マイナスの悪循環

 

週末、スキーに出かける。

実はある大切な会合に呼ばれていたけれど、それより前に友達夫妻と我が家の4人組で出かけることに決まっていた。で、最近政府がしきりに言う「ワークライフバランス」の考え方ではないけれど、きちんと仕事とプライベートのバランスを保つためには、土日のこういうイレギュラーな「仕事」ばかりを、休日の予定に優先させると大変な事になる。来月再来月と出張ばかりだし・・・なので!?一泊二日のツアーを楽しむ。関係者の方、すいません。

で、今回の行き先もやはりエコーバレー。で、以前このブログで書いたように、今回もTコーチにお世話になる。以前彼が言っていた「本当に一生滑れる技術を身につけたければ、やはり泊まりがけできて、2日連続でレッスンを受けた方がいい」という助言を信じてみたかったからだ。で、当然二日間ともレギュラーレッスンを申し込む。すると、なんと有り難いことに、今回も受講生は僕一人! つまり、Tコーチからのマンツーマンレッスンを、二日連続で受けられたのだ。しかも、破格の値段(普段のレッスン料)で! 何という有り難いことか! おかげで、色々真髄(滑れる皆さんにとってはごくごく基本)をご教示頂いた。

「スキーは足の裏で滑るべきである。決して上半身や肩だけで回ろうとしたりしてはいけない。」「足は操縦桿。足でしっかりコントロールできれば、止まれる。両足のどの部分に力を入れるか、に常に意識をするとよい。」「とにかくリラックス。肩の力を抜いて、周りの景色を楽しむつもりで。」「急斜面では、最初から早く滑ろうとするな。ボーゲンで、しっかりスピードコントロールして、横に滑るつもりで。」「ボーゲンは、基本的に体重移動。左足が谷の時、左に体重をかけ、右足をぐっと開いて、曲がりながら重心を左から真ん中に。そして、谷を正面にむいても怖がらない。ハの字型をしていれば、かならず急斜面でも止まる。その止まりそうな緩い速度で、その後ジワジワッと重心を右に移動していくと、横に滑れる。右に曲がるときはその逆。特に左に曲がる際、左足になかなか重心移動出来にくいので、右足が浮かず、動きにくい。」「スキーは重心移動とエッジが基本。」「パラレルの際、右に曲がるときは、右の小指に力を入れ、身体も向け、その後、左足の土踏まずに力をいれる。左に曲がるときは、左の小指から右足の土踏まず。つまり、右に曲がるときなら、右足でエッジをかけ、左足も内股でエッジをかけると、曲がっていく。右に曲がるときは、右側に重心移動。また、しゃがんで、ぐっと右前に向きながら前を向くと、すーっと滑っていける。」

実は、コーチに何度言われても、恐怖心はなかなか消え去らなかった。で、一端恐怖心が蔓延すると、なかなか身体が言うことをきかない。足の指まで、怖いものだから、ついぎゅっと握りしめてしまう。すると、足の入力機関系をまったく塞いでしまうことになるから、何が問題か、どう改善すればいいのか、というインターフェイスが全く見えてこない。つまり、ハンドルを離して運転しているようなものだ。そういう中で、恐怖心がどんどん増幅し、改善策も浮かばず、結果としてマッチポンプ的に問題を拡大させてしまっている・・・。リラックスできないと、マイナスの期待や想像をし、そこからマイナスのフィードバックとして身体の硬直化という反応を引き起こし、結果としてマイナスの出力(コントロール不能)が生じ、ますますリラックスできず・・・というマイナスの悪循環の回路を、Tコーチの指摘から学んだような気がした。

