ある人を表題に掲げた優れた入門書とは、論じる対象者だけでなく、その対象者が追いかけているテーマについてもよい見通しを付けてくれる。今回、ふと気になってよくわからなずに読んだ一冊は、そんな読後感をもたらしてくれた。バトラーという思想家が『ジェンダー・トラブル』という本を書いているのは、クイズ王的知識で知っていた。でも、バトラーという人がどんな人で、その本は何を書いているのか、さっぱり分からない中で読んだ本は、目が覚めるような鮮やかな記述で一杯だった。
「ラディカル・フェミニズムが『家父長制』という男性優位主義を問題にしたとすれば、レズビアン・フェミニズムはさらに、『家父長制』が社会の基盤的な制度といての『異性愛』と密接に関わっていることを問題にし、批判するものだった。つまり、ラディカル・フェミニズムは男女間の非対称な関係を問題にはしたけど、『異性愛』に関しては自明視していて、『異性愛』を家父長制という制度の根本問題として焦点を当てたのがレズビアン・フェミニズムだったと言える。」(藤高和輝『バトラー入門』ちくま新書、p32)
家父長制や強いパターナリズムという男性優位主義は確かに変だしおかしいと思っていた。でも、自分自身はいまのところ異性愛と自認しているがゆえに、この自らの前提自体を疑うこと、つまりは「『家父長制』が社会の基盤的な制度といての『異性愛』と密接に関わっていることを問題にし、批判する」ことを、してこなかった。そして、それ自体が問題を作りだしている、とロジカルに指摘されると、全くその通りなのである。
「そしてまさに、この『不確実性』—つまり、オスに生まれたら男になるというわけではな必ずもないこと、男だったら女性を性的な対象とするわけでは必ずしもないこと、男っぽかったらベッドで能動的であるというわけでは必ずしもないこと、メスに生まれたら女になるというわけでは必ずしもないこと、女なら男性を性的な対象にするというわけでは必ずしもないこと、女っぽかったらベッドでは受動的であるというわけでは必ずしもないこと、等々—、その肯定こそ、『ジェンダー・トラブル』の核心にあるものだ。あるいは、この『不連続性』の観点からジェンダーを読むこと、それが『ジェンダー・トラブル』の試みなんだ。」(p96-97)
この短い文章で、著者は6回も「ない」を強調している。逆に言えば、異性愛規範が染みついているマジョリティ(例えば僕自身)は、こうやって一々否定されないとわからないほど、当たり前の認識として刷り込まれているのだ。おちんちんがついているのだから男であるのは、当たり前。その男が性的な欲望を持つのは当たり前。女のひとはベッドでは受動的なのは当たり前・・・。こういう「当たり前」の価値前提にくさびをうつ。
ちなみに「不連続性」とは「欲望のスタイル」と「ジェンダーのスタイル」との間の「不連続性(discontinuities)」と筆者は表現しているが、女っぽかったとしてもベッドでは能動的な人がいるし、男でも男性を性的に対象にする人もいる。その意味で、「欲望のスタイル」と「ジェンダーのスタイル」が必ずしも連続している訳ではないというのが、「不連続性」だし、私たちがジェンダーってこういうものと思い込んでいることを不確定にさせ、異性愛規範の常識を困惑させる(トラブルに陥らせる)のが『ジェンダー・トラブル』だと言われると、バトラーの当該本を読んだことがなくても、なるほどと頷く。それはぼくたちのジェンダーの価値前提を激しく揺さぶっているのだと。
「一般に『生来の本質』が『外側』に表出されたものとして考えられがちなジェンダーという『行為』だが、実は、その『行為/パフォーマンス』の反復や積み重ねによって、『内側』にあるとされている『本質(と想定されているもの)』があたかも最初から存在するかのように事後的に作られていく、というのがバトラーの見方だ。」(p74)
これは娘の服を見ていると、わかる。赤ちゃんのころの「おくるみ」はユニセックスというか、男女の見分けがつかない。そして、乳幼児で男の子っぽい服を着せている子は、女の子には見えないときがある。ただ、親はその子のジェンダーに合わせた服を買おうとする。我が家のパートナーは、そこを意識して、ピンクなど女の子っぽい色味の服を買い与えようとしてきた。僕が青色の靴などを買おうとすると、「それはダメ!」と即答していた。これは、「『生来の本質』が『外側』に表出されたもの」ではなくて、女の子なんだからかわいい服じゃないと、という異性愛規範の親がピンクの色の服を買って子どもに着せるという「『行為/パフォーマンス』の反復や積み重ね」があって、娘の「『内側』にあるとされている『本質(と想定されているもの)』があたかも最初から存在するかのように事後的に作られていく」プロセスを、親の僕自身が見てきたので、めっちゃわかる。
