家族丸抱えと社会的ネグレクト

昨日、京都の実家に遊びに出かける際、鞄の中に忍ばせた一冊が、圧倒的な迫力で迫ってきて、一気読みした。

「ケアをうまく成就できるということは、病気の家族の変化に反応するすばやい共振性を有しているということであり、それは外界に対してあまりに無防備であるともいえる。つまりケアを成就できる主体というのは、あらかじめ固まることを禁じられ、環境によって変化する可塑性を持っているということではないか。
自分をとりかこむ輪郭線をいつでも崩れさせ、自己と他者の境界を横断することができる。自己の固着という安心からいつでも離れられる無防備さというものが、ケア的主体の真価だろう。」(中村佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』医学書院、p156-157)

このフレーズを読んでいて、少し前のブログに書いた、「ケアとはままならぬことに、巻き込まれること」というのを思い出していた。能動的で自立的で主体的な存在は、自己責任で自己管理が出来ている、という意味で、自己同一性の保持であり、「自己の固着」である。一方、ケアはその対極の、「自分をとりかこむ輪郭線」の崩壊であり、「ままならなさに巻き込まれること」である。「病気の家族の変化に反応するすばやい共振性」を維持しようとすると、自分だけで決めた目的合理性を手放す必要がある。つまり、「あらかじめ固まることを禁じられ、環境によって変化する可塑性を持っている」というのは、能力主義的社会で適合的な自己防衛や自他の境界線を溶かす・崩壊させることでしか、手に入れられない。

このような事態に巻き込まれることは、両義的な価値を持つと中村さんはいう。

「病の家族のために自分を燃やすように使ってあげたい。それは、自己という壁で隔てられた人と人を結びつけ、失われた連続性を回復しようとする、犠牲的なケア的主体に流れる一つの欲望だ。一方で、それでは社会的な生活が送れないので、どこかの段階で揺り戻しがあり、家族を恨み、捨て、自己を保存しはじめる。
過剰な両極のあいだを行き来し、そのはざまで中間の色彩がさまざまに展開する。犠牲的でありながら、一方でその自分をまた憎み、脱皮させ、羽化させるような行動をとる。そうして今度は、自分に罪悪感を覚え、家族のもとに戻ってくる。行ったり来たり、行ったり来たり。
だからこそ、何かのピリオドを打つことが苦手なのではないか。」(p161-162)

中村さんのお母さんは、精神の病を抱えている。調子の悪いときは、一日ベッドで寝たきりだったという。そんな母に対して、中村さんは小さい頃から、「犠牲的なケア的主体」と「家族を恨み、捨て、自己を保存しはじめる」状態の「過剰な両極の間を」「行ったり来たり」してきた。両義性を抱えてきた。でも、これは必ずしも、善悪の二元論で語れない状態だったという。

「病気の家族の変化に反応するすばやい共振性」をもった「ケア的主体」は、「自己保存」をしている間には生まれてこない。一方で、「自己という壁で隔てられた人と人を結びつけ、失われた連続性を回復しようとする、犠牲的なケア的主体」でいると、「社会的な生活が送れない」という現実もある。そのため、両極を「行ったり来たり、行ったり来たり」なのである。

ぼく自身はヤングケアラー経験はないけれど、この6年間子育てをしてきて、ほんとうに「行ったり来たり、行ったり来たり」なのだと思う。それは、主体的で能動的でキリリと決定したことは確実に実行する、という自己保存的なものが、ケアによりなぎ倒されている経験であり、でも、その両義性の往還のプロセスでの「はざま」なのだと思う。

だからこそ、中村さんは「ヤングケアラー」というくくり方に違和感を抱く。

「部屋のなかで、具合の悪い母と一緒にいる。なぜすぐにだめだとあきらめてしまうのか、なぜ起きてこられないのかが子どもの時分には理解できず、やきもきするような思いを抱えていたわたしは、母をむしばんでいる害があるなら飲み込んであげたい、わたしがそれを抱えて一緒に消滅させてあげたいと願っていた。
それはいったんは死のイメージなのだが、そこでわたしも一緒に再生するような、深い喜びがあった。自己消滅が喜びにつらなるような、ケア的主体がもつ犠牲的で献身的な欲望と言えるだろう。
こういう思いを抱えてケアしている子どもに対して、早く毒親からお逃げなさいと、人は容易く言えるだろうか。」(p195)

上記の記述は、圧倒的な解像度の鮮やかさで、僕の胸に迫ってくる。

精神疾患の親を持つ子どもの場合、「具合の悪い母」のおかげで、子どもが振り回される。その現実を指して「ヤングケアラー」と焦点化・問題化すると、かわいそうなのは子どもとなって、その子どもをケアできない親は「毒親」などとラベルが貼られやすい。すると、「早く毒親からお逃げなさい」と簡単なアドバイスが出来てしまう。でも、犠牲的なケア的主体を子ども自体から引き受けてきた中村さんは、一方的な被害者ではなかった。彼女が親をケアするなかで、「そこでわたしも一緒に再生するような、深い喜び」や「自己消滅が喜びにつらなるような、ケア的主体がもつ犠牲的で献身的な欲望」があった。「ままならぬことにまきこまれる」犠牲的なケア的主体にも、その状況でしか味わえない「深い喜び」や「欲望」もあったのである。

これは、ヤングケアラー問題を当事者の外側から取り上げて掘り下げている、数多の論考では知る事が出来なかった、セルフ・ドキュメンタリーゆえの迫力である。

ただ、僕が中村さんの本を読んで、信頼できる一冊だと思ったのは、そのようなヤングケアラーの内面を描くだけでなく、その社会構造的な抑圧を、そのものとして、しっかり描いているからでもある。

「日本の精神科の常識は人権侵害すれすれで、制圧や、拘束、強制入院、長期入院など、患者の人間的生活を豊かにしようという発想とは真逆の行為がまかり通っている。
一方でそうした入院しか選択肢がないことが、患者とその家族をよけいに苦しめている。他の選択肢がないなかで、『精神科病院に入院させるなんて!』と疑問を呈されたり批判されれば、家族はもっと追い込まれる。
いくら病院が人権侵害的でも、医療措置があり服薬のできる入院か、家に一緒に帰って自分もろとも総崩れを起こすか、どちらかしか選択肢がないとしたら、入院させることのどこに瑕疵があるだろうか。日本の精神科病院の現状は確実に変えていかなくてはいけない社会的課題であろうが、入院しか選択肢のない家族が肩身の狭い思いや罪悪感を抱かなくてよいようにと願ってやまない。」(p124-125)

私は四半世紀にわたり、「日本の精神科の常識は人権侵害すれすれで、制圧や、拘束、強制入院、長期入院など、患者の人間的生活を豊かにしようという発想とは真逆の行為がまかり通っている」ことを、批判的に書き続けてきた。『精神科病院こそ問題だ』と言い続けてきた。ただ、特に子どもが生まれて後、家族の視点、ケア的主体の視点を持つようになると、この批判は間違ってはいないのだが、「家族はもっと追い込まれる」という現状もまた、わかるようになってきた。それは、家族丸抱えか施設丸投げか、の二者択一しかない現状の構造的な問題である。

この構造的な「二者択一」の現実を変えないと、家族を苦しめるだけなのだ。精神病院批判だけでなく、同じように、「家族丸抱え」の現実こそ、批判する必要もある。それだけでなく、「家に一緒に帰って自分もろとも総崩れを起こ」さずにすむような、地域精神医療体制の拡充こそ、提起し、応援し続けていかなければならないと強く思い始めた。だからこそ、中村さんの批判が、深く胸に突き刺さる。

また、この本を読みながら、以前取り上げてブログにも書いた山本智子さんの『「家族」を超えて生きる−西成の精神障害者コミュニティ支援の現場から』や、児玉真美さんの『殺す親 殺させられる親』を思い出す。実家で暮らしたい障害当事者と、実家で支えられない家族は、二項対立や下手をすれば利益相反関係になりやすい。でも、障害当事者と家族を対立させている構造こそ、最大の問題なのである。それを、中村さんが取材した、ヤングケアラー経験があり、いまは研修医をしているかなこさんは、「社会的ネグレクト」と喝破する。

「社会からの虐待と言えば、自分たちに責任があることがはっきりわかるけど、たぶん虐待とまで言えなくて。でもわたしははっきり助けてと言ったのに伝わらなかった経験があるから、よけいにネグレクトだと思う。いまは『助けてと言えない子ども』というのが流行っているんだけど、そういうふうにラベリングすることで、『子どもが助けてと言ったとしてもアンテナが立ってなくてキャッチできない社会がある』という事実が隠されていて。さらに『見つけてくれてありがとう』なんて吹き出しの付いた子どもの絵を精神科の研修で見たり。支援者は子どもにそう言ってほしいんだと思うけど、『てめえら遅えわ!』と。キャッチされないから黙らされているだけなのかもしれないのに、子どものほうの責任にしないでって思う」(p112-113)

SOSを求める子どもたちの声を、社会が「無視・放置」している。その意味で「社会的ネグレクト」というなら、これはヤングケアラーに限らない。成人の家族や親であれば、ギリギリまで障害のある家族を支え続けよ。それが無理なら、入所施設か精神病院に丸投げせよ。この二者択一構造こそ、「社会的ネグレクト」なのだ。「キャッチされないから黙らされているだけなのかもしれないの」は、ヤングケアラーだけでなく、大人のケアラーも同じかもしれない。ケア的主体が、あまりにも家族のデフォルトにされ、やって当たり前になっている現実こそ、「社会的ネグレクト」とも言えるのかも知れない。

「日本では家族はすでに崩壊しているのにもかかわらず、崩壊していない前提で、国も厚労省もケアを家族に返す」(p90)

そう、こここそ、最大の問題なのだと改めて思う。「家族丸抱え」は「すでに崩壊している」のである。にもかかわらず、この国の制度設計やシステムは「崩壊していない前提で、国も厚労省もケアを家族に返す」のだ。これが、ヤングケアラー問題を、かわいそうな子どもの問題に矮小化したり、ケアすべき精神障害を抱えた親を「毒親」とラベルを貼る、などの問題構造のすり替えが行われている背景にある。そして、それを問い直すために、社会的ネグレクトの構造こそ、問われなければならない。家族丸抱えの構造的問題が、社会的ネグレクトの背景にあると直視し、それを変える仕組みを作らねばならない。スウェーデンが20年前に実現したように、入所施設を全廃してスタッフを再教育し、地域支援に切り替えなければ、家族丸抱えは終わらない。

この「社会的ネグレクト」という言葉を流行らせるために、僕はこれからこの言葉をしつこく使い続けようと思う。家族丸抱えの論理構造を越えていくためにも。

2023年の三題噺

毎年恒例の、大晦日に書く、今年一年を振り返っての三題噺。書きながら、三つのテーマで今年を振り返ってみる。

1,5冊目の本があっという間に出来てしまう&凱風館に入門する

10月にぼく自身の5冊目の単著である『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマ—新書)を上梓した。前の本『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』を書き上げたのは、2022年7月。前著を書き上げるまでに、2,3年かかった。初めてのエッセイで、初めてのケア本で、自分と家族の話題を書くのにどういうフレームや文体にしたら良いのか、を試行錯誤し続けてきた。だから、4冊目を書き上げた後、次の単著は数年後になるだろうな、とぼんやり思っていた。でも、今年の初めから、話が急展開する(そのことは本の後書きに書いたが、ちょっとそれを膨らませてここに書く。)

きっかけは、昨年秋から通い始めた整体の無形庵だった。もともと、内田樹先生がツイッターで、姫路で開業する三軸修正法の門人のお祝いに駆けつけ現地を訪れた、と書かれていたツイートを覚えていた。それで、昨年から通いはじめたのだ。その中で、山本さんに勧められて、ファスティングにも成功したことは、去年の三題噺にも書いた。今年も一年、朝は野菜ジュースのみにする生活を続けたら、体重は大学時代の72キロ代を維持できている。これは本当にありがたい。

で、その無形庵の山本さんと、毎週のように施術を受けつつ合気道や内田先生の話で盛り上がっているうちに、1月に梅田で開かれる、友人の青木真兵さんと内田先生の対談イベントに行きませんか?と誘われた。ちょうどセンター試験監督から外れたので、これ幸いに、と出かけ、内田先生にも拙著をお渡しする、というご縁が出来た。終わったあと、内田先生や凱風館の関係者の皆さんが夕食を食べに行く群れに混ぜてもらった。そして、その帰り道に、無形庵の設計も担当した建築家の光嶋裕介さんと芦屋までの20分弱、めっちゃ話し込む。それがおもろかったので拙著を3冊送ると、光嶋さんからもご著書3冊が送られてきた。で、そのうちの一冊である『建築という対話』(ちくまプリマ—新書)が面白かったので、ブログに書いた