で、このマイナスのフィードバック、というのは、何もスキーに限ったことではない。最近とぼとぼ復活したテニスだって、力が入りすぎると、絶対にうまくいかない。スポーツに限らず、思考回路だって同じ。ネガティブな想像や予期に身を任せてしまうと、必ずマイナスのフィードバックが生じる。しかも、一人で悪循環に浸っているだけならまだしも、対人関係でも、このマイナスのフィードバックは恐ろしく作用する。相手にある枠組みをはめこんでしまって、マイナスの期待をすると、相手もこちらのマイナスの期待を感じ取り、結構な割合で、マイナスのフィードバックを返してくるのだ。その対応に、「やっぱりなってない」なんてこちらが反応すると、そのマイナス回路は悪循環モードにはまり・・・。このとき、他責的に「あいつはなんて奴だ・・・」と言っているけど、諸悪の根元は、結構自身のマイナスの入力に端を発する部分も多い。相手の反応は、あくまでもこちらの入力に素直に従っただけの、当然の結果としての出力にもかかわらず、ある意味「リクエスト通り」の結果に一番否定的反応を示すのは、、無意識にオーダーした当の本人だったりする。

スキーで、一番大切なのは、リラックスして、流れに身をまかせること。舵を切るとき以外は、とにかくその流れに乗ってツルツルと滑っていけば、うまく運ばれていく。自然相手でも、なかなか任せきれなくて、ついつい流れに抗した無茶をしてうまく滑れずにいたタケバタ。対人関係でも、まだコチコチになっている部分があるのではないか。コーチに教わった真髄を復習しながら、いつしか反省モードになっていた。

whatとwhy

 

正月に84キロという過去最高の体重について書いたところ、何人かの方からお声を頂いた。

そんなに太るって、ストレス太り?

いえ、単に不摂生です。

なので、今日もプールで泳ぐ。最近、毎日お風呂上がりに体重計に乗っているのだが、今日は81.6キロまで下がった。まあ、正月の不摂生から戻ってきた、という単純な理由なのだろうが。でも、これに弾みをつけて、何とか75キロくらいまでは落としたい。ほんとの目標は70キロだが、とにかく、まずは目指せ75キロ、である。

で、プールで今日も泳いでいたのだが、泳いでいる最中には、色々思い浮かぶ。今日は、この前、私のブログを読まれた某先生に言われたことが頭によぎる。「タケバタさんは言葉に反応するんだね」

どういうことですか?と訪ねると、その先生はこう解説して下った。「タケバタさんは、本を読んで、気になる言葉やフレーズをブログに書かれている。僕は、その書かれたフレーズを見て、どういう理論や背景から、そういうフレーズをその人は出してきたのか、が気になる。」 それを伺って、whatとwhyの違いを思い知らされたような気がした。タケバタは常にその言葉が何か、というwhatを気にしているが、ご自身の中である程度の体系的思考が出来ている方なら、単純なwhatの内奥にあるwhyに注目されているのだな、と。

誰だって、whatのレベル、つまり口だけなら何とでも言える。でも、そのアウトプットとして出てきた言葉の背景に、どういう思惑や、どういう相手の論理、あるいはその組織の論理なり、主義主張の論理があるのか、という背景分析としてのwhyを見据えておかないと、簡単に「言葉」に騙されたり、踊らされたりする可能性があるのだ。特に、「先生」と呼ばれる人は、豚もおだてりゃ、ではないけれど、甘い「言葉」に騙されやすい。相手のロジックや路線に乗りやすい、という構造的危うさがあることを、よーく肝に銘じておかなければならないと思う。

相手が自分と同じ前提だ、と思いこみ、その前提条件について無批判であると、いつしかwhatばかり気にするようになる。でも、違う出所から来た、違う考えの持ち主の集まりが、この人間世界だ。ならば、自分の当たり前の前提条件こそを疑う。そして、そこから、whyという思考をくせにして、何らかの問題を考え続ける。そういうスタンスが必要なのではないか、

プールでひいひい汗をかきながら、そんなことを考えていた。

他方から一方を知る

 

