野口裕二さんの『新版 アルコホリズムの社会学:アディクションと近代』(ちくま学芸文庫)が文庫で出たので、初めて読む。30年前にでた元の本を「書誌情報」として知っていたが、読む機会がなかった。家族療法やオープンダイアローグ、信田さよ子さんの本を読み漁ってから本書にたどり着いたら、30年前のこの本の迫力がやっと理解出来るマインドセットになっていたようだ。おかげで、赤線引きまくり、ドッグイヤーしまくり、である。
色々しびれるフレーズがあるので、それを引用してみたい。
「欲求を意思で制御するという考え方は、まさしくわれわれの生きる時代を支配する理性主義にほかならず、同時に、われわれの常識をかたちづくっている近代合理主義とも通底している。つまり、意思の敗北を認めることが自己否定を意味してしまう時代にわれわれは生きている。だからこそ逆に、『意思の病』というアディクションが、ある種の信憑性をもって成立してしまうのである。この意味で、アルコホリックとはまさしく時代の犠牲者であるといえよう。アルコホリズムとそのスティグマは、われわれとわれわれの時代を映し出す鏡のような役割を担っている。」(p41)
「欲求を意思で制御する」=自制心、とは、確かに言われてみれば、「理性主義」であり「近代合理主義」の支配下にある。コントロール可能なものとしての自己を想定する。逆に言えば、自己がコントロール不能な状態になると、「意思の敗北」とされ、自己否定もするし、他者からも当然否定や非難の眼差しを浴びる。これは、アルコホリズムだけではなく、摂食障害や薬物依存など、依存症全般に対して貼られるスティグマである。あるいは、ダイエットが出来なくて肥満体であるとか、ゴミ屋敷状態とか、そういうものにも貼られるスティグマである。「意思の敗北」に対して「ちゃんとしていない」という日本語が付与される。
だが、「ちゃんとする」=「欲求を意思で制御する」ことが出来ない人は、そうしたくてしている訳ではない。そうしたいのだけど、出来ない状況に構造的に追い込まれている。この本は、その構造を解き明かす本である。
アルコール依存症の当事者グループ出るAA(アルコホーリクス・アノニマス)についての説明の中で、以下のような記述がある。
「ここで参加者は認識論上の転回点に立たされている。規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想自体が間違っていたのではないかという疑念を抱く。これが『底付き』とは別のもうひとつの転換点にほかならない。そもそも、お互いに『言いぱなしの聞きっぱなし』という非日常的なルールの中では、質問と応答という日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬は期待できないという当然の事実に気づく。結局、日常の集まりにおいて要求される規範探索活動がこの場では無効であること、規範探索による『適応』が実は不適応であるという逆説に辿りつくのである。
こうして、他者や環境から何かを引き出すのではなく、ただ自分自身のために参加し、自分が表現したいことを表現し、その結果を自分で引き受け、そうすることの心地よさを経験すること、それ以外に参加を動機づけるものが何もないことに気づかされてゆく。それは、酒をはじめとして感情や行動をコントロールすることのみに集中していた意識が、そうしたコントロールを諦めて何らかの状況に身をまかせ、それをそのまま引き受けることを認める状態に移行したことを意味する。これこそが、対人関係パターンに関する認知レベルの変化にほかならない。」(p131-132)
「規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想」というのは、「欲求を意思で制御するという考え方」そのものである。空気を読んで、同調圧力に従うのも、村八分にされないという意味で、他者評価という報酬効果を得ようとしている。この発想を常識と捉えて、それが出来ないと自己否定するのが、アルコホリズムである。一方、アルコホリズム当事者の自助グループであるAAでは、『言いぱなしの聞きっぱなし』の原則がある。これがなぜ効果的かといえば、「質問と応答という日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬は期待できない」状況を作り出すからだ。それは、一言でいえば、「規範探索による『適応』が実は不適応である逆説」と直面するからである。