そしてブログに書いた後、光嶋さんのパートナーの永山春菜さんが家から30分の場所で、合気道高砂道場を主催されていると知り、2月に娘を連れて体験に伺う。小学生になったら、娘と一緒に合気道に行きたいと思っていたのだ。一緒にお稽古してみて、びっくり。永山さんの所作と技の美しさに惚れ惚れしてしまった。こういう合気道を、娘に身につけてもらいたい、と心から思った。そして、お話をしているうちに、どうせなら僕も凱風館に籍を移し、娘と一緒に学びたいと強く思うようになった。

そして、その体験稽古が終わった後、光嶋さんから「ちくまの編集者に竹端さんのブログ記事を送ったらすごく喜んでくれて、『ケア論を書いてもらう著者を探していた』と言っていたから、声がかかるかも」と言われて、帰宅してみたら、まさにそのタイミングで、筑摩書房の編集者、鶴見さんから「はじめまして」のメールを頂く。こんなことってあるんだろうか、と思うくらいの絶妙なタイミング。そこで、2月中頃にZoomでお目にかかって、妄想たっぷりの話を鶴見さんに聞いてもらい、それを目次案にして頂いて、それを手に入れた内容+「はじめに」に当たる部分を書き上げたのが2月末、編集会議が通って正式にGoサインが出たのが、3月下旬。8万字で4章立てだったので、一章2万字なら一月一章で書けるかも、と思って書き出したら、本当に毎月一章ずつ書き上げていく。すると7月頭に、「どうせならこのまま10月に出してしまいませんか?」と言われ、この流れに乗った方が良いと思い、7月には4章まで書き上げ、7月末にはゲラが届き、8月半ばに「おわりに」と「あとがき」を書いて、10月には書店に並んでいた。

その間、4月には凱風館に僕も入門し、稽古し始める。本当に、頭を打つというか、ゲシュタルトの崩壊というか、これまで学んできたことを身をもってアンラーン=学びほぐしている。今までいかに力んでいたか、力尽くで無理矢理相手を倒そうとしていたか、を嫌と言うほど指摘される。でも、厳しい場ではない。女性の有段者も多いので、皆さんしなやかで竹のようにやわらかく、弾性のある技をされる。僕はゴチゴチの硬さなので、全然違う。だからこそ、凱風館で学び直す意義や価値がある、とめっちゃ感じながら、通い続けている。

2,娘と親の移行期混乱

3月にはこども園の親子ミュージカルも無事終え、こども園を卒業した(そのときのことはブログに書いた)。4月からは近所の公立小学校に通うことになった。その後、大きな移行期混乱に遭遇する。

なにせ、これまで遊びが中心で、サッカーやハンターなど身体を思いっきり動かしていた娘が、毎日5時間目まで、座って勉強し続けなければならない。それが文字通りの価値転換である。その上、こども園時代と違って、39人の詰めつめの教室で、先生が一人、というのも、集団保育が原則で色々な先生が関わってくれたこども園と大きく異なる。そして、柔軟にダイナミックに活動をしていた私立のこども園から、ルールや規則が定まった公立小学校に移行する。実は、父親の方がそれにうまくついて行けないのではないか、とオロオロ・ハラハラしていた。のだが・・・

娘は、有り難いことに、毎日楽しく出かけてくれている。登校班にもなじんで、上級生のお兄ちゃん、お姉ちゃんの輪の中にも入っている。学校でもお友達が出来たようで、わいわいやっている様子を、学校から帰ったら教えてくれる。教科では、絵本を読み続けてきたので国語は得意だけれど、数の概念を頭に入れるのに時間がかかり、算数は手こずる。ただ、それもこども園時代のパパ友が、別の小学校の先生だったので、算数のアシストのコツを教わると、少しずつ、娘も算数がなじんできた。今でも算数の宿題に手こずることはあるが、なんとか出来ている。なにより、「そんなに嫌なら宿題しなくてもいいよ」と言うと、「するー!!!!!」と絶叫してやり遂げようとされる。それがなんだかすごいな、と思って見守っている。

3,表現の場や可能性が広がる

ケアの本を去年と今年に書き、自分自身の表現の場や可能性が、少しずつ広がっているように思う。最近では、ケアに関する原稿依頼も増えてきたし、先月から、Voicyの方に声をかけられ、僕も毎朝しゃべるようになった。このVoicyのチャンネルは、「モヤモヤ対話へようこそ! ケアと福祉と社会のあいだ」と名付ける。そして、開始する際に決めた方針は、「わかりやすい・白黒を明確にする話をしない」「モヤモヤを辿るようにしゃべる」「台本を書かずに、一つのキーワードだけで10分喋りきる」「日常業務に差し障りないように、起き抜けに収録し終える」「お題に一ひねり加える」あたりだろうか。収録の10分という尺は、ブログよりは短いけど、ツイッターは10ツイート分くらいはありそう。そういう時間で、毎日しゃべるので、朝・あるいは前の晩に思い浮かんだキーワードで、とりあえずしゃべり始める。うまくいっても、うまくいかなくても、取り直しはせず、一発取りでそのまま流す。そういう風にして、継続してしゃべり続けると、今までと違う間口が広がるのではないか、と思い始めている。

あと、オンライン読書会は沢山していた。たぶん7つくらいしている(来月だけで、読書会で読む本の締め切りが7つ並んでいる)。結構きつい。でも、そうやって締め切りがあるからこそ、仲間と読むからこそ、読み切れる本が沢山ある。最近、このブログはほぼ書評ブログになっているが、それは読書会で読み続けてきた本がネタ本になることがほとんどである。そうやって、他者との対話の中で、本の読みが深まるし、深まることによって、見えてくる世界も広がっているように思う。

そのうちの一つ、2月から始めた「生きるためのファンタジーの会」が超絶面白い。若い友人、青木海青子さん・真兵さんと、現代書館の編集者の向山さんと共に、毎月海青子さんが選んだ一冊のファンタジーを元に、ポッドキャスト「オムラヂ」でおしゃべりし続ける、という企画。そのうち書籍化を考えているのだが、これは仕事ではなく、ほんまに趣味として面白い。ファンタジーなき男だった僕が、ファンタジーと出会い直し、その世界を3人と語り合いながら、どっぷりと深めていく企画。毎回、同じ話を元に、どんな風にお互いが読み合ったのか、を語るのが超絶面白い。毎回1時間以上と話が長くなるのだが、よかったら「モモ」編と「ゲド戦記」編を聞いてみてくださいませ。

というわけで、色々あったけど、ものすごく充実した一年でございました。来年もよい一年になりますように。そして、みなさん、よいお年をお迎えください。

大人から子どもへの最大のギフト

年末の休みに、娘と一緒に映画『窓際のトットちゃん』を見に出かける。というか、Eテレ以外見ない我が家ではあの名作が映画版になったとは知らなかったのだが、実家の両親が「娘と見たら良いのでは?」と教えてくれたのだ。確かにうちの娘さんもエネルギー満タン娘なので、気に入ってくれたらいいな、と思って、母ちゃんが仕事の日の朝一番の映画館に出かけた。娘がほしかったポップコーンも頼んで。

で、見始めると、数十年前に何度か読んだトットちゃんの世界が、映像化されて一気によみがえる。と共に、最初の方のシーンで、おっさんは既に涙する。トットちゃんが、近所の小学校では「問題児」とされて、トモエ学園にやってきた最初の日、小林校長先生に会って、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」と言われ、延々としゃべり続ける。親は近所の喫茶店で、ハラハラしながら、娘の帰りを待ち続けるが、全然トットちゃんは帰ってこない。トットちゃんは最後まで話し終えたあと、それまでの勢いある調子とは異なり、ぼそっと一言、小林先生につぶやく。

「私は問題のある子なの?」

小林先生は、トットちゃんに答えてこう断言する。

「きみは本当はいい子なんだよ」

このシーンを思い出してブログに書いている僕も、またジーンとして涙を流しそうになる。トットちゃんは、好奇心や興味関心が人一倍で、それを抑えきれないほどのエネルギーがあった。だから、学校の校舎から乗り出してチンドン屋さんを呼び出したり、画用紙の枠をはみ出して塗り絵をしたり、机をバタンバタンさせたり、と、「公的な秩序」からはみ出している。真面目で40人の子どもを統制しようとする公立学校の先生にとっては、先生の秩序を乱す「問題のある子」として映る。そして、他の学校に行って下さい、と排除されるに至る。トットちゃんのことが大好きなお母さんも、娘のエネルギーの強さには手を焼き、次の学校で受け入れてもらえるか、ビクビクしている。

そのときに、小林先生は、トットちゃんやお母さんに色々学校のことを説明しなかった。ましてや、トットちゃんが前の学校を追い出された理由を詮索することなんてなかった。それよりも、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」とトットちゃんに伝えたのだ。

原作が世に出たのは1981年、その後数年以内に親が買ってきて、僕も何度も読んだので、40年前に読んで以来である。そのとき、小学生でよくわかっていなかったが、今、小学生の親を持ってみて、この時の情景がひときわ心に残る。トットちゃんの親は、トモエ学園でも受け入れて貰えなかったらどうしよう、と戦々恐々としていたはずだ。その一方、トットちゃんは学校を追い出されたことはわかっているし、大人が自分のことを「問題のある子」と見なしているのにも、気づいていて、悲しい思いをしている。でも、それ以上に、世界への好奇心は強く、気づきや発見、探検したいことなど、毎日が刺激に満ちている。しかも、トモエ学校では、電車の教室まであり、ワクワクが止まらない。そんな、うれしさも悲しさもハイパーに抱えているトットちゃんに、普通の教師は手を焼き、静かにしなさい・従いなさい・他の人と同じようにしなさい、と抑圧する。でも、小林先生は「さあ なんでも話してごらん」と呼びかけるのだ。

仕事柄、「問題行動」や「困難事例」に関わる事がある。そういう「困難事例を解きほぐす」プロセスのなかで見えてくるのは、大半の場合、本人ではなくて、周囲にとっての「困難」や「問題」である場合が多い、ということだ。さらに言えば、本人も悪気があってそうしているのではなく、そうせざるを得ないような内在的論理=他者の合理性があるのだ。その他者の合理性を理解することが、「問題」「困難」の構造を理解する上で、最も近道なのである。もちろん、そういう話をじっくり聞くのは、ものすごく時間がかかる。でも、手を抜かずに聞き続ける中で、相手の生活史や思考・認識の癖がわかる。それだけでなく、相手は自分の話を真剣に聞いてくれるとわかると、相手のことが信頼できる。全部丸ごと聞いてくれる相手は信頼できるから、その相手の話は聞いてみたくなる。つまり、「ただただ話を聞く」ということが、こういう場合に求められているのだ。でも、「問題行動」「困難事例」とラベルが貼られる、「反社会的」な言動をする人は、じっくり聞かれる機会がない。それよりも、説教や訓示など、話を黙って聞くように強要されるばかりだ。すると、ますます本人はフラストレーションが溜まって、と悪循環に陥る。

このことを40年かけて少しずつ学んできたからこそ、「さあ なんでも話してごらん」とトットちゃんに伝える小林先生のスタンスが、圧倒的な素晴らしさをもって、胸に迫ってくるのだ。小林先生は、トットちゃんを問題児とか困難事例とラベルを貼っていない。それだけでなく、彼女の合理性を、全部しっかりと理解したいと思っている。理解した上で、「きみは本当はいい子なんだよ」と伝えてくれる。そんな小林先生の姿勢がトットちゃんに伝わったからこそ、トットちゃんも小林先生を信用してみたい、この学校で学んでみたいと思ったのだ。

その上で、このエピソードは、僕たちの今の社会にも改めて大きな何かを問いかけていると思う。

まず、トットちゃんのような好奇心が旺盛で、公的な秩序をはみ出す子が、普通のクラスから排除される現象は、戦前の小学校だけだっただろうか? ご存じの方も多いと思うが、今の小学校では、発達障害とラベルを貼られる子がうなぎ登りに増えている。正直に言えば、その中には「発達障害もどき」とも言われるような、学校の過度な規格化、秩序化に合わないだけで「発達障害」と診断され、普通学級から排除される子も、少なくないように思う。そして、おそらくトットちゃんも今なら、そうラベルが貼られ、下手をしたら幼稚園段階で、精神科の薬を飲まされ、行動鎮静させられるが、その後の大スター黒柳徹子は生まれなかっただろうと思う。(それはご自身もそう仰っておられる

