エゴイズムのアノミー的追求と無力

野口裕二さんの『新版 アルコホリズムの社会学:アディクションと近代』(ちくま学芸文庫)が文庫で出たので、初めて読む。30年前にでた元の本を「書誌情報」として知っていたが、読む機会がなかった。家族療法やオープンダイアローグ、信田さよ子さんの本を読み漁ってから本書にたどり着いたら、30年前のこの本の迫力がやっと理解出来るマインドセットになっていたようだ。おかげで、赤線引きまくり、ドッグイヤーしまくり、である。

色々しびれるフレーズがあるので、それを引用してみたい。

「欲求を意思で制御するという考え方は、まさしくわれわれの生きる時代を支配する理性主義にほかならず、同時に、われわれの常識をかたちづくっている近代合理主義とも通底している。つまり、意思の敗北を認めることが自己否定を意味してしまう時代にわれわれは生きている。だからこそ逆に、『意思の病』というアディクションが、ある種の信憑性をもって成立してしまうのである。この意味で、アルコホリックとはまさしく時代の犠牲者であるといえよう。アルコホリズムとそのスティグマは、われわれとわれわれの時代を映し出す鏡のような役割を担っている。」(p41)

「欲求を意思で制御する」=自制心、とは、確かに言われてみれば、「理性主義」であり「近代合理主義」の支配下にある。コントロール可能なものとしての自己を想定する。逆に言えば、自己がコントロール不能な状態になると、「意思の敗北」とされ、自己否定もするし、他者からも当然否定や非難の眼差しを浴びる。これは、アルコホリズムだけではなく、摂食障害や薬物依存など、依存症全般に対して貼られるスティグマである。あるいは、ダイエットが出来なくて肥満体であるとか、ゴミ屋敷状態とか、そういうものにも貼られるスティグマである。「意思の敗北」に対して「ちゃんとしていない」という日本語が付与される。

だが、「ちゃんとする」=「欲求を意思で制御する」ことが出来ない人は、そうしたくてしている訳ではない。そうしたいのだけど、出来ない状況に構造的に追い込まれている。この本は、その構造を解き明かす本である。

アルコール依存症の当事者グループ出るAA(アルコホーリクス・アノニマス)についての説明の中で、以下のような記述がある。

「ここで参加者は認識論上の転回点に立たされている。規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想自体が間違っていたのではないかという疑念を抱く。これが『底付き』とは別のもうひとつの転換点にほかならない。そもそも、お互いに『言いぱなしの聞きっぱなし』という非日常的なルールの中では、質問と応答という日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬は期待できないという当然の事実に気づく。結局、日常の集まりにおいて要求される規範探索活動がこの場では無効であること、規範探索による『適応』が実は不適応であるという逆説に辿りつくのである。
こうして、他者や環境から何かを引き出すのではなく、ただ自分自身のために参加し、自分が表現したいことを表現し、その結果を自分で引き受け、そうすることの心地よさを経験すること、それ以外に参加を動機づけるものが何もないことに気づかされてゆく。それは、酒をはじめとして感情や行動をコントロールすることのみに集中していた意識が、そうしたコントロールを諦めて何らかの状況に身をまかせ、それをそのまま引き受けることを認める状態に移行したことを意味する。これこそが、対人関係パターンに関する認知レベルの変化にほかならない。」(p131-132)

「規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想」というのは、「欲求を意思で制御するという考え方」そのものである。空気を読んで、同調圧力に従うのも、村八分にされないという意味で、他者評価という報酬効果を得ようとしている。この発想を常識と捉えて、それが出来ないと自己否定するのが、アルコホリズムである。一方、アルコホリズム当事者の自助グループであるAAでは、『言いぱなしの聞きっぱなし』の原則がある。これがなぜ効果的かといえば、「質問と応答という日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬は期待できない」状況を作り出すからだ。それは、一言でいえば、「規範探索による『適応』が実は不適応である逆説」と直面するからである。

この表現を書き写しながら、アルコール依存症で亡くなったある人のことを思い出していた。彼は、人生の最期において、「酒をはじめとして感情や行動をコントロールすることのみに集中していた」。そして、悪循環に陥っていた。そして、彼の家族を振り回していたのもあって、彼自身には『意思の病』というラベルが貼られていた。しかし、彼自身が「日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬」を必死で得ようと頑張っていたことも知っている。いや逆に、常に他者の目を気にし、「規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想」に縛られていたのではないか、と思う。彼はアルコール病棟に入ったけれど、断酒会やAAには繋がれなかった。その背景には、彼自身の生きる苦悩の最大化した姿があった。

あまりにも過酷な現実から逃れようと、思春期で家出をして以来、彼は、「ただ自分自身のために参加し、自分が表現したいことを表現し、その結果を自分で引き受け、そうすることの心地よさ」を持てないままでいた。結婚し、子どもが産まれ、孫に恵まれた後も、「他者や環境から何かを引き出す」ことでしか自分は承認されない、と思い込んできた。過剰に他者評価に怯え、「「規範探索による『適応』」を過剰に求めるも、それがうまく得られず「飲むしかない」という形での「不適応」に陥っていた。おそらくは、彼は必死になって他者評価に過剰適応しようとし、他者評価とは関係のない自分自身の「心地よさ」を見つける回路を見失ったまま、命を終えたのだと思う。

「ギデンズは、アディクションを近代に特有の概念と捉える。なぜならば、伝統的な社会においては、毎日が同じことの繰り返しであり、その繰り返しをことさらあげつらうことは意味をなさないからである。近代以降、単なる繰り返しではないみずからの選択に基づく生活のスタイルが称揚されるようになってはじめて、単なる繰り返しがネガティブな意味をもつようになる。したがって、『アディクションは、自己を再帰的に形成することが近代後期において中心的な課題になってきた度合いをネガティブなかたちで示す指標となる』。ここでいう『再帰的』(reflective)とは、不断の反省と修正ということを意味する。単なる繰り返しであってはならないという規範が浸透すればするほど、単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる。」(p194)

もともとの農業や漁業、あるいは工場労働でもベルトコンベア式労働までの時代は、「毎日が同じことの繰り返し」であった。辛くてしんどくても、反復さえできれば、それで生活がなりたった。だが産業革命以後の近代では、「単なる繰り返しではないみずからの選択に基づく生活のスタイルが称揚される」。この自己選択と自己決定の時代においてのキーワードが、「不断の反省と修正」を意味する『再帰的』(reflective)である。そして、同じことを繰り返すことが苦痛ではない人にとって、「単なる繰り返しであってはならないという規範が浸透すればするほど、単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる」というのは、恐怖に近い。

ぼく自身は、受験勉強という「不断の反省と修正」が必要とされる再帰的な営みに放り込まれ、サバイブしてきたので、「自己を再帰的に形成すること」を内面化してしまった。(だから子育てでも、「とほほ話」ばかり書いている)。一方、先ほど触れたアルコール依存で亡くなった彼は、逆に「同じことの繰り返し」が得意だった。僕はそれがめちゃくちゃ苦手なので、性格特性の違い、とも言える。ただ、「単なる繰り返しであってはならないという規範」が他者評価と結びついた時、自分が苦手なことをし続けなければならない、という恐ろしい恐怖にさいなまれる。そして、その恐怖と向き合うために、アルコールという「薬」を必要としていたとも言える。そして、アルコールに頼り続けるという「単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる」ことがわかっていても、その悪循環から抜け出せなくなってしまったのかもしれない。

でも、これはぼく自身にも当てはまる話である。

「許容されるアディクションと許容されないアディクションという問題も、同様の論理で説明がつく。仕事は長いあいだアディクションという非難を免れる聖域のひとつであった。アディクティブであることが、むしろ、当然視され推奨される数少ない領域のひとつであったとさえいえる。このように考えると、ここで生じている変化とは、仕事とその達成によって定義される自己から、仕事と仕事以外とをバランスよくこなすことによって立ち現れる自己へという自己像の転換であることがわかる。ワーカホリックの概念の登場もまた、共依存の概念と同様、自己というフィクションに課される達成課題の変化を示しているのである。」(p202)

ぼく自身は、子どもが産まれる以前はワーカホリックというアディクションに陥っていた。だから、子育てをはじめて、仕事が出来ないときに、禁断症状が発症して、「今日は何も出来ていない!」と深いため息をついた。そのことは『家族は他人、じゃあどうする?』でも描いている。そして、それは昭和的働き方のデフォルトだった。だが、90年代から30年以上かけて、「仕事とその達成によって定義される自己から、仕事と仕事以外とをバランスよくこなすことによって立ち現れる自己へという自己像の転換」が進んでいる。それは、「自己というフィクションに課される達成課題の変化」である。ちょっとキツい言い方をすれば、ぼく自身は子育てを通じて、「不断の反省と修正」を意味する『再帰的』な振る舞いができ、「達成課題の変化」に結果的に適応出来てしまった。でも「仕事とその達成によって定義される自己」から逃れられない多くの人は、「ワーカホリック」という同じパターンの繰り返しの悪循環に陥っている、と見なされる。それは、前回のブログを参照するなら、学習Ⅱを刷新する学習Ⅲの機会から疎外された状態であるとも言える。そして、先に例に挙げた彼も、アルコホリズムという学習Ⅱの悪循環から逃れることは出来なかった。

「アディクションの概念は、エゴイズムとアノミーが相互にからまりあう現在の状況をうまく指し示すものであると考えることもできる。再帰性の規範が強まる現在において、エゴイズムのもたらす苦悩は、自己以外に献身対象をもてないことではなく、自己への献身を手抜きできないこと、自己への献身に最大の関心をはらわなければならないことへと焦点を移している。そして、その自己への献身に終わりはなく、まさに『無限性の病』という状態におかれる。一方、現代におけるアノミーは、欲望の対象を『自己』や『身体』へと移すことで、エゴイズムとの境界を曖昧にしている。つまり、現代的自己のおかれた状況は、エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開として描けるような性格をもっている。」(p208)

アルコール依存症の彼は、人工透析をしながらも、最もしてはいけない飲酒をし続けて、亡くなった。それを指して「意思が制御できなくなる病」とラベルを貼ることに、違和感を感じ続けていた。でも、野口さんの説明するように、彼はどんな状態でも酒を飲むことによって、「自己への献身を手抜きできないこと、自己への献身に最大の関心をはらわなければならないこと」にはまっていた。しかもそれが、死ぬと分かっている透析患者になった後でも、無間地獄のように強迫的に追い立てられた、という意味で、「『無限性の病』という状態におかれ」ていた。まさに、「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」は、彼の辿った人生でもあった。

「問題を解決しようとするからこそ、問題が解決しない。しかも、そのような行動を選択させているのが、ほかならぬ再帰性という規範である点が、さらに重要な点である。問題解決のための行動をみずからの判断で選択してよいからこそ、そして、選択しなければならないからこそ、こうした反復が生ずる。再帰性という規範は、しばしば、ある種の無限等比級数のようにわれわれの選択の幅を狭め、それを一点に収斂させていく。再帰性の規範それ自体が実質的にアディクションの行進を促す原動力となっているのである。」(p209)

にっちもさっちも行かない現実がある。そして、「問題解決のための行動をみずからの判断で選択してよいからこそ、そして、選択しなければならない」。この時、無限等比級数というのは、選択肢が無限大に発散するか、1つに収束するか、のいずれかである。そして、選択肢がありすぎてもなさ過ぎても、結局は「酒を飲む」という以前のパターン以外の選択肢を選べない状況に追い込まれてしまう。不断の反省と修正を促す「再帰性」が、「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」を生み出し、「再帰性の規範それ自体が実質的にアディクションの行進を促す原動力」として彼を追い込んでいったのだとも言える。

では、どうしたらこの悪循環から逃れることができるのだろうか。「自己=アディクション」という仕掛け=ゲームに対して、野口さんはこんな風に整理する。

「このいつ果てることのないゲームにとって、最大の敵は、人々がゲームの仕掛けに気づき、ゲームから降りようとすることであろう。AAが、そして、ベイトソンがいち早く見抜いたのは、このことだった。自己という信憑のもつ特権性を廃棄し、自己と世界という区分方法自体を相対化していくこと、それが、AAがわれわれに示しているもう一つの道である。」(p213)

これは、AAの12のステップの一番目と直結する。

「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」

「無力」であることを認めること。これは「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」から決別する第一歩であり、アディクションに陥っている人にとって、最も恐ろしいことである。なぜなら、自己保持の手段としてのアディクションを手放し、丸腰の自分の「無力さ」を認めなければならないから、である。そんな怖いことが出来ないから、僕の知っている彼も、透析患者であっても飲み続けていた。

でも、ベイトソンが見抜いたように、悪循環の循環構造にいる限り、その無間地獄から抜け出ることは出来ない。すると、「人々がゲームの仕掛けに気づき、ゲームから降りようとする」ことしか、別の道が見出せない。そしてそのための一丁目一番地に「無力」を認めることが出てくる。それは「もっと強くなければ」という「有害な男性性」でしか問題が解決出来ないと思っていた彼にとっては、かなりキツい事態だったと思う。でも、「自己という信憑のもつ特権性を廃棄し、自己と世界という区分方法自体を相対化していくこと」しか、解決策が見出せないのだ。これは、『ケアしケアされ、生きていく』でも描いた、生産性至上主義からケア中心主義への転換にも関係しているかもしれない。

そして野口さんは、30年後の補論の中で、AAや断酒会のようなグループに適合しない人でも、オープンダイアローグのようなネットワークで、このような悪循環から逃れうる、と指摘している。