この表現を書き写しながら、アルコール依存症で亡くなったある人のことを思い出していた。彼は、人生の最期において、「酒をはじめとして感情や行動をコントロールすることのみに集中していた」。そして、悪循環に陥っていた。そして、彼の家族を振り回していたのもあって、彼自身には『意思の病』というラベルが貼られていた。しかし、彼自身が「日常的コミュニケーションがもたらす評価や同意や賞賛といった報酬」を必死で得ようと頑張っていたことも知っている。いや逆に、常に他者の目を気にし、「規範を探り当て、適応を果たし、なんらかの報酬効果を得ようという発想」に縛られていたのではないか、と思う。彼はアルコール病棟に入ったけれど、断酒会やAAには繋がれなかった。その背景には、彼自身の生きる苦悩の最大化した姿があった。
あまりにも過酷な現実から逃れようと、思春期で家出をして以来、彼は、「ただ自分自身のために参加し、自分が表現したいことを表現し、その結果を自分で引き受け、そうすることの心地よさ」を持てないままでいた。結婚し、子どもが産まれ、孫に恵まれた後も、「他者や環境から何かを引き出す」ことでしか自分は承認されない、と思い込んできた。過剰に他者評価に怯え、「「規範探索による『適応』」を過剰に求めるも、それがうまく得られず「飲むしかない」という形での「不適応」に陥っていた。おそらくは、彼は必死になって他者評価に過剰適応しようとし、他者評価とは関係のない自分自身の「心地よさ」を見つける回路を見失ったまま、命を終えたのだと思う。
「ギデンズは、アディクションを近代に特有の概念と捉える。なぜならば、伝統的な社会においては、毎日が同じことの繰り返しであり、その繰り返しをことさらあげつらうことは意味をなさないからである。近代以降、単なる繰り返しではないみずからの選択に基づく生活のスタイルが称揚されるようになってはじめて、単なる繰り返しがネガティブな意味をもつようになる。したがって、『アディクションは、自己を再帰的に形成することが近代後期において中心的な課題になってきた度合いをネガティブなかたちで示す指標となる』。ここでいう『再帰的』(reflective)とは、不断の反省と修正ということを意味する。単なる繰り返しであってはならないという規範が浸透すればするほど、単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる。」(p194)
もともとの農業や漁業、あるいは工場労働でもベルトコンベア式労働までの時代は、「毎日が同じことの繰り返し」であった。辛くてしんどくても、反復さえできれば、それで生活がなりたった。だが産業革命以後の近代では、「単なる繰り返しではないみずからの選択に基づく生活のスタイルが称揚される」。この自己選択と自己決定の時代においてのキーワードが、「不断の反省と修正」を意味する『再帰的』(reflective)である。そして、同じことを繰り返すことが苦痛ではない人にとって、「単なる繰り返しであってはならないという規範が浸透すればするほど、単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる」というのは、恐怖に近い。
ぼく自身は、受験勉強という「不断の反省と修正」が必要とされる再帰的な営みに放り込まれ、サバイブしてきたので、「自己を再帰的に形成すること」を内面化してしまった。(だから子育てでも、「とほほ話」ばかり書いている)。一方、先ほど触れたアルコール依存で亡くなった彼は、逆に「同じことの繰り返し」が得意だった。僕はそれがめちゃくちゃ苦手なので、性格特性の違い、とも言える。ただ、「単なる繰り返しであってはならないという規範」が他者評価と結びついた時、自分が苦手なことをし続けなければならない、という恐ろしい恐怖にさいなまれる。そして、その恐怖と向き合うために、アルコールという「薬」を必要としていたとも言える。そして、アルコールに頼り続けるという「単なる繰り返しがネガティブなものに見えてくる」ことがわかっていても、その悪循環から抜け出せなくなってしまったのかもしれない。
でも、これはぼく自身にも当てはまる話である。
「許容されるアディクションと許容されないアディクションという問題も、同様の論理で説明がつく。仕事は長いあいだアディクションという非難を免れる聖域のひとつであった。アディクティブであることが、むしろ、当然視され推奨される数少ない領域のひとつであったとさえいえる。このように考えると、ここで生じている変化とは、仕事とその達成によって定義される自己から、仕事と仕事以外とをバランスよくこなすことによって立ち現れる自己へという自己像の転換であることがわかる。ワーカホリックの概念の登場もまた、共依存の概念と同様、自己というフィクションに課される達成課題の変化を示しているのである。」(p202)
