家族丸抱えと社会的ネグレクト

昨日、京都の実家に遊びに出かける際、鞄の中に忍ばせた一冊が、圧倒的な迫力で迫ってきて、一気読みした。

「ケアをうまく成就できるということは、病気の家族の変化に反応するすばやい共振性を有しているということであり、それは外界に対してあまりに無防備であるともいえる。つまりケアを成就できる主体というのは、あらかじめ固まることを禁じられ、環境によって変化する可塑性を持っているということではないか。
自分をとりかこむ輪郭線をいつでも崩れさせ、自己と他者の境界を横断することができる。自己の固着という安心からいつでも離れられる無防備さというものが、ケア的主体の真価だろう。」(中村佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』医学書院、p156-157)

このフレーズを読んでいて、少し前のブログに書いた、「ケアとはままならぬことに、巻き込まれること」というのを思い出していた。能動的で自立的で主体的な存在は、自己責任で自己管理が出来ている、という意味で、自己同一性の保持であり、「自己の固着」である。一方、ケアはその対極の、「自分をとりかこむ輪郭線」の崩壊であり、「ままならなさに巻き込まれること」である。「病気の家族の変化に反応するすばやい共振性」を維持しようとすると、自分だけで決めた目的合理性を手放す必要がある。つまり、「あらかじめ固まることを禁じられ、環境によって変化する可塑性を持っている」というのは、能力主義的社会で適合的な自己防衛や自他の境界線を溶かす・崩壊させることでしか、手に入れられない。

このような事態に巻き込まれることは、両義的な価値を持つと中村さんはいう。

「病の家族のために自分を燃やすように使ってあげたい。それは、自己という壁で隔てられた人と人を結びつけ、失われた連続性を回復しようとする、犠牲的なケア的主体に流れる一つの欲望だ。一方で、それでは社会的な生活が送れないので、どこかの段階で揺り戻しがあり、家族を恨み、捨て、自己を保存しはじめる。
過剰な両極のあいだを行き来し、そのはざまで中間の色彩がさまざまに展開する。犠牲的でありながら、一方でその自分をまた憎み、脱皮させ、羽化させるような行動をとる。そうして今度は、自分に罪悪感を覚え、家族のもとに戻ってくる。行ったり来たり、行ったり来たり。
だからこそ、何かのピリオドを打つことが苦手なのではないか。」(p161-162)

中村さんのお母さんは、精神の病を抱えている。調子の悪いときは、一日ベッドで寝たきりだったという。そんな母に対して、中村さんは小さい頃から、「犠牲的なケア的主体」と「家族を恨み、捨て、自己を保存しはじめる」状態の「過剰な両極の間を」「行ったり来たり」してきた。両義性を抱えてきた。でも、これは必ずしも、善悪の二元論で語れない状態だったという。

「病気の家族の変化に反応するすばやい共振性」をもった「ケア的主体」は、「自己保存」をしている間には生まれてこない。一方で、「自己という壁で隔てられた人と人を結びつけ、失われた連続性を回復しようとする、犠牲的なケア的主体」でいると、「社会的な生活が送れない」という現実もある。そのため、両極を「行ったり来たり、行ったり来たり」なのである。

ぼく自身はヤングケアラー経験はないけれど、この6年間子育てをしてきて、ほんとうに「行ったり来たり、行ったり来たり」なのだと思う。それは、主体的で能動的でキリリと決定したことは確実に実行する、という自己保存的なものが、ケアによりなぎ倒されている経験であり、でも、その両義性の往還のプロセスでの「はざま」なのだと思う。

だからこそ、中村さんは「ヤングケアラー」というくくり方に違和感を抱く。

「部屋のなかで、具合の悪い母と一緒にいる。なぜすぐにだめだとあきらめてしまうのか、なぜ起きてこられないのかが子どもの時分には理解できず、やきもきするような思いを抱えていたわたしは、母をむしばんでいる害があるなら飲み込んであげたい、わたしがそれを抱えて一緒に消滅させてあげたいと願っていた。
それはいったんは死のイメージなのだが、そこでわたしも一緒に再生するような、深い喜びがあった。自己消滅が喜びにつらなるような、ケア的主体がもつ犠牲的で献身的な欲望と言えるだろう。
こういう思いを抱えてケアしている子どもに対して、早く毒親からお逃げなさいと、人は容易く言えるだろうか。」(p195)

上記の記述は、圧倒的な解像度の鮮やかさで、僕の胸に迫ってくる。

精神疾患の親を持つ子どもの場合、「具合の悪い母」のおかげで、子どもが振り回される。その現実を指して「ヤングケアラー」と焦点化・問題化すると、かわいそうなのは子どもとなって、その子どもをケアできない親は「毒親」などとラベルが貼られやすい。すると、「早く毒親からお逃げなさい」と簡単なアドバイスが出来てしまう。でも、犠牲的なケア的主体を子ども自体から引き受けてきた中村さんは、一方的な被害者ではなかった。彼女が親をケアするなかで、「そこでわたしも一緒に再生するような、深い喜び」や「自己消滅が喜びにつらなるような、ケア的主体がもつ犠牲的で献身的な欲望」があった。「ままならぬことにまきこまれる」犠牲的なケア的主体にも、その状況でしか味わえない「深い喜び」や「欲望」もあったのである。