「グループであれネットワークであれ、大切なのは、成瀬が指摘する『安心できる居場所』と『信頼できる仲間」 、そして『お互いが癒やされお互いが暖かい気持ちになれる関係』が存在することではないかということである。(略)
アディクション臨床は、自助グループが生み出した概念を活用しながら独自の理論と実践を発展させてきた。一方で、そうした理論と実践は自助グループがもつ限界をそのまま引き継いでおり、自助グループにつながらない多くの人々に対する有効な理論と実践を見出せずにきた。しかし、いま、オープンダイアローグやその他の新たな動きがそうした限界を乗り越える方向性を示している。それは、これまでのようにグループにすべてを期待するのではなく、ネットワークのもつ力にも期待する方向である。グループとネットワークはともに、われわれにとって大切な『居場所』や『仲間』や『関係』を生み出す貴重な場として位置づけることができる。」(p238-239)

四半世紀前の大学院生の頃、精神障害者の当事者活動に顔を出していたことがある。鴨川でピザを食べながらだべりんぐする集まりである。そこは、家族や立場や社会的な自己を横に置いて、素の自分が受け入れられる、という意味で、「大切な『居場所』や『仲間』や『関係』を生み出す貴重な場」としての自助グループになっていた。だが、そのグループに入るには、「無力さ」を認める必要があり、それが出来る人はそのグループに継続的に来れたが、プライドやエゴイズムが邪魔をして、そのグループに入れない・継続的に参加出来ない人もいた。それは「自助グループがもつ限界」でもあった。

でも、オープンダイアローグでは、ソーシャルネットワークの中での対話的なミーティングを大切にしている。これまでのソーシャルネットワークを断絶させた上で、新たなグループに入るのとは違う。でも、AAや自助グループが大切にしてきた、『安心できる居場所』と『信頼できる仲間」 、そして『お互いが癒やされお互いが暖かい気持ちになれる関係』を、膠着したネットワークの中で再生させようとする。そのために、本人と家族や支援チームが一同に会したオープンダイアローグや、組織内の不全を解消していくような未来語りのダイアローグが展開される。それらの対話を通じて、『居場所』や『仲間』や『関係』が再生されるきっかけが生まれる。

亡くなった彼がまさに必要としていたのも、『居場所』や『仲間』や『関係』だった。そのことに、僕は生前気づけなかったし、気づけたとしても、たぶん上手く関われなかっただろうと思う。そういう自分自身の「無力さ」に自覚的になった上で、本書といま・ここで出会えて本当によかった、と思う。

対話実践の優れた理論書

斎藤環さんの本は色々読んできたが、新刊『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)は間違いなく彼の著作で最も面白くて、赤ペン引きまくり、の一冊だった。

この本のなにが良いって、副題の「対話ごときで」だと思う。斎藤さんは実際オープンダイアローグに出会ってしまい、臨床現場で「対話ごときで回復が起こる」現実を目の当たりにしてしまった。でも、「なぜ」「対話ごときで」「回復が起こるのか」が、ダイアローグの本を翻訳するだけでは見えてこない。そこで、イルカ(=ベイトソン)と否定神学(=ラカン)という二つの象徴的要素から、その「なぜ」に答える理論的視座を構築しようとする、意欲的な論考を積み上げているのである。

「たとえば統合失調症の回復を妨げるのは『病のコンテクストが固定化すること』『新たなコンテクスト学習(逆学習を含む)が起こらないこと』と考えられます。コンテクストは刺激を意味づけながら元のコンテクストを強化するという再帰的な作用を持っていますから、そうした固定化が生じてしまいやすいわけです。コンテクストには実態も構造もなく、自己否定的な作動をすることもできません。しかし治療においては、生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする必要があります。
その作用をもたらす最大の要素が、言語であり対話なのです。言語のみではコンテクストに呑み込まれかねませんが、対話のプロセスがそれを予防してくれるでしょう。後述するように、対話にはポリフォニーという重要な機能があり、それが言語の作用に強力なブーストをかけてくれるからです。」(p210-211)

斎藤さんはこの少し前のところで、「心」も「人格」や「症状」実体がないけど「あるとしかいえないもの」としての「コンテクスト」だと述べている(p191)。すると、統合失調症について知らない人でも、『人格のコンテクストが固定化すること』『新たなコンテクスト学習(逆学習を含む)が起こらないこと』によって人格の歪みが激しくなる、と言われたら、イメージが湧くと思う。年を取ると頭が固くなるのも、「わしゃむりや!」「俺はそういう人間!」「今さら自分を変えるのなんて無理!」という「コンテクストの固定化」および「新たなコンテクスト学習をしない」ことによる、悪循環や固着である。そして、そのコンテクストの固着化を破るための最大の方法が、対話のプロセスであり、ポリフォニーだと斎藤さんは述べるのである。

そしてベイトソン的視点(イルカ)とラカン的視点(否定神学)がそれぞれどのように機能しているのか、については、以下の部分にぎゅっと詰まっている。

「対話には、ゴールという意味での目的がありません。目的がないのでプランもありません。目指すべきは対話の継続それ自体であり、蛇足的なことを追加するなら『よきプロセスと一体化すること』とも言えます。
ゴールを設定しないことの積極的な意味としては、学習Ⅱによって生成するコンテクストが、ゴールによる制約を免れることで多様化し、その切り替わりのプロセスが生じやすくなるということがあります。
ここでオープンダイアローグの原則である『不確実性に耐える』を思い出しておきましょう。これは『不確かさに耐える』だけでなく、『不確実であることこそが回復のプロセスを促進する』という逆説でもあります。」(p223)

ベイトソンは学習には4段階があり、人間は学習Ⅰ〜Ⅲまでの三つがある、という。以前僕のブログでその箇所を整理した部分を再掲する。

  • 学習Ⅰ・・・反応が一つに定まる定まり方の変化(慣れ、反復、報酬や報復を伴うプロセス)
  • 学習Ⅱ・・・学習Ⅰの進行プロセス上の変化。経験の連続体がくくられる、その区切り方の変化(慣れや反復などが「性格」に転化する)
  • 学習Ⅲ・・・学習Ⅱの進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化(このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす)

学習Ⅱは「学習Ⅰの進行プロセス上の変化」と定義されているが、斎藤さんはそれを以下の例を用いて説明している。

「学習Ⅰが繰り返されると、学習効率が向上し、学習の速度がはやくなります。たとえば英単語の学習は、語彙力が増えるほど未知の単語も覚えやすくなりますよね。このとき学習する主体は、同時に『学習のコンテクスト』も学習しているわけです。それは選択肢群(=コンテクスト)そのものが修正される変化であり、経験の連続体が区切られる(つまり『分節化』)、その区切り方(=コンテキスト)の変化でもあります。」

これは、今の娘の算数との付き合い方をみていると、よくわかる。小学校二年生の娘は、二桁の繰り上がりや繰り下がりが本当に苦手で、何度もわからないと叫んでいた。で、二学期は九九の暗記がはじまるし、どうなることかとやきもきして(半ばちょっと暗澹当たる気分で)いた。でも、あまりにもスルスル暗記してしまったので、なんじゃらほい、と親の側が当惑している。娘はこども園時代、算数とは無縁の場所だったので、一年生の間は数の概念がつかめず。学習速度が遅くて、すごく困惑していたのだと思う。でも、2年かけて学習する公立が少しずつ向上する中で、「『学習のコンテクスト』も学習」していったのだと思う。それが、九九をあっさり暗記してしまった背景にあると思う。

そして、一度「読み書き算盤」という「学習のコンテクスト」がパターン化されると、一生使えるパターンとして定着する。これが「コンテクストの固定化」である。それは、読み書き算盤が出来る、英語がしゃべれる、という部分では有用な学習Ⅱである。

ただ、これが「性格」や「病状」となったとき、しかもそのコンテクストから逃れることが出来ず、「悪循環」の高速度回転を繰り返している時、このコンテキストのパターンを変えることは簡単ではない。そこで必要とされるのが、学習Ⅱのパターンに揺さぶりをかける、学習Ⅲなのである。

斎藤さんは学習Ⅲにおいて、患者における「小さな真理」(困りごとや思い込みも含む)がどう変わるか、を以下のように説明している。

「たとえば患者が、自分の話したこととまったく同じ内容を、治療スタッフや違うメンバーの声を通してもう一度聞くこと。そこにもポリフォニーの契機が生まれます。
ずっと自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直されること。そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることになります。そう、ここにも学習Ⅲの契機があるのです。」(p243)

オープンダイアローグでは、従来の精神科医療のスタッフが取り合わなかった、聞いてはいけないと言われていた、幻覚や幻聴もなかったことにせず、話してもらう。それは患者の前に存在する圧倒的なアクチュアリティ(患者における「小さな真理」(困りごとや思い込みも含む))だからである。ただ、それを聞くだけでなく、聞いた後、本人の了解を得た上で、本人の目の前で、治療チームのなかでそれについての話し合いが開かれる。

「幻聴の声はずいぶんご本人を追い詰めているようですね」「あんな声に支配されていたら、自分も叫んでしまうと思う」「でも幻聴が聞こえている時と、聞こえていないときがある、っていうけど、どういう違いがあるのだろう?」「お母さんと話をしてると、幻聴が聞こえないと言っておられたけど、お母さんは守り神になっているのかな?」・・・

それは、説得や治療の語りではない。そのミーティングに参加して当事者の語りを聞いた治療者達が、「いま・ここ」で感じることを、率直に差し出すのだ。そのことによって「自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直される」し、「そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれる」プロセスが生み出される。変な話、自分では変えられないパターンだと思っていた「小さな真理」に、他者の声で語り直されるのを聞くことで、別の可能性が浮かび上がってくる。そういうプロセスなのだ。

そして、これも病状に限ったことではない。

例えば組織の中でのいざこざや心配ごとが最大化した時に、その心配ごとについて話し合う「未来語りのダイアローグ」という手法がある。これも、ダイアローグによって学習Ⅲを生み出す、という意味で、オープンダイアローグと共通のベースがある。僕はその集中研修を7年前に受け、先週その開発者のトムさんが京都で研修された時に、再度参加させてもらった。その時に、ある組織のリアルな心配ごとについて話し合われる場に参加したのだが、そこで為されていたことも、ここで書かれていることと同じだった。患者を「心配ごとを抱えた職員」として、先ほどの文章を入れ替えてみる。

「心配ごとを抱えた職員が、自分の話したこととまったく同じ内容を、同僚スタッフの声を通してもう一度聞くこと。そこにもポリフォニーの契機が生まれます。
ずっと自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直されること。そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることになります。そう、ここにも学習Ⅲの契機があるのです。」

組織の中でしんどいこととかモヤモヤを抱えている人は、少なくないはずだ。というか、問題のない組織なんて、ない。だからこそ、そのしんどさを、場に出してみる。また、未来語りのダイアローグの場合、「1年後のよい変化」を語って、「1年前の心配ごとはどんな風に変わったか」を語ってもらう。その中で、現実の心配ごとという「小さな真理」に関して、「他者の声によって語り直される」のを聞く。そのプロセスの中で、「ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることにな」る。

それが対話における『よきプロセスと一体化すること』であり、「学習Ⅱによって生成するコンテクストが、ゴールによる制約を免れることで多様化し、その切り替わりのプロセスが生じやすくなるということ」なのだと思う。

僕は治療者ではないし、オープンダイアローグのトレーニングコースは受けていない。でも、7年前に未来語りのダイアローグの集中研修を受けた後、妻や娘と、大学の授業やゼミで、あるいは社会人向けの研修や講演の現場で、対話的であろうとし続けてきた(そのことは、今週発売の共著『あなたとわたしのフィールドワーク』にも部分的に書いてみた)。そして、そういう対話実践を通じて、自分自身の「小さな真理」とも向き合い続けてきた。その中で、「話をまとめなければならない」「議論を導かなければならない」という余計な力み(学習Ⅱの悪循環の反復状況)から、「話をまとめなくてもよい」「聴き続けていれば、話は勝手にまとめる」という別のコンテクストを信用出来るようになりはじめた。

だからこそ、斎藤さんの言う「『不確実であることこそが回復のプロセスを促進する』という逆説」に身を以て同意する。「いま・ここ」に集中し、目の前の人と、不確実であるけれども、『よきプロセスと一体化すること』によって、「どうせ」「しゃあない」という学習Ⅱによる悪循環パターンの強化から出たり、別の可能性を探ることが、可能になるのである。

「結論が出なかったミーティングの後に残る『もやもや感』は、こうしたポリバインド的な緩い葛藤の効果ではないかと考えられます。そうした葛藤の緩やかな持続が、次のミーティングの期間になんらかの有益な変化を喚起しているのかもしれません。」(p244)

ここでいうポリバインドとは、「結論が出ずに複数の拘束が生じている状態」と斎藤さんは言う。そう、組織での矛盾や葛藤を対話すると、先週の現場でもそうだったのだけれど、「結論が出ずに複数の拘束が生じている状態」が「もやもや感」として残る。それがダメなのではなくて、それが「緩い葛藤の効果ではないか」という斎藤さんの提起に、ぼく自身の対話実戦の経験からも、心から同意する。一回の対話だけで解決するなら、話は早い。でもオープンダイアローグのモットーの一つに、「対話の目的とは、対話し続けることである」というのがある。効果や成果を期待するのではなくて、「葛藤の緩やかな持続が、次のミーティングの期間になんらかの有益な変化を喚起している」という意味で、「もやもや感」が残ることこそ、自分の内側との対話=垂直な対話の持続かも知れない。そして、その垂直な対話の持続の上で、組織の他のメンバーとの水平の対話を重ね合わせるからこそ、ポリフォニーが生じる。そこから、学習Ⅲが産まれて、組織における悪循環パターンの強化という学習Ⅱがほどける契機になるのかも、しれないのだ。