ぼく自身は、子どもが産まれる以前はワーカホリックというアディクションに陥っていた。だから、子育てをはじめて、仕事が出来ないときに、禁断症状が発症して、「今日は何も出来ていない!」と深いため息をついた。そのことは『家族は他人、じゃあどうする?』でも描いている。そして、それは昭和的働き方のデフォルトだった。だが、90年代から30年以上かけて、「仕事とその達成によって定義される自己から、仕事と仕事以外とをバランスよくこなすことによって立ち現れる自己へという自己像の転換」が進んでいる。それは、「自己というフィクションに課される達成課題の変化」である。ちょっとキツい言い方をすれば、ぼく自身は子育てを通じて、「不断の反省と修正」を意味する『再帰的』な振る舞いができ、「達成課題の変化」に結果的に適応出来てしまった。でも「仕事とその達成によって定義される自己」から逃れられない多くの人は、「ワーカホリック」という同じパターンの繰り返しの悪循環に陥っている、と見なされる。それは、前回のブログを参照するなら、学習Ⅱを刷新する学習Ⅲの機会から疎外された状態であるとも言える。そして、先に例に挙げた彼も、アルコホリズムという学習Ⅱの悪循環から逃れることは出来なかった。
「アディクションの概念は、エゴイズムとアノミーが相互にからまりあう現在の状況をうまく指し示すものであると考えることもできる。再帰性の規範が強まる現在において、エゴイズムのもたらす苦悩は、自己以外に献身対象をもてないことではなく、自己への献身を手抜きできないこと、自己への献身に最大の関心をはらわなければならないことへと焦点を移している。そして、その自己への献身に終わりはなく、まさに『無限性の病』という状態におかれる。一方、現代におけるアノミーは、欲望の対象を『自己』や『身体』へと移すことで、エゴイズムとの境界を曖昧にしている。つまり、現代的自己のおかれた状況は、エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開として描けるような性格をもっている。」(p208)
アルコール依存症の彼は、人工透析をしながらも、最もしてはいけない飲酒をし続けて、亡くなった。それを指して「意思が制御できなくなる病」とラベルを貼ることに、違和感を感じ続けていた。でも、野口さんの説明するように、彼はどんな状態でも酒を飲むことによって、「自己への献身を手抜きできないこと、自己への献身に最大の関心をはらわなければならないこと」にはまっていた。しかもそれが、死ぬと分かっている透析患者になった後でも、無間地獄のように強迫的に追い立てられた、という意味で、「『無限性の病』という状態におかれ」ていた。まさに、「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」は、彼の辿った人生でもあった。
「問題を解決しようとするからこそ、問題が解決しない。しかも、そのような行動を選択させているのが、ほかならぬ再帰性という規範である点が、さらに重要な点である。問題解決のための行動をみずからの判断で選択してよいからこそ、そして、選択しなければならないからこそ、こうした反復が生ずる。再帰性という規範は、しばしば、ある種の無限等比級数のようにわれわれの選択の幅を狭め、それを一点に収斂させていく。再帰性の規範それ自体が実質的にアディクションの行進を促す原動力となっているのである。」(p209)
にっちもさっちも行かない現実がある。そして、「問題解決のための行動をみずからの判断で選択してよいからこそ、そして、選択しなければならない」。この時、無限等比級数というのは、選択肢が無限大に発散するか、1つに収束するか、のいずれかである。そして、選択肢がありすぎてもなさ過ぎても、結局は「酒を飲む」という以前のパターン以外の選択肢を選べない状況に追い込まれてしまう。不断の反省と修正を促す「再帰性」が、「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」を生み出し、「再帰性の規範それ自体が実質的にアディクションの行進を促す原動力」として彼を追い込んでいったのだとも言える。
では、どうしたらこの悪循環から逃れることができるのだろうか。「自己=アディクション」という仕掛け=ゲームに対して、野口さんはこんな風に整理する。