それから、大人は、子どもが「問題だ」と思っても、子どもを叱ったり説教したり、子どもを変えようとする前に、小林先生と同じように、「さあ なんでも話してごらん 話したいこと 全部」と、ただただ聞けるかどうか、も問われている。自分の胸に手を当てると、それは怪しい。ついつい「○○しなさい」「ちゃんとしなさい」と叱ってしまうときが、今でもある。でも、その前に、まずじっくり聞けるか、が問われている。じっくり聞いた上で、「私は問題のある子?」と不安になって聞く相手に、「きみは本当はいい子なんだよ」と自信を持って伝え続けること。これが大人から子どもへの最大のギフトだと思う。

それ以外にも、この映画の、戦争に向かう社会の軍国主義の厳しさや陰険さ、戦前の上流家庭の豊かさとか、色々書きたいことはあるのだが、横で宿題をしていた娘さんの相手をそろそろせねばならぬので、今日はこの辺で。年末にこの映画を娘と一緒に見れて、本当に良かった。

「生きた労働」と本源的蓄積

沖縄が好きで、子どもが産まれる前は毎年必ず出かけ、沖縄本も結構読んできたのだが、訳者の増渕さんに頂いたこの本はめちゃくちゃ面白かった。

「生産サイクルの中で必要な労働時間として割り当てられた部分を増やすことは、労働者階級が自覚的なカテゴリーとして出現するにつれ、『生きた労働』(労働者と生産者の需要や欲望に関連した労働)と『死んだ労働』(資本の有機的構成の中で非創造的で非生産的な部分)との闘争として正しく理解された」(ウェンディ・マツムラ『生きた労働への闘い—沖縄共同体の限界を問う』法政大学出版局、p22)

僕は不勉強なので、マルクスが用いた「生きた労働」「死んだ労働」という概念は本書に出会うまで、知らなかった。でも、人間らしい充足感とか、必要以上に働かないことも含めて、労働を自分の裁量の範囲内に収め、強迫観念的に働き続けないことを、「生きた労働」とするなら、今にも通ずる整理だと思う。他方、「死んだ労働」とは、システムや利潤の本源的蓄積の維持・形成・発展のためには必要だけれど、労働者個人にとっては「非創造的で非生産的な」労働を指す。これは今の言葉で言えば、「くそどうでも良い仕事」と訳されるブルシッド・ジョブにつながるのかも、しれない。

私やあなたの仕事のなかに、「生きた労働」と「死んだ労働」の割合は、どれくらいあるだろうか?

ありがたいことに、大学教員という仕事は、割と裁量が残っているので、「生きた労働」の部分が多い。でも、大きな組織に属していると、「お役所仕事」は当然ながらあるし、あるいは自己点検評価のように、方法論が自己目的化したようなペーパーワークは、「非創造的で非生産的な」仕事と思わざるを得ない。前回のブログで「午後4時に帰る」ために徹底的に業務を効率化したデンマークの話を書いたが、それは「死んだ労働」をなるべく減らし、「生きた労働」を増やすための国レベルでの努力なのだと思う。

で、近代日本史を専門とするウェンディ・マツムラさんの本が非常に面白かったのは、「沖縄の近現代史は、このような資本主義の発展過程で、死んだ労働と生きた労働の衝突や、それによって生じる対立のモーメントによって形成されてきた」(p22)という視点から描いていくことである。つまり、唯々諾々と死んだ労働に従うのではなく、生きた労働を勝ち取り続けたいと闘ってきた人々を、沖縄の近現代史からあぶり出しているのが面白いのだ。

「女性神官や霊媒師、不品行な女性への攻撃は、十六世紀から十七世紀にかけて本源的蓄積の過程にあったヨーロッパの魔女狩りときわめて似ている。魔女狩りは、女性たちの財産を没収し、共有地から閉め出し、女性が自分の身体を自分で管理する能力を奪った。沖縄では、古い慣習の近代化という名目で、女性神官から暴力的に土地を奪い、女性の財産に攻撃を加えるとともに、農村における女性の活動を厳しく監視することにより、ジェンダー規範や合理性の再コード化が行われた。土地整理事業でノロから土地が没収されたのと同じ時期に、風俗改良運動は、女性の刺青(ハジチ)、野外での歌や三線の演奏、芝居の鑑賞や役者への部屋の貸し出し、そして他村の人との交流さえも禁止した。
全体としてみると、ミースが言うような、『経済的にも性的にも独立し、新興ブルジョアジーの秩序を脅かす』女性を従属させるための組織的なプロジェクトがあったことは否定できない。」(p164)

明治以前の沖縄では、女性神官や霊媒師が大切にされ、一定の地位や権力を持っていた。ただ、これは西洋の近代的合理性だと、「非合理」である。また資本主義における男性中心主義的な視点に基づくと、そのシステムや秩序から外れたところで自立している女性は「不都合」でもある。また、土地をみんなで使う共有化の思想は、大規模な工場を作ったり、その土地や木材を売買して儲けるという資本の本源的蓄積の観点からすると、「障壁」にもなる。だからこそ、土地整理事業という形で、共有地を私有地や国有地に引き剥がし、風俗改良運動なる名称で女性を秩序化し、「ジェンダー規範や合理性の再コード化」=近代資本主義の合理性にあうように再秩序化したのである。そして、この沖縄の女性神官達への攻撃は、魔女狩りと通底している、という指摘を呼んで、昔のブログに取り上げた一冊を思い出した。

「ちょうど囲い込みが農民から共有地を奪ったのと同じように、魔女狩りは女性からその身体を奪ったのである。こうして女性の身体は、それが労働力を生産するための機械として機能することを拒むいかなる障害からも『解放された』。火刑の恐怖は、共有地の周りに巡らされたどんな柵よりも手ごわい障壁を女性の身体の周りに築いたたのだ。(略) 魔女狩りは、女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件として、それを国家の管理下におくことを制度化したのは間違いない。」(シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』以文社、p296-297)

実は、本書にも『キャリバンと魔女』が引用されている。つまり沖縄近現代史を舞台にした『生きた労働への闘い』という本は、『キャリバンと魔女』の本歌取りというか、「労働力を生産するための機械として機能することを拒むいかなる障害からも『解放された』」女性の存在と、それにあらがった人々の闘いを記録した本とも言えるのである。

そして、「古い慣習の近代化という名目」は、植民地化の発想ともつながる。当時の沖縄の地元資本家が何を恐れていたか、を、当時の「琉球新報」はこのように描いている。

「殖民政治とはどんなものか。其土地を見て其人を見さる政治である。土着人を国民として取扱はず、一種の機械として取扱ふ政治である。土着人の頭を圧へて本国人の利権を保護する政治である。」(p109)

薩摩藩に実効支配をされながらも清とも冊封貿易をしていた琉球王国が、明治の開国の時期に大日本帝国によって吸収合併されていく。この琉球処分の時期において、沖縄は隣国台湾に近いこともあり、文化や慣習が違うこともあっても、台湾と同じように植民地になりかけていた。そのような中で、東京で学び、資本主義の論理を理解し、沖縄でブルジョアになっていった沖縄の知識人層は、このままでは沖縄の利権が剥奪されてしまうことに危機感を抱いた。沖縄が植民地化されると、自分たちも「一種の機械として取扱」をうける。それは嫌だ。だが、そこで一般住民達と「島ぐるみの抵抗」をするのではなく、土着人を支配するのは、本国人ではなく俺たちだ、と考えていく。それを著者は、「「『使う側』の人間になりたいという野心」と喝破する。

「『使う側』の人間になりたいという野心は、十九世紀末に有力な現地指導者の知識人グループであった太田派の最終目標だった。県外からの急激な人口流入や国家による官僚化が進む中で、誰かに雇われることほど不自由なことはないという主張は大きな意味を持っていた。日本帝国における沖縄の自由と現在の地位を維持するためなら、どのような手段も許されるという太田の信念は、この時期沖縄の指導者の多くに共有されていていた。」(p178)

沖縄の自由を獲得する、沖縄を属国化・植民地化させない、という理念は立派だ。「一種の機械として取扱」を受けたくない、「死んだ労働」をさせられるのは嫌だ、と感じると、「生きた労働」への闘いも生まれる可能性がある。だが当時の沖縄の指導者の多くは、そういう闘いをしなかった。それよりも、「『使う側』の人間になりたいという野心」の方が強かった。つまり、自分が統治者になり、資本家になることにより、一般住民を自分たちの秩序に従わせ、雇用関係を結んで搾取することも「野心」の中に含まれていた。近代化された日本帝国の論理を沖縄住民よりもいち早く内面化し、この論理の中で「沖縄の自由と現在の地位を維持するためなら、どのような手段も許される」と思い込んでいた。これは、実に変わり身の早い考え方であり、一般住民からしたら許されない発想である。

だからこそ、沖縄では、支配層への抵抗や闘いが起こった。

「沖縄本島から三百キロ以上南西に位置する宮古島では、数百人の小規模耕作者が、中規模地主や実業家たちとともに、マルクスが言うところのある種の『好機』を見いだし、1893年春に集団的な闘争を始めた。闘争の参加者達は、かつての権力者にはもはや政治的権威はないと考え、明治政府が旧慣政策により手をつけずにいたもの(ドゥルーズとガタリのいう『完全に現代的な機能を持った復古主義』)を廃棄するよう要求した。明治政府が二度目の琉球処分を行ってから十四年後に勃発したこの闘争は、宮古島人頭税廃止運動の名で知られる。本章では、この運動を、アントニオ・ネグリが『圧政に対する抵抗を通して共同体が構築される』と評した構成的権力の一例として分析する。」(p89)

「明治国家は、その形成の初期団塊で辺境地域を植民地化し、それを正当化するために旧慣政策をとったわけだが、宮古島の住民は、従来の『生産諸関係の総体』を維持しようとする国の企てを拒絶し、その正体を白日の下にさらした。明治政府にとって旧慣政策は、いわば首をはねた獲物を役立つ限り手放さないでおくようなものだった。宮古農民が旧慣政策を拒絶したのは、自分たちの生活が根本的に変えられたと気づいたからである。」(p90)

この本の魅力は、沖縄の近現代史を、資本の本源的蓄積のプロセスと捉え、そのプロセスに対抗した市井の人々の闘いを、先ほどの「キャリバンと魔女」と同じように、ネグリやドゥルーズ・ガタリなどの反・資本主義的な分析と接続させて捉えている点である。日本の問題を英語圏の人に紹介する時、「そんな特殊な事例を紹介して、何の意味や価値があるのか?」が問われやすい。現に僕も国際学会で発表した時に、自分の発表にさっぱり関心をもってもらえず、ひどく落ち込んだ記憶が何度もあるが、それは、世界的な歴史や思想、理論と引きつけた議論が展開できていなかったからである。マルクスやネグリであれ、これをヘーゲルやフーコーと言い換えても良いのだけれど、そういう欧米世界でも共有されている思想や理論、哲学と引きつけることによって、宮古島の人頭税廃止運動という局所的でローカルなイベントが、一気に世界史的な文脈を持つ。

とはいえ、この著者はネグリなりマルクスの理論の一事例として沖縄を当てはめようとしたのではない。沖縄近現代史の「死んだ労働」と「生きた労働」の闘いを、資本主義の本源的蓄積のプロセスにおける労働者階級と資本家の闘いとして描くことにより、当時の沖縄知識人が語っていた「沖縄主義」や「沖縄共同体」という理念の危うさを描き出したのだ。沖縄を植民地にしない、という論理はその通りかも知れない。でも、土地整理事業とか風俗改良運動をそのものとして受け入れ、むしろそれを追認・推進した沖縄のリーダーや知識人階級だって、結局のところ、「「『使う側』の人間になりたいという野心」を持っているという意味で、本国人の搾取者と同じ穴の狢だったのではないか、と。それって、植民地化反対運動に見せかけて、つまるところ植民地の支配層としての己の権益保護と通底しているのではないか、と。そういう「野心」によって、一般住民はどんどん「生きた労働」を奪われ、「死んだ労働」へと取り込まれていったのではないか、と。その危機に直面したからこそ、宮古島のみならず、沖縄では様々な農民達が集団的な闘争をしたのではないか、と。

沖縄の本は趣味であれこれ読んで来たけど、こういう歴史の多相性を描いた本は読んだことがなかったので、本当に面白かった。今度沖縄に遊びに行くときにも本書を持参し、そのような「闘いの歴史」に触れられる場所をいくつか見てみたいと思った。