そういう意味では、刑務所や学校、精神病院や入所施設など、上下関係が固定しやすく、職員組織も硬直性に陥りやすい組織ほど、職員集団の中での学習Ⅱの固着化を引き剥がす、『よきプロセスと一体化する』対話が大切なのだと,改めて感じた。斎藤さんの本は、医療福祉関係者だけでなく、よりよい対話実践をしたいと望む全ての人にとって、ちょっと難しいけど、何度も読んで考える価値のある、優れた羅針盤になる一冊である。

合理性の四つのパターン

僕がブログを書くのは、最近ではある本を読んで感動したときとか、備忘録的に書き残しておきたいとき、あるいは自分の記憶に留めておきたいとき、である。読んだだけだと後で忘れるが、ブログなら検索がかけられる。また、ブログを書く際にその文章を筆写することで、筆者の論理構造を追体験することができる、などの効能がある。

今回のブログは、頭の整理のため、に入りそうだ。渡邊雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書)は、長年論文を書くときにモヤモヤしてきた「論理性とは何か?」について、実に多角的に論証してくれていて、非常に納得がいった。

いつもは字だけのブログだが、秀逸な図がこの本の141ページに載っていたので、今回は写真で貼り付けてみる。

端的に言えば、「なにを目的とした論理性か」で、論理的思考は異なるし、アメリカのロジックだけが論理的だ、とか日本人は非論理的だ、とかではない、ということである。

前任校では、アメリカで高等教育を受けた先生が、英語101という入門授業のテキストに基づき、学部の1年生向けテキストを作っておられ、僕も基礎演習で教えていた。そこには、この図に書いてある5パラグラフ・エッセイの基本が書かれていた。最初の段落で中心的問いと筆者の主張を書き、次からの3つの段落で根拠をそれぞれ述べる。各段落はトピックセンテンスとサポートセンテンスに基づく。そして最終段落では、理由1〜3に基づき私は○○と主張する、というあれである。そして、この型にはめておしえると、学生さんの小論文はすっきりわかりやすくなる。

だが、ぼく自身は正直そういう形で文章を書かない。論文であれ、このブログであれ、そういう形での記述はしない。なぜこの書き方が自分にはしっくりこないのか。以前からよくわかっていなかった。だがこの本ではアメリカのエッセイは効率性と確実な目的の達成を目指す「経済の論理」が働いていると指摘されて、氷解する。そう、この経済の論理が嫌だったのだ、と。

「経済領域は、効率的に最大限の収益を上げることを目的とする。その目的の確実な達成のために、計算に基づく比較考量により複数の選択肢の中から最も効果的かつ費用対効果の高い手段を選ぶ。経済領域のレトリックは『効率的かいなか』が主導的な観点となる。学校で教える作文では、目的達成までの時間、つまり結論に達するまでに必要とされるステップの短さに効率性が現れる。」(p64)

確かに学生に教える時には、この5パラグラフ・エッセイは、非常に効率的であり、小論文作成という目的到達に「確実」なやり方である。でも非常に直線的であり、あれかこれか、の二者択一的で、こちらが良いと決めたら、もうそれ一本でグイグイ進んでいく。だからこそ、文章に膨らみや陰影が出しにくい。というか、「効率的ないなか」という判断基準では、膨らみや陰影など「非効率」なのである。

それに対して、別の合理性としてフランスのやり方が示されている。

「『ディゼルタシオン』と呼ばれるフランス式小論文は、弁証法を基本構造とする。弁証法は、論ずべき主題に対する『一般的な見方』、『それに反する見方』、『それらを総合する見方』を<正—反—合>の構成に位置づけて、<正>と<反>の矛盾を<合>で解決する。これらの三つの見方を検討する中で、結論に導くためにあらゆる可能性が吟味される。弁証法では、この吟味の『過程』そのものが重視される。」(p78)

経済合理性でいえば、結果を効果的に論証することが最も重要である。でも、フランス式の合理性は、結果や目的ではなく「吟味の『過程』そのものが重視される」という。<正—反—合>の弁証法的な運動を、ロジカルで微細に描いていくこと。そこに論理の肝がある。というのだ。それは、フランス哲学をちらっとでも読んでみると、アメリカ式論理とは違う論理性を感じることだろうし、僕も以前から何かが違うと思っていた。この本の秀逸なところは、アメリカ式論理が経済的合理性だとすると、フランス式論理は政治的合理性に基づく、と喝破した点である。

「ディゼルタシオンの構造を見ると、政治領域には欠かせない『既存の法律を評価したり訂正したりする能力』を育成し、『自律的に考え判断すること』、『批判的にものを見ること』が論文構造に否応なく組み込まれていることが確認出来る。
まず自律的に考え判断する能力は、導入部分で主題のどの側面を論じるかを書き手自らが決定し問題提起すること、そしてこの問題提起に基づいて与えられた問いを三つに構成し直し、それらに答えていくことで養われていく。(略)
次に展開部分の<反>は、信じていたことを疑い、一度否定することで別のあり方へと目を向けさせる機能がある。常識と暗黙の前提を疑う哲学の思考法が論文構造の中に組み込まれているのがわかる。」(p94)

アメリカ式論理がディベートに代表されるように、お題は相手に与えられて、それにYes/Noでロジカルに説得していくものだとしたら、フランス式論理は、そもそもお題の中でどこに着目するか、を自律的に考え判断することが求められる。また、そのお題の一般的テーゼにたいしても、「それって本当だろうか?別の可能性はないだろうか?」と批判的に思考する。それは、政治のように「こうすれば正解」がない領域の問題の場合、比較考量を正統化するためにも必要不可欠な力であることがわかる。

一方、イランの作文技法には「法技術領域」の合理性と表題が書かれている。

「エンシャーの特徴は、主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をたどることである。作文教科書で書き方の多様な技術や形式を紹介してお手本を示しても、この特徴は保持される。イランにおける作文は様々な主題を扱いながらも、それぞれの主題の多様な側面を、すでに決まっている結論に向けて準備する『目的論的』な思考が作文を書く論理を作っている。
結論を決めてから掻き出すことは、欧米では作文を書くときの鉄則だが、その結論がすでに外から与えられているもの、とりわけ真理であり規範として社会や宗教から定言的命令として下されていることを、神への感謝やことわざ、詩の一節に収斂させることが、イランの思考とその表現法を特徴づけるものである。」(p103)

イスラム教のクルアーンという絶対的真理や規範が決まったいる。この結論が「外からあたえられている」場合、フランスのようにその真偽を問うことは、もっともしてはならない禁忌である。そして、結論も自分で決めず、定言的命令として既に存在している。その場合なら、「○○の条件ではクルアーンに適合的である場合はどうすればよいか、を法技術的に検討するのが「合理的」なのである。

で、アメリカ、フランス、イランの作文と日本の作文の違いは何か。それを「感想文」の論理として、以下のような型で筆者は示している(p115)。

序論:書く対象の背景
本論:書き手の体験
結論:体験後の感想=体験から得られた書き手の成長と今後の心構え

読書感想文でも絵日記でも、大体このパターンを踏襲したら400字なり800字は埋まる。そして、僕も2冊ほどエッセイを出しているが、多分このパターンを踏襲してエッセイを書いていると思う。ここにはどのような合理性があるだろうか。

「社会領域のレトリックも論証の形をとらないが、ここで重視されるのは社会の構成員から『共感されるか否か』である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった『利他』の考えに基づく個々人の『善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが『共感』である。」(p114)

日本社会の文脈依存性とは、イランのような一神教的な社会におけるそれとは大きく異なる。クルアーンなど絶対的真理・秩序はない。その代わりに参照枠は、「社会の構成員から『共感されるか否か』」なのである。これが「空気を読む」とか「同調圧力」につながる。共感できない奴は、いくらアメリカ式の論理で声高に主張しても、共感されない。逆に言えば、ロジックが変であっても、共感されると、一定程度のパワーを持ってしまうのだ。

で、ここまで整理してくると、やっぱり僕もこの「社会の論理」に思考方法がかなり依拠しているのだろうな、と思う。僕のエッセイって、自分の愚かさや至らなさ、阿呆さ加減ばかり書いているし、もうじき出る新刊『あなたとわたしのフィールドワーク』(現代書館)でも、見事にこの骨法で書いている。

ただ、アメリカ式論理のトレーニングの良書を読んだり、フーコーやブルデューの本を読み囓っていると、別の合理性も理解出来るようになってきた。しかも、アメリカとフランスを対置させることで、複雑なものを複雑なまま理解する、というやり方のおもしろさも見えるようになってきた。筆者はこの4つの違いを「文化に枠づけられた論理と思考法」(p180)とまとめているが、ロジックは一つではない、と知っておくだけでも、ずいぶん視野が広まる。異文化理解、だけでなく、自分が許せない・納得できないと思う主張がどのような論理構造を辿っているのか、を分析する時に、結構役立ちそうだ。

そして、僕は官僚的形式合理性が、たまに虫唾が走るほど嫌だったりするのだが、その嫌な部分って、実は結論が最初から決まっている「法技術領域」の文章だからかもしれない。それは共感を全く前提としていないからだ、とすると、その結論の合理性を、フランス式の合理性で疑ってみる、など、攻略の仕方まで考えることも出来るかも知れない。そう考えたとき、この4つの合理性をどのように使い分けるか、が結構重要になってくるかもしれないな、と思った。

頭の整理に非常になる、秀逸な一冊だった。

乱流環境が生み出すイノベーション

難しい本は、読書会で読むに限る。つくづくそう思う。一人で読んでいるときには思いつかなかったことを、仲間と本を読みながら対話しているうちに、浮かび上がってくる。その妄想的ひらめきによって、意味や価値を見出せなかった文脈に、新たな光が差し込む。

今回は、岡部茜さんに教わって、タイトルすら知らなかった本を読んで彼女と議論しているうちに、以下のフレーズが輝いてきた。

「集合体に安定的な同一性を付与する重要な領土化の過程は習慣的な反復である。」(マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学:集合体、潜在性、創発』人文書院、p98)

デランダの本を要約するのは難しいので、秀逸な書評を見て欲しい。

この本の面白いところは、集合体の基礎的概念として「物質的、表現的、領土化、脱領土化」という四つの変数の組み合わせとして議論しようとしているところである(p24)。例えば、狂気というのは、社会の主流な規範からの「表現的」な「脱領土化」である。他方、精神病院というのは、そのような狂気の表現を収容することで社会の秩序維持に繋げようとする意味では、「物質的」な「領土化」である。

そう思ってみると、 長期社会的入院というのも、「集合体に安定的な同一性を付与する重要な領土化の過程」としての「習慣的な反復」ではないか、と捉えることが可能になる。さらに言えば、ではこの「習慣的な反復」をどう変える事が出来るのか、精神病院に収容することなく、「集合体に安定的な同一性を付与する」ために、どのような別の「領土化の過程」を構築することが出来るか、という問いが浮かぶ。例えば、以前ブログでもご紹介したACT-Kの実践などは、「地域の中で「問題行動」「困難事例」「反社会的行為」とラベルを貼られる言動をする人を支える「専門性」のダイナミズム」を作り出すことによって、精神病院以外の場で「表現的」な病気を受け止める、ある種の「領土化」としてのアウトリーチを作りだしている、とも言えるかも知れない。そんな風に妄想が膨らんでいく。

「領土化の過程は、集合体の同一性を各々の空間的な規模で歴史的に生産するために必要とされるというだけでなく、脱領土化という不安定化のまえにしてこの同一性を維持するために必要とされるということができよう。」(p73-74)

「領土化」と「脱領土化」というのは、集合体の動きであり、それに善や悪、などの価値は付与されない。ということは、精神疾患、問題行動や困難事例、反社会的行為とラベルが貼られるような、「脱領土化という不安定化のまえにしてこの同一性を維持するために必要とされる」「領土化」は、どのようなものであればよいか、が問われる。精神病院や入所施設、刑務所などに隔離収容するのも「領土化」だが、アウトリーチや往診、地域での見守り支援だって「領土化」なのである。「集合体の同一性を各々の空間的な規模で歴史的に生産する」ための方法論は、別に収容施設である必要はないのだ。

これを、支援される側から捉え直してみよう。支援がされずにしんどい状況に放置されていることは、ある種の「脱領土化」であり、それは本人にとっても苦しくて、辛い。だからといって、自らの「表現的」な内容を受け止めてもらえない形で、家族や施設に「領土化」されると、窒息しそうになる。ということは、それが社会の主流の価値から「脱領土化」されている「表現的」な何かでも、そのものとして受け止めてもらう関係性を支援者と築くことができれば、「物質的な」安定も得られる。そのような、自らが承認される「領土化」とはなにか、が問われる。そういう「集合体」とはどのような存在であるか、が支援組織としては問われるのである。

「安定性の喪失だけでなく、能力の拡張もまた、人の同一性の脱領土化を引き起こすかもしれない。ここで私たちはヒュームより先へとすすみ、習慣や習性といったことに加え、新しい技能の獲得がおよぼす効果のことを考慮に入れなくてはならない。たとえば、小さな子どもが水泳や自転車に乗るのを身につけるとき、新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる。(略)この機能は脱領土化を促すものとなる。」(p98)

娘は今年の夏からスイミングスクールに通い、夏は親子で温水プールによく通っていた。彼女は最初、水を怖がり、それこそ「安定性の喪失」を感じていた。でも、スイミングスクールに通うことによって、「新しい技能の獲得」ができ、「新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」ようになった。だからこそ、楽しみにスクールに通い続けている。それは、「人の同一性の脱領土化を引き起こす」「能力の拡張」であり、「新しい集合体へと入り込んでいく能力の上昇」(p99)である。