そして、バトラーはこのことを「ジェンダー・パフォーマティヴ・モデル」と命名した。なるほど、パフォーマンス(行為)によってジェンダーが事後的に作られていくんだね。確かに。
「今風に、そして皮肉を込めて、言い換えるなら、『あいつは女じゃない』とジャッジするあれらの連中、『女の子らしくしなさい』と余計なお節介を働く人たちは語の厳密な意味で社会構築主義者なのである。つまり、彼/女らは(自覚はないだろうけどさ)、『ジェンダーが生まれつき決定されるものではなく社会的に構築されるものであるという事実』を私たちに実は教えてくれていることになるんだ(どうもありがとう!・・・なんてね)。」(p109)
ルビンの壺の例も出てくるが、これぞ文字通り図と地の反転のような鮮やかな整理である。『あいつは女じゃない』『女の子らしくしなさい』と何の疑問もなく・考えることなく口から出てしまう人って、「これこそが女だ」「女らしさはこうだ」というのには何の疑いも持っていない、という意味で、本質主義者のように社会的に評価されてきただろうし、本人もそこを一ミリも疑っていない。でも、その言説はまさに先に取り上げた、ジェンダー・パフォーマティヴ・モデルそのものなのである。女らしい仕草を躾ける、強制することによって、女らしい行為がその人に身につき、その人は初めて女として認定される。これは、社会の中で女として構築されていく、という語の厳密な意味で、社会構築主義者なのである。本質主義者と自分でも思い込んでいる人が、社会構築主義者だったとは!
「彼/女らは(自覚はないだろうけどさ)、『ジェンダーが生まれつき決定されるものではなく社会的に構築されるものであるという事実』を私たちに実は教えてくれていることになるんだ(どうもありがとう!・・・なんてね)。」
なんと痛快で、今風で、皮肉を込めた、かつ論理的でぐうの音も出ないステートメントだろう。そして、藤高さんは「はい、論破」と切り捨てるような決めぜりふの場面でこそ、「自覚はないだろうけどさ」とか「どうもありがとう!・・・なんてね」という「柔らかい言葉」を意図的に差し挟む。ジェンダーに関係なく、ロジカルな文章は言い切りで強い言葉(敢えてそれを男性的な・家父長的な言葉、と使ってみたくなる)で運用するのが「当たり前」とされている学術界を熟知しながら、決めぜりふで「どやさ!」とぐうの音も出ないほど見得を切る場面で、きちんと「自覚はないだろうけどさ」という言葉を差し挟み、アカデミックな文章とはこういうものだと思い込んでいる人の常識を揺らす(トラブルさせる)。このあたりも、さすが!である。
この藤高さんの下敷きがあるからこそ、バトラーの『ジェンダー・トラブル』の序章の言葉が響いてくる(引用は藤高さんの本から)。
「『可能性を開くこと』がいったい何の役に立つというのかと疑問に思う人もいるかもしれないが、社会的世界のなかで『不可能な』もの、意味不明なもの、実現不可能なもの、非現実的なもの、おかしなものとみなされながら生きるということがどんなことであるか理解している人の中にはそのような疑問を投げかける人はいないにちがいない。」(p168)
この記述を読んで、この社会において「狂った人」とラベルが貼られた人が置かれている状況と構造的同一性がある、と繋がってきた。
幻覚や妄想、幻聴がある状態の人をさして、そうではない人は、あの人はオカシイとラベルを貼る。すると、ラベルを貼られる側は、「意味不明なもの、実現不可能なもの、非現実的なもの、おかしなものとみなされながら生きる」ことを強いられる。これはその人の内在的論理や唯一無二性を毀損されることでもある。一般の人に聞こえない声が聞こえたり、感じ方が違っても、それは間違っている訳でもオカシイ訳でもない。その人なりの内的真実(=アクチュアリティ)がありありとある。それを「不可能」だと閉ざすことは、マジョリティの横暴である。(このことについては昔、「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて」という論文を書いたことがある。)