働き方の「カイゼン」と生産性

こういう本を読みたかった、という本に出会い、一気読みした。『デンマーク人はなぜ4時に帰っても成果が出せるのか』(針貝有佳著、PHPビジネス新書)である。隣のスウェーデンに住んでいた20年前でも、みんな午後3時とか4時に平気に帰っていた。でも、労働生産性が高かった。

デンマークは国際競争力やデジタル競争力が国際比較で1位、政府の効率性は5位、ビジネス効率性は4年連続1位という。一方、日本の政府の効率性は42位、ビジネス効率性は47位である(p32-33)。おもてなしで丁寧なのは良いが、効率性は良くないし、競争力も弱い。デンマークもスウェーデンも社会工学的な発想を取って、うまくいくなら大転換をしやすい国だが、現在はキャッスレス社会を通り越して、カードレス社会でスマホで何でも決済できる、という(p38)。

でも、この本が秀逸なのは、そのようなビジネスマンが振り向くフレーズを多用しながらも、一番伝えたいのは、「何のために効率化するのか?」という部分だ。

3人の子育てをしながら、コペンハーゲン市のアートホールの運営統括をしているヘリーネさんは、以下のように語る。

「私はきっと優先順位をつけるのが上手いの。第一優先は家族。第二優先は仕事。三番目が娯楽や、自分のしたいこと。この優先順位はいつも変わらない。」
「だから、友達にあったりする時間はほとんどない。SNSも一切使わない。SNSを見ると、ものすごくエネルギーを消耗するから。ときどきそんな自分に罪悪感を抱くこともあるけど、でも、やっぱりそこに使う時間はないわ」(p69)

家族と過ごす時間を充分に確保する。それを優先順位の一位にするから、午後4時には遅くとも仕事を切り上げて、子どもを迎えに行く。金曜日なら、3時に仕事を終える。それはスウェーデンでも同じ傾向である。そして、土日も子どもと共に過ごし、DIYをしたり、キャンプやコテージに出かけたりする。その代わり、飲み屋にはいかず、外食も少なめにする。だからこそ、SNSなんて見ている暇がない。

そうなのだ。SNSって、仕事の集中力が切れたときとか、だらだら見てしまう。あるいは夕食でアルコールが入っている時とか、見始めたら止まらないし、なかなかオフに出来ない。テレビと一緒で依存性がある。だからこそ、そこと距離を取って、付き合わない。限定的な付き合いをする。そうすることで、家族との時間をじっくり取ることができるのだ。

そして、労働生産性を上げるためになされている、いろいろな工夫も紹介されている。

・ポイント8 会議は「終了時刻」も決めておく。延長はしない。
・ポイント14 無駄なダブルチェックをなくす
・ポイント16 「メール対応」の時間を決める

これくらいのことなら、日本の仕事効率化本にも書いてある。だが、そういうマイクロマネジメントだけでなく、マクロマネジメントで大きな価値前提が違うのがデンマークの優位性だと、この本を読んでいて気づいた。

なぜ仕事を定時で切り上げるのか。なぜしっかり休みを確保するのか。その背景にこういう価値観があるという。

「社員が健康で元気に、ベストコンディションで仕事に取り組むことが生産性アップにつながる。逆に、社員が疲れていたり、モチベーションが上がらない状態では、生産性なんて上がるわけがない」(p130)

極めてまっとうなことである。でも、残業や休日出勤も当たり前な日本の企業で、上記の事が守れているだろうか。部下に裁量を渡さず、細かく指示をし直し、何度もやり直しをさせて、なんて内向きの仕事をしているうちに、社員も疲れ、モチベーションも下がり、だらだら残業してはいないだろうか。

それから、デンマークでは週休3日の会社も増えてきているようだが、それができなくても、違う働き方もある、という。

「休みを取りたがらない会社もあるわ。そういう場合は、金曜日に、ほかの働き方をしてみることを提案している。たとえば、金曜日はインスピレーションを得る日にしたり、社員に自分が学びたいと思っている講座を受講してもらったり。週に1日、いつものルーティンとは違うことをしてみるといい」(p138−139)

これは裁量労働制の僕自身に当てはめても、よくわかる。授業や学内業務をする日とは別に、研修や調査に出かけることで、違うインスピレーションや入力、対話をする日を定期的に入れている。すると、普段の事務効率も徹底的に上昇する。というか、事務処理時間が限られているので、その際にできることをえいやっとやりきって、生産性を上げないと、やっていけないのだ。その代わりに、学生との対話時間はなるべくゆっくり確保する。

そして、違う働き方だけでなく、違う評価基準があるのも、デンマークの働きやすさに繋がっているようだ。アメリカで高校と大学を卒業してからデンマークで学び直す学生が、こんなことを言っていた。

「アメリカにいたときは、常に成果を求められている感じで、失敗できる隙がなかったんです。だから、無難に、評価されそうな作品をつくって提出していました。スキルは身についたのですが、自分を探求したり、新しいことを試して実験したりすることができませんでした。
でも、デンマークに来て、失敗もプロセスとして認めてくれる環境のなかで、やってみたかった色んなことを試せるようになりました。やっと、眠っていたクリエイティビティが目覚めて、自分の可能性を開拓できているような気がするのです。」(p177)

アメリカを日本と置き換えても、全く同じ事が言えないだろうか。

日本の学生達を見ていると、「無難に、評価されそうなレポートをつくって提出」する学生が多い。常に大人から査定や評価されていて、成果を求められ、「失敗できる隙がなかった」。だからこそ、一定のスキルは身についているかもしれないし、器用なのだが、自分の意見を他者に伝えたり、面白そうなことに取り組んで一皮むける経験が、極端に少ない学生がいるように思う。でも、「失敗をプロセスとして認めてくれる環境」があると、本当はやってみたかった、でもリスクが高いと諦めていた、いろいろな可能性を試すことができるのだ。これは結果的には、潜在能力の最大化支援でもある。

別のデンマーク人はこんな風にも語っている。

「僕らは仕事を任されていて、自分たちで職場を動かしている感覚を持っている。上司にいちいち確認せず、自分たちで色んな判断ができる。商品の生産工程に関わる中国人の働き方を見ていると、マネジメントの仕方が全然違うと感じる。中国人のスタッフは自分たちでは判断ができなくて、物事を決定するのは常に上司だ」(p165)

上記の中国人を日本人と言い換えても、全く同じ事が言えるだろう。現場のフロントラインに裁量を落とさず、上司が細かくチェックする。お伺いを立ててもらうことが、役職者の仕事だと思い込んでいる。だが、デンマークでは、フロントラインの職員達に、失敗も含めて判断を任せている。とはいえ、それは自由放任とは違う。

「トップや管理職が現場の状況をきちんと把握できていないと、間違った意思決定をしてしまうリスクがある。部下の話をよく聞いて、現場で起こっていることを正確に把握することで、組織として的確に問題解決にあたることができる。組織の中でトラブルも含めてオープンに情報共有できる職場が、良い職場なのだと思う」(p193)

箸の上げ下げまでチェックするのではない。でも、何も見ていないのではない。現場で起こっていることを正確に把握して、問題解決に一丸で取り組む。そのために、トラブルも含めて情報共有をする職場環境を作っていく。これが、生産性の上がる組織なのだと思う。そのためには、部下もこんな思想になる。

「僕は自分の意見を誰にでも言える。上司にも意見を言うよ。一瞬、嫌な顔をされることもあるけど、ポジティブで建設的な提案をすれば、受け入れてもらえる。」(p192)

現場のポジティブで建設的な提案を受け入れる土壌が上司や管理職にあれば、その職場環境はよくなり、生産性は上がる。逆に、ワーカホリックで昭和98年的働き方をしている日本では、前例踏襲とか「できっこない」とかマイクロマネジメントがはびこって、このような「建設的な提案」が反故にされているのでは、ないだろうか。

「もし小さな文脈でしか自分の仕事を理解していなくて、自分の仕事がAさんにどう影響しているのか、Bさんにどう影響しているのか、会社の組織全体にどう影響しているのか、どうつながっているのかを理解していなかったら、それぞれの社員がどんなに仕事をしても、全体としては非効率になってしまう」(p183)

この部分が、恐らく本書の肝なのかも知れない。仕事は、一人でできないチームプレイのものが多い。そして、日本人もデンマーク人も、みんな自分の持ち場、役割で、必死に仕事をこなしている。にも関わらず、両国で差が開いているとしたら、それは単に管理職が・現場の労働者が馬鹿だ、という問題ではない。そうではなくて、それぞれの社員が、全体像を意識しながら、自分の持ち場が全体にどう繋がっているかを考えながら働いているかどうか、である。そして、その現場から見える生産性の向上課題を、しっかり部下が上司に提案でき、それが組織課題として受け止められ、業務改善や生産性向上に向けた組織的学習が組み込まれているか、日本とデンマークでは違いがありそうだ。

とはいえ、実は日本だって、トヨタの工場の「カイゼン」が世界的な用語になったように、工場労働の現場では、生産性向上に向けたチーム学習が徹底していた。でも、サービス産業や福祉、教育などの現場で、現場の裁量が活かされ、そこから労働生産性を上げる努力がなされているだろうか。ジャストインタイム、などの商品コストを下げることを目標にするのではなく、労働時間を減らしながら業務効率を最大化する事が、目標とされていただろうか。この本を読むと、すごく心許ないと思ったし、まだまだ日本の職場には伸びしろというか、カイゼンの余地が沢山残されていると思った。

そういう意味で、デンマークの知見を通じて、日本人の働き方を考え直す、すごく良い一冊だった。

「ままならなさ」で緩むもの

金曜日、高木俊介さんが主催されるACT-Kで、三好春樹さんや宅老所はいこんちょの小林敏志さんとの鼎談があった。僕はたまたまの流れで、司会をさせて頂き、すごく色々考えさせられた。その中でも、小林さんがぼそっとおっしゃったことをフックにして考えたい。

「介護は受け身。自分たちは○○がやりたい、というのがない。能動的でなく受動的な人の方が介護は向いている。」

僕は結構この言葉がずしりときた。なぜなら、僕は小林さんと真逆のタイプだったからだ。「○○がやりたい」とあれこれ画策し、能動的に自分から動きまくって人生を切り開いてきた(と思い込んできた)。そして、この構えは、「介護やケアには向いていない」のである。まさに、その通り! 今なら、よくわかる。子どもが産まれて以来、苦しんできたのは、まさにこの受動性だった。

娘は全く思い通りにならない。こちらの想定は、見事になぎ倒される。

金曜は夜9時まで京都の高木クリニックで鼎談があり、その後の懇親会はビール一杯だけ参加して、早々に新幹線に駆け込み姫路に帰る。翌土曜日の夜は奈良の「ほんの入り口」さんでトークイベントがあったので、京都の実家に宿泊という選択肢もあった。ただ、娘を祖父母のところに連れて行きたい&妻をワンオペから解放したい、とも思い、金曜夜は一度帰宅しようと思ったのだ。さらに言うと、午前中は最近行けてない合気道のお稽古に住吉まで行ってから、午後娘を連れ出そう、とか、あれこれ画策していた。だが・・・

土曜の朝、起きると娘の咳がひどい。聞くと、昨晩は何度も起きたので、妻もふらふらでイライラがマックス。そんな中で、僕だけ趣味で出かけてきます、なんてとても言えない。そもそも夜のイベントは、新刊『ケアしケアされ、生きていく』を巡るイベント。なのにその僕が、実生活では子どもや妻のケアより遊びを優先していては、なんたる言行不一致! そうはいっても今日こそ久しぶりに合気道に行けるぞ!と6時に目覚めたのに・・・。こちらのイライラや葛藤も最大化しつつも、合気道より大切なのは家庭の平和、と思い直して、予定を取りやめ、家事をしていた。

事ほどさように、娘との暮らしの中では、PDCAサイクルとかリスクヘッジとか、コストパフォーマンスとか計画制御とか、生産性至上主義の言語は見事になぎ倒されていく。6歳の娘は、野生がまだ残っている。自己管理が自分で出来ない、という意味で、ケアが必要な状態である。また、自分で心身のコントロールが十分に出来ないからこそ、しょっちゅう風邪をぶり返す。感情に波がある。というか、子どもってそういう存在なのである。それは、十分に社会化されていない、という意味で、未熟かもしれない。でも、認知症のお年寄りと同じで、自分で自分を制御しきれないからこそ、他者のケアが必要なのだ。そして、自分で自分の制御が十分に出来ない人を前に、他者がその相手の支配や制御も出来る訳ではない。振り回されるしかない。つまり、能動的というより、受動的な姿勢が、ケアの構えなのだ。