精神病院に長期社会的に入院していて、退院が出来ないと周囲にラベルが貼られている人も、「能力の拡張」の機会が疎外されている人、と置き換えてみたくなる。入院患者役割に著しい同一化が求められ、脱領土化の機会がなく、本人もそれを怯えている人、という仮説を置いてみる。すると、「小さな子どもが水泳や自転車に乗るのを身につけるとき、新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」ような経験が、ご本人に出来ていないだけではないか、と。

そして、「新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」機会として、オープンダイアローグがあるとも思えてくる。対話の中で、「新しい世界」を共に考え合う、未来語りのダイアローグ。これって、一人では泳げない、自転車に乗れないと、新しい世界・印象・観念・経験に開かれない個人に対して、一緒に新しい経験をしてみませんか、というお誘い的な対話である。そうやって、新たな関係性や経験に開かれることによって、同一性の反復状態という仮の安定から脱し、脱領土化がはじまり、「新しい集合体へと入り込んでいく能力の上昇」がおこる。これも、大切な支援の有り様だとも感じる。

「(産業組合と販売組合という:バタ補足)両方の形態に影響を与える脱領土化の主要因は、製品ないしはプロセスにおける高いイノベーション率が創出していく、乱流環境である。ここで問題となるのは、組織内における変化率—組織の慣性に由来する様々な要因に影響される—と、組織の外側にあるテクノロジーの変化率との関係である。(略)産業全体を考察するとき、私たちが関心を向けるのは、産業の成員となる組織の適応能力(すべての組織に、適応するだけの十分な時間があるのであれば)よりはむしろ、外的なショックにあわせて内的な変化を調整する能力である。」(p155)

この本はめっちゃ格好いいフレーズが多くちりばめられているのだが、「乱流環境」もその一つ。それは、同一性の反復に基づく安定性の対極であり、逸脱や混乱、狂気も一つの乱流環境である。そのような乱流環境を、イノベーションに向けて活かすことができるのか、というのは、非常に面白い問いである。秩序を乱すノイズと捉えるのではなく、脱領土化がイノベーションを起こすと考え、そのような乱流環境を、そのものとして受け入れる。その上で、無理やり乱流を鎮圧するのではなく、「外的なショックにあわせて内的な変化を調整する能力」を持つことができるのか、によって、乱流環境はイノベーションへと変化が可能なのだ。

本来、精神科医療に求められているのは、乱流環境を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」ことで強制的に鎮圧することではなかった。本人の生きる苦悩が最大化し、急性期の状態というのは、逆に言うと危機こそチャンス、ではないけれど、窓が開き、対話のチャンスでもある。そのような「乱流環境」を上手く生かし、患者さんの「外的なショックにあわせて」医療チームの「内的な変化を調整する能力」が備わっているならば、アウトリーチチームと当事者や家族などとのコラボレーションにより、その人が危機を乗り越え、地域の中で暮らし続けるためのイノベーションが生まれてくるはずなのだ。そして、乱流環境を共に考え合い、乗り越えるための「不確実性への耐性」が重視される対話こそ、そのチームビルディングの根幹にあるのだろう。

そう考えてみると、領土化や脱領土化というキーワードを用いながら、集合体の変遷を考えることは、固着していた事態を新しく眺め直すための、重要な補助線になりそうだ。また、精神病院や精神医療を、刑務所や更生支援に入れ替えても、同じことが言えそうではないか、などの妄想も浮かぶ。シンプルな概念こそ、多くの妄想やアイデア、イノベーションを生み出す優れた理論、とするならば、この集合体理論もその1つかも知れない。そう思い始めている。

組織風土を変える対話的関係性

僕はかつて、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を述べたことがある。そのことについて詳述した8年前のブログの最後に、こんな風なまとめを書いていた。

「僕が「今の精神科病院の現場」にまず求めるのは、「オープンダイアローグ的なアプローチ」を真面目に実現する為の「専門職の覚悟」と「組織改革」である。」

その時は、実践的裏打ちもないままこれを語っていた。だが、矢原隆行さんの『矯正職員のためのリフレクティング・プロセス』(矯正協会)を読んで、まさに上記の指摘を本気で実践されていることに、めちゃくちゃ感動した。

「日本の矯正施設におけるリフレクティングのもう一つの可能性は、前節で触れた刑務所職員による暴行・不適正処遇事案に係る第三者委員会からの提言でも言及されている矯正施設の『組織風土』にかかわるものです。入所者に目を向けるばかりでなく、矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すことができ、安心して働くことのできる関係であることは、つい見過ごされがちですが、とても大切なことです。そもそも、職員間の信頼関係や安心感がその基盤にあってこそ、入所者を交えた風通しの良い会話も可能となるのです。そして、そうした組織風土を育むためには、自分たちの職場のリフレクティング・プロセスに取り組むことが不可欠です。」(p5)

精神科病院や入所施設では、虐待が繰り返し繰り返し、起き続けている。それはなぜか。それは、『自分はダメだ(何もできない)』『組織としてやれることは限られている(何もできない)』というトラウマの並行プロセスがあるからではないか、と以前ブログで指摘したことがあるし、論文化したこともある。その背景として、精神病院や入所施設の閉鎖性があげられる。収容することが目的になっている場所において、対象者へのよい関わり方について組織的に・対話的に検討し合うような組織文化がなければ、『自分はダメだ(何もできない)』『組織としてやれることは限られている(何もできない)』というトラウマの並行プロセスが生み出されるのだ。僕がかつて「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を述べたのも、このトラウマの並行プロセスに陥る組織では無理だ、という背景があった。

だからこそ、矢原さんの以下の指摘は決定的に重要なのだ。

「入所者に目を向けるばかりでなく、矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すことができ、安心して働くことのできる関係であることは、つい見過ごされがちですが、とても大切なことです。」

虐待の起こる入所施設や精神科病院は、利用者との関係性を築く以前に、「矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すこと」が出来ていない。「安心して働くことのできる関係」が出来ていない。それは、津久井やまゆり園での連続殺傷事件や、神出病院・朝倉病院事件を見ていても共通するポイントである。そして、北欧の刑務所で実践されているリフレクティング・プロセスを調べていた矢原さんは、精神病院や入所施設と同様、閉鎖的構造がある日本の矯正施設において、まずは「職員間の信頼関係や安心感」を作るために、リフレクティング・プロセスを導入してみた。そうやって対話文化を創り、「組織風土」を変えるために実践していくことで、「入所者を交えた風通しの良い会話も可能となる」土壌を作ってこられた。それが本書にガッツリ書かれていて、感動したのである。

「人が生き生きと更生できる場は、それ自体(そこには、その場を構成する個々の職員の状況、職員間の関係、および、運営や組織のあり方の全体が含まれます)が風通しよく、気持ちのよいものであってこそ、はじめて更生にふさわしく、有効なものになる」(p6)

ここで「更生」を「エンパワー」と言い換えてみると、実はこの論理はいかなる保健医療福祉組織でも言えることだ、とは言えないだろうか。そして、対象者への支援に熱心な組織ほど、同僚への査定や批判の眼差しが厳しく、それが「職場で傷つく」という上記とは真逆な論理になっている現実がある。そこを乗り越えるためには、「それ自体(そこには、その場を構成する個々の職員の状況、職員間の関係、および、運営や組織のあり方の全体が含まれます)が風通しよく、気持ちのよいもの」である必要があるのだ。「歯を食いしばって我慢して耐えろ!」という昭和的ガンバリズムとは真逆の論理が必要とされるのである。

なぜ矢原さんはこの実践が出来ているのか。これは北欧の刑務所で聞いた話が大きかった。刑務所の入所者の男性とのやりとりを、矢原さんは次のように振りかえっている。

「インタビューのなかでも、とりわけ印象深かったのは、ある入所者の男性が、『この会話を通して、自分は人間になった。でも、自分だけじゃなく、刑務官も、心理士も、皆が人間になったんだ』と述べ、そこに同席していた心理士も刑務官も、彼の発言に深く頷いた場面です。」(p23)

罪を犯した受刑者だけが、非人間的なのではない。実は矯正施設やそこで働く人々も、ある種の非人間性を帯びていた。ここでの非人間性、とは対話のないという意味で用いてみたい。懲罰的で秩序維持が真っ先に求められる場であれば、対話は必要ない。でも、生き生きと更生でき、エンパワーされる場で、真っ先に求められるのが、対話的関係性なのである。それを取り戻すことにより、「自分だけじゃなく、刑務官も、心理士も、皆が人間になったんだ」というのは、実に印象深い発言である。

その後、日本の矯正施設におけるリフレクティングを実践し続けてきた矢原さんだからこそ、矯正施設職員の疑問やモヤモヤにも、この本の中で丁寧に向き合っている。

「Q リフレクティングでは丁寧に相手の話を聞くことが大切とのことですが、職員がふだん施設の規律を保つために入所者に対して厳しく指導・監督していることとの一貫性が保てなくなる可能性はないでしょうか?
A リフレクティングや諸々の対話実践に参加することは、矯正職員が施設の規律を保つために担う役割と矛盾、対立するものではありません。実際、リフレクティング実践に長く取り組んでいる北欧の刑務所では、こうした会話の機会を入所者と職員が重ねることを通して、以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるようになったといいます。必要な時には厳しく注意もし、必要なときには丁寧に話を聞いてくれるという矯正職員の姿勢は、むしろその人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方と言えるでしょう。」(p188)

これを書き写しながら改めて感じたのは、「施設の規律を保つこと」と「入所者の矯正を支援すること」という、一見すると相反するように見える事態をどう繋げるのか、について、矯正施設の職員達はずいぶん苦労されてきたけど、その解決策が見つかりにくかったのだろうな、ということだ。相手の話を丁寧に聞いてしまったら、「入所者に対して厳しく指導・監督していることとの一貫性が保てなくなる」のでは。この恐れへの解決策が見出せなければ、刑務所での対話はあり得ない、となってしまう。そして、対話的な場ではないからこそ、虐待や暴行事件が起こるのは、刑務所や入管施設だけでなく、精神病院や入所施設でも共通している、構造的課題である。そして、これは矯正施設の現場職員にとって、「最大化された心配ごと」である。

この「最大化された心配ごと」に対して、矢原さんは北欧の刑務所でのリフレクティング実践に基づいて、「こうした会話の機会を入所者と職員が重ねることを通して、以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるようになったといいます」と伝える。そして、「双方が相手に人間として敬意をもって接する」ことと、「必要な時には厳しく注意」することは、両立可能だ、と指摘する。その上で、「必要な時には厳しく注意もし、必要なときには丁寧に話を聞いてくれるという矯正職員の姿勢は、むしろその人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方と言える」と喝破している。

そういう意味では、矯正職員は、これまで「その人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方」を示されないまま、秩序維持に必死になってきたのではないか、という「妄想」すら浮かぶ。「双方が相手に人間として敬意をもって接する」という方が、入所者にとっても、矯正職員にとっても、その場は安心出来る場である。逆に言えば、その安心や信頼関係がないなかで、「施設の規律を保つために入所者に対して厳しく指導・監督」するだけでは、矯正職員の皆さんはものすごく緊張を強いられるし、疲れるだろうし、燃えつきないだろうか、と心配になってしまう。そして、そのような矯正職員の燃え尽きを防ぐためにも、矢原さんの提唱するリフレクティング実践は、非常に効果的なのだと改めて思う。

他にも色々引用したい部分はあるが、もう4000字近いので、詳細は同書を読んで欲しい。この本の最も素敵な部分は、これまで引用したわかりやすい理念編だけではない。実際に入所者やその家族と、あるいは矯正職員同士、多機関連携場面でのリフレクティング実践の模擬事例が記載され、その時の視点やコツまで詳細に触れられている。さらにはそれがDVDとして付録で付けられている。そういう意味で、矯正施設におけるリフレクティングを実際にどうやったら始められるのか、の具体的な手法がこの本を読んだらわかる、という意味では、非常に実践的な一冊なのだ。その部分のダイナミズムは、引用しにくいので、ぜひこの本を読んで欲しい。

最後に、矢原さんの矯正職員向けのメッセージを引用しておく。

「読者のみなさんがまず取り組みたい(あるいは、取り組まねばならない)と思われるのは、入所者への処遇のためのリフレクティングかもしれません。それは、一般改善指導として『対話実践』を実施する方針が訓令に示されたことからも無理のないことでしょう。しかし、同時に、矯正職員間の関係、そして、矯正組織の組織風土自体を風通しのよいものにしていかない限り、処遇としての『対話実践』がその実質を伴わないことは、本書を通して述べてきたとおりです。ですから、職員間の面談や話し合いのさまざまな場面に組織のためのリフレクティングを導入していくことにも、ぜひチャレンジしていただければと思います。」(p197)

一般改善指導とは、法務省のHPには以下のように書かれている。

「一般改善指導とは,講話,体育,行事,面接,相談助言その他の方法により,[1]被害者感情を理解させ,罪障感を養うこと,[2]規則正しい生活習慣や健全な考え方を付与し,心身の健康の増進を図ること,[3]生活設計や社会復帰への心構えを持たせ,社会適応に必要なスキルを身に付けさせること等を目的として行う指導をいう。」

そこに対話実践が導入されるようになった背景として、別の資料では以下のように述べられている。

「これまで刑務官が行う面接は、1対1で職員と受刑者との関係が、指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向があったため、受刑者には、「聞くだけとなり内省が深まらない」「しょく罪や自己の特性理解を含め様々な課題が解消されない」といったことが認められた。また、職員側としては、職員個人に対する負担が大きく、また、個人の知識や経験に依存することにより、職員が疲弊し、粘り強い指導が難しく、各種の課題が解消しないまま、処遇が停滞することに対応できていないという課題が認められる。」