今日から仕事始め。

とあるテキストの原稿の締め切りが1月末なので、うんうん言いながら、アイデアツリーに放り込んであった書きかけのメモと格闘する。ほんとは5日から格闘しはじめたのだけれど、どうも正月気分が抜けきっていないのか、あるいは気乗りがしないのか、全く書き始めることが出来ない。なので、5日もせっせとプールで汗をかく。あせっかきの僕は、プールの中でもちゃんと汗をかいているようだ。休憩中に、額からぼとぼと零れてくるのがわかる。これでないと、ダイエットには直結しない。

昨日の6日は大学の新年会があり、今日明日の休みが実質的にこの原稿に取り組める一番いいチャンス、なので、今日は午後から本腰を入れてモードを切り替えていく。ようやっと夕方くらいになって頭がそのモードになってきた。これなら、明日も大丈夫だろう。詰まっていたのは、とある部分についての調べ物がちゃんと出来ていなかった点と、別の部分について構想を練り直す必要があったから。とにかく、仕切直しの整理が出来たので、明日中にエイヤッとある程度固めてしまいたい。

そうやって午後、ずっと机の前にいたので、食事前にのんびり風呂読書。甲府は雪空で、電気あんかをしていても手足が冷え切っていたので、単に暖まりたかっただけなのに、手にした読みかけの新書をぼんやり読んでいるうちに、目から鱗の箇所に出会う。自分の今にとって実に大切な部分なので、少し長くなるが、引用してみたい。

「社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。
 一方は、喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。
(中略)
 前者は、関係の積極的な実質を創出する議題。
 後者は、関係の消極的な形式を設定する議題。
(中略)
 社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、こんにち対立するもののように現れているが、たがいに相補するものとして考えておくことができる。一方は美しく歓びに充ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散らすことがあるが、一方のない他方は空虚なものであり、他方のない一方は危険なものである。それは、このような社会の構想の課題の二重性が、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応しているからである。」(見田宗介「社会学入門-人間と社会の未来」岩波新書、p172-174

見田氏の前著「現代社会の理論」(岩波新書)が発刊された96年当時、大学で社会学をかじりかけていた僕は、すごく心惹かれながら読んだ記憶がある。ただ、当時の青臭い僕には、バタイユの「至高性」に基づきながら「生の直接的な充溢と歓喜」について論じている最後の部分が、よくわかっていなかった。正直、甘美な議論で、リアリティがないのでは、とすら、不遜ながら考えていた。それから10年あまり。以前のわからなかった箇所の事などすっかり忘れて読み進める中で、「関係の消極的な形式を設定する議題」と対比される形で出てきた「関係の積極的な実質を創出する議題」という表現が、すとんと腑に落ちた。なるほど、僕の頭から抜け落ちていた視点だ、と。

僕は昔から、なんだか不思議な志向性を持っているようで、おこがましいかもしれないが、自分なりに「社会の理想的なあり方を構想」したいなあ、と考えてきた。それは義務感でやっている、というより、何となく趣味的に、というか、そういうことを考えるのに違和感がなかった。だが、いつの頃からだろう、僕が普段から考えることの中心は、「人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするもの」で占められていた。そして、「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」という部分は、少なくとも自分の研究の中で重きを置いて来なかった気がする。

それゆえに、「両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散ら」してきた、という見田氏の指摘は、ほんとに心から納得する。福祉分野で「関係の積極的な実質を創出する議題」に接する時、それを素直に喜ぶどころか、「他方のない一方は危険なものである」と批判的にそういう議題をとらえ、だから「関係の消極的な形式を設定する議題」の方が切実であり第一義的に大切だ、と声高に叫んでいるタケバタがいた。でも、見田氏が言うように、それらは対立的なものではなく、「たがいに相補するものとして」捉えるべきものなのである。この部分をちゃんとわかっていなかったが為に、結局片手落ちのアンバランスな思考回路になり、相補的議論に耳を傾けられない『体質』になってしまっていたのだ。