僕は、元々予定していた土曜のスケジュールに代表されるように、空いている時間に、仕事も余暇も徹底的に詰め込む、生産性至上主義の塊のような生き方をしてきた。子どもが産まれて6年間、そこからだいぶ切り離されていたが、今年娘が小学校に入って、ちょっと昔の悪い癖が戻りつつあり、10月から12月まで繁忙期ということもあって、ああやって予定を詰め込んだ。でも、そんな父のことなどお構いなしに、娘は僕の想定や予定をなぎ倒してくださる。「○○したい」という能動的な構えの僕は、娘の体調不良を前に、思い通りにいかず、イライラが募りかける。だが、そんな娘のケアに振り回されることによって、僕の能動性が弱まり、娘と共に居る時間を取り戻す。

ケアって、巻き込まれてなんぼ、なのだ。そして、それは、リスクやコスト、PDCAや生産性とは真逆の発想である。

自分で業務管理が出来る範囲内なら、その生産性を上げるのは、コツコツ努力をすればよい。僕が30歳で大学教員になった後の5,6年、仕事の効率化とか生産性を上げる方法、などのハック本を100冊以上読みまくってきた。そうやって、原稿を書くのは早くなったし、仕事の効率は徹底的に良くなった。だが、それは自分が想定できる、自分で自己完結できる仕事の範囲内で、という限定が付く。

子どもが産まれたあと、 子どもは全く思い通りにならない存在だ、という当たり前の事実に気づいて、愕然とさせられる。想定外の娘の行動に振り回され、こちらがあらかじめ見積もった時間がどんどん奪われていく。振り回される。主体的で能動的で自己決定に基づいて成果主義的に動く、なんて技法は全く通用しない。事態は流動的だし、少し先でも予測不能だし、娘の状態を観察しながら、出来そうな範囲で動き、それも無理ならその時点で柔軟に予定を変えて・・・と、娘の主体性を尊重しながら動く必要がある。

そういう「ままならないこと」に身を任せながら、改めて気づくのだ。いかに僕は想定内で計画制御的に生きるよう、自分自身に強いてきたのか、と。「努力すれば報われる」という論理を内面化し、「報われるためには、努力し続けなければならない」と論理を転倒して、強迫観念的に働き詰めてきた。一定の成果があっても、通過点に過ぎず、もっともっともっと・・・とせき立てられるように、次の戦略なり計画なり目標達成に向けて、さらに能動的で主体的に動くよう、自分を追い込んできた。

でも、だからこそ、ままならない娘に振り回されると、そうやって能動的で主体的に自分を追い込んできた、自分の強迫観念のようなものが、少し緩むのである。それと共に、生産性至上主義の論理の隙間に、ケアの論理、という別の合理性が入り込む余地が産まれてくる。

客観的で科学的な情報に基づいて出来る限り予想をし、リスクを分散し、費用対効果を最大化するように動く。これは生産性至上主義の合理性である。でも、野生の娘が、いつ風邪をひくか、嘔吐するか、鼻血を出すか、は予想不能である。娘と外に出るときは、いつどうなってもよいように、嘔吐袋とティッシュを多めに持参することは出来ても、それでリスク分散とはならない。そもそも、子育てのコストや手間、リスクを考えたら、子育ては費用対効果が不明だし、費用対効果を高めたいなら、子どもを産まない方が良い。でも、それは生産性至上主義の論理の範囲内では、である。

ケアの論理という別の合理性で考えると、全然違ってみえてくる。ままならない娘に巻き込まれながら、「思い通りにする」とか「巻き込まれない」というのは、自己と他者を切り離し、他者や自分を支配統制し、無理を自他に押し付ける思想だと改めて気づく。娘が親の言うことを簡単に聞いてくれない時、親が無理矢理子どもに押し付けようとしている生産性至上主義の論理を、娘は命がけで拒否しようとしている、と捉えると、全然別の世界が見えてくる。父ちゃんは、実は恐ろしいアイデアを娘に押し付けているのではないか、と。

「枠組み外しの旅」とか「当たり前をひっくり返す」とか書いてきたけど、子育てというケアの当事者として、いまだに「ままならなさ」と主体性、「巻き込まれること」と能動性、の狭間で身もだえしている。それは、魂の脱植民地化の大切なプロセスなのかもしれない、と思って、こうやって備忘録を書いておく。

ちなみに、妻が仕事でワンオペ日曜日にこうやってブログに書けたのは、おばあちゃんが娘のままならなさに、喜んでご一緒してくれているから。僕も40年前、そうやって引き受けてもらったのだ、としみじみ二人を眺めながら、ブログを書き終えた。

「分かる」を手放し、蔵書を開く

青木海青子さんから新刊『不完全な司書』(晶文社)をお送り頂く。彼女の書く文章は、決してグイグイと主張が激しい内容ではないし、大所高所を論じることもない。その逆に、ご自身の感情や感性を、丁寧に描いていく。ただ、自分が感じた違和感や思いを、静々と積み重ねて書く中で、いつの間にか圧倒的な迫力を持って、読む人に迫ってくる。そんな不思議な文体である。

彼女が精神科の閉鎖病棟に入院した際、本の検閲や荷物の検査をされた。そのことを後で思い出した時、こんな風に感じたという。

「私は目の前に管理する側によって線が引かれた時、何もしませんでした。むしろそれを積極的に受け入れるような気の持ちようすら示していました。そのことが暴力性を是認し、暴力性を内包した場を強化したり、一緒に構築してしまうような行為だったのだと、後の読書会の時に知らされたような気がしました。本を没収されたことにもっと反発したり、悲しんだり起こったり、きちんと反応すべきだったと。私がそのことを黙って物分かり良さそうに飲み込んだことで、その暴力性が後から来る他の誰かにも向かうのではないかというところまで、想像を巡らせるべきだったと後悔しました。」(p147)

精神科の閉鎖病棟では、自傷他害の防止、あるいは治療上の必要という理由で、手荷物の持ち込みが制限されている。海青子さんはその時には、そういうものだ、と思い、「むしろそれを積極的に受け入れるような気の持ちようすら示してい」た。ご自身にとって大切な本を没収された時も、「そのことを黙って物分かり良さそうに飲み込んだ」。ただ、退院した後、読書会でハンセン病療養所に暮らした詩人による小説を読んだ際、似たようなエピソードに遭遇した時に、ある人が「これってものすごい暴力性を内包するエピソードですよね」と言われて、げんこつを喰らったような気になった。

彼女がそれほど衝撃を受けたのは、「本を没収されたことにもっと反発したり、悲しんだり起こったり、きちんと反応すべきだった」ことに、この言葉に出会うまで、気づけなかったからだ。自分の大切にしていたものを、「本は先生の許可が降りてから」と取り上げられる。いくら治療上の必要とは言え、自分にとって大切なものを、他者が勝手に必要かどうかを判断し、その判断や意思決定権を奪われる。そのことは本来ならば屈辱的で腹立たしいはずなのに、正常性バイアスが働き、「そういうものだ」と自分自身を納得させてしまった。それは、自分自身に向けられた暴力を、鵜呑みに受け入れてしまったこと、そしてそれが暴力だったと気づけなかったことだ、と後々に気づくのだ。

恐らく、彼女の荷物をチェックして「預かっておきますね」と伝えた看護師も、日常業務として、入院時のルーティンとして、「そういうものだ」と思って行っていた、という意味では、海青子さんと変わらない。でも、没収する側も、没収される側も、「そういうものだ」と思い込んでいる、その「そういうものだ」の中に、「そのことが暴力性を是認し、暴力性を内包した場を強化したり、一緒に構築してしまうような行為だった」という気づきや思考を奪う、「暴力性」を消極的に肯定する思考停止の論理が内包されていたのだ。そのことに、海青子さんは後々気づき、後悔したのだ。

このような内面への観察力の鋭さは、彼女の子ども時代から培われてきた、という。

「本と出会った頃の私、子どもだった私は、病院で出会った人達や入院している自分自身と同じで、『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚を強く抱いていました。うまく意思の疎通がはかれない家庭や学校の中で、それでもここで何とかやっていかなければならない、という閉塞感を感じていました。だからこそ、窓外の景色に強く憧れ、『桜島』の村上兵曹のように『何故此のやうに風景が活き活きしているのであろう』と感じ、そこに見える木々の枝葉一つ一つを必死に写し取ったのだろう、と、入院時の自分と、本を読み始めた頃の自分を重ね合わせて思います。そしてそのことが、当時の私を救ってくれたとも感じます。」(p159)

『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚を、海青子さんは子どもの頃も、入院していたときも、感じていたという。そして、彼女は本を読みながら、その本に描かれていた、「窓外の景色に強く憧れ」ていた。この憧れは、現実への絶望とセットになった時、より強化される。そして、僕はこれほどの隔絶や絶望を感じたことは ないが、似たようなつらさを思い出した。それは、鉄橋と共に。

何度かブログで書いているが、小学校5,6年生の頃、クラス内で激しいいじめが蔓延して、学級崩壊状態だった。あのとき、人生で一度だけ、11階の自宅マンションの欄干から下を眺め、「もうちょっと身体を乗り出せば、間違いなく死ねるんだな」と思っていた。でも、そうする勇気もなく、煮詰まっていた。その時、少年ひろしは、本に救いが求められなかった。本を通じて「窓外の景色」に出会えることを、理解していなかった。だからこそ、チャリに乗って、しょっちゅう近所の河川敷の鉄橋まで出かけた。電車オタクだったこともあり、通り過ぎる新幹線や特急列車を見るたび、「電車に乗って、どこか遠くに行きたいな」と思い続けていた。

この本の記述を読むまで全く忘れていたのだが、あのときの10才前後の僕は間違いなく、「窓外の景色に強く憧れ」ていた。それは、『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚に近いものだった。そして、そういう感覚を持っていた、ということを、海青子さんの文章を読んで、ありありと思い出したのだ。僕は、鉄橋でぼんやり電車を眺めたことを、スケッチブックにも日記にも書き残していない。でも、今強烈に思い出すのは、「窓外の景色に強く憧れ」ていたからであり、「風景が活き活きしている」のを心に刻み込んでいたから、とも、海青子さんの文章から気づかされた。

この本は共感することだらけで、赤線引きまくり、なのだが、印象的な箇所をもうちょっとご紹介したい。

「私自身、精神障害で倒れて退職した頃は息をすることも辛く感じられ、生きるか死ぬかを自らに迫りそうになったことがありました。ですが大怪我の後には『分からない』ことに身を委ね、今ここの自分で決めようとしないことで、一日一日を生き延びてきたんだと思いました。そういう意味で、私にとって『分からない』ことが希望になっていたのです。ですから、『分からない』という言葉でコミュニケーションを断とうとする人を見ると気がかりに感じてしまいます。『分からない』ことを不快として遠ざけ、今ここの自分で分かることだけに囲まれていると、そこに隠された希望に気づかず、いつか行き詰まってしまうのではないかと思うのです。」(p188-189)

「生きるか死ぬかを自らに迫りそうになった」というのは、言葉を換えると、生き死にを自分で決断する、という意味で、その判断を自分で了解して行う、自分はそのことを「分かっている」ということにもなる。でも、彼女は大怪我で入院した後、「『分からない』ことに身を委ね、今ここの自分で決めようとしないことで、一日一日を生き延びてきたんだ」と視点が変わった。それまで「分かる」ことに必死になってしがみつき、自分を追い込み、世間が求める「ちゃんとする」「しっかりする」の基準を分かっている自分は、それをちゃんと真面目に護らなければならない、と自分を追い込んだ。それで、仕事が出来ないくらいなら、「生きるか死ぬかを自らに迫りそうになった」くらい、「分かる」に拘っていた。

でも、いったん「分からない」に身を委ねると、「『分からない』ことが希望になっていた」という。自己責任論を強く内面化すると、「分かる」への強迫観念が強まるが、それを一旦脇に置き、どうなるか「分からないこと」に身を委ねてみよう、今日や明日はどうなるかわからないけど、「一日一日を生き延び」てみようと思うと、「分かる」の強迫観念の下に隠されていた「希望」が見えてきたのだ。