これを読んで、矯正現場の職員の皆さんは、本当に緊張感が強いられ、孤立しやすい仕事場だったのだなぁ、と改めて感じた。矯正を「させなければならない」というミッションはあるけど、ではどうやったらよいのか、の方法論は現場の職人芸に託されていて、方法論があまりなかったのだろうなぁ、という「妄想」も浮かぶ。それだと、精神病院での「治せない治療者」がトラウマの並行プロセスに陥るのと同じ、構造的なしんどさがあるように思えた。だからこそ、この「対話実践」が、矯正教育の具体的な方法論として今着目され、それが「一般改善指導」の中に取り入れれた意味はめちゃくちゃ多い。業務として「対話しなければならない」ことになったからだ。

ただ、ここに矢原さんも僕も危惧を抱いている。それは、冒頭にも記載した「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」にも共通する部分である。

対話が弾むのは、どちらもお互いに敬意をもって、もっと話したい、と自発的で意欲的になるから、である。「対話しなければならない」と強要された構造において、「指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向」が温存されていたら、入所者と矯正職員の対話は、ある種の「尋問」になりかねない。それは、対話の真逆である。

だからこそ矢原さんは、「矯正職員間の関係、そして、矯正組織の組織風土自体を風通しのよいものにしていかない限り、処遇としての『対話実践』がその実質を伴わない」と警告しているのである。

入所者に対話を持ちかける前に、矯正職員チームの中で、ちゃんと対話が出来ているだろうか? 「指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向」は、矯正組織の職員チームの中でも、生じていた可能性はないだろうか? そして、まずは矯正職員同士の関係性の中で、「以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるよう」になるためのリフレクティング実践をしないと、いきなり対象者にそれをするのは無理ではないか? これは、精神病院や入所施設において、職員同士が「相手に人間として敬意をもって接することができる」ようなダイアローグ実践をしない中で、対象者にのみオープンダイアローグを押しつけるのは無駄だ、と僕が感じたこととも通底している。

そして、8年前と最も大きく違うのは、矢原さんの本を読めば、「相手に人間として敬意をもって接することができる」ようなダイアローグ実践を職員間で実施する方法論が具体的に書かれているので、明日の職場でも実践可能なのだ。

この本は、刑務所関係者にだけ役立つほんではない。オープンダイアローグやリフレクティング実践をどうやったら現場で可能なのか、を知りたい全ての人の必読文献である。現場の刑務官向けにわかりやすく、読みやすく絵も沢山入って描かれていて、実はダイアローグの入門書としても機能すると思っている。ぜひ、多くの人が手に取ってほしい。

最後に、この本に基づいた対話実践が精神病院や入所施設の「職員間」で行われることは、結果的には「脱施設化」への最も近い道かも知れない、とも思い始めている。職員間での対話的関係性が確保され、利用者との対話的関係性の回路が開かれていくと、共にエンパワーされる関係性が産まれるので、それは地域移行や脱施設化につながっていく。そういう形で、この対話実践が広まって欲しいなぁと改めて感じる。

自治型地域福祉を推進する方法論

気がつけば、沢山の自治体や社協に、審議会や計画策定、アドバイザーなど様々な形でコミットし続けている。ただ、そのやり方を、大学院や研修会などで学んだわけではない。誰も教えてくれなかった。だが、たまたま30代前半で、山梨県障害福祉課の特別アドバイザーに就任して以来、見よう見まねで、現場の人と共に、必死になって模索してきた(そのことはブログにも書いたことがある)。

そして、福祉計画に携わる他の研究者はどうしているのだろう、と同業他者の論文や書籍を読みあさっていた。その中で、最も現場のリアリティに基づいた整理を行っておられるお一人が、2008年に出された平野隆之さんの『地域福祉推進の理論と方法』(有斐閣)だった。平野さんは現場の論理の言語化が非常に秀逸で、「読み解き→編集→組み立て」概念は、その後僕があちこちで講演する際に活用させて頂くものだった。

ちょっとだけ解説を加えると、個別支援に関わる支援者は、当事者のニーズを読み取りながら、その自治体ではどのような政策・サービスが足りないのか、を「読み解く」専門家である。一方、自治体担当者は事業化に向けた「組み立て」が得意だ。でも、両者が「編集」場面で出会えないと、当事者のニーズに基づかない政策形成になってしまう。そして、それが出来るのが、自立支援協議会だったり、地域ケア会議だったりする。そういう文脈で上記の図を沢山活用させて頂いてきた。

その平野さんの最新刊『地域福祉マネジメントと評価的思考』(有斐閣)を拝読すると、相変わらず整理や言語化が秀逸であり、かつ複数の自治体にガッツリ入り込んでの「評価的思考」が言語化されているので、めちゃくちゃ参考になる。平野さんは評価的思考の構図を、以下のように整理している。

「まず所管課の評価活動のプロセスのなで『評価を行うことで評価を学ぶ』という評価的思考が浸透する場が必要となります。その場では『評価を行うことで重層(的)を学ぶ』ことが2つの思考方法の相互作用を通して実現します。さらに地域福祉マネジメントの文脈でいえば、『加工の自由』に結びつくための『仮説的思考』の形成が求められ、地域福祉マネジメントがそれを支えます。地域福祉が前提とする自発的・自由裁量的な発想が、事業の構想に結びつくことで、仮説的思考が、事業の計画策定の場に持ち込まれることになります。」(p7)

この記述を読みながら思い出していたのが、行政学者の整理した「事業課程」と「政策形成過程」の関係図である。

この図を提唱した真山さんは、多くの市町村が事業過程の青色の部分で終わり、事業評価はおろか政策形成過程には全くコミット出来ていない、と書いていた。実際この20年ちかく行政に関わっていると、法や制度で必要とされ、議会も通って予算化された「事業」をどうやってしようか、事業案を考え、事業を決定して実施する「事業課程」だけで精一杯、うまくいってもいかなくても、飲み屋の端で愚痴を言って終わり、という「事業」が、なんと多いことか! 飲み屋の端での愚痴を、「出来ていないことに関する事業評価」に高めて、そこから改善すべき問題を発見し、それを分析しながら、政策課題の設定や政策の策定、既存事業の検討、などをする「政策形成過程」ができない、必要性があるとはわかるけどどうしていいのかわからない、という自治体が多いのである。

その際、先ほど引用した平野さんの整理がずいぶん役に立つ。

「『評価を行うことで評価を学ぶ』という評価的思考」というのは、飲み屋での愚痴に終わらせず、何が出来ていないのか、のダメ出しだけでもなく、「出来ていることや事業実施による良い変化」をしっかり出した上で、「残っている心配ごと」もセットで整理する、という評価的思考から始まる。そして「評価を行うことで重層(的)を学ぶ」とは、整理した現状と課題は、重層事業と関連付けたらどんな風に解釈できそうか、をまず所管課や担当者レベルで整理することである。p52やp268では芦屋市の担当者達が、評価シートを用いながら、自分たちが「既存制度=制度福祉」「モデル事業」「地域福祉やまちづくり」の三つのレベルで、重層的事業の5つの事業をどれくらい出来てきたか、課題は何か、を自己評価している。実はこの自己評価に基づく『仮説的思考』の形成が、「地域福祉マネジメント」において決定的に重要だ、というのは、リアルでお付き合いのある芦屋市の担当者を見ていても感じる。

真面目に事業を遂行している自治体なら、何もやっていない訳ではない。でも、十分に出来ている訳でもない。そのときに、「出来ていることや事業実施による良い変化」を、A「個々の支援事業」と「C系統的な体制整備」のマトリックスに当てはめ、この部分はやれているよね、と議論しながら当てはめてみることが大切なのだ。そうすると、それを書く中で「そうはいっても、この部分は出来ていない・課題がある・未着手だよね」という「残っている心配ごと」も同じように見えてくる。それを評価シートを埋めながら、部署内で対話的に整理していく。これこそが「『評価を行うことで評価を学ぶ』という評価的思考」の肝である。真山さんの図で言うなら、これは「事業評価」から「問題の発見」に当たる部分である。

平野さんはこの「評価的思考」における評価参加者の思考の変化を、「参加における深まり」「改善内容の深まり」「他自治体との相対化からの模索」という三点を指摘(p292)しているが、これはすごくよくわかる。事業評価から問題の発見、分析へと至る議論って、政策の振り返りだし、何がどこまで出来た・出来なかったかを俯瞰的に読み取る力量につながる。それは他の自治体と比較すると、本当にわかりやすい。そういう意味で、この評価プロセスを通じて、次の政策形成への一歩に繋がる。

その上で、次にすべきことは何なのか、という「問題の発見→分析→政策課題の設定」というのが、『評価を行うことで重層(的)を学ぶ』にあたる。これは自分たちの自治体政策の弱みや強みの分析(SWOT分析)でもあるのだ。その中で、平野さんは「支える体制整備の方法が評価対象」「リノベーション型の評価の採用」「地域作りとの連携の深まり」を「重層的思考」として提起している(p292)。

最近、厚労省の様々な部局、だけでなく、総務省でも国交省でも農水省でも、自治会単位で何かをしてほしい、と色々な施策が五月雨式に降ってくる。小さな自治体だと、似たような会議が違う部局から何度も開かれるけど、出ているメンバーが結構重複する、なんていうケースはざらにある。その際、地域作りとの連携のなかで、「これとあれの会議の会議が似ているなら、一緒にしてしまいませんか?」といったリノベーションが模索される。それは、そもそもその地域での支援体制を考えるうえで、その枠組みやスキームで良いのですか、という問いかけである。自治会長や民生委員のなり手が先細りする中で、地域の中で「すべきこと」をどう棚卸し・整理するか、という問いとも繋がる。

その上で、では次年度は具体的に何からどのように変えていこうか、という新たな施策を打つ際に必要になってくるのが、「政策の策定→施策体系の確認→既存事業の検討」という部分だ。ここで必要になってくるのが、平野さんのいう「仮説的思考」であり、それは「事業計画の目標・位置付けの深まり」「重層的な人材育成の発掘・育成の取り組み」と紐付いている(p292)。

自治体で何らかの「事業過程」を展開するためには、その法的・財源的な根拠が必要になる。福祉分野であれば上位計画としての地域福祉計画であり、障害福祉計画などの個別計画である。そして、地域福祉計画は自治体の総合計画とも紐付いていないと、説得力がない。事業評価の中から問題を発見し、評価型思考の中で問題の分析を行い、重層的思考の中で次にすべき政策課題の設定へとつなげる事が出来ても、既存の事業計画の目標や位置づけと紐付けない限り、財政担当部局や首長、議会は応援してくれない。

そして、実際に政策形成過程から事業過程につなげるには、単に自治体内だけで頑張っても無理がある。社協やまちづくり、町内会や自治会、商工会など様々なアクターがどれくらい新規事業に一緒になって考えてくれるか、が肝となる。その際、平野さんの本の中では、久留米市の「AU-CASEプロジェクト」の魅力的な事例が紹介されていた(p239)。たとえば移動支援が必要となったとき、行政的発想であれば、「買い物支援や訪問介護、車椅子レンタル」などの制度的対応が浮かぶ。だが、移動が出来ることで何をかなえたいのか、というと「もっと自由にでかけたい」というニーズであり、それを通じて「気の合う居場所に出かけたい」とか「一緒に出かけてくれる人とコミュニケーションを取りたい」かもしれない。そういう意味で、前者の制度的支援を「解決する道路」とすると、後者は「叶え合う道路」であるという。そして後者には、官民協働、というか、民間主導のプラットフォーム形成の方が、うまくいくかもしれない。こういう新たな可能性を考えるのが、「仮説的思考」の醍醐味なのだ.

そして、この政策形成過程については、これまでブラックボックスというか、職人芸的なやり方とか、カリスマ公務員とか、スーパー研究者の助言とか、ばかりが目立ってきた。それは、「その人がいなくなったらオシマイの壁」という限界を抱えていた。だが、今回平野さんが「評価的思考」を具体的な自治体での実践を元に言語化してくださったことで、政策形成過程における「地域福祉マネジメント」とはどうしていけばよいのか、先ほどの評価シートなどに基づき自治体の職員が自分の頭で考えることが出来る。これはめちゃくちゃ大切であり、これからの自治体職員に求められる、再現性の高い思考プロセスの解説と言語化だと思う。こういう本を待っていた!