最近よく引用する伊丹敬之氏が「見えない構造」と指摘している、自身のものの見方に関するこの偏り(=『体質』)に関して、見田氏の指摘は、より広い布置から相対化すると共に、新たな地図を指し示してくれているような気がする。そして、新たに広げられたこの地図を眺めてみて、相補的なもう一方にも、見覚えがあることに、今更ながら気づかされる。これって、プライベートで大切にしていることじゃん、と。

結婚してから努めて大切にしていること、それは「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすもの」そのものである。特にスウェーデンで半年暮らした後、このことを切実に感じるようになりはじめた。日本人ほどギチギチに働かない人も少なくないが、他方家庭生活をすごく大切にしている光景をしばしば現地で垣間見た。ノーマライゼーション実現のため、法制度など「ルールを明確化」してきた部分に憧れ、その部分を勉強しにいったのだが、半年住んでみる中で、多くの人々が、プライベートの部分で「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し」ようとしている姿に遭遇した。そういう姿を妻と共に垣間見たあとだからこそ、日本に帰って定職についた後も、なるべく大切な人との「関係の積極的な実質を創出する」ための時間的余裕を作ろうとしている。それがあるから、生きている喜びなのだし、それがないと、仕事もうまくいかない、と考えるようになってきたのだ。

そう、プライベートな部分で「関係の積極的な実質を創出する議題」の大切さを身にしみて感じ始めていたのに、研究の部分では「関係の消極的な形式を設定する議題」にのみ没頭している、というのも、アンバランスといえばアンバランスだったのだ。

そういえば今、アミューズメントに関するとある研究プロジェクトで、権利擁護研究という「関係の消極的な形式を設定する議題」を研究させてもらっている。何でこの二つがつながっているのか、直感的な把握をうまく言語化出来ていなかったが、見田氏の言葉を使えば、アミューズメントという「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」論題を、その相補的な側面から捉え直す、そんな研究をしていた、そうも言えそうだ。自分の中でごっちゃになっていた部分を、「社会の構想の課題の二重性」という形ですっきり整理してもらったおかげで、今抱えている研究の方向性についても、示唆をもらってしまった。

なんだか二重にも三重にも、自分の歪みやひずみ、知らなかった部分を教えてもらえ、整体をしてもらったような清々しさを感じた。さて、明日も頑張って原稿に励んでおかないと、来週末、スキーに行けない。「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求」ためにも、目の前の仕事からどんどん片づけなければならないのだ。明日も頑張ろうっと。

とほほな松の内

 

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

正月の実家廻りから甲府に帰ってみたら、とほほな事が二つ起こる。

一つは、体重がついに!限界の84キロ!!に。
この年末から正月にかけて、丸3キロは太ったことになる。唖然もあぜん。挨拶回りの際、恩師に真顔で「その年でその太り具合はいかん!」と言われたのに・・・。というわけで、今日から猛烈ダイエット。昼はプールでこってり泳ぎ、夜は納豆でおなかをある程度ふくらませてから、粗食中心の晩ご飯。実家ツアーの最中は連日飲んでいたので、当然今日は禁酒。節制な日々のスタートである。

節制といえば、年始に立ち寄った京都の本屋で、気になっていた光文社古典新訳文庫シリーズを立ち読み。面白そう、と購入した中に、その昔挫折したカント先生の論文も。中山元氏のわかりやすい翻訳なので、出だしから、厳格なカント先生の言葉がグサッと突き刺さる。

「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。」(カント「啓蒙とは何か」『永久平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫p10-11)

そうであります。私の「怠慢と臆病」ゆえに、「自分で食事を節制する」という理性を未だに働かせずにきたのであります。カント先生は「考えるという面倒な仕事」を「他人にひきうけ」させている、僕のような人間を「未成年の状態」にある人、と一刀両断しているのだ。すいません。

で、このカント先生のお言葉がグサグサ来たのは、これだけではない。「未成年の状態」がもたらした帰結として、昨日自宅に帰って年賀状のチェックをして居たとき、二つ目の「とほほ」に出会う。そう、とある学会誌からrejectのお知らせが舞い込んだのだ。二人の査読者の評価が別れ、第三査読でrejectという決定になった、とのこと。嫌な予感はしていたが、現実に目の前にお知らせが届くと、正月から「とほほ」である。

