和らげるために、国は労働を強制する法律を導入しはじめた。1531年、イングランド王ヘンリー8世は最初の『浮浪者取締法』を制定し、『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』と呼び、浮浪者を拘束し、鞭打ち、強制的に『労働に従事』させることにした」(ジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』東洋経済新報社、p78-79)
真面目に仕事をせずに、サボること、怠けることはダメなことだ。これを僕は50手前まで、ごく当たり前のように受け入れていた。ただ、四半世紀くらい、精神障害のある人の暮らしを考えてきたので、真面目に仕事をし過ぎて病気になる人のことも知っていた。だからこそ、「安心してサボれる職場づくり」を大切にするべてるの家の理念も大切だと思っていた。でも、自分自身はどうか、と言われると、生産性至上主義や能力主義を深くふかく内面化していて、なかなかサボれないし、予定をガンガン詰め込むし、そして季節の変わり目には身体が悲鳴を上げて風邪を引くし、ということを繰り返してきた。そして、このような働き方を、僕はこれまで「自分自身で選んできた」と思い込んでいたけれど、資本家が求める価値観に自発的に奴隷のように従う「自発的隷従」状態だったのだ、と、この文章を読んでいて、改めて気づかされてしまう。
姫路に引っ越してきてびっくりするのは、秋祭りや御神輿をガッツリ未だに継承しているのである。うちの校区はそれでも日曜日にしてくれるが、喧嘩祭で有名な飾磨に行くと、開催日は今でも日にちが決まっていて、平日なら、学校も休みになる、という。それを、ぼく自身は正直に言えば、「そんなしがらみはかなんなぁ」と思って、遠巻きに眺めていた。だが、ヒッケルさんのこの部分に当てはめるなら、秋祭りのために仕事を休むというのは、「必要なだけ働くと、残りの時間はダンスをしたり、談笑したり、ビールを飲んだり、とにかく『楽しむ』ことに費や」す論理そのものなのだ。そして、それに距離を置いて、面倒くさいなぁ、と思っているぼく自身は、「農民の祭りを苦々しく思い、彼らの『勝手気ままな行動と自由』を非難」する支配階級の目線を内在化している。しかも、僕は支配階級ではない、大学教員という一労働者である。にもかかわらず、支配階級の論理を無自覚無意識に内面化し、お祭りのために休みをとるのを、遠巻きに眺めている時点で、全然楽しめていないのである。
それは「飢餓を恐れて互いと競い合うようになった」、つまりは「労働は生活のすべてにな」った人の論理である。仕事をもっともっとと詰め込んでしまう時点で、「必要を満たすだけの労働では到底足りない」と思い込んでいる。しかもそれは、資本家の本源的蓄積に手を貸しているのである。「『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』」とする認識を自分自身も持っていた。だが、それは、支配者がアンコントローラブルな労働者を支配するための、支配枠組みである。それを深く内面化している、というのは、「望ましい被支配者」という「体制や世間にとって『都合のよい子』」に見事になっていたのである。あな、恐ろしや!
そして、この本はある種の人々を恐ろしがらせる提案をしている。経済成長やGDPの増大は、資本主義を発展させるためには必要だが、気候変動の抑止や人間的な生活には真逆の影響を与えている。だから、「脱成長」が必要だ、というのだ。この主張だけで、かなりしかめっ面の顔をしている人もいそうだ。具体的にそれをいくつかのステップで示している。
ステップ1—計画的陳腐化を終わらせる(p212)
Appleの成長戦略は「1,使い始めてから数年経つと、動作が遅すぎて役に立たなくなる。2,修理は不可能か、あり得ないほど高額。3,広告キャンペーンによって、自分が使っている製品は時代遅れだと人々に思わせる」という三つなら成り立っているという。確かにその通りだ。プリンターや他の電化製品でも、壊れても修理代が高いから、新機種を買った方がよい、というのがこの10年ほどの当たり前になっている。でも、それは「計画的陳腐化」だと筆者は指摘する。
「計画的陳腐化は、意図的な非効率の典型である。その非効率さは(奇妙なことに)利益の最大化という観点から見れば合理的だが、人間の欲求とエコロジーの観点から見れば、非合理的だ。」(p214)
毎年のように出る新製品をどんどん買い続けてくれた方が、儲けにつながる。だから、数年で壊れる製品をつくれば、売り上げがあがる。本来なら、故障しない製品とか、修理したら使い続けられる製品を作ることも出来るが、それでは売り上げと資本家の利益が向上しないので、計画的に壊れやすくつくる=陳腐化する、という論理に陥っているのである。それに対して筆者は「保証期間の延長を政府が義務づける」「修理する権利を保護する」ということを提案している。すると、現在の何倍も電化製糸品が長持ちし、消費量や物質の処理量は大幅に削減される、というのだ。たしかに。それ以外にも魅力的な提案をしている。
ステップ2—広告を減らす
ステップ3—所有権から使用権へ移行する
ステップ4—食品廃棄を終わらせる
ステップ5—生態系を破壊する産業を縮小する
これらを実現したら、仕事が減るではないか、とお怒りの方もいるだろう。著者はそれに対して、一人一人の労働時間の短縮を提案する。「フランスが週35時間労働制に移行した時、労働者は生活の質が向上した」(p226)とも報告している。その上で、以下のように述べている。