最後に、平野さんの本は「自治型地域福祉」を展開する方法論であり、「自治体型地域福祉」ではない、という点も、確認しておきたい。今回、平野さんの本を読むに当たって、彼の師匠である右田紀久恵さんの本も併せて読んでいてので、繋がってきた部分でもある。

「地域福祉の立場からの参加論は、福祉国家の大量性や画一性のアンチ・テーゼであり、生活の場としての地域を問うことに原点があり、それは代表民主主義の限界や空洞化に対する人間の復元作用ということでもある。いわば、ポスト・モダンにおけるローカル・デモクラシーへの模索と接近である。
それは、地域福祉が人間としての生活権思想やノーマライゼーションを原点とするかぎり、参加論もそこから出発するのが当然であるからである。福祉行政の限界や補充に地域福祉を位置づけたり、『地域福祉=ボランティア活動・福祉の風土づくり』という認識のレベルでは、参加はサービス供給のみに直結してしまう。地域福祉は自律的個人=主体の存立を前提とし、その社会性を組織化することによって、福祉コミュニティ=福祉社会を構築しようとする。ノーマライゼーションの思想を具現化するシステムとしての参加の形態やレベルには多様なものが考えられるが、いまここで重要なことは、形態やレベルの本源、すなわち現代における参加の意義を問い、確認しておくことであろう。」(右田紀久恵『自治型地域福祉の理論』ミネルヴァ書房、p25)

地域福祉を自治体が展開する時に、「福祉行政の限界や補充に地域福祉を位置づけたり、『地域福祉=ボランティア活動・福祉の風土づくり』という認識のレベルでは、参加はサービス供給のみに直結してしまう」。それは、住民達の主体性の尊重や、住民自治につながらない。「地域福祉は自律的個人=主体の存立を前提とし、その社会性を組織化することによって、福祉コミュニティ=福祉社会を構築しようとする。」重層的支援の展開にあたっても、この「自律的個人=主体の存立を前提」と出来ているか、を評価する場面で問う必要があるのだ。簡単に言えば、我が町の地域福祉は、当事者主体や住民自治を目標として掲げられているか? その目標を実現するための、重層的支援という方法論を組もうとしているのか? この当事者主体や住民自治という目標がないと、「自治型地域福祉」は簡単に「自治体型地域福祉」にすり替わってしまう。

ぼく自身も様々な形で自治体の地域福祉にコミットしている。だからこそ、この平野さんの方法論はめちゃくちゃ参考になる。でも、それは「福祉行政の限界や補充に地域福祉を位置づけ」るためにあるのではない。あくまでも「自治体型地域福祉」の推進・発展のための方法論であるべきだ。その点を、僕は忘れてしまいやすいので、自戒の念を込めて、最後に付記しておく。

子育てと人類学的思考

夏休み期間には、割とガッツリした大著が読める。この夏はなぜか研究会で二冊の人類学の大著を読んだ。一冊は以前ご紹介した、アナ・ツィンの『摩擦』。その次に読んだのが、デヴィッド・グレーバーの『価値論』(以文社)である。(グレーバーといえば、以前『ブルシットジョブ』を読んでブログも書いている)

人類学の分厚い記述は、迫力はあるのだが、正直読むのに骨が折れる。途中でお経を読んでいるような苦しさを何度も味わう。にも関わらず、異なる文化・異なる社会の記述を通じて気づいた人類学者の発見・分析には、目を見開かされるものがある。

「ほとんどの人々は、広い意味での社会化にずっと多くの時間を費やしている。ここでいう社会化には、育児に限らず、人間をかたちづくるために必要なすべての行為が含まれる。このような定義によると、社会化は、青年期で終わるものでも、それ以外の無理やり決められた、恣意的な期限で終わるものでもない、継続的なプロセスとなる。人は一生を通して、ほとんどつねに自己の社会的位置や役割、地位を変化させる過程にあり、変化した新しい立場においてどう振る舞うのかを、そのたびことに学ばなければならない。つまり、人生とは絶え間ない教育の過程なのである。
私自身は、このことが無視されてきた一つの大きな理由は、単純な性差別ではないかと思う。」(p118)

このフレーズの迫力に気づけたのは、ぼく自身が子育てするなかで、「絶え間ない教育の過程」としての「社会化」してきたと痛感するからである。そして、42才で子育てをはじめる以前は、「単純な性差別」の眼差しを内面化し、この「社会化」の側面を「無視」してきたひとりだと感じる。

近代社会、特に戦後日本社会は「育児に限らず、人間をかたちづくるために必要なすべての行為」を「ケア」と名付け、それを女性に押しつけて「不払い労働・再生産労働」と押しやってきた。カネにならない、仕事に付随する労働なのだから、女にさせておけ。男は金に直結する生産労働をしているのだから、再生産労働をしている女より価値があるのだ。そういう発想が、能力主義や生産性至上主義と結びつき、この社会の支配的な認識になっていった。

だが、それは一面的な考え方である。賃金や対価を生み出さない「社会化」は、人を成熟に導く。

「人は一生を通して、ほとんどつねに自己の社会的位置や役割、地位を変化させる過程にあり、変化した新しい立場においてどう振る舞うのかを、そのたびことに学ばなければならない。」

これって、例えば会社や組織でポジションが上昇した時、権威や権力を持つようになった時、それを適切に行使できるのか、ハラスメントをするダメ上司になるのか、現場感覚を抜け出せず自分で抱え込んで自滅するのか、という人の振る舞いの差異にも直結する話だと思う。

49才の今年、教授に「復帰」した。前任校で39才で教授になったが、43才で現任校に移った際、准教授に「降格」採用された。多くの人は驚いたし、何でそんなことをするのですか、とも聞かれたことがある。確かに年収は150万以上下がったし、その面ではトホホ、だった。でも、42才で子育てをはじめた際、中間管理職になっていた僕は、あのまま前任校にいると、きっと「○○センター長」とか役職に就いていただろう。それは、子育て中心に舵を切れないということだった。現任校に移動し、降格することで、給与は減ったが、それと同時に責任も減り、時間的余裕が増えた。そのことによって、子育てにじっくり向き合うことが出来たからこそ、子どもや妻との関係性のなかで、ぼく自身は沢山のことを学び続けた。給与と肩書きを手放す代わりに、「変化した新しい立場」において、ケアに関する学びを深めることができた。その6年間の時間的余裕があったことは、僕にとって、ある種のサバティカル、というか、成熟へと導くきっかけになった。

「ピアジェにとって、成熟するとは、自己を『脱中心化』することである。つまり、自己の関心や観点は、単により大きな全体性の一部であること、そしてそれが他の関心や観点に比べてなんら本質的な重要性を持たないと理解することである。」(p111)

能力主義や生産性至上主義の虜になっていると、自己中心的になる。自分の業績、自分の成果、SNSでの自己アピール、自分への評価・・・といったものに囚われてしまい、自分のことで精一杯になる。自己責任論の蔓延する社会では、それが称揚される。

だが、成熟すること、つまり社会化することは「自己を『脱中心化』すること」だと理解すると、大きく視点が異なる。ぼく自身も、家事育児というケアを通じて、娘や妻のおかげで、三人でケアしケアされるなかで、ものすごく強固だった自己中心性を、少しずつ脱中心化しはじめている。確かに次の本の原稿が書けた、とか、講演が上手くいった、とか、それはそれで満足である。でも、それと同様に、それ以上に、娘が綺麗な字を書けるようになった、繰り上がり・繰り下がりの計算ができるようになった、家族三人で温水プールでガッツリ泳いだ・・・といった、娘の、そして家族関係でのなにかが、自分の業績や成果と同じように、大切になる。そういう経験の積み重ねの中で、「自己の関心や観点は、単により大きな全体性の一部であること、そしてそれが他の関心や観点に比べてなんら本質的な重要性を持たないと」やっと「理解」出来るようになったのだ。

成熟や社会化が遅すぎるではないか、と突っ込まれそうだが、「人生とは絶え間ない教育の過程」なので、今頃でも気づけただけ、よかったと自分で勝手に評価している。

「政治の究極的な課題は、ターナーによれば、価値を領有するための闘争でさえもないのだ。それはなにが価値であるかを確立するための闘争である。」(p147)

これもめっちゃわかる。僕は子どもが生まれる以前は、業績中心主義こそが価値である、と思い込んでいた。だからこそ、論文を書きまくらなければならない、講演を引き受けねばならない、と必死になっていた。でも、子育てをし始め、生産性至上主義から戦線離脱をせざるを得なくなってはじめて、「なにが価値であるか」を再考せざるを得なくなった。放っておけば死んでしまう赤子、その赤子のケアに必死になる妻を放置して、自分だけが業績を積み重ねることに本当に価値があるのか? この問いは、ではぼく自身がどのような価値観を手放し、新たな別のいかなる価値を大切にするのか、を、突きつけた。まあ子どもが1,2才になるまで、そんなことを考えも出来ないほど、怒濤の日々だったけど、そこから少し余裕が出てきた段階で、自らの価値の再定義、というか、認識のアップデートをし始めた。それは「人間をかたちづくるために必要なすべての行為」にコミットするからこそ、見えてきたことであり、「変化した新しい立場においてどう振る舞うのか」を必死になって考えてきた。

だからこそ、僕にとっては『家族は他人、じゃあどうする?』というエッセイは、ある種の「価値の選び直し」を宣言する一冊になった。この本を書いている数年間は、これまでの自分の生産性至上主義の価値観の、どの部分は手放し、残すのか? それ以外の価値観をどう自分の中に組み込めば良いのか、を書きながら考えていた。そういう政治的営みの言語化だったので、今となっては「子育ては親の育ち直し」という副題は、なかなか言い得て妙なフレーズとして仕上がったと思っている。

「市場が存在しないところでは、孤立して暮らしたいと望まない限り、自由とは主に、誰と、どのような義務関係に入りたいかを選ぶ自由である、ということを人は必然的に知っている。」(p347)

このフレーズも、身にしみる。僕はそれまで、自分を社会的に評価・承認してくれる外部者との関係性を豊かにしてきた。だからこそ、講演や研修は嫌がらず、そこで評価してくれる場合は継続的に仕事を引き受けてきた。

でも、子どもが生まれた際、本当に身を切るような思いをしたが、一旦、大概の仕事を断ってしまった。それは本当に圧倒的な危機の中にいる赤子と妻との義務関係に入る以外の選択肢がない、と、子どもが生まれて気づいてしまったのだ。でも、妻子との義務関係を選び取ったからこそ、僕は仕事や社会的評価への虜・あるいはワーカホリックという依存症から距離を取る「自由」を得られた。この自由を得られた後だからこそ、また姫路に引っ越して、降格して、責任も関係性も一度リセットされたからこそ、「誰と、どのような義務関係に入りたいかを選ぶ自由」を手に入れることができた。そして、40を越えてから、この自由を手に入れられたのは、まさにプライスレスな価値であるとも、遅まきながら気づきはじめている。

嫌なものは嫌、とはっきり言えるようになってきた。無理して仕事を引き受けたり、詰め込むこともなくなってきた。子どもや妻との時間を最大限に確保したいからこそ、仕事は選んで引き受け、誰とどのように義務関係が出来るのか、を吟味するようになった。それは、自分にとっての余裕にもつながってきた。

「人間はなにかをつくる前に、それがどのようなものになってほしいのかを心の中で思い描く。だから私たちは別の可能性も想像できる。その意味で、人間の知性は本質的に批判的なものである。」(p102)

そう、僕が子育てやケアに関与するなかで、「脱中心化」のプロセスを通じて、成熟=社会化の機会を得られた。それは、生産性至上主義にはまり込んでいたぼくにとって、「別の可能性を想像」する機会につながった。そしてグレーバーはこの別の可能性を想像することを、「批判的」と述べる。ここも決定的に重要なポイントだ。

批判的、という言葉は、ディスるとか、論破とか、人格攻撃とか、とにかく否定的に捉えられやすい。でも、本当は、「別の可能性の想像」こそが批判的なるものの本質なのである。生産性中心主義の社会は何だか変だ、という批判は、今その論理にはまっていて、生きづらさを抱えている人を、ディスったり、論破したり、ましてや人格否定をするためにしているのではない。そうではなくて、もっと別の可能性を想像した方が、生き心地はよくなりませんか、という建設的な提起なのである。対案が出ていなくても、何だか変だ、と口にしてみることで、ではその変な何かはどのような価値に基づいて形成されているのか、別の価値前提に置き換えるとしたら、どのような可能性や選択肢があるか、を考えてみることができるのである。これこそが、創造的な行為としての批判なのだ。

というわけで、書き上げてみれば、グレーバーの価値論の読書案内や書評ではなく、本の一節に感応したぼく自身の「社会化」や「脱中心化」に絡めらながら、結構沢山のことを書いてしまった。グレーバーはマダガスカルの民族誌で博論を書いたあと、最初の単著としてこの価値論を書き上げた。かれは、人類学者として、マダガスカルという異なる文化や価値の体系を分析した上で、別の価値のありように気づいた。それと比較は出来ないけど、もしかしたらぼく自身は、子育てを通じて、生産性至上主義とは異なる文化や価値に出会い、それを通じて考えを深めてみた、という意味では、人類学的思考をちょびっとだけ、し始めているのかも、しれない。

二律背反な専門家

発売された当初に読んで、その時には理解出来なかった部分が、後に読み直してやっとわかる。そんな読書体験をした。それが三嶋亜紀子さんの『社会福祉学の<科学>性』(勁草書房)である。

この本は2007年に出されたが、僕は2008年の6月に読んでいる。なぜわかるか、というと、実はこのころ、東洋大学で教鞭を執っておられた北野誠一さんの大学院ゼミに混ぜてもらっていて、この本が課題図書になっており、社会人院生さんが発表されたレジュメが本に挟まれていたのだ。

2005年に山梨学院大学の教員になったものの、僕は社会福祉を本でしか学んでおらず、ソーシャルワークや社会福祉学の学問的背景や文脈の理解が全然足りないと感じていた。そこで、障害者福祉の理論研究の大家で、後に『ケアからエンパワーメントへ』という大著を出される北野誠一さんのところに外弟子的に関わらせていただき、カリフォルニアでの権利擁護に関する調査にも連れて行っていただいた。その北野さんの大学院ゼミでは、僕が知らない、でも重要な文献をどんどん読んでいく授業で、三島さんの本も北野さんから教わって読んだ。でも、当時はこの本を全然読めていなかった、と再読して気づく。

逆に言えば、当時の僕がそれでも読み込めていたのは、反専門職主義や脱施設化運動など、博論に関連する領域の部分のみだったと思う。このあたりは一読目で赤線が一杯引いてあった。だが、今回の二読目では、以前ほとんど赤線を引いていなかった部分に、赤線を引きまくりながら読んだ。

例えば社会福祉の歴史を見ていると、子どもの権利にはパターナリスティックなものと、子どもの自由を最大化するものと、二種類の子どもの権利がある、と指摘している(p95)。無垢でタブラ・ラサ的か子ども像を描き、親などの保護を受ける法的地位の確率を目指すのが、子どもの権利(P)である。これが、アリエスが指摘するように、産業革命以後、「工業化が進む中、不当に搾取されたと目された子どもを保護し健全に育成するために、ようやく勝ち取られたものであった」。