だが、C評価をしてくださった査読者のコメントを読んでいて、自分に足りなかった部分が実に的確に指摘されていて、声が出ない。そうなんです。今回、あらたなジャンルに挑戦したのだが、不勉強な部分をみっちりとした論証で固めることを怠り、「自分の理性を働かせる代わりに書物に頼」ってしまったのが、最大の敗因だった。厳しい評価者のコメントは、見事にその「理性を働かせ」ていない部分に注がれている。もうすいません、としか言いようがない。

落ち込んで、悔しくて、風呂の中で以前読んだ「創造的論文の書き方」を二度読みする。今回はrejectされたブツを念頭に置きながら読むと、まあなんてこの本もグサグサと突き刺さるのだろう。

「多くの場合誤りとして起きるのは、理論を無理矢理適用して違和感も何も感じず、歪んでいる実感もなく、『これで説明できました』と称する結論を出してしまうことです。そんな論文もしばしばある。」(伊丹敬之「創造的論文の書き方」有斐閣 p42

お恥ずかしい限りだが、この指摘は今の自分にそっくり当てはまる。用いた理論ときちんと真正面から格闘していないから、違和感や歪みを感じながらも、中途半端な生成物を出してしまい、rejectの憂き目にあうのだ。M先生に言われた、「雑学王からの脱出」が出来てないのも、ひとえにこの部分に由来する。そして、それを克服するためにも、「考えるという面倒な仕事」を自分で引き受けて、最後まで貫き通す必要があるのだ。

「人に読んでもらう論文というのは、ある意味でプロとして人に読ませる論文でなければいけない。そうすると、読み手の側に立って、この論文でどういう結論が出てくるのか、ということを最終的には伝えるのが目的である。どうしてその結論が出てくると言えるのか、ということを説得するプロセスが、論文だと。そのつもりで論文全体を書かなければいけない。
 したがって、その説得のプロセスに、舞台裏が一部役に立つというのであれば、舞台裏を意図的に見せることはあってもいい。しかし、舞台裏だけ見せて、表舞台がないというのは困る。舞台裏を見せることを許すと、しばしば表舞台がないレポートが論文として出てきてしまう。したがって、『プロは舞台裏は決して見せてはならない』ということを強調する必要が出てくる。」(同上、p69)

そう、今回rejectされたのは、「説得するプロセス」が不明確だった、という部分も大きかった。ぐちゃぐちゃ書いていたら、こんな結論が出てしまった、という「表舞台がないレポート」だったのだ。そういう意味では、プロの論文ではなかったのだ。本当に、穴があったら入りたい心境である。

で、今回なにゆえこのような「舞台裏」を書きつづったのか。
ひとえに、書いて追い込む、という手法である。というのも、このふたつの「とほほ」も、放っておけば「フェータルな傷」(@志賀直哉)に直結する。そこで、今年、真正面から向き合って、一皮も二皮もむけて、「未成年状態」から脱出する必要を切実に感じている。だからこそ、ネガティブな情報の開示と、改善に向けた所信表明をしておきたかったのだ。つまり、今年の抱負としては、「明確な体重減」と「プロの書き手への進化」という二つの「変容」を宣言をしたかったのである。

ちなみに、去年の所信表明演説としては、「教育と研究、社会活動にプライベートの4者のバランス」、「薄く浅く、よりは濃く深く」、「イズムに流されるのではなく」、「現場主義」、「・・・にもかかわらず、諦めないで」を標榜していた。1年後振り返ってみると、ずいぶんと漠然とした所信だったような気がするが、一応どれも及第点は取っていたような。今年は、この昨年のベーシックな所信を引き継ぎつつ、新たな、そして明確な二つの所信をどう貫徹するか。大きな曲がり角にさしかかっているような気がしている。とほほ。