「『分からない』ことを不快として遠ざけ、今ここの自分で分かることだけに囲まれている」と、自分の理解出来る内容だけに囲まれているから、表面的には心地よく思える。でも、ちょっと引いてみれば誰にもわかるが、この社会は「分からない」ことだらけだ。「今ここの自分で分かること」は、ほんの一部分にしか過ぎない。にも関わらず、それに拘ってしまうと、それ以外の世界の複雑性を切り落として、自分に都合良く理解しようとしてしまう。それはエコーチェンバーのように、「分かる」だけを強迫反復していき、ますます「分からない」世界とは敵対的になってしまうのだ。

さらに言うと、「分からない」を受け入れる、とは自分の信念体系でできあがった「正しさ」を脇に置くことでもある。否定するのではない、脇に置くのだ。分かる・分からない、というのを、Yes/Noの二者択一モードにしてしまうと、「分かる」世界は受け入れ認め、「分からない」世界はなかったことにしてしまう。それは信念強化に繋がるが、それ以外の世界の複数性の拒否にも繋がる。その時に、「分からない」けど身を委ねる、というのは、確かに怖いし、勇気もいることだ。でも、そういう「分からない」世界に身を委ねるうちに、いつしか自分の「想定外」の世界にたどり着く。その「想定外」を楽しむためには、自分の培った「正しさ」が時として邪魔になる。それを脇において、流れ流されてきた想定外の世界を楽しむことが、実は希望に繋がっているのかもしれない。

そんな海青子さんとパートナーの青木真兵さんは、奈良の東吉野村の自宅を開き、私設図書館ルチャ・リブロを運営している。海青子さんはそこで司書をしている。なぜそんなことをしているのか。彼女はこう語る。

「自分達だけでは抱えきれない問題があったから」

博愛でも正義漢でもなく、問題の共有のために私設図書館を開く!?これは一体どういうことなのだろうか。

「私達にとって自分の蔵書というのは、自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えてきたりしたのかをそのまま閉じ込めた思考のあとさきのようなものです。その蔵書を開くということは、自分たちの問題意識をそのまま外に開くということと同義です。つまり私達にとって私設図書館を構え蔵書を一般に開いたことは、抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだということだったのです。」(p41)

二人は人生で行き詰まったとき、東吉野村に退却した。でも、以前に住んでいた西宮から隠遁する、というより、新たな場で「自分たちの問題意識をそのまま外に開く」ことにした。それが「自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えてきたりしたのかをそのまま閉じ込めた思考のあとさき」である「蔵書を開く」ことであり、私設図書館を構えることだった。

これは究極な形での「無力」を認めることだと思う。蔵書を自分で抱え込んでいる間は、自分一人で何とか解決しようと、自己責任論で頑張ってきた。でも、にっちもさっちもいかなくなったとき、「抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだ」というのは、究極の構造転換だ。悩みを隠さず、悩みを開く。それは昔読んだ本には「悩みを市に出す」という形で表記されていたが、私設図書館という公共空間に悩みを差し出して、『一緒に考えてくれないか』とお客さんを呼び込む、というのは、自分自身が無力だと認め、その無力の絶対的肯定をしないとはじまらない。そして、それは以前のブログに書いた当事者研究の論理とも通底している。

入院前から構想を練っていた私設図書館を辞めようか、という話が持ち上がった時に、彼女がだからこそ図書館をしたいと思った理由も、以下のように綴られていた。

「『横に立つ人』が図書館の利用者であれば、私は『障害のある人』でもあり、『図書館員』でもあれるのです。『図書館員』であるところの私は支えられる存在であると共に、相手を助け支えることもできる存在になります。たとえそれが『不完全な司書』であっても。」(p27)

「抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだ」という意味では、彼女は「障害のある人」であり、「支えられる存在」である。でもそんな彼女が、「支えて下さい」ではなく、「一緒に考えてくれないか」と呼びかけるとき、それは一方的に私を支えて下さい、という呼びかけでない。そうではなくて、私も教わりたいけど、あなたのお悩みを聞かせてもらったら、私も司書として、あなたを「助け支えることもできる」かもしれない。そんな双方向性が担保されているのである。

これは確かに普通の図書館司書とは違う。私情を挟まず、プロフェッショナルな意識をもって、来客者の要望に応える公立図書館の司書。それは、サービス提供のプロではあるが、双方向性はそこに期待されてはいない。でも自宅を開き、蔵書を開くことで、そもそも海青子さんは脆弱性に晒される。でも、そのような形で開くことこそ、彼女にとっての最大の生存戦略であり、支えられるだけでなく自分も誰かを支える存在であり続けることが出来る。それは司書の標準的な基準からすると「不完全な司書」かもしれない。でも、圧倒的に人間的で、魅力のある司書なのだ。

ちなみに、個人的にも僕は「不完全な司書」さんにめちゃくちゃお世話になっていて、ファンタジーなき男が中年になって、「生きるためのファンタジーの会」をはじめたのは、まさに海青子さんとの出会いや、彼女が差し出してくれるファンタジーの数々があったからだ。また、この本の中には、そんな僕とのやりとりも出てきて、自分のことがこんなに他者のエッセイの中に出てくるなんて、とちょっとこっぱずかしく、でも嬉しく思いながら読み終えた。

すごく素敵な本なので、多くの人にジワジワ広がってほしい、と思う一冊です。

実存的苦悩と客観性

先週、札幌で向谷地さんにインタビューした時のことは、前回のブログで書いた。その際、向谷地さんがぼそっと仰ったことが、ひっかかっている。

「精神障害を抱えて生きる人の実存に向き合わないと」

精神障害を抱える人は、生きる苦悩が最大化した人でもある。ということは本人にとっては、生きる苦悩という実存上の課題が極まった状態の人でもある、と言える。その時に、エビデンスベースで標準化・規格化された「一般的な答え」は、部分的には役に立つかもしれないが、本質的な意味で、本人の実存的課題の解決策につながらないのではないか、と感じていた。

そのことを、別のルートで指摘している一冊に出会った。

「性格を把握することは、課題解決の最初の一歩でしかない。知ったうえで、『誰と誰を業務で組み合わせようか?』『どう仕事を割り振ろうか?』といった現場の調整がすべてなんだ。」(勅使河原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』どく社、p180)

著者の勅使河原さんは、コンサル会社で能力開発業務に従事した後、今は独立して組織開発の仕事に従事し、2人の子どもを育てている。ただ、2020年に授乳中の違和感から乳がんが発覚し、あちこちに転移している。そんな闘病中の彼女は、子どもたちにメッセージを残したいと、あえて「自分が死んだ後」の2037年に、成人した子どもたちと対話形式で、この社会に蔓延する能力主義について解きほぐしていく、という体裁を取っている。

この本の中で、組織開発に従事する経験に基づき、勅使河原さんは、社員の性格や能力を分析しただけでは、業績が向上しない、と語る。入試の偏差値はペーパーテストの情報処理「能力」によって決まるが、そもそもそれは個人の表層的な知識や経験、スキルである。勅使河原さんによれば、その下に見え隠れしているのは、意識や意欲、心構えや価値観などの「マインドセット」だと言う。さらに深層の、普段は見えない部分には「性格特性や動機」などの感情の素が隠されており、これは「若年期に固まり安定、変容はかなり難しい」としている(p175)。

そして、この「若年期に固まり安定、変容はかなり難しい」「性格特性・動機」こそが、本人の生きる苦悩をもたらす源泉であり、実存上の課題だ、と架橋すると、話の見通しがよくなる。病気や失業、離婚や親族トラブルなど、様々な「悪循環」に襲われたとき、情報処理能力などの知識や経験、スキルではなんともならなくなる。そういう苦境の時こそ、その人のマインドセットが問われるし、それは性格特性や実存的課題と直結している。それは、会社の業績悪化などでも同じで、そのような「ピンチ」の時こそ、表層的なスキルでは対応出来ず、本人の人間性が問われる、というのだ。

だからこそ、性格特性を心理テストで計れば、それで組織開発が出来るわけではない、という勅使河原さんの話もよくわかる。「性格を把握することは、課題解決の最初の一歩でしかない。知ったうえで、『誰と誰を業務で組み合わせようか?』『どう仕事を割り振ろうか?』といった現場の調整がすべてなんだ。」というのは、本人の性格特性を活かしつつ、それが業績や欲しい成果と結びつくためにどうしたらよいのか、を考えるプロセスなのだという。こういう泥臭い「現場の調整」をしないかぎり、組織の苦境は越えられないのだ、と。

なぜ勅使河原さんは、こういうことを書籍で訴えるようになったのは、彼女自身が乳がんになって、以下の視点をもつようになったからだった。

「私を静かに追い詰めていたのは、一元的な『正しさ』だったのだと。『能力』の呪いもそういうこと。多様なはずの人間に対して、画一的なあり方を社会が要請する。これに辟易してきたんだ。」(p245)

「能力が高いほうがよい」「お金持ちなほうがよい」というのは、「一元的な『正しさ』」の最たるものである。確かに、能力やお金は、あるにこしたことはない。でも、そこ「だけ」が正しさの価値基準だとすると、「多様なはずの人間に対して、画一的なあり方を社会が要請する」ことになる。社会に迷惑をかけずにそつなくこなす「世間にとって都合のよい子」だけが社会的に認められ、その範囲でしか自己表現してはならない、とすると、あまりに世の中はしんどいし、苦痛が多い。それは、私自身の実存上の課題が切り捨てられ、標準化・規格化された「一元的な『正しさ』」の範囲内で査定・評価・批判される枠組みへのしんどさ、である。こないだ出した『ケアしケアされ、生きていく』の中では、「他人に迷惑をかけるな憲法」に呪縛されている、と表現したが、こういう「憲法」は、個人のパフォーマンスの最大化を抑圧する最大の呪縛装置だと思う。

そして、乳がんになった際、エビデンスに基づいて仕事をしていた勅使河原さんは、気がつけばスピリチュアル系整体師にハマって沢山つぎ込んでいた、という。なぜ、高学歴で情報分析能力にも長けた彼女が、医療機関の客観的情報に満足せず、アヤシい新興宗教のような内容にはまり込んでいったのか。彼女はこんな風に振りかえっている。

「『私』という個別具体へのソリューションを一般論から、ポンポンと繰り出すのではなく、まず『私』についての一次情報をがっつり受け取ってくれた。結果、『これだけ私の話をさせてもらえたんだから、この人(整体師)は私のことを最もよく理解した人として適切なソリューションを実行してくれるだろう』—そんな信頼感が、巡り巡って醸成された。ソリューションは何でも良かったのかも」
「窮地にある個人が『私』に特化した情報がほしいときに、医療などの科学がエビデンスを両立させながらその願いに応えることは、以下のステップを踏めば、不可能ではなさそうだ。
まずは、相手の話をとにかく聞くこと。聞くことこそが、相手にしてみれば欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す。そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。そういうことかもね。」(p232-233)

乳がんや精神疾患は、風邪や骨折とレベルが違う。それは、それまでの生き方を継続できないかもしれない、という実存上の課題を突きつける疾患だからだ。確かに、治療は可能である。でも、心身の痛みや苦しさが最大化し、さらに言えばこれまでの働き方や価値前提を変えないと、予後が良くならない可能性もある。つまり、表層的な「知識・経験・スキル」ではなんともならず、「意識や意欲、心構えや価値観」のような「マインドセット」の変更だけでなく、個人の「性格特性や動機」をも深く揺さぶられるような、生きる苦悩が最大化した疾患である。

つまり、自分自身の実存が揺さぶられ、苦しんでいる。

その時に、一般論や客観的なデータをいきなり伝えられても、相手の心には届かない。なぜなら、「なぜ他ならぬ私が、よりによっていま・ここで、乳がんや精神疾患になってしまったのか?」という実存上の問いには、客観的なデータは全く答えてくれないからだ。そのしんどさや苦しみ、モヤモヤといった「『私』についての一次情報をがっつり受け取ってくれた」かどうか、は、実存が揺さぶられている人には、ものすごく大きな出来事である。

『これだけ私の話をさせてもらえたんだから、この人(整体師)は私のことを最もよく理解した人として適切なソリューションを実行してくれるだろう』

この勅使河原さんの内的合理性は、窮地に追い込まれた人に共通しているのではないだろうか。実存が揺さぶられ、しんどくて苦しくて、理解してもらえない、聴いてもらえない苦悩やモヤモヤを、ここまで共感して聞いてくれた。アドバイスや助言は横におき、私のことを親身になって理解しようとしてくれた。それだけ話を聞いてくれ、私のことを理解してくれる人だから、信用出来るし、その信用出来る人のアドバイスなら聞いてみたい。

