正月は濃厚な読書が続いてきた。
「個人化を問う『能力の共同性』と、資本主義を問う『存在承認』が、本書の未来に向けたキーワードになっています。本書では、能力の共同性を新しく定義しなおし、『能力とは、分かちもたれて現れたものであり、それゆえその力は関係的であり共同のものであり、能力は個に還元できない』ものだと打ち出しました。多様な人々が力を合わせるという意味合いとは異なり、個に還元できない能力論です。『依存先を増やす』というような個人化された共同性は、いともたやすくネオリベラリズムに利用されるからです。『存在承認』は、あなたの存在を認めるよといった承認論ではないことを明確にしました。『共同的なものを規定に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状況』と整理をしました。」(桜井智恵子『教育は社会をどう変えたのか—個人化をもたらすリベラリズムの暴力』明石書店、p261)
教育社会学の視点から、桜井さんは能力主義を根源から問い直す。「能力の個人化」が業績主義に結びつき、それが社会の既定路線になっている。それにぼく自身も苦しめられてきたことは、子育てしてやっと言語化が出来るようになり、『家族は他人、じゃあどうする?』や『ケアしケアされ、生きていく』でも部分的に言語化してきた。ただ、そのオルタナティブをきちんと言語化できていなかったのだが、桜井さんによれば、それは「能力の共同性」だと言う。『能力とは、分かちもたれて現れたものであり、それゆえその力は関係的であり共同のものであり、能力は個に還元できない』という定義を読んでいて、ぼく自身や娘を見て、思い当たることは色々ある。
娘が11月から、新聞を読み始めた。それは、父が毎朝新聞を読んでいて、ウクライナなパレスチナの出来事に胸を痛めているのを見て、自分も知りたいと思ったからだ。もし、僕が新聞の代わりに、毎日ギターなりピアノを楽しんで弾いていたら、彼女もそっち方面に興味を持ったかもしれない。僕が日曜大工が好きだったら、彼女も進んでトントンカンカンていたかもしれない。もちろん、彼女は僕と違う他人なので、彼女なりの指向性があることは、間違いない。でも、彼女がサッカーより合気道を楽しんでいるのは、明確に「関係的であり共同のもの」なのである。つまり、親が意識的・無意識的にやっていることを見よう見まねで楽しんでいる娘がいて、「個に還元できない能力論」が、その共同性のなかで育まれていく。
でも、資本主義的現実は、それとは真逆の価値観を提示している。
「時代のデフォルトは『個人で生き延びろ』(個人化)である。子どもの貧困問題についても、解決の方法として『学習支援』が注目されたため、子どもの将来に大きく関わっている雇用や深刻な不平等の改善という争点は周縁化され、脱政治化されてきた。現代の市民社会において、人々の生存の軋轢は未解決のま取り残されている。」(p237)
貧困家庭から抜け出すために、「努力すればなんとかなる」のだから、「学習支援」を受けて、高い学歴をつけて、脱出せよ。その価値前提には、『個人で生き延びろ』(個人化)がある。この問題の個人化こそが、そもそも問題なのだ。子どもが努力を必死にしなくても、生き延びられる社会になっていない。「能力の個人化」がデフォルトになっていて、努力できないなら、支援を受けられなくても仕方ない、とされる。そこには非正規労働や同一賃金同一労働ではない労働の不平等など、大きな争点が色々あるのだが、その前提自体は問わない。今の社会の価値前提を揺るがさない範囲での、「働かざる者食うべからず」という論理はそのままにしての支援に限定される。「能力の個人化」がデフォルトになり、その価値体系を揺るがさないままだと、「依存先を増やす」も「個人の努力次第」という形で取り込まれてしまう。
「『個人化』と『業績主義』に基づく社会へと移行した結果、あらゆる問題処理は個人に任せられることになり、社会に見放されて孤立した個人が不安や恐怖に飲み込まれている。
業績重視の資本主義社会で求められるふるまいは、自らのふるまいを監視してゆくのだが、その規律権力によって人々は自ら排除され、自発的に搾取され、剥奪感を抱くことになる。」(p248-249)
これはぼく自身もそうだったし、大学生を見ていても、同じ事を感じる。PDCAサイクルに代表される計画制御を「自己点検」なるもので自分の一年間の仕事ぶりに当てはめるとき、PDCAは「自らのふるまいを監視してゆく」装置として機能する。だからこそ、本来は標準化・規格化された工場労働にのみ適合的なPDCAサイクルは、いつのまにか、新しい行政管理の方法論(NPM)として取り入れられ、大学でも同じような書類を作らされる。これは「その規律権力によって人々は自ら排除され、自発的に搾取され、剥奪感を抱く」業績主義の装置であり、もっともらしいペーパーワークが求められる、という意味で、「クソどうでも良い仕事」である。
学生達が「迷惑をかけるな憲法」に従い、迷惑をかけないように必死に「自らのふるまいを監視」するなかで、その規律権力によって学生達は自ら排除され、自発的に搾取され、剥奪感を抱くようになる。だからこそ、「生きづらさ」がこの10年20年と累積的に子どもたちに広がり、不登校やリストカット、自殺などが増えていく。それはあまりにディストピア的社会である。
では、どうすればよいのか? それは、業績主義=業績承認を疑うことからはじまる、と桜井さんはいう。
「承認論は、再配分を左右する制度的平等の承認原理が、実は業績承認=能力主義と重なっていることを認識する必要がある。現在の価値観のままに『承認』を支援の方法にすることによって、現状を支えてしまう構造的問題は大きい。」(p185)