これは、ヤングケアラー問題を当事者の外側から取り上げて掘り下げている、数多の論考では知る事が出来なかった、セルフ・ドキュメンタリーゆえの迫力である。

ただ、僕が中村さんの本を読んで、信頼できる一冊だと思ったのは、そのようなヤングケアラーの内面を描くだけでなく、その社会構造的な抑圧を、そのものとして、しっかり描いているからでもある。

「日本の精神科の常識は人権侵害すれすれで、制圧や、拘束、強制入院、長期入院など、患者の人間的生活を豊かにしようという発想とは真逆の行為がまかり通っている。
一方でそうした入院しか選択肢がないことが、患者とその家族をよけいに苦しめている。他の選択肢がないなかで、『精神科病院に入院させるなんて!』と疑問を呈されたり批判されれば、家族はもっと追い込まれる。
いくら病院が人権侵害的でも、医療措置があり服薬のできる入院か、家に一緒に帰って自分もろとも総崩れを起こすか、どちらかしか選択肢がないとしたら、入院させることのどこに瑕疵があるだろうか。日本の精神科病院の現状は確実に変えていかなくてはいけない社会的課題であろうが、入院しか選択肢のない家族が肩身の狭い思いや罪悪感を抱かなくてよいようにと願ってやまない。」(p124-125)

私は四半世紀にわたり、「日本の精神科の常識は人権侵害すれすれで、制圧や、拘束、強制入院、長期入院など、患者の人間的生活を豊かにしようという発想とは真逆の行為がまかり通っている」ことを、批判的に書き続けてきた。『精神科病院こそ問題だ』と言い続けてきた。ただ、特に子どもが生まれて後、家族の視点、ケア的主体の視点を持つようになると、この批判は間違ってはいないのだが、「家族はもっと追い込まれる」という現状もまた、わかるようになってきた。それは、家族丸抱えか施設丸投げか、の二者択一しかない現状の構造的な問題である。

この構造的な「二者択一」の現実を変えないと、家族を苦しめるだけなのだ。精神病院批判だけでなく、同じように、「家族丸抱え」の現実こそ、批判する必要もある。それだけでなく、「家に一緒に帰って自分もろとも総崩れを起こ」さずにすむような、地域精神医療体制の拡充こそ、提起し、応援し続けていかなければならないと強く思い始めた。だからこそ、中村さんの批判が、深く胸に突き刺さる。

また、この本を読みながら、以前取り上げてブログにも書いた山本智子さんの『「家族」を超えて生きる−西成の精神障害者コミュニティ支援の現場から』や、児玉真美さんの『殺す親 殺させられる親』を思い出す。実家で暮らしたい障害当事者と、実家で支えられない家族は、二項対立や下手をすれば利益相反関係になりやすい。でも、障害当事者と家族を対立させている構造こそ、最大の問題なのである。それを、中村さんが取材した、ヤングケアラー経験があり、いまは研修医をしているかなこさんは、「社会的ネグレクト」と喝破する。

「社会からの虐待と言えば、自分たちに責任があることがはっきりわかるけど、たぶん虐待とまで言えなくて。でもわたしははっきり助けてと言ったのに伝わらなかった経験があるから、よけいにネグレクトだと思う。いまは『助けてと言えない子ども』というのが流行っているんだけど、そういうふうにラベリングすることで、『子どもが助けてと言ったとしてもアンテナが立ってなくてキャッチできない社会がある』という事実が隠されていて。さらに『見つけてくれてありがとう』なんて吹き出しの付いた子どもの絵を精神科の研修で見たり。支援者は子どもにそう言ってほしいんだと思うけど、『てめえら遅えわ!』と。キャッチされないから黙らされているだけなのかもしれないのに、子どものほうの責任にしないでって思う」(p112-113)

SOSを求める子どもたちの声を、社会が「無視・放置」している。その意味で「社会的ネグレクト」というなら、これはヤングケアラーに限らない。成人の家族や親であれば、ギリギリまで障害のある家族を支え続けよ。それが無理なら、入所施設か精神病院に丸投げせよ。この二者択一構造こそ、「社会的ネグレクト」なのだ。「キャッチされないから黙らされているだけなのかもしれないの」は、ヤングケアラーだけでなく、大人のケアラーも同じかもしれない。ケア的主体が、あまりにも家族のデフォルトにされ、やって当たり前になっている現実こそ、「社会的ネグレクト」とも言えるのかも知れない。

「日本では家族はすでに崩壊しているのにもかかわらず、崩壊していない前提で、国も厚労省もケアを家族に返す」(p90)

そう、こここそ、最大の問題なのだと改めて思う。「家族丸抱え」は「すでに崩壊している」のである。にもかかわらず、この国の制度設計やシステムは「崩壊していない前提で、国も厚労省もケアを家族に返す」のだ。これが、ヤングケアラー問題を、かわいそうな子どもの問題に矮小化したり、ケアすべき精神障害を抱えた親を「毒親」とラベルを貼る、などの問題構造のすり替えが行われている背景にある。そして、それを問い直すために、社会的ネグレクトの構造こそ、問われなければならない。家族丸抱えの構造的問題が、社会的ネグレクトの背景にあると直視し、それを変える仕組みを作らねばならない。スウェーデンが20年前に実現したように、入所施設を全廃してスタッフを再教育し、地域支援に切り替えなければ、家族丸抱えは終わらない。

この「社会的ネグレクト」という言葉を流行らせるために、僕はこれからこの言葉をしつこく使い続けようと思う。家族丸抱えの論理構造を越えていくためにも。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。