この部分は、オープンダイアローグのプロセスとうり二つなのだ。ただ、この後に「水子の祟り(夫婦関係の悪さ、風水・・・○○)のせいだ」と即答し、「だから御札(壺、除霊・・・○○)をしたらよい」と断言すると、スピリチュアル系になる。一方、オープンダイアローグでは、その生きる苦悩をじっくり伺った上で、どうしたらよいか、をチームでモヤモヤ考え合うプロセスなので、断言も即答もしない。でも、一緒にモヤモヤ考え合う、というwith-nessは持ち続ける。そんな違いがある。

そして、実存上の苦しさと医学的な客観性はどのように両立可能なのか。実際、スピリチュアル系に行きかけた経験をもとに、勅使河原さんは明快に次の様に語る。

「まずは、相手の話をとにかく聞くこと。聞くことこそが、相手にしてみれば欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す。そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。」

「相手の話を聞くこと」。それは一見すると、何も情報提供をしていないように、見えるかもしれない。でも、他者に私の実存上の苦しみに関心を持ってもらい、素直に尋ねられること。それは相手の側からすると、実存上の苦しみを、はじめてくらいのタイミングで、言語化するチャンスでもある。自分一人で考えていたら、グルグル同じ所に陥って袋小路に陥っていたことも、興味を持ってくれた相手の問いに答える形でお話しているうちに、整理されることがある。そのとき、聞き手はアドバイスや批判、査定は横に置き、謙虚さと好奇心をもって理解しようと相手の実存上の苦悩を聞き出す伴奏者になっていくと、話す側からすれば、それだけで、実存上の苦悩が他者にも承認された、わかってもらえた喜びがある。そのような喜びは、「欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す」のだ。

信頼関係の基本は、情報提供の前に、Just Listen! ただただ、話を聞くことにあるのだ。

「そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。」

その前提があってはじめて、自分以外の「似たような症状・状態」に陥った「どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる」。逆に言えば、「安心して聞く耳が持てる」信頼関係を構築することなく、客観性やエビデンスの話をまくし立てても、実存上の苦悩に支配されている本人の耳には全く入ってこないし、下手をしたら不信感を募らせるばかりだ、というのだ。

客観性やエビデンスが無駄、なのではない。そうではなくて、実存上の苦悩を理解することなく客観性やエビデンスを振り回しても、本人に伝わらない、という意味で、客観性やエビデンスが無効化されかねないのである。

ここまで書いてきた話は、大学で出会う学生たちにも当てはまる。彼女ら彼らは、客観性やエビデンスに振り回され、雁字搦めになり、苦しんでいる。そんな学生たちの話を、ゼミや面談でゆっくり伺っていると、泣き始める学生もしばしばいる。それは、自分の実存上の苦悩が聞かれていなかったことの表れでもある。これは、学生だけに限らない。福祉現場で働く人でも、じっくり話をうかがっているうちに、生きる苦悩の話をされる場合もある。こちらはアドバイスも何も出来ないので、ただただ聞いているのだが、聞いている間に、自分で答えや方向性を見いだし、すっきりする人もいる。

もちろん、僕も多少なりとも何らかの知識や専門性という客観性やエビデンスを持っている。でも、それを振りかざす前に、まずはじっくりトコトン相手のストーリーを伺うことが大切なのだ。興味や関心をもってその話を伺っていると、話を聞いているうちに、方向性が見えてくることがある。それは、話を聞いている私と、話している相手が、共に作り出していく方向性だったりする。それは本人にとって、自分事だし、納得しやすい。客観性やエビデンスが「説得」材料になりやすいが、実存的課題に直結していると「納得」を生み出しやすい。その両者をどううまくブレンドさせるのか、が課題であると思った。

だからこそ、冒頭の向谷地さんの発言に戻るのだ。

「精神障害を抱えて生きる人の実存に向き合わないと」

精神障害者に関わる医療や福祉現場の支援者が、どれだけ相手の実存に寄り添えているか。それ以前に、支援者が自分自身の実存的課題にどれほど向き合えているのか。それこそ、本質的な課題だと思った。

無力さでつながり直す面白さ

浦河べてるの家のソーシャルワーカー向谷地生良さんと、ひがし町診療所の川村敏明医師。ふたりは、当事者研究など画期的な精神障害者支援を行う浦河べてるの家を二人三脚で引っ張ってきたお二人である。今回、僕の師匠、大熊一夫氏が映画監督!としてお二人にインタビューをするという。これは是非とも話を伺いたいと師匠にお願いして、日程を調整していただき、二泊三日という凝縮した日程の中で、奇跡的にお二人の話を伺うことが出来た。

向谷地さんと川村さんに共通すること。それは、共に依存症の回復者から学んだ「無力」である。支援者が出来ることには限界がある。依存症でも統合失調症でも、支援者が「治す」ことは出来ない。それは、アルコールや薬物依存でも、統合失調症やうつ病でも、発症に至るには、最大化した「生きる苦悩」がある。だが、いったん「依存症」「精神病」などとラベルが貼られると、本人の言動がすべて「病気のせい」とされてしまう。それは、生きる苦悩を抱えた生活主体者としての本人の責任が免責され、「責任を果たす能力のない人」と馬鹿にされることでもある。

この際、「責任を果たす能力のない」患者に対して、治療し援助し支える存在としての医者や医療者が対置される。これは、医者に圧倒的な権力が集中し、患者との間で、支配—被支配関係に陥る、ということである。このような非対称な関係だと、患者はますます医者に依存的になる。だからこそ、川村さんは「治さない医者」を標榜する。彼はそれを「さわやかに期待外れ」とも語っていた。

患者は無能力な人、ということは、それと対置する医者は全能な人、と位置づけられる。だが、当たり前のように、神様でもない限り、全能な人、などこの世に存在しない。また、

「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」を行っても、精神症状はよくならない。すると、患者からは全能な人であると期待されているのに、医者はその能力を発揮できない。だからこそ、その患者の期待をかわす必要がある、と川村さんは言う。

以前は、生活保護をもらって一週間たって、お金を使い果たした状態になった患者さんが「入院させてほしい」と日赤の精神科にやってきた。そして、入院して、三食しっかり食べて、よく眠れて、看護師さんから丁寧にケアをされて、退院していった。でも、また再入院していく。それは、本当に病気ゆえの入院なのか、単なる「金欠病」という生きる苦悩や生活課題なのか。従来、本人も治療者も、病気故の入院だと思い込んでいた。でも、同じ悪循環を繰り返す当事者を、川村さんはある時期から、突き放すようになった。病気なら治療はするけど、生活課題については治療してもなんとかならない。お金の使い方がうまくコントロールできずに再入院するなら、そのような失敗経験を持つ仲間と相談して、生活力を高めた方がよいのではないか。それが、浦河べてるの家を国内のみならず世界的に有名にした「当事者研究」の話につながっていく。

向谷地さんに今回改めて話を伺って感じたのは、「当事者研究」は、「問題の外在化(人と問題をわけて考える)」「苦労の経験当事者性を活かす」「無力さを認める」ことに大きなポイントがあることだ。

まず、最後の「無力」について、向谷地さんは「無力」と「無能」は違うし、ごちゃ混ぜにしてはならない、と語る。これは結構大切なポイントだと思う。医療者は、患者から自分の苦悩を解決してくれる全能者のように、期待される。でも実際のところ、眠れないとかそわそわするといった症状は薬で治まっても、生きる苦悩は消え去らない。そして、生きる苦悩が残存している限り、その対処方法がわかっていないと、問題は再発する。すると、支援者が関わっても治せないんだ、という絶望感が広まる。そこで大切なのは、自分のアプローチが相手には通じない、という意味で、「無力であること」と認めることだ。だが、これは「無能」とは違う、と向谷地さんはいう。

「無能」とは、自分には能力がないと自己否定や自己卑下をすることである。一方、「無力」とは、これまでの自分のアプローチでは上手く関われないという「非力さ」を認めることである。多くの支援者は、患者を治せない・上手く関われない事実と直面することを、「無力」ではなく「無能」だと感じてしまうがゆえに、それを認めようとしない。それだけでなく、自分を「無能」に思わせそうな治らない患者を見下し、自分の治療の不全を相手の個人的問題に矮小化したり、対象者を馬鹿にする治療者までいる。

でも、向谷地さんも川村さんも「無能」ではなく、「有能」である。ただ、彼らは、医療やソーシャルワークの既存のありようでは、生きる苦悩を抱えている人の前では、「無力だ」と気づき、自らのアプローチを変えた。これがすごみのあるところだ。

この際の「無力さを認める」とは、今のやり方や課題の捉え方では上手くいかない、ということを認めることである。一見すると、無能と近いようだが、全く違う。物事に対処する能力が現時点ではない、という意味では、無能も無力も似ている。でも、無力というのは、能力の使い方や認識を根本的に変える、ということである。たとえば弱肉強食の上昇志向で生きてきた人が、精神疾患に陥り、それまでの能力主義的価値前提でうまくいかなくなった、とする。そのときに、自らの従来の能力主義的価値前提を一端脇に置き、「降りていく人生」というか、勝ち負けを競わない、別の世界を模索することが出来るか。そのために、能力祝儀的価値前提で生きる自分は「無力だ」と認めることができるか。それが問われているのである。

と、ここまで書いてきたとき、あ、これって僕が子どもが産まれた後に、家事育児に翻弄されていて、「戦線離脱だ」と感じたあのときの感覚に似ている、と感じた。そう、それまで業績主義でしゃにむに出張も詰め込んでいた自分が、赤ちゃんの世話に忙殺され、「今日一日何にも出来なかった・・・」とつぶやいたとき、妻に「あんた、家事や育児を立派にしているやん」と指摘され、ハッと気づかされたことがある。それは、生産性至上主義で求められる価値基準の中で、何も出来ていなかったことを悔やむ僕がいたことである。それほどまでに、能力主義的な価値観を深く内在化していたので、子育てをし始めて、これまでの価値基準においては何も出来ない自分が「無力だ」と感じたのだ。

でも、ありがたいことに、僕はそこから、子育てやケアの「当事者研究」を始めたのかも知れない。どうして家事育児しかしていない時期を「戦線離脱」と表現してしまうのか、なぜ僕はこれほどまでに生産性至上主義に陥っているのか。この問いを考えた時に、人と問題をわける、という外在化は本当に役に立った。僕が子育てを始めて苦しい思いをしたとき、それは僕が無能だったのではない。そうではなくて、これまでの価値前提で子育てにコミットすると無力だということに気づいたのだ。そこから、僕を無能だと思わせるこの社会の価値基準と何なのか、を人と問題をわけて考え始めた。それは、男性中心主義で回るこの社会の論理のおかしさや課題を、そのものとして見つめ直すことでもあった。

そして、生産性至上主義を内面化しながらケアに関わる苦労の経験当事者として、その問題を原稿に書いて外在化しながら考えてきた。最初はどう書いてよいかわからず、足かけ2年かけて考え続けてきた、ケアと家族と男性中心社会にかんする当事者研究が、2022年には『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』(現代書館)として書籍化されたし、その当事者研究の延長線上に、昭和98年的世界の生きづらさを整理した作品として、今年は『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマ—新書)という本も出せた。この二冊は、子育て以前に書き上げた本とテイストが違うのは、それはぼく自身の「当事者研究」が全面に出た本だから。そういう意味で、ぼく自身も、自分自身の生活課題の中で「無力」を認めることが、最大の危機でもあり、生きづらさを越えていくための大きなきっかけになったのだ。

もちろん、子育てに関しては、これからもモヤモヤするし、より主体性を発揮し始める娘とぶつかることも出てくるだろう。そのたびに、何度も何度も、ぼく自身は無力さを味わうだろう。でも、そのたびに、先輩や仲間の子育て経験当事者のと語り合えばよいのだ。唯一の正しい正解はないからこそ、モヤモヤ対話を続け、お互いの悪循環からの脱し方を学びながら、ぼく自身も娘や妻とよりよい関係を築くための模索をし続けていけばよいのだ。

そう思ったとき、当事者研究は、以前に比べてずっとぐっと自分事として響いてきた。当事者研究は、日本の閉塞した精神医療や、地域資源のなさを乗り越えて、地域の中で支え合う大きな可能性であり続ける。だが、それだけではない。より多くの人が、生きる苦悩を前に自分は無能だと感じ、自己肯定感を粉々に砕いている現状を変えうる。人と問題を区別することで、問題を外在化し、他の経験当事者として考え合うことで、「安心して絶望できる人生」の可能性に開かれているのだ。

これはほんまにオモロイ展開だと改めて感じた。

追伸:この原稿の一部は、既にVoicyでつぶやいたことを入れています。ご縁があってVoicyからお声がかかり、毎朝一回10分程度のコンテンツで、おしゃべりしております。そちらもよかったら、ごひいきに!