貧困家庭に学習支援を、という制度設計は、「業績承認=能力主義」を肯定した上で、そこから脱落し塾に行けず基本的な学力が不足する貧困家庭の子どもたちにも、「制度的平等」を果たす再配分を行う、という方法論である。でも、貧富の差の拡大の元凶に「業績承認=能力主義」があるならば、ここを疑うことなく、貧困家庭にも教育をすれば良い、というのは、貧困を生み出す価値前提を問うことなく、結果的に貧困になった人もその価値前提の中で闘うための「制度的平等」を用意し、それでも脱落したら「自己責任」「努力不足」と問題を個人化する論理である。これでは、なにも変わらない。
そのうえで、「業績承認」ではない「存在承認」を以下のように描き出している。
「存在承認とは、自分を自分で承認しうる『社会的状態』の構想である。つまり、非資本主義的に、政治経済構造という規定で、自分で自分を認める、そうなれる状態をどう構想していくかという点があらためて浮かび上がってくる。」(p187)
世間の求める努力をしなくても、つまり「業績」や「学歴」がなくても、標準的な生き方とは違っても、生きていくことが社会的に保障されている。その前提があるからこそ、「自分で自分を認める、そうなれる状態」が生まれてくるのである。それが「存在承認」である。そのためには、学校のあり方も、変わっていく必要がある。
「学級は、相互に似通った均質集団として作為的に作られる。そのようになってはじめて、教師も親も子どもも公正さが保たれていると感じて安心する。しかし、これこそ疑う必要があるのだ。『近代学校は、学級内部の差異を<同質性>として見せかけることを通して、学校での能力主義的支配を実現してきたのではないか。それは、『普通学校』を『差別学校』として存在させ続けている一つの根拠だとしてよいのだと思う。』
岡村の指摘した『普通学校の差別性』とは次のようなものだ。似通った均質集団として分類した学級を通し、学級間の比較を可能ならしめ、評価によって子どもを管理する。環境や構造の変革ではなく、個人に『課題』を求める能力主義を下支えする普通学校制度自体が差別を抱えているというわけだ。」(p119)
本来、子どもは一人一人違う存在である。それを、学年ごとにわけることで、さらに学級という中規模単位にわけることにより、「相互に似通った均質集団として作為的に作られる」。一人の教員が35人を集団管理型一括処遇が可能になる。娘も昨年の4月から、その世界に入って、大きな移行期混乱を経験している。なぜなら、彼女が以前通っていたこども園では、3〜5歳児が混じり合って遊んでいたし、障害のあるお友達も一緒に関わり合っていた。それは、差異をそのものとして、認め合ってきた。でも、「近代学校は、学級内部の差異を<同質性>として見せかける」。少しでもクラスになじめない、先生の言うことが聞けない「問題児」は「発達障害」のある子どもと命名され、特別支援学級に排除される。
ぼく自身はこのような特別支援学校への排除を問題だと考えてきた。ただ、桜井さんや彼女が依拠した教育学者の岡村達雄は、もう一歩踏み込んで、『普通学校の差別性』と命名する。排除される事だけが問題なのではない。もしインクルーシブ教育を進めても、普通学級で排除される差別性が温存されているなら、そちらの方こそ問題なのだ。形だけ普通学級での統合教育を行っても意味はない。普通学校の差別性こそ、問題の本質にある、と二人は喝破する。それは、学力テストに象徴されるように、学級間の比較や学級内での比較を顕著にし、出来ない子ども「個人に『課題』を求める能力主義を下支えする」、差別温存のシステムなのである。これが教育の前提になっていると、桜井さんは言う。
貧困家庭であっても、本人に障害があっても、どのような状態の子どもも、社会的に望ましい振る舞いや能力を発揮していなくても、『共同的なものを規定に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状況』が「存在承認」であって。そういう共同性は、努力を前提としない所得配分と結びつかないと、「あの人だけズルい」「働かざる者食うべからず」といった価値規範に引きずられてしまう。そういう悪平等からどう距離をとって、一人一人の「他者の他者性」が認められるか、が問われていると、ぼくは受け取った。
著者は努力を否定しているのではない。でも、努力できる環境が剥奪されている人には、努力の前に、安定的に暮らせる経済的基盤が必要だと説く。それを保障せずに、努力しなさいという競争環境を提起することは、過酷だと言うのである。
「経済的に苦労している子どもへの支援には、現金が提供されるのではなく、就学や就職への機会が提供されている。機会を奪われているから、機会を与えよう。そこで力を出しなさいという支援は、彼ら・彼女らに機会を与えれば、がんばることができるだろうという自立支援だ。苦労している子どもは、精神的にも社会関係的にも安定を奪われているという現実の見立てができていない。」(p63)
これは、普通学校を差別学校にしないための、根本的な視点になりうる。貧困な家庭の子ども、だけでなく、障害のある子やヤングケアラー、あるいは家族の不和がある、本人が家族や学校とうまく折り合いがつけられないなど、様々に「苦労している子どもは、精神的にも社会関係的にも安定を奪われているという現実の見立て」が、必要なのだ。その際に必要なのは、競争環境の提供ではなく、精神的・社会関係的・経済的な安定の提供なのだ。それはもちろん、学校の役割だけではない。子ども家庭庁が出来たが、子ども福祉として、教育や福祉の垣根を越えて求められるのが、子どもたちの様々な安定的基盤の提供であり、そのサポートなのだ。それがあって初めて、子どもたちは「存在承認」がなされる。そして、自分自身への「存在承認」があれば、他者の存在も認められる。自分たち自身による排除や搾取、剥奪をしあう「迷惑をかけるな憲法」が息巻く社会を越えるためには、そういう価値転換が必要なのだ、と気づかされたキーブックとなった。