「労働時間短縮の最も重要な影響は、それによって人々がより多くの時間を『ケア』、すなわち、家族の看病、子どもとの遊び、森林の復元の手助けといったことに費やせるようになることだろう。この必要不可欠な労働は、通常、大半を女性が担っており、資本主義のもとでは無視されている。経済活動の外におかれ、無報酬で、目に見えず、GDPの数字にも反映されない。しかし脱成長すれば、労働力を本当に重要なこと—真に使用価値のあるもの—に再配分できるようになる。ケアは、社会とエコロジーの幸福に直接貢献する。ケアを行う事は、幸福感や意義の向上という点では、物質的な消費より強力であり、爆買いしている時のドーパミンよりはるかに強い幸福感をもたらす。」(p227)
この部分に深く頷く。夫婦とも週40時間働いて、毎日残業を2,3時間していたら、50時間近い労働時間になる。それで、子どもを育てるのは、かなりしんどい。「保育園落ちた、日本死ね」は2016年だったが、それから7年かけて、保育園の待機児童問題はかなり対策が進んだ。だが、最近では小学校の学童の待機児童問題が大きく取り上げられている。
基本的に、共働きには賛成だが、この流れに、僕はモヤモヤしている。労働時間がそもそも長すぎるから、学童の待機児童問題が発生する可能性はないか、と。
20年ほど前、スウェーデンに半年間在外研究でいた時、朝7時頃、学校に子どもを送っていくお父さん、お母さんをよく見かけた。そして、朝早くから仕事をするが、午後4時頃には皆さん仕事を切り上げて、子どもを迎えに行き、夕方を家で過ごしていた。つまり、男性も女性も当たり前のように働くが、お互いが週36時間労働で、仕事以外のケアの時間にも従事できる余裕があるのだ。
これは北欧に限った話ではない。同一賃金同一労働が徹底しているオランダでも、子どもが小さい間は、男性が週四日勤務、女性が週三日勤務、などと柔軟な働き方をしていて、労働時間を短縮することで、ゆっくり子どもに関われる、ということを、以前のブログでも書いたことがある。
それと対比すると、やっぱり日本人は働き過ぎ・働かせすぎだと改めて思う。そしてその論理は、「『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』と呼び、浮浪者を拘束し、鞭打ち、強制的に『労働に従事』させることにした」『浮浪者取締法』の内面化そのもの、なのだ。
でも、ぼく自身は子どもをケアするようになって、賃金が支払われず、GDPにも換算されない不払い労働であるケアの豊かさを感じている。それを「社会的再生産」という形で、生産労働の枠組みの中に組み込んでしまうことにも、疑問を持っている。ケア労働は、お金を生み出すという「交換価値」はない。利潤という「交換価値」を最も生み出すのは、デリバティブなどの投機の相場師だ。一方、人間の必要を満たす有用性としての「使用価値」(p91)は、ケアにおいては最大化される。資本主義が追求するのは「交換価値」であり、「使用価値」は「交換価値」を生み出すための付随物として、矮小化されている。でも、人間的な生き方とは、人間の必要を満たす有用性の中にも、すごく沢山含まれている。むしろ、そのような使用価値を提供して、その感謝というか、おこぼれとして交換価値としての対価をもらう、方が、働きがいがあるのだ。
AIやChatGPTによって、仕事が奪われる、だから必死になって仕事の争奪戦に参加し、夜中まで働き続けて弱肉強食をサバイブしようと考えるのか。仕事が自動化されるなら、徹底的にそれをみんなでシェアし、総労働時間を減らし、より多くの時間をケアという使用価値に費やせるように社会の仕組みを変えようとするのか。僕は後者のほうが、遙かに生きやすい世の中ではないか、と感じている。
長々と書いてきたので、最後二カ所ほど引用しておきたい。
「資本家は成長(私有財産)を産むためにコモンズ(公共の富)を囲い込んだ。かつては無料で利用できた資源が有料になり、人々はそれを利用するために、より多く働かなければならなくなった。しかし脱成長の経済を創出すれば、この方程式を逆転させることができる。コモンズを復活させるか、新たなコモンズを創生して、所得を増やす必要がないようにするのだ。コモンズは成長要求の解毒剤になる。」(p232)
「脱成長が意味するのは、土地と人々、さらにはわたしたちの心を脱植民地化することだ。また、コモンズの脱・囲い込み、公共財の脱・商品化、労働と生活の脱・強化、人間と自然の脱・モノ化、生態系危機の脱・激化をそれは意味する。脱成長は、より少なく取るというプロセスからはじまるが、最終的には、あらゆる可能性の扉を開くことになる。わたしたちを、希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへと進ませるのだ。」(p290)
一見すると夢物語が書かれているように思えるかもしれない。でも、自分自身の生活を見直したときに、労働時間をいかに減らし、自分や他者、自然へのケアの時間をどれだけ取り戻せるか、とか、自分が囲い込まずに、自分の時間や場所をいかに他者とシェア出来るか、を考えた方が、豊かに暮らせるように感じる。そして、そういう形で搾取と希少性の論理から距離を取り、馬車馬のように働く生き方とは違うあり方を模索するkとおで、互恵とか生命とのつながりを回復するのだと思う。
ぼくたちは、資本主義のために生きているのではない。経済もお金も、あくまでも手段だ。飽くなき交換価値に身も心も取り込まれるのではなく、使用価値が大切にされる世界を、自分や自分の大切な人々の間にどれだけ作り出せるか。これは、ぼく自身に問われている生き方の問い直しだし、やる価値のある社会実験だと思う。