*ちなみにあまりに「とほほ」ゆえ、タイトルを間違えたことに5日になって気づきました。あな、恥ずかしや。とほほ。

正円から楕円へ

 

まる12時間近くかけて、実家に何とかたどり着く。

そして今日、年の瀬の31日。じっくり寝たので、まだ少しだけ体の疲れが残っているようだが、おおむね復帰してきたようだ。掘り炬燵にみかん、それから昼のビールまでついて、読書にふけるのだから、これは一種の極楽である。

で、極楽のお供には、編集工学の達人である松岡氏が帝塚山学院大学の教授時代に行った講義を編集して作った一冊。副題に「セイゴオ先生の人間文化講義」とある。年の瀬には仕事から離れて頭の中を整理する意味でも、こういう本はよい。とはいえ、今の自分に一番ピンときたフレーズは、やっぱり自分の仕事に関係している部分であった。

「日本人は素材で和風と洋風を区別したり、様式で和と洋を分けて感じることをしているということです。これを私は、素材による『コード編集』と、様式による『モード編集』があるというふうにみています。このことがさまざまな『和』というものをつくっているんですね。
(中略)
 古代から中世まではもっぱら中国とか朝鮮のコードを輸入しました。その後は南蛮文化をどんどん取り入れて、明治以降はヨーロッパ文化、最近はもっぱらアメリカの文化や技術ばかり気にするようになった。このように時代によって変化してきましたが、基本的には素材としての『コード』を輸入して、それをもとに日本なりの様式としての『モード』を生み出す独特の編集力を発揮してきたといってもいいのです。
 これを私は『外来コードを内生モードにする日本』という風に説明しています。」
(松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」春秋社 p202

「外来コードを内生モードにする」ということは、文化や技術だけに限らず、法制度にも大きく及んでいる。僕自身がスウェーデンやアメリカに出張しているのも、「素材としての『コード』を輸入して、それをもとに日本なりの様式としての『モード』を生み出す」ための「素材探し」をしているところが少なくない。そうして我が国では、これまでに様々な国の、多種多様なコードが輸入され、「独特の編集力を発揮」した上で、日本なりの「モード」として定着していった。

で、しつこくこのブログでもテーマにしていることだが、障害者の入所施設や精神病院だって、もともと日本固有のモードではなく、ヨーロッパのコロニー思想なり精神医療の思想をコードとして輸入し、日本なりのモードにしていったのだ。その後最近になって、施設解体や地域自立生活支援という欧米での新たなコードに着目した人々が、新たなモードにしようとしている。僕が海外に行っているのも、その末席の一人として、なのかもしれない。だが、ご案内の通り、旧体系のモードの持つ力はかなり大きく、そう簡単に新たなモードに移行する気配はない。その結果、諸外国とは異なり、未だに地域から隔離された障害者が何十万人と存在する、という独特のモードを作り上げてしまったのである。

で、ここから考えるのが、この新たなコードの輸入だけで事足れり、とはならない日本の実情についてである。旧来のモードには明らかに問題がある。だが、新たなモードにすんなり移ることはない。そういう時、新たなモードの語り手が、“You are wrong!”というモードで旧体系を否定してはいないか、その点が気になるのである。そうではなくて、旧体系のコードからモードに至る変遷や「独特の編集力」を綿密に分析した上で、新たなコードに基づいた「再編集」をどう説得力をもって果たせるか、そのあたりの編集力が問われているのではないか、そんなことを感じているのである。

で、その「再編集」に関連して、松岡氏の円と楕円の比較は、大変示唆に富んでいる。

「ルネサンスの世界観では宇宙はたった一つなんです。神秘主義思想の影響もあって、マクロコスモスとミクロコスモスというものがあるということは考えられていましたが、それらは神を中心にして完全に調和しているもの、秩序をもったものとして考えられていたんです。
 ところがバロックでは、そのような唯一型の宇宙観が崩れはじめ、マクロコスモスとミクロコスモスとが二つながらに対比してくるんです。かつ、二つの世界は必ずしも完全に対照しあっていない。それぞれが動的で、それぞれが焦点をもちはじめます。
 一つの宇宙(世界)というのは具体的に正円の世界です。コンパスを使えばわかるように、円は中心が一つしかない。そうですね。一方、バロックでは円ではなく楕円になる。楕円というのは焦点が二つあるわけです。」(同上、p304