「使用価値」を取り戻す

前回のブログで資本主義を問い直す本を取り上げたが、たまたまそれと関連する、別の切り口の本を読んだ。実は資本主義ががっちりと組み込まれる以前のヨーロッパでは、今で言う「怠ける」は「楽しむ」というラベルが貼られていた、というのである。

「革命期の農民たちは、実業家から見れば不規則で身勝手なリズムに従って働いていた。労働時間は天候や季節、祭りや祝祭日に左右された。生活は充足と欲求を軸とし、必要なだけ働くと、残りの時間はダンスをしたり、談笑したり、ビールを飲んだり、とにかく『楽しむ』ことに費やした。(略)
しかし、1500年代の支配階級にとっては問題だった。支配階級は農民の祭りを苦々しく思い、彼らの『勝手気ままな行動と自由』を非難した。農民の生活様式は、資本を蓄積するために必要な労働とは両立しない。必要を満たすだけの労働では到底足りない。労働は生活のすべてになる必要があった。囲い込みはこの問題をある程度解決し、農民は飢餓を恐れて互いと競い合うようになった。だが、それだけでは足りなかった。囲い込みの結果、ヨーロッパには『貧民』と『浮浪者』があふれた。土地を追われ仕事を失った人々や、新たに誕生した資本主義的な農場や工場の過酷な環境で働くことを拒否した人々だ。彼らは物乞いや行商としたり、食べ物を盗んだりして、生き延びた。
この状況はおよそ3世紀にわたって、ヨーロッパ諸国の政府を悩ませた。増える一方の下層階級が政治的脅威になるのでは、という支配階級の恐れを和らげるために、国は労働を強制する法律を導入しはじめた。1531年、イングランド王ヘンリー8世は最初の『浮浪者取締法』を制定し、『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』と呼び、浮浪者を拘束し、鞭打ち、強制的に『労働に従事』させることにした」(ジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』東洋経済新報社、p78-79)

真面目に仕事をせずに、サボること、怠けることはダメなことだ。これを僕は50手前まで、ごく当たり前のように受け入れていた。ただ、四半世紀くらい、精神障害のある人の暮らしを考えてきたので、真面目に仕事をし過ぎて病気になる人のことも知っていた。だからこそ、「安心してサボれる職場づくり」を大切にするべてるの家の理念も大切だと思っていた。でも、自分自身はどうか、と言われると、生産性至上主義や能力主義を深くふかく内面化していて、なかなかサボれないし、予定をガンガン詰め込むし、そして季節の変わり目には身体が悲鳴を上げて風邪を引くし、ということを繰り返してきた。そして、このような働き方を、僕はこれまで「自分自身で選んできた」と思い込んでいたけれど、資本家が求める価値観に自発的に奴隷のように従う「自発的隷従」状態だったのだ、と、この文章を読んでいて、改めて気づかされてしまう。

姫路に引っ越してきてびっくりするのは、秋祭りや御神輿をガッツリ未だに継承しているのである。うちの校区はそれでも日曜日にしてくれるが、喧嘩祭で有名な飾磨に行くと、開催日は今でも日にちが決まっていて、平日なら、学校も休みになる、という。それを、ぼく自身は正直に言えば、「そんなしがらみはかなんなぁ」と思って、遠巻きに眺めていた。だが、ヒッケルさんのこの部分に当てはめるなら、秋祭りのために仕事を休むというのは、「必要なだけ働くと、残りの時間はダンスをしたり、談笑したり、ビールを飲んだり、とにかく『楽しむ』ことに費や」す論理そのものなのだ。そして、それに距離を置いて、面倒くさいなぁ、と思っているぼく自身は、「農民の祭りを苦々しく思い、彼らの『勝手気ままな行動と自由』を非難」する支配階級の目線を内在化している。しかも、僕は支配階級ではない、大学教員という一労働者である。にもかかわらず、支配階級の論理を無自覚無意識に内面化し、お祭りのために休みをとるのを、遠巻きに眺めている時点で、全然楽しめていないのである。

それは「飢餓を恐れて互いと競い合うようになった」、つまりは「労働は生活のすべてにな」った人の論理である。仕事をもっともっとと詰め込んでしまう時点で、「必要を満たすだけの労働では到底足りない」と思い込んでいる。しかもそれは、資本家の本源的蓄積に手を貸しているのである。「『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』」とする認識を自分自身も持っていた。だが、それは、支配者がアンコントローラブルな労働者を支配するための、支配枠組みである。それを深く内面化している、というのは、「望ましい被支配者」という「体制や世間にとって『都合のよい子』」に見事になっていたのである。あな、恐ろしや!

そして、この本はある種の人々を恐ろしがらせる提案をしている。経済成長やGDPの増大は、資本主義を発展させるためには必要だが、気候変動の抑止や人間的な生活には真逆の影響を与えている。だから、「脱成長」が必要だ、というのだ。この主張だけで、かなりしかめっ面の顔をしている人もいそうだ。具体的にそれをいくつかのステップで示している。

ステップ1—計画的陳腐化を終わらせる(p212)

Appleの成長戦略は「1,使い始めてから数年経つと、動作が遅すぎて役に立たなくなる。2,修理は不可能か、あり得ないほど高額。3,広告キャンペーンによって、自分が使っている製品は時代遅れだと人々に思わせる」という三つなら成り立っているという。確かにその通りだ。プリンターや他の電化製品でも、壊れても修理代が高いから、新機種を買った方がよい、というのがこの10年ほどの当たり前になっている。でも、それは「計画的陳腐化」だと筆者は指摘する。

「計画的陳腐化は、意図的な非効率の典型である。その非効率さは(奇妙なことに)利益の最大化という観点から見れば合理的だが、人間の欲求とエコロジーの観点から見れば、非合理的だ。」(p214)

毎年のように出る新製品をどんどん買い続けてくれた方が、儲けにつながる。だから、数年で壊れる製品をつくれば、売り上げがあがる。本来なら、故障しない製品とか、修理したら使い続けられる製品を作ることも出来るが、それでは売り上げと資本家の利益が向上しないので、計画的に壊れやすくつくる=陳腐化する、という論理に陥っているのである。それに対して筆者は「保証期間の延長を政府が義務づける」「修理する権利を保護する」ということを提案している。すると、現在の何倍も電化製糸品が長持ちし、消費量や物質の処理量は大幅に削減される、というのだ。たしかに。それ以外にも魅力的な提案をしている。

ステップ2—広告を減らす
ステップ3—所有権から使用権へ移行する
ステップ4—食品廃棄を終わらせる
ステップ5—生態系を破壊する産業を縮小する

これらを実現したら、仕事が減るではないか、とお怒りの方もいるだろう。著者はそれに対して、一人一人の労働時間の短縮を提案する。「フランスが週35時間労働制に移行した時、労働者は生活の質が向上した」(p226)とも報告している。その上で、以下のように述べている。

「労働時間短縮の最も重要な影響は、それによって人々がより多くの時間を『ケア』、すなわち、家族の看病、子どもとの遊び、森林の復元の手助けといったことに費やせるようになることだろう。この必要不可欠な労働は、通常、大半を女性が担っており、資本主義のもとでは無視されている。経済活動の外におかれ、無報酬で、目に見えず、GDPの数字にも反映されない。しかし脱成長すれば、労働力を本当に重要なこと—真に使用価値のあるもの—に再配分できるようになる。ケアは、社会とエコロジーの幸福に直接貢献する。ケアを行う事は、幸福感や意義の向上という点では、物質的な消費より強力であり、爆買いしている時のドーパミンよりはるかに強い幸福感をもたらす。」(p227)

この部分に深く頷く。夫婦とも週40時間働いて、毎日残業を2,3時間していたら、50時間近い労働時間になる。それで、子どもを育てるのは、かなりしんどい。「保育園落ちた、日本死ね」は2016年だったが、それから7年かけて、保育園の待機児童問題はかなり対策が進んだ。だが、最近では小学校の学童の待機児童問題が大きく取り上げられている。

基本的に、共働きには賛成だが、この流れに、僕はモヤモヤしている。労働時間がそもそも長すぎるから、学童の待機児童問題が発生する可能性はないか、と。

20年ほど前、スウェーデンに半年間在外研究でいた時、朝7時頃、学校に子どもを送っていくお父さん、お母さんをよく見かけた。そして、朝早くから仕事をするが、午後4時頃には皆さん仕事を切り上げて、子どもを迎えに行き、夕方を家で過ごしていた。つまり、男性も女性も当たり前のように働くが、お互いが週36時間労働で、仕事以外のケアの時間にも従事できる余裕があるのだ。

これは北欧に限った話ではない。同一賃金同一労働が徹底しているオランダでも、子どもが小さい間は、男性が週四日勤務、女性が週三日勤務、などと柔軟な働き方をしていて、労働時間を短縮することで、ゆっくり子どもに関われる、ということを、以前のブログでも書いたことがある。

それと対比すると、やっぱり日本人は働き過ぎ・働かせすぎだと改めて思う。そしてその論理は、「『怠惰』を『あらゆる悪徳の根源』と呼び、浮浪者を拘束し、鞭打ち、強制的に『労働に従事』させることにした」『浮浪者取締法』の内面化そのもの、なのだ。

でも、ぼく自身は子どもをケアするようになって、賃金が支払われず、GDPにも換算されない不払い労働であるケアの豊かさを感じている。それを「社会的再生産」という形で、生産労働の枠組みの中に組み込んでしまうことにも、疑問を持っている。ケア労働は、お金を生み出すという「交換価値」はない。利潤という「交換価値」を最も生み出すのは、デリバティブなどの投機の相場師だ。一方、人間の必要を満たす有用性としての「使用価値」(p91)は、ケアにおいては最大化される。資本主義が追求するのは「交換価値」であり、「使用価値」は「交換価値」を生み出すための付随物として、矮小化されている。でも、人間的な生き方とは、人間の必要を満たす有用性の中にも、すごく沢山含まれている。むしろ、そのような使用価値を提供して、その感謝というか、おこぼれとして交換価値としての対価をもらう、方が、働きがいがあるのだ。

AIやChatGPTによって、仕事が奪われる、だから必死になって仕事の争奪戦に参加し、夜中まで働き続けて弱肉強食をサバイブしようと考えるのか。仕事が自動化されるなら、徹底的にそれをみんなでシェアし、総労働時間を減らし、より多くの時間をケアという使用価値に費やせるように社会の仕組みを変えようとするのか。僕は後者のほうが、遙かに生きやすい世の中ではないか、と感じている。

長々と書いてきたので、最後二カ所ほど引用しておきたい。

「資本家は成長(私有財産)を産むためにコモンズ(公共の富)を囲い込んだ。かつては無料で利用できた資源が有料になり、人々はそれを利用するために、より多く働かなければならなくなった。しかし脱成長の経済を創出すれば、この方程式を逆転させることができる。コモンズを復活させるか、新たなコモンズを創生して、所得を増やす必要がないようにするのだ。コモンズは成長要求の解毒剤になる。」(p232)

「脱成長が意味するのは、土地と人々、さらにはわたしたちの心を脱植民地化することだ。また、コモンズの脱・囲い込み、公共財の脱・商品化、労働と生活の脱・強化、人間と自然の脱・モノ化、生態系危機の脱・激化をそれは意味する。脱成長は、より少なく取るというプロセスからはじまるが、最終的には、あらゆる可能性の扉を開くことになる。わたしたちを、希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへと進ませるのだ。」(p290)

一見すると夢物語が書かれているように思えるかもしれない。でも、自分自身の生活を見直したときに、労働時間をいかに減らし、自分や他者、自然へのケアの時間をどれだけ取り戻せるか、とか、自分が囲い込まずに、自分の時間や場所をいかに他者とシェア出来るか、を考えた方が、豊かに暮らせるように感じる。そして、そういう形で搾取と希少性の論理から距離を取り、馬車馬のように働く生き方とは違うあり方を模索するkとおで、互恵とか生命とのつながりを回復するのだと思う。

ぼくたちは、資本主義のために生きているのではない。経済もお金も、あくまでも手段だ。飽くなき交換価値に身も心も取り込まれるのではなく、使用価値が大切にされる世界を、自分や自分の大切な人々の間にどれだけ作り出せるか。これは、ぼく自身に問われている生き方の問い直しだし、やる価値のある社会実験だと思う。