「このいつ果てることのないゲームにとって、最大の敵は、人々がゲームの仕掛けに気づき、ゲームから降りようとすることであろう。AAが、そして、ベイトソンがいち早く見抜いたのは、このことだった。自己という信憑のもつ特権性を廃棄し、自己と世界という区分方法自体を相対化していくこと、それが、AAがわれわれに示しているもう一つの道である。」(p213)
これは、AAの12のステップの一番目と直結する。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」
「無力」であることを認めること。これは「エゴイズムのアノミー的追求、あるいはアノミーのエゴイズム的展開」から決別する第一歩であり、アディクションに陥っている人にとって、最も恐ろしいことである。なぜなら、自己保持の手段としてのアディクションを手放し、丸腰の自分の「無力さ」を認めなければならないから、である。そんな怖いことが出来ないから、僕の知っている彼も、透析患者であっても飲み続けていた。
でも、ベイトソンが見抜いたように、悪循環の循環構造にいる限り、その無間地獄から抜け出ることは出来ない。すると、「人々がゲームの仕掛けに気づき、ゲームから降りようとする」ことしか、別の道が見出せない。そしてそのための一丁目一番地に「無力」を認めることが出てくる。それは「もっと強くなければ」という「有害な男性性」でしか問題が解決出来ないと思っていた彼にとっては、かなりキツい事態だったと思う。でも、「自己という信憑のもつ特権性を廃棄し、自己と世界という区分方法自体を相対化していくこと」しか、解決策が見出せないのだ。これは、『ケアしケアされ、生きていく』でも描いた、生産性至上主義からケア中心主義への転換にも関係しているかもしれない。
そして野口さんは、30年後の補論の中で、AAや断酒会のようなグループに適合しない人でも、オープンダイアローグのようなネットワークで、このような悪循環から逃れうる、と指摘している。
「グループであれネットワークであれ、大切なのは、成瀬が指摘する『安心できる居場所』と『信頼できる仲間」 、そして『お互いが癒やされお互いが暖かい気持ちになれる関係』が存在することではないかということである。(略)
アディクション臨床は、自助グループが生み出した概念を活用しながら独自の理論と実践を発展させてきた。一方で、そうした理論と実践は自助グループがもつ限界をそのまま引き継いでおり、自助グループにつながらない多くの人々に対する有効な理論と実践を見出せずにきた。しかし、いま、オープンダイアローグやその他の新たな動きがそうした限界を乗り越える方向性を示している。それは、これまでのようにグループにすべてを期待するのではなく、ネットワークのもつ力にも期待する方向である。グループとネットワークはともに、われわれにとって大切な『居場所』や『仲間』や『関係』を生み出す貴重な場として位置づけることができる。」(p238-239)
四半世紀前の大学院生の頃、精神障害者の当事者活動に顔を出していたことがある。鴨川でピザを食べながらだべりんぐする集まりである。そこは、家族や立場や社会的な自己を横に置いて、素の自分が受け入れられる、という意味で、「大切な『居場所』や『仲間』や『関係』を生み出す貴重な場」としての自助グループになっていた。だが、そのグループに入るには、「無力さ」を認める必要があり、それが出来る人はそのグループに継続的に来れたが、プライドやエゴイズムが邪魔をして、そのグループに入れない・継続的に参加出来ない人もいた。それは「自助グループがもつ限界」でもあった。
でも、オープンダイアローグでは、ソーシャルネットワークの中での対話的なミーティングを大切にしている。これまでのソーシャルネットワークを断絶させた上で、新たなグループに入るのとは違う。でも、AAや自助グループが大切にしてきた、『安心できる居場所』と『信頼できる仲間」 、そして『お互いが癒やされお互いが暖かい気持ちになれる関係』を、膠着したネットワークの中で再生させようとする。そのために、本人と家族や支援チームが一同に会したオープンダイアローグや、組織内の不全を解消していくような未来語りのダイアローグが展開される。それらの対話を通じて、『居場所』や『仲間』や『関係』が再生されるきっかけが生まれる。
亡くなった彼がまさに必要としていたのも、『居場所』や『仲間』や『関係』だった。そのことに、僕は生前気づけなかったし、気づけたとしても、たぶん上手く関われなかっただろうと思う。そういう自分自身の「無力さ」に自覚的になった上で、本書といま・ここで出会えて本当によかった、と思う。