年末の休みに、娘と一緒に映画『窓際のトットちゃん』を見に出かける。というか、Eテレ以外見ない我が家ではあの名作が映画版になったとは知らなかったのだが、実家の両親が「娘と見たら良いのでは?」と教えてくれたのだ。確かにうちの娘さんもエネルギー満タン娘なので、気に入ってくれたらいいな、と思って、母ちゃんが仕事の日の朝一番の映画館に出かけた。娘がほしかったポップコーンも頼んで。
で、見始めると、数十年前に何度か読んだトットちゃんの世界が、映像化されて一気によみがえる。と共に、最初の方のシーンで、おっさんは既に涙する。トットちゃんが、近所の小学校では「問題児」とされて、トモエ学園にやってきた最初の日、小林校長先生に会って、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」と言われ、延々としゃべり続ける。親は近所の喫茶店で、ハラハラしながら、娘の帰りを待ち続けるが、全然トットちゃんは帰ってこない。トットちゃんは最後まで話し終えたあと、それまでの勢いある調子とは異なり、ぼそっと一言、小林先生につぶやく。
「私は問題のある子なの?」
小林先生は、トットちゃんに答えてこう断言する。
「きみは本当はいい子なんだよ」
このシーンを思い出してブログに書いている僕も、またジーンとして涙を流しそうになる。トットちゃんは、好奇心や興味関心が人一倍で、それを抑えきれないほどのエネルギーがあった。だから、学校の校舎から乗り出してチンドン屋さんを呼び出したり、画用紙の枠をはみ出して塗り絵をしたり、机をバタンバタンさせたり、と、「公的な秩序」からはみ出している。真面目で40人の子どもを統制しようとする公立学校の先生にとっては、先生の秩序を乱す「問題のある子」として映る。そして、他の学校に行って下さい、と排除されるに至る。トットちゃんのことが大好きなお母さんも、娘のエネルギーの強さには手を焼き、次の学校で受け入れてもらえるか、ビクビクしている。
そのときに、小林先生は、トットちゃんやお母さんに色々学校のことを説明しなかった。ましてや、トットちゃんが前の学校を追い出された理由を詮索することなんてなかった。それよりも、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」とトットちゃんに伝えたのだ。
原作が世に出たのは1981年、その後数年以内に親が買ってきて、僕も何度も読んだので、40年前に読んで以来である。そのとき、小学生でよくわかっていなかったが、今、小学生の親を持ってみて、この時の情景がひときわ心に残る。トットちゃんの親は、トモエ学園でも受け入れて貰えなかったらどうしよう、と戦々恐々としていたはずだ。その一方、トットちゃんは学校を追い出されたことはわかっているし、大人が自分のことを「問題のある子」と見なしているのにも、気づいていて、悲しい思いをしている。でも、それ以上に、世界への好奇心は強く、気づきや発見、探検したいことなど、毎日が刺激に満ちている。しかも、トモエ学校では、電車の教室まであり、ワクワクが止まらない。そんな、うれしさも悲しさもハイパーに抱えているトットちゃんに、普通の教師は手を焼き、静かにしなさい・従いなさい・他の人と同じようにしなさい、と抑圧する。でも、小林先生は「さあ なんでも話してごらん」と呼びかけるのだ。
仕事柄、「問題行動」や「困難事例」に関わる事がある。そういう「困難事例を解きほぐす」プロセスのなかで見えてくるのは、大半の場合、本人ではなくて、周囲にとっての「困難」や「問題」である場合が多い、ということだ。さらに言えば、本人も悪気があってそうしているのではなく、そうせざるを得ないような内在的論理=他者の合理性があるのだ。その他者の合理性を理解することが、「問題」「困難」の構造を理解する上で、最も近道なのである。もちろん、そういう話をじっくり聞くのは、ものすごく時間がかかる。でも、手を抜かずに聞き続ける中で、相手の生活史や思考・認識の癖がわかる。それだけでなく、相手は自分の話を真剣に聞いてくれるとわかると、相手のことが信頼できる。全部丸ごと聞いてくれる相手は信頼できるから、その相手の話は聞いてみたくなる。つまり、「ただただ話を聞く」ということが、こういう場合に求められているのだ。でも、「問題行動」「困難事例」とラベルが貼られる、「反社会的」な言動をする人は、じっくり聞かれる機会がない。それよりも、説教や訓示など、話を黙って聞くように強要されるばかりだ。すると、ますます本人はフラストレーションが溜まって、と悪循環に陥る。
このことを40年かけて少しずつ学んできたからこそ、「さあ なんでも話してごらん」とトットちゃんに伝える小林先生のスタンスが、圧倒的な素晴らしさをもって、胸に迫ってくるのだ。小林先生は、トットちゃんを問題児とか困難事例とラベルを貼っていない。それだけでなく、彼女の合理性を、全部しっかりと理解したいと思っている。理解した上で、「きみは本当はいい子なんだよ」と伝えてくれる。そんな小林先生の姿勢がトットちゃんに伝わったからこそ、トットちゃんも小林先生を信用してみたい、この学校で学んでみたいと思ったのだ。
その上で、このエピソードは、僕たちの今の社会にも改めて大きな何かを問いかけていると思う。
まず、トットちゃんのような好奇心が旺盛で、公的な秩序をはみ出す子が、普通のクラスから排除される現象は、戦前の小学校だけだっただろうか? ご存じの方も多いと思うが、今の小学校では、発達障害とラベルを貼られる子がうなぎ登りに増えている。正直に言えば、その中には「発達障害もどき」とも言われるような、学校の過度な規格化、秩序化に合わないだけで「発達障害」と診断され、普通学級から排除される子も、少なくないように思う。そして、おそらくトットちゃんも今なら、そうラベルが貼られ、下手をしたら幼稚園段階で、精神科の薬を飲まされ、行動鎮静させられるが、その後の大スター黒柳徹子は生まれなかっただろうと思う。(それはご自身もそう仰っておられる)
それから、大人は、子どもが「問題だ」と思っても、子どもを叱ったり説教したり、子どもを変えようとする前に、小林先生と同じように、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」と、ただただ聞けるかどうか、も問われている。自分の胸に手を当てると、それは怪しい。ついつい「○○しなさい」「ちゃんとしなさい」と叱ってしまうときが、今でもある。でも、その前に、まずじっくり聞けるか、が問われている。じっくり聞いた上で、「私は問題のある子?」と不安になって聞く相手に、「きみは本当はいい子なんだよ」と自信を持って伝え続けること。これが大人から子どもへの最大のギフトだと思う。
それ以外にも、この映画の、戦争に向かう社会の軍国主義の厳しさや陰険さ、戦前の上流家庭の豊かさとか、色々書きたいことはあるのだが、横で宿題をしていた娘さんの相手をそろそろせねばならぬので、今日はこの辺で。年末にこの映画を娘と一緒に見れて、本当に良かった。