だからこそ、クィア理論はmad studiesとある種の価値前提を共有しているのだな、とやっと繋がってきた。
「クイア(queer)というのはもともとは『変な』とか『奇妙な』とかを意味する形容詞なんだけど、そこから派生して、セクシュアル・マイノリティに対する侮蔑語として用いられるようになった言葉だ。日本語に直訳すれば『おかま』とか『変態』と訳すことができる。他者をいじめたり、傷つけたり、侮辱するために用いられるから、基本的には他称として用いられる言葉だ。ということは、『クィア・セオリー』とか『クィア・スタディーズ』というのは直訳すれば、『変態理論』とか『おかま研究』になるだろうか。なかなかインパクトのある“きつい”言葉だということがわかると思う。」(p219)
この文章を書き写しながら、藤高さんは実に知的に誠実で、相手にわかってほしいという思いに溢れていると感じた。「これくらいわかって当然だろ!」と自分の価値前提を相手に押しつけることなく、相手のわからないところに関して、相手がわかるレベル・理解できる価値前提まで立ち戻って、丁寧にひもとく。「変な理論」であれば、その言葉の意味性がわからない。でも、『変態理論』とか『おかま研究』とまでハッキリ表現してくれることで、そう自称することは、「なかなかインパクトのある“きつい”言葉だということがわかる」のだ。この知的誠実さによって、ぼくはクィア理論の名称の背景が、やっと少しずつ、わかりはじめた。そして、精神病院を廃絶した医師フランコ・バザーリアの言葉に行き当たる。以前書いたブログを引用しておく。
『精神疾患が存在しないなんて、私は言ったことはない。精神疾患という概念を私は批判するが、狂気を否定しはしない。狂気は人間的な状況だからである。問題は、この狂気にどのようにして向き合うかということである。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとり、そしてこの[狂気の]必要性にどう応えることができるだろうか。』
バザーリアが言った「狂気」を「クィア」と言い換えてみたくなる。
「精神疾患という概念を私は批判するが、クィアを否定しはしない。クィアは人間的な状況だからである。問題は、このクィアにどのようにして向き合うかということである。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとり、そしてこの[クィアの]必要性にどう応えることができるだろうか。」
実は半世紀以上前までは、同性愛を異常性愛とか倒錯などのラベルを貼り、精神疾患と同定し、治療の対象としてきた。実際には治療は出来ないので、隔離収容の対象になってしまっていた。その意味では、政治犯を精神疾患とラベルをはるのと同じような、「政治的倒錯」を精神科医は同性愛者に対してしてきた。その背景には、家父長制の前提である異性愛を所与の現実として受け入れて、同性愛者を抑圧してきた歴史に、精神医療も加担してきた。その意味で、精神疾患という概念は厳しく批判されなければならないが、クィアは人間的な一つの状況として肯定されるべきだ。バザーリアの狂気の肯定の論理は、同じように『変な』とか『奇妙な』とされてきたクィアにも当てはまる。
その意味で、普段無意識・無自覚に使ってしまう「私たち」という表現そのものをも、藤高さんは問う。
「『家父長制』が“すべての女たち”に対する差別や暴力を説明する概念として振りかざされてしまうと、例えば『白人女性』と『黒人女性』『第三世界女性』・・・、それらの『女たち』の経験はみな『家父長制によって性差別を受けている女性』として一様に同じものとして扱われてしまうことになる。その結果、それらの『女たち』のあいだにある際は無視され、それどころか、西洋フェミニズムの下に『植民地化』されてしまう。」(p107)