コロニー思想でも、脱施設思想でも、その思想を中心にして「完全に調和しているもの」と、考えると、それは「一つの宇宙」であり、「正円」である。しかも、お互いが反目しあっていると感じている限り、両方の円が混じり合うことはない。だが、その起源を辿ると、実はどちらも支援という軸で、本当のところはつながっているのである。もちろん、専門家主導か、当事者主導か、集団管理的一括処遇か、個別支援か、という隔たりは、本当に大きな差として現れている。そして、僕自身は、もちろん後者の方がいいと思っている。

ただ、この後者の脱施設なり当事者主導なり個別支援というコードを、本当に日本の中での新たなモードに組み替える際には、これまでのモードや、それを構成するコードの分析を本当にきちんとした上で、使える部分は新たなコードと融合してモードの中に組み入れる、という楕円の思想が求められているのではないか、そんなことを感じているのである。

「私は正しい、あなたは間違っている」と言う正円の世界で閉じている限り、完結した世界観で、実に気持ちよい。でも、本当のところ、それでは動的な文化の組み替えなり、あらなた文化の創造にはままならないはずである。大切なのは、「間違っている」とされる旧モードの側の「退路」の確保であり、新たなモードと一緒にやっていける、という意味での動的な楕円的コード進行の確立ではないか。旧来のコードのおかしい部分はどこで、どういう風に組み替えていくことが、旧来のモードを信ずる人の核心に触れながら、移行を促すモードになりうるか。こういうことを、旧モードのコード分析と、新たなモードとの楕円の可能性に関する分析、という論理の構築の中から考えていく必要があるのではないか。そんなことを感じている。

年の終わりに、来年の宿題まで見つけてしまった。ということは、やっぱり来年はそろそろ本気で勉強しないとまずい時期なのか。いやはや、とんでもないことに気づいてしまった。さてはて、今から温泉につかって、一年の垢を落としつつ、来年のお勉強戦略でも考えてみるとしますか。

ではみなさん、よいお年を。

明日から帰省

 

というスケジュールなので、強制的に今日が煤払い最終日。

昨日は車と研究室とお風呂場で力尽きたので、今日はあらかた残っている。しかもパートナーは今日まで仕事なので、朝から根を詰めて頑張ってみた。台所と格闘すること4時間弱。まあよくもこんなに汚れているのですね。とういか、普段ゆっくり掃除する間が無いので、年に一度はちゃんと徹底的に磨かねば。あんまり根を詰めすぎたので、少し頭が痛くなったが、昼食を挟んで窓ふきと床ぶき、冷蔵庫磨きも終わった段階で打ち止め。身も心も、ほどよい疲れである。

冷蔵庫のあり合わせをニンニク醤油と生姜で炒めて、エネルギー充電も完了。で、その後年賀状との格闘も終え、今年の業務はほぼ終了。明日は朝3時起き、で長距離ドライブ。ネットを見ていると、関ヶ原付近の雪が心配だが、こればっかりは現地に近づかないとわからない。なので、とにかく寝て、起きてから考えよう。

プラットフォーム作り

 