だが1979年の国際児童年や1989年の子どもの権利条約は、「児童の最善の利益」を図る成人の義務に対応する児童の「保護を受ける権利」という「受動的権利」ではなく、子どもの自律的権利や自由といった成人とほぼ同質の権利を保障するものである。これを子どもの権利(C)と位置づける。そして、こんな風に指摘しているう。

「社会福祉士養成の教科書の一部である『児童福祉』に、子どもの権利(P)と(C)が共存する。しかし双方の存在感は同一ではない。なぜなら、一方は他方を凌駕する関係にあるからだ。」(p99)

この当時はこの意味がよくわかっていなかったが、その後子どもが生まれ、ケアや児童福祉を囓るようになり、「こども庁」が政治家の圧力で「こども家庭庁」と名称変更された経緯を知るにつれ、この指摘の迫力がよくわかる。子どもの権利に関しては、まだまだパターナリスティックなものが多く、子どもの意思表明や意思決定支援が尊重される場面が、学校や家庭では、蔑ろにされがちな現状は変わっていないからだ。それを2007年の段階で射貫いておられる。

そして、一読目ではよくわからず「?」を付けていた箇所が、今回めっちゃ迫ってきた。例えばこの部分。

「オートノミーとしての子どもの権利を主張する児童解放運動家はこぞってアリエス・テーゼを多用する。アリエスの論は『<子供>の誕生』の1973年度版序文のなかでも彼が自覚しているように、その歴史認識はイリイチのいう『脱学校化』論と近似している。しかしながら、こうした子どもの権利(C)の終着点に照らすと、このアリエステーゼは「家族を遠隔地から統治する目的」のために利用されていると言えなくもない。
イマニュエル・カントは、自由とは二律背反であると断言したが、この1990年代を目前にした子どもの自由(C)の称揚は、その後の諸学問における『反省的学問理論』に見られる二律背反を予言するものであった。」(p166)

書き写していてわかるのは、ずいぶん抽象度が高く、濃縮度も高い議論である。16年前のぼくは、そういう抽象度の高い議論について行けていなかった。だが、この間、ある程度の抽象度の高い本も読み続けて、また三島さんが下敷きにしているフーコーの議論も多少は囓ってきたので、今なら理解出来る。

子どもの自由や自律性を最大化する「子どもの権利(C)」を尊重する議論も、虐待介入などの子どもの安全の保証(=子どもの権利(P))の上に初めて成り立つ、という議論と結びつくと、「家族を遠隔地から統治する目的」という形でのパターナリズムによる間接統治に変容する。そしてそれは、「反省的学問理論」を抱いたソーシャルワークにとって必然的結果だった、と三島さんは整理する。「反省的学問理論」とはエンパワメントやストレングス、反抑圧的実践などのように、専門家支配を批判し、専門家と利用者の関係性を変革しようとする、旧態依然とした専門家に反省と変容を迫る学問理論である。

「反省的学問理論の登場によって、専門家は<社会の周辺部にいる弱者=福祉サービスの利用者>の場まで降りてきた。利用者は専門家と対等な関係にあり、両者が紡ぎ出すナラティブも同等に意味があることが確認され、利用者の自己決定は尊重されるようになった。しかしながらハートマンが危惧するように、そこにリスクがある場合、『適切』に処遇するための力は執行される。こうしたパワーの行使の『客観』的信頼性を高めるためにも、社会福祉実践のデータベース化は、より精緻化されることが望まれるのだ。またそこにデータに基づく根拠がある場合、特定の実践の方法に磁力が働いてくることも予想される。
専門家は、反省的学問理論に拠って利用者の生きている場に降りてきたようで、支配的なパワーに裏付けられた実践への水路も確保している。先に、専門家は一方の手に反省的学問理論、もう一方の手にデータに基づく権限をもって実践に臨んでいると述べた。二律背反の関係にある両者を並べるには、ハートマンが明らかにしたような閾値の設定が必要不可欠なのであろう。本書で『ポストモダン』のソーシャルワーク理論を反省的学問理論と言い換えている理由もここにある。」(p203)

子どもの自由や自律性を最大化する「子どもの権利(C)」を尊重するために、アドボカシーやエンパワメントなど、子どもの声を尊重し、子どもと共にというwith-nessのアプローチで対等な関係性を目指すことが、子ども支援でも重要とされている。その一方で、虐待の疑いがあるケースの場合、子どもは親と一緒にいたい、と思っても、時には専門家の権力行使をして母子分離などの強制措置を執らなければならない。これは虐待介入などの子どもの安全の保証(=子どもの権利(P))の優先である。そして強制措置を執る際には、根拠に基づく介入(データベース化による介入)が求められる。つまり、本来は相反する反省的学問理論モデルとデータベース化による介入モデルが、一人のソーシャルワーカーの中で共存している、という二律背反状態にあるのだ。

ここで両者をどのように統合的に位置づけられるのか、一方と他方の閾値はどのあたりにあるのか。この裁量がワーカーに託されており、これこそがソーシャルワーカーの専門性の最たる所、とも言えるのかも知れない。

そして、それは子どもの権利だけではない。80才の認知症の母親に、50才の統合失調症の息子が暴力を振るう、というケースに直面した時、ソーシャルワーカーはどうするだろうか? 息子の病名や入院歴をみて、精神病院への強制入院や、母親の入所施設への逃避を、これまでの先行事例と比較検討する(客観的なデータベース型介入をする)だろうか。あるいは息子は母親の介護に役割や誇りを感じているけど、母が子どもをなじった時には逆上して母を殴る、とアセスメントを通じて理解できたのであれば、息子さんのエンパワメントとして就労継続支援などのサービスに繋げながら、母親を説得して訪問介護など家庭に第三者に関わってもらい、母子間の悪循環を改善する方向で支援を組む(本人の主観によりそう、反省的学問理論モデルでの介入をする)ことだって出来る。

つまり、介入モデル的にも、エンパワメントやストレングス方向(反省的学問理論モデル的)にも、どちらにも関わりうる裁量を、ソーシャルワーカーは持っているのである。その「科学」をどのように活かすのか? それをソーシャルワーク教育でどう教えているのか? このあたりが鍵となっているのだが、僕が現場で出会うケアマネや相談支援専門員に話を聞いていると、このあたりの二律背反に自覚的になっているワーカーは、実は少ない。このあたりは、「子どもの権利(P)と(C)が共存する」が「一方は他方を凌駕する関係にある」という現在の社会福祉士教育の限界点を示しているようにも、今なら気づける。

というわけで、三島さんの本は17年経っても全く古びていない、学びの多い一冊です。

人間と非人間の関係性を捉え直す

「弱いロボット」という本が出ているのは知っていたけど、これまで自分には関係なさそう、と思っていた。ただその提唱者の岡田美智男さんが岩波ジュニア新書『<弱いロボット>から考える』を書かれたので、これなら読めるかも、と買ってみた。読み始めたら面白くて、気がつけば一気読みしていた。(岡田さんの取り組みを知らない方はこのウェブ記事もお薦め)

何が面白かったのか。岡田さんはロボット製作を通じて、人間のことをずっと考え続けている点である。というか、ロボット製作という触媒を通じて、人間的な振る舞いとは何か、人間とロボットの関係性とはいかにあるべきか、を徹底的に考え続けている面白さ、というか。

「大切なのは、人や行為、さらに世界を関係論的に捉え直してみようということです。たとえば、新たなロボットを生み出せたのは、その知識を自分のものにしたからではない。むしろ、他者とのかかわり、道具、アイディアの断片をリソースとして、より大きな関係の中で生み出せるようになったから。そんな見方をしてみようということです。
私たちの行為や学びも、こうした関係の網の中に埋め込まれたものであり、共同体の中に参加を深めていくとは、こうした関係の網の中での『行為者=アクター』となる、しかも『かけがえのない存在』になるということなのです。
これは、わたしたちだけでなく、『ロボット』も同じだろうと思うのです。その役割や意味は、そのものに固有に存在するというより、社会の関係の網の中に埋め込まれ、そこから立ち現れるものといえます。」(p130-131)

一見するとロボットというのは、機械仕掛けで、人間的な機微も知らず、人間の指示に黙って従う、という意味では、非人間的な存在の象徴である。そして、人間がロボットを指示・操作する、という意味では、道具であり一方向の働きかけに思える。しかしながら、ロボットを製作する大学のラボという現場にいる岡田さんにとって、ロボット製作というのは、実に関係論的なものである、という。「ひとりでできるもん」とは真逆の、色々な人が関わり合い、アイデアを出し合い、お互いの強みや出来ることを組み合わせながら、一つのコンセプトを生み出し、それを実装していくプロセス。そのなかで、そのロボット製作のチームメンバーそれぞれが『かけがえのない存在』になるのである。

そして「関係の網の中に埋め込まれた」のは、ロボット製作チームメンバーだけではない。他ならぬ作成されたロボット自体も、チームメンバーやそのロボットが置かれる場所という「社会の関係の網の中に埋め込まれ、そこから立ち現れるもの」である、と岡田さんは喝破する。人とロボットを切り分けず、ロボット製作を通じて人間と非人間の連続性やその変容プロセスを観察して、記述しておられる。ロボットと人を切り分けずに、その連続性を考えるところでは、アクターネットワーク理論にも通じている視点である。

「自動運転システムというのは、とても便利なものですが、ちょっと油断すると搭乗者は『たんなる荷物』といして扱われてしまいます。その利便性の影で、わたしたちの主体性をも奪ってしまうのです。もっと、わたしたちの主体性や意思などを反映させる方法はないでしょうか。
そこでシートに腰を下ろす際に、その重心移動で搭乗者の気持ちを反映できるようにしました。わたしたちの主体性を上手に絡ませることで、いわゆる『人馬一体』のような感覚を生み出すことができます。それに、肢体不自由児などの意思を自動運転の機能でサポートしながら、子どもの主体性や能動性を引き出すことも出来そうです。」(p139)

『人馬一体』のような感覚、ってめっちゃ気持ちよい。

それで思い出されるのは、20年近く前のこと。30才で山梨学院大学の常勤講師になり、初のボーナスで、車を買い換えることにした。当時は中古のトヨタ・ターセルハッチバックに乗っていたのだが、かなりガタも来ていたので、そろそろ新しいのが欲しい、と思ったのだ。色々な車に試乗しに出かけた。当初はカローラあたりで充分だ、と思っていたのだが、運転感覚がターセルと同じでつまんない、と思った。あちこちのカーディーラーを回り、妻とああでもない、こうでもない、と言っている中で、「ついでに」見に行ったマツダのディーラーで、出会ったのがアクセラ23Sだった。ハッチバックだし荷物は詰めそう、とか思いながら、石和の16号線でアクセルをいつものように踏んだら、恐ろしい加速力。こ、これや!と、はまってしまった。ターボ車なんて一度も乗ったことはなかったが、ペダリングに吸い付いてくれる走りにはまり、人生初の新車を即決で決めてしまった。以来子どもが生まれるまでの12年、濃紺のアクセラ23Sであちこちをドライブしまくっていた。

このアクセラは、明らかに僕という「主体性を上手に絡ませる」ことができる車だった。車は移動する手段で、ドライブは面倒だと思っていた僕の「主体性や能動性を引き出すこと」に長けた、秀逸な一台だった。それまで乗り続けて来たトヨタ車は質実剛健で頑強で性能は良かったが、「搭乗者は『たんなる荷物』」と感じさせるような、標準化・規格化された乗り心地だった。そのことに気づかせてくれたのが、アクセラ体験だった。

そして、子どもが生まれたあと、ベビーカーを入れたらハッチバックの荷物が一杯になるから、と新しい車を探しに出かけた時も、私たち夫婦は、質実剛健な車を選ばなかった。あれこれ試乗した上で選んだのは、アクセラの一回り上の、同じマツダのシルバーのアテンザワゴンだった(これは高かったので、2年落ちの認定中古車を買った)。ちょうど同僚が一世代前のアテンザワゴンを持っていたので、アクセラと交換してもらい、2泊3日で八ヶ岳のペンションに旅行に出かけたら、ベビーカーもスーツケースも積める容積もあり、室内も広く、1000mの高原を快走出来る馬力があった。これなら子どもがいても、『人馬一体』は続く、と思った。だから、スライドドアの車ではなく、敢えてスポーツワゴン車を買ったのである。そして、それから7年経って、今でも長距離走行するたびに、この車を買って良かったと思っている僕がいる(ついでに言うとハイオクからクリーンディーゼルに変えて、燃料費も本当に助かった)。

長々と個人的経験を綴ったが、ここでも、車やロボットという機械と人間を切り分けない発想が大切なのだと思う。娘も「アテンザさん」と呼んでいるこの車が我が家の中でしっかり位置付いていて、娘や妻、僕というチーム家族の主体性や能動性が、アテンザさんのおかげで引き出されている。それは車と人との関係性を切り分けず、アテンザさんは「こうした関係の網の中での『行為者=アクター』となる、しかも『かけがえのない存在』」になっているから、である。そのことに、この本を読んで改めて気づかされた。