家父長制を糾弾するために“すべての女たち”と使うことによって、異性愛のフェミニストはレズビアン・フェミニストの異性愛原則を押しつけられ、異性愛フェミニズムに「植民地化」されていた。そのことへの強烈な異議申し立てはこのブログの冒頭でも述べた通りである。同じように、「白人で中・上流階級で健常者の女性」のフェミニズムが是とされると、別の経験をしている「黒人の」「下層階級の」「障害のある」女性の差異のある経験が無視され、「植民地化」されてしまう。このような一元的な植民地化に抗うために、「交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する概念」としてのインターセクショナリティ概念が出てきた(このことについてはブログでも検討しています)。
藤高さんもこのインターセクショナリティが産まれてきた背景についても言及している。
「現実に存在しているのに『いないことにされる』ことになってしまうという差し迫った状況があったんだ。まさにそのような『抹消』に抗して生まれのが『インターセクショナリティ』なのである。」(p181)
これも以前ブログに書いたが、米津知子さんという女性障害者運動家が「モナ・リザ」にスプレーした事件を思い出してみても、米津さんは障害があり女性であるという二重の抑圧経験を持ち、「現実に存在しているのに『いないことにされる』ことになってしまう」というリアリティに対して、まさに「抹消」に抗してああいう行動を取ったのではないか、という妄想すら浮かぶ。
長々と書いたが、最後に藤高さんの知的誠実さが現れている場所をもう一カ所だけ引用しておきたい。それは『ジェンダー・トラブル』の日本語訳者である竹村和子さんへの言及箇所である。藤高さんは、原著を読んだ上で、竹村さんの翻訳とは違う解釈をいくつか提示している。その上で、以下のように言明している。
「読者のなかには私が竹村さんの訳に“いちゃもん”や“難癖”をつけているように思う人もいるかもしれない。でも、私は竹村さんの翻訳を介してバトラーに出会ったし、竹村さん自身の著作や論文に多大な影響を受けた人たちのひとりだ。もし竹村さんがいなければ、研究者としての私の存在は影も形もなかったにちがいない。だから、私が竹村さんの訳に“いちゃもん”や“難癖”をつけているにしても、それは私の竹村さんへの愛の表明、彼女に対する私なりの恩返しと考えて欲しい。」(p121)
この本を通じて、藤高さんはものすごく聡明でロジックもクリアだ、と受け取った。だが、自分の情報処理能力やCPUの高さを「はい、論破!」という形で相手を毀損するために用いていない。「私が竹村さんの訳に“いちゃもん”や“難癖”をつけているにしても、それは私の竹村さんへの愛の表明、彼女に対する私なりの恩返しと考えて欲しい」という言明は、自らの「すごさ」を賢しらに主張するのではなく、竹村さんの翻訳があったからこそ自分がいま・ここにいるのです、という先達への敬意溢れた表現である。そしてまさにそれこそ、アカデミズムの「正統派」なのである。
「『引用とは』、とサラ・アーメッドは語っている。『アカデミックなレンガであり、わたしたちはそれを使って家を建てる』。たとえば、『哲学』は明白に、白人の、異性愛者の、シスジェンダーの、健常者の男性たちからの引用=レンガから成る建造物である。その建造物はある人たちにとっては居心地のよい住処であり、ある人たちにとっては居心地の悪い場所であり、目の前に高く聳え立つ堅牢な壁である。引用—誰を、何を、どのように引用するのか—は決して事実中立的な行為ではない。それは政治的な行為なのだ。」(p257)
先行研究を引用する事は、一見すると価値中立であり事実中立的な行為に思える。でも、「『家父長制』が社会の基盤的な制度といての『異性愛』と密接に関わっていることを問題にし、批判する」論者の先行研究を引用しなければ、気づいたら異性愛規範を前提としている可能性がある。狂気を否定し精神疾患のみを肯定する言説を引用するうちに、生物学的精神医学の狭隘な枠組みから出られなくなってしまう(この問題点も、他のブログに書いてみた)。
つまり、藤高さんやバトラーは、「政治的な行為」として意識的・自覚的に引用している。だからこそ、本書の冒頭でファックやブッチやフェムなどの、学術書ではあまり見ない表現を引用して議論して、最初面食らったが、読み終えてみれば、そこに面食らう僕自身が「ジェンダー・トラブル」に面食らうという意味で、大切な通過儀礼への誘ってくれたのだ。この力量、しかもこの軽やかな文体で、本質を射貫く文体は、ほんまにすごいと思った。藤高さんの他の著作だけでなく、おずおずとバトラーの『ジェンダー・トラブル』も注文してみることにした。読めるかはわからないけれど。