昨日からすす払いな日々がスタート。まずは研究室からはじめる。
学生さんにアルバイトに来てもらって、とっとこ資料を整理・廃棄していく。とにかく紙だらけ。ゼミ生も「ほこりっぽい」という事で、窓を開けながらのお掃除。今日はまるで春のような陽気だったので、窓を開けていても、気持ちがいい暖かさ。机にうずたかく積まれている書類をサクサク「収納」「整理」「廃棄」の3種類に分け、処理していく。貴重な資料も、読まれなければただのゴミ。なので、とにかく即決で整理を進めていく。結果4時間ほどで、テーブルや机の上にぐっちゃに積まれていた資料のほとんどを整理する。後は、今日の午後、4年生を集めてゼミをした後、掃除機をかけて拭き掃除をしたら、研究室のお掃除はオシマイ。今朝からは、家のすす払いもはじめた。午前中はお風呂と格闘。

授業は先週で終わっていたのだが、月火と大阪出張だったので、すす払いがままならなかった。その代わり、ではないが、新大阪駅の本屋に立ち寄り、おもろそうな本をいくつか仕入れる。移動中に本を6,7冊買うと、結構荷物が重くて大変なのだが、やはり立ち読みして中身を選ぶので、アマゾンでは出会えないおもろい本が多い。

移動中に真っ先に読み終えたのが、「人はなぜ太るのか-肥満を科学する」(岡田正彦著、岩波新書)。疫学的データに基づき、実にまっとうな議論をしてくださるので、大変わかりやすく、説得力がある。肥満と死亡率の相関を示すデータからは、BMI24程度がいいらしい。現在170センチで80キロから82キロのあたりをうろつくタケバタのBMIは28。170センチでBMI24だと70キロなので、10キロ(1割強)の減量が求められている。健康診断の結果も良くないし、これは本気で絞らねば。昨日は大学のすす払いで忙しく、ジムに行けなかったのだが、今日明日と「ジム納め」もして、こつこつ動いておこう。

で、大阪から帰りの「しなの」車中で読んでいたのが、出れば即買いする著者の一人である池田晶子氏の最新作。毎日中学生新聞に連載していた(廃刊になった、とは知らなかった!)、ご本人曰く「柔らかく、読みやすい」エッセーだが、中身の鋭さは、いつも通りである。

「自分が正しいと思っていることを、正しくないと他人に言われて腹が立つのは、それが、ただ自分で正しいと思っているだけのことだからだ。ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではないからだ。もしそれが本当に正しいことだとしたら、正しくないと言われて、どうして腹が立つのだろう。だって、それが本当に正しいことなら、他人にどう言われてもそれは正しいはずだからだ。だから、本当に正しいことと自分の感情とは、関係ないということだ。」(池田晶子「14歳の君へ」毎日新聞社p49)

相変わらず、簡単な日本語で、深遠な内容をズバッと書く池田さんである。いや、彼女の言い方でするならば、池田某という媒体を通じて出てくる「正しい言葉」である。「本当に正しいこと」と、「自分が正しいと思っていること」との違いを、見事に指し示している。このブログで何度も書いているが、他責的文法で“You are wrong!”と書いたり言ったりする裏側には、必ず“I am right.”という暗示がある。そして、他責的な言明をするとき、その大半が、「ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではない」場合が多い。だから、声高に相手の非をののしって、腹を立てるのである。「他人にどう言われてもそれは正しい」わけではないから、つまりは無意識に自分の言説の正しさの根拠がないことを知っているから、かんに障る、のである。そこから、池田某を通じて出てくる「正しい言葉」は次のようにも続ける。

「自分が思っているだけのものを『意見』と呼ぶとすると、君が持たなければならないのは『意見』ではなくて『考え』だ。『自分が思っているだけの自分の意見』ではなくて、『誰にとっても正しい本当の考え』だ。『考え』は、ただ自分が思っていることとは違う。自分が思っていることは本当に正しいか、誰にとっても正しいか、これを自分で考えてゆく、このことによってしか知られない。『思う』ことと『考える』ことは、全然違うことなんだ。君は、ただ自分が思っているだけのことを意見として言う前に、それが誰にとっても正しいかを、必ず考えなければならないんだ。」(同上、p49-50)

こう言われて、はたと気づく。僕が話すこと、書くことは、「意見」と「考え」のどちらが多いだろう。残念ながら、これまでは明らかに「意見