そして、<弱いロボット>を巡る岡田さんの思考は、ぼく自身の別の回路も開いてくれる。

「わたしたちの行為は、自らの中に閉じこもることをあきらめ、外に開くという方略を取り始めたのでしょう。ちょっとドキドキしつつも、まわりに半ば委ねてみた。そこで、私たちの身体や行為が手に入れたのは、意外にも『しなやかさ』『強靱さ』でした。
一人で靴下をはかなければ・・・と、身体をこわばらせていては、すぐにバランスを崩して、靴下をはこうとする手元が狂ってしまう。そこで、その身体をまわりに半ば委ねてみたら、とてもスムーズに靴下がはけるようになった。まわりとの関わりの中で、結果として、しなやかな身体を手に入れたわけです。歩行の場合でも、『なんとか自分の力だけで・・・』との拘りを捨て、地面に半ば委ねてみた。すると、ぎこちなさや脆さがすっと取れて、とてもしなやかな歩行を生み出せるようになったわけです。」(p162)

これを書き写しながら思い出していたのが、合気道のことである。合気道は、力づくで相手を倒そうという気持ちになると、必ず失敗する。なぜなら、こちらの力みが相手にも伝わるからである。凱風館で内田先生や助教の方々の技を見ていて感じることなのでもあるが、合気道の美しいわざとは、「自らの中に閉じこもることをあきらめ、外に開くという方略」のなかにある。しかも、「自らの中に閉じこもる」=独り相撲的に力むのをやめて、相手を怖がらず、相手にも開かれていくことによって、「まわりとの関わりの中で、結果として、しなやかな身体」が生まれてくる。強靱さは一人で力むのではなく、相手との結び=接点を意識しながら、その接点を用いることによって、産まれてくるのである。

そして、岡田さんの指摘は、合気道だけではなく、剣や丈を使う動きにも通じる指摘をしている。

「わたしたちの手はさまざまなモノが使えるように、その進化の過程で冗長な自由度をもった筋骨格系を選び取ってきました。自在に動かせる反面、自分で律するのも大変なくらいの自由度です。
しかし、ハサミを使うときには、冗長な自由度はハサミの構造によって上手に制約されます。ハサミの刃の回転方向にくわえ、どこに親指を入れればいいのか、人差し指はどうか。そうした制約によって、適切な動きを生みだすことが出来ます。手の制御の一部をハサミに内在する制約によって手伝ってもらっているわけです。」(p220-221)

合気道の練習の一環として、剣や丈を用いる。だが合気道は、そもそも剣や丈を用いる動きから、剣や丈を抜いた形だと理解したほうがよい。「自在に動かせる反面、自分で律するのも大変なくらいの自由度」をもった筋骨格系。それでは「しなやかさ」や「強靱さ」は生まれない。だが、剣や丈という制約要素を加えることにより、それらに内在する制約によって手伝ってもらい、手の制御が出来るようになる。

合気道で気持ちの良い動きをするためには、繰り返すが、「力づく」では絶対にうまくいかない。そうではなく、剣や丈を持って、その剣や丈による冗長な自由度の制約によって、手の制御がより細かくなる、と理解した方がいい。だからこそ、剣や丈を持っているイメージで、手さばき、足裁きをするほうが、遙かにうまくいく。そして、剣や丈を適切に扱うためには、手だけではダメだ。肩甲骨から手を動かし、それを股関節の動きに繋げる。そのことによって、剣や丈はダイナミックな動きをする。剣や丈に内在する制約を活かすためには、手の制御だけでなく、肩甲骨や股関節の制御にも繋げて考える必要がある。だが、それがななかな上手くいかないからこそ、合気道は面白い。

そして、ぼく自身がまさに合気道の上達の踊り場にいて、今伸び悩んでいる要素が、まさか<弱いロボット>の読書体験を通じて繋がっていくとは思いも寄らなかったので、これだからこそ読書っていいな、と改めて感じた。

筆者はこれに関連して、「まわりを味方につけながら、冗長な自由度の一部を減じてもらう」(p163)とも表現していていた。これは、子育てにも繋がってくる。

子どものケアをすることによって、僕の「冗長な自由度」はかなりの部分、減じることになった。それは7年間子育てをしていて、すごく感じる部分でもある。でも、「まわりの味方をつけながら」そのプロセスに身を投じることによって、ぼく自身の生き方の制御がだいぶできるようになってきたような気がする。仕事を何でも引き受けるのではなく、子育ての制約条件の中で、と限定することで、それは結果的に僕の寿命やQOLを高めることにも、つながっているのだと思う。42才までの、「はいかYESか喜んで」で何でも仕事を引き受けた働き方を続けていたら、今頃、ストレスで五大疾患のどれかにはひっかかっていたはずだ。49才でもルンルン読書が出来ているのは、ぼく自身の「冗長な自由度」を制限する娘という外部制約状況のおかげなのである。

という感じで、ロボットの本だと思い込んでいたら、それは人間と非人間の関係性であったり、ぼく自身と社会の関係性を捉え直す、リフレーミングするきっかけを与えてくれる優れた一冊だった。ジュニア新書で読みやすいけど、豊かな学びや考える契機を与えてくれる良書です。

アーギュメントを鍛え直す

ぼく自身は博士論文を書いた後、大学の教員になって20年になる。

いちおう、「研究者」という肩書きで暮らして居る。査読論文も書いているし、逆に査読する側になることも多く、去年から二つの学会で学会誌の編集委員もして、査読プロセスそのものにコミットしていたりもする。

ただ、僕は指導教員がジャーナリストだったので、アカデミックな論文の書き方は教わらなかった。今と違い、四半世紀前は大学院でもアカデミックライティング講座もなく、独学で書き方を試行錯誤してきた。論理的な文章の書き方を真似て学んだのは内田樹先生の著作やブログであり、論文の書き方については伊丹敬之さんの『創造的論文の書き方』(有斐閣)をボロボロになるまで読み返していた。

今回、阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社)を読んで、自分が独学で試行錯誤してきたことを、実にロジカルでわかりやすく端的に書いてくれていて、心底納得したし、「僕が大学院生の時にこの本に出会いたかった!」と嘆息した。その理由は何か。論文の本質を次の一言で射貫いているからだ。

「論文とは、アーギュメントを論証する文章である。」(p27)

アーギュメントとはなにか。これも一言で表現してくれている。

「アーギュメントは反証可能なテーゼでなければならない」(p21)

そして、弱いアーギュメントと練り上げられたアーギュメントを、以下のように対置させている。

弱いアーギュメント:「アンパンマン」は男性キャラクターばかりを描く(p23)

練ったアーギュメント:「アンパンマン」においては、男性中心主義的な物語が女性キャラクターを排除している(p24)

この二つの違いはなにか。阿部さんによると、それは英語の他動詞(SVOにおけるV)の役割だ、という。主語と目的語の関係性をどのような他動詞として表現するか、の違いである。弱いアーギュメントであれば、「描く」という他動詞だが、練ったアーギュメントであれば「排除している」という、より限定的で具体的な他動詞が表現されている。それと共に、アンパンマンで男性キャラが多い、というぼんやりとした問題意識ではなくて、「アンパンチ」がばいきんまんを駆逐するという「典型的なオチ」を指して、「男性中心的な物語」と主語にしてみると、その物語形成では、女性キャラが周縁化=排除されている、という他動詞が生まれてくる。そして、練り上げられたアーギュメント(=反証可能なテーゼ)を「それは本当か? どういうことか?」と、事実と論理で説得的に論証していくのが論文である、というのだ。

それを早く知りたかった!

論文は書いているけど、ずっと不全感があり続けていた。書きたいことは一杯ある。でも、それをどう書いたら、アカデミズムのなかで通じるが、未だに分かっていなかった。日本の精神医療に関して、障害者福祉政策について、支援者エンパワメントについて・・・言いたいことは一杯ある。でも、学会発表をしても、みんなあっけにとられて、まともに話を聞いてもらえない。質問もしてもらえない。そんなトホホな日々が続いていた。それについても、阿部さんの言葉にドキッとさせられる。

「アカデミックな価値は、多くの読者が『面白い』と思ったときに発生するのではない。それは、先行研究を引用し、自分のアーギュメントが現行の『会話』を刷新するものであることを示すことによって、自分でつくるものである。それを評者が間違いなく把握できるように書くことは、筆者の責任なのだ。」(p33)

そして、この「会話」については、以下のように表現されている。

「この「会話」とは、特定のトピックに興味を持つ論者たちが現在どのようなことを話していて、現状どんなコンセンサスが取れているかという、トピックの周辺をとりまく意見の総体のようなもの」([33)

僕はアカデミックな価値や「会話」を重視していなかった。申し訳ないけど、学会誌にはあまり興味の持てる議論が載っていないので、それよりも自分が面白いと思うことにエネルギーを集中してきた。だから、学会発表をしても、その学会・領域の先行研究を充分に押さえることより、自分が面白いと思う内容の発表に集中する。すると、一部の人に面白いと思ってもらえる一方、「現行の『会話』」を熟知している人々に、白い目で見られてきた。全然興味を持ってもらえなかったのだ。いや、それだけではない。僕が研究テーマにしている福祉領域は、支援現場の実践がある。そっちの方に興味関心が向いていて、その支援実践に関するアカデミズムの議論や会話への目配せは、正直なところ二の次になっていたのだ。学会にはもう縁がないのかな、と半分諦めていた。

で、そんな学会とか査読論文はつまらない、と興味関心が遠のいていった反面、伝えたい何かはあるので、単著を出したり、最近ではエッセイや新書を書いてきた。6冊目の単著は、このブログが元になった本で数日前に脱稿したところだし、7冊目に今書いているのは、新書である。ありがたいことに依頼論文もコンスタントにお受けするし、共著も2冊もうじき出る予定である。だが、査読論文はしばらくご無沙汰である。こうやって「面白さ」を重視していると、査読論文にエネルギーが注げない自分自身がいた。

ただ、昨年から社会人院生が入ってきてくれ、来年からの院生希望の人も出てきた。そのタイミングで、指導のため、というより、率先垂範するためには、もう一度学会発表や査読論文にもエネルギーを注がないとな、と感じていたところだった。だから、この本も読んでみた。

このアーギュメントに関するテーゼだけでなく、パラグラフやイントロダクション、結論をどう練り上げていけばよいか、も非常にプラクティカルで役に立つ助言だった。実際学部生や院生指導においては、この部分で学生たちとディスカッションしたり、演習問題に取り組んでもらうと、かなりの力になると思う。でも、おっさん研究者の僕がもっともしびれたのは、最後に述べられた、以下の部分だった。

「論文を書くとは、世の中になんらかの新しい主張をもたらし、それを説得的に論証することで、人びとの考えを変えようとする行為にほかならない。
そこそこ論文が書けるようになり、『とにかく書けるものを書かなければならない』という切羽詰まった状態を抜けると、なにを書き、なにを書かないか選択できる余地がうまれる。だが、これは『余裕』であるばかりではない。『なぜ、ほかならぬ自分が、その特定のアーギュメントを提出し、人びとの考えをそちらの方向へ導こうとするのか』という問いに直面させられることでもあるからだ。
このような意味で、人文学とは本質的にポリティカルな営為である。論文は、あなたが『言いたい』かどうかにかかわらず、なにかを言ってしまうことになる場なのだ。自分はなにを『言いたい』のか、どんなことを主張する研究者として生きてゆきたいのか。それは、目先の論文を書くためのリサーチ・クエッションなどよりも、何倍も重要な『問い』であるように思われる。」(p150-151)

阿部さんは1987年生まれで今年37才である。ぼく自身が37才だった2012年にはじめて出した単著は『枠組み外しの旅—「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)だった。この本は、阿部さんの語りを用いるなら、「自分はなにを『言いたい』のか、どんなことを主張する研究者として生きてゆきたいのか」を問い続ける中で、書かざるを得なかった一冊である。論文としてそれをどうまとめてよいのかわからなかったので、気がつけば単著として仕上がってしまった一冊でもある。

そして、阿部さんはアカデミックライティングに関する非常に役立つ=実践的な教科書の最終章に、敢えて実存的な問いを差し出された。これは、決定的に重要だと僕は思っている。もちろん、査読論文を沢山書いて、業績を積んで、アカデミックキャリアを積み重ねること「も」、研究者として「飯を食う」ためには大切だ。でも、一体なんのために研究者を続けているのか? この再帰的な問いは、『なぜ、ほかならぬ自分が、その特定のアーギュメントを提出し、人びとの考えをそちらの方向へ導こうとするのか』という問いにも繋がる。

「論文を書くとは、世の中になんらかの新しい主張をもたらし、それを説得的に論証することで、人びとの考えを変えようとする行為にほかならない。」

そう、ぼく自身は今の生物学的精神医学が跋扈する、精神病院大国である日本の精神保健福祉がおかしいと思っている。精神病院では虐待が起こり続けているのに、いまだに「必要悪」とされてしまうのはなぜか? ケアマネや相談支援専門員などの支援者が精神障害者を怖いと思い、地域生活支援が不十分で、何かあったら精神病院送りになってしまうのは、なぜか? どうやったら病院中心主義から、地域生活支援中心に制作を転換出来るか?・・・と、言い出したらキリがないほど、変わってほしいことは沢山ある。だからこそ、「世の中になんらかの新しい主張をもたらし、それを説得的に論証することで、人びとの考えを変えようとする行為」とちゃんと向き合わなければならないと思っている。それは、最初の単著を書いた12年前も今も変わらない。でも、簡単には変わらないから、と、ここしばらくは精神医療の論文を書くことからも遠ざかってきた。

そんな僕でも、この阿部さんの本に出会ったことによって、やっぱりもう一度、日本の精神医療に関するぼく自身のアーギュメントを、この本を補助線に鍛え直し、「人びとの考えをそちらの方向へ導」くような論文を書けたらいいな、という欲望が生まれてきた。そういう意味では、最近査読論文から遠ざかっていたおっさん研究者への「欲望形成支援」をしてくれる、優れた一冊でもあった。10月に授業が再開される前に、自分自身のアーギュメントを鍛え直す練習から、はじめてみたい。