以前、四半世紀かけて読めた本としてハーマンの『心的外傷と回復』をブログで取り上げた。今回そのハーマンが前著から30年後に書き上げたのが、今日のブログで取り上げる『真実と修復:暴力被害者にとっての謝罪・補償・再発防止策』(みすず書房)である。
ハーマンは、本質的な事を語る。であるがゆえに、読むと心がえぐられる。それは、僕たちが直視したくないけど、厳然として存在している、この社会の裏ルールのようなものをしっかりあぶり出す事が、「真実と修復」につながるからだ。
「どんな暴君も(彼の妄言に反して)全知全能であることはない。専制支配が続くのは積極的加担あるいは受動的黙許をする大勢があるためである。逆に言えば、それまで傍観者であったものが一歩踏み出して傷つけられたものの側に立つとき、専制は崩れはじめる。暴君につけられた傷を癒やすことは、その周囲にいる人々、つまり当事者だけでないより大きなコミュニティが倫理的責任を自覚して連帯することから始まる。真実を探し出して知ろうとする勇気を手放してはならない。」(p36)
いじめやハラスメント、暴力といった「専制支配が続くのは積極的加担あるいは受動的黙許をする大勢があるためである」。つまり、専制支配に加担しているのは、「受動的黙許」であれ傍観者がそれに異議申し立てをしないからである。ゆえに、「それまで傍観者であったものが一歩踏み出して傷つけられたものの側に立つとき、専制は崩れはじめる」。それには「真実を探し出して知ろうとする勇気」が必要になる。この勇気とは、まさかそんなことがあるはずがない、という常識や思い込みを横に置くことも含まれる。
「私見であるが、女性がお飾りでなくなるほど労働進出するようになると性暴力や搾取が語られるようになり、おもむろに『大掃除(housecleaning)』が始まるらしい。悪人の名を明らかにして、公衆の前に引き出し、権力の座から降ろす運動である。これは手が汚れる仕事だ、しかし誰かがやらなくてはならない。
精神医学界にもその一時代があった。八〇年代初頭、精神科医の女性比率が一五%をこえたころである。アメリカ精神医学会の女性委員会がそのタイミングで声を上げたのは偶然ではなかったはずだ。女性患者を著名医師達が性搾取しているのは周知の事実だった。」(p210)
これを読んで、思い出したことがある。四半世紀以上前、精神障害の当事者グループで出会ったHさんのことである。彼女はたびたび精神病院で性搾取を受けたことを、当時大学院生だった僕にも話してくれた。でも、まさか公立病院でそんなことがおこるはずがないと思い込んでいた。それに彼女はしょっちゅうその話をみんなに話しているし、彼女の話があちこちに飛び、脈絡もつかめず、突拍子もないことを言っているように聞こえてしまった。「恨み骨髄、あの世まで、やで!」としばしば仰っていたのだが、彼女の心的世界と現実世界はもしかしたら違うのかもしれない、と思い込んでいた。それはまさに「受動的黙許」の姿勢であり、精神症状故の「関係妄想」ではないかと勝手に価値判断をしていたのだ。これは、本当に赦されないことである。
これは加害者のDARVOと一致している。それは「否認、非難、責任転嫁(Deny, Attack, Reverse Victim and Offeender」の頭文字である(p65)。性被害者に対して「そっちもその気があったのではないか?」「そんな服装で歩くのが悪い」「あちらが誤解している」などという言い訳がパターン化されて繰り返される。僕の例で言うならば、まさか精神病院で性虐待が起こるはずはない、という否認の感情があったと思う。
そしてこのようなDARVOに繋がるのは、この社会に拡がる「ポルノ動画のイデオロギー」とは無縁ではない。
「『イエスはイエス、ノーはノーだ! 私がどんな服装をしているかに関係なく! 私がどこを歩いているかに関係なく!』と。ヒルシュ教授によれば『実践的』性教育(実際のデート場面に近いかたちでノーと声に出す練習をする)を受けた女性は、大学に入ってからのレイプ被害に遭う確率が半分以下になる。
『性の市民権』概念が男性に求めるものは、性関係が相互的であり同意にもとづいて結ばれるものだと学習することである。これはポルノ動画のイデオロギーを脱学習することでもある。女性たちが心の奥底では『モノ扱いされる』ことを望んでいる、というのがポルノ動画の基層にあるファンタジーである。ポルノ動画は『嫌がる女ほど悦んでいる』という思想を植えつけるものだ。」
「性関係が相互的であり同意にもとづいて結ばれるものだ」というのは、至極真っ当で何の疑いの余地もない内容である。でも、『イエスはイエス、ノーはノーだ! 私がどんな服装をしているかに関係なく! 私がどこを歩いているかに関係なく!』と女性が訴えなければならない背景には、「誘うような服装をしている」とか「夜中に一人で歩くのだから襲われても仕方ない」という「受動的黙許」が社会に蔓延しているからである。「イエスはイエス、ノーはノーだ!」であり、アカンもんはアカン、のである。
その上で、『性の市民権』を「学習」するために、「ポルノ動画のイデオロギーを脱学習」する必要がある、というのも、心から同意する。「ポルノ動画は『嫌がる女ほど悦んでいる』という思想を植えつけるものだ」というポルノ的ファンタジーの構造があり、それを男性は学習し続けてきたからである。そして、残念ながら僕自身も思春期に、「ポルノ動画のイデオロギー」に染まっていた。だが、その「脱学習」をしてくれたのは、他ならぬ今のパートナーである。
「現実世界では従属させられることに快楽をおぼえる女性はまれであるが、しかしそうであるみたいに振る舞わなければならないことが多いので、そのうち擬装するようになっていく。女性が育つのは、男性こそがセックスの主権者であると信じられている社会のなか、男の望むものを差し出すことが女の義務となっている社会のなかである。快楽を装うことはたいていうまくいくもので、これは若い男性の多くがパートナーの欲求を気にかけていないからである。本当に心から気にしていない場合もあるし、男を喜ばせる行為は女をも喜ばせるものだと信仰されている場合もある。」(p183)
僕のパートナーは、ありがたいことに擬装を全くしてくれなかった。「イエスはイエス、ノーはノーだ!」と僕にいつも伝えてくれていた。「男性こそがセックスの主権者であると信じられている社会のなか、男の望むものを差し出すことが女の義務となっている社会のなか」にあっても、嫌なものは嫌だ、とハッキリ口にしていた。付き合いだした当初、「僕の欲求を気にかけてくれていない」と逆上する時もあったが、よく考えたら、それは僕自身が「パートナーの欲求を気にかけていない」ということそのものである。そして、彼女と暮らす中で、支配従属ではない関係性を僕は学んでいくことになった。それが結果的には「ポルノ動画のイデオロギーの脱学習」であり、「性関係が相互的であり同意にもとづいて結ばれるものだ」という「性の市民権」の学習である。そして、こういうことを若いうちから学ぶためには、包括的性教育が本当に重要だと今なら痛感する。
そして、この本の中では「有害な男性らしさ(toxic masculinity)」より、より中立的な「制約としての男らしさ(restrictive mascurinity)」という呼び名が紹介されている(p186)。そしてこの「制約としての男らしさ」はすごく良い名称だな、と思う。
例えば、パートナーとの関係性をどう深めていけばよいか。それに関して、「ポルノ動画のイデオロギー」しか学習素材がないというのは、ずいぶん了見が狭いし、他者とほんまもんの関係性を深める上では有害であり大きな制約である。他者の気持ちや意見をどういうふうに尊重すればよいのか。そして私の気持ちや意見をどう伝えればよいのか。それを「相互的であり同意にもとづいて結ばれる」なかで、少しずつ深めて行く。それが関係性の豊穣さであり、お互いが「モノ扱いされる」ことのない、対等で対話的な関係性の構築である。それはスムーズに進まず、紆余曲折があるだろう。でも、そういうことも織り込み済みで、「イエスはイエス、ノーはノーだ!」とお互いにぶつけ合い、折り合いを付けていく。それがめっちゃ大切なのだと思う。
「暴力の根本にあるのは専制による支配である。これを防ぐには、相互性を学び、実践することだ。相互性とは民主主義における信頼と正義の土台石である。相互性のもとに生きることは皆にとっての利益であり、そのなかで生きることを私たちは幸せと感じrうだろう。」(p217)
他者をモノ扱いするのが、暴力や専制による支配の根源にある。だからこそ、その真逆である「相互性を学び、実践すること」が大切なのだ。それは、前回のブログでも引用した、「対等な存在としての人びとからなる社会」を基板づける「関係の平等主義」を模索する必要がある理由でもある。性虐待や性被害は、局所的で例外的な「他人事」ではない。「制約としての男らしさ(restrictive mascurinity)」が跋扈する社会では、残念ながら普遍的な出来事なのだ。だからこそ、それに抗して、関係の平等主義をどう模索できるか。これもすべての人にとって自分事の課題なのだろうと思う。
そして最後に、この本の訳者の阿部大樹さんが、「否認、非難、責任転嫁(Deny, Attack, Reverse Victim and Offeender」に関して、2011年の東日本大震災の後の原発からの「自主避難者」にも当てはまるのではないか、と指摘していたのも、重要である。あたかも原発事故がなかったかのように「否認」したり、再開発を進めようとする。あるいは被曝への不安ついて「科学的ではない」と「非難」する。ましてや、自主避難する人に「賠償金目当てだ」とあたかも本人のせいであるかのように「責任転嫁」する。これらは、日本政府や東京電力という加害者責任を放置し、暴力を被害者に押し付けるという意味で、まさに性被害者と同様の構造である。さらにいえば、そこに支配—服従の構造も含まれている。こういうDARVOに対して、「積極的加担あるいは受動的黙許」をしてはならない。「それまで傍観者であったものが一歩踏み出して傷つけられたものの側に立つとき、専制は崩れはじめる」のだから、「イエスはイエス、ノーはノーだ!」と言い続けなければならない。これも大切な視点なので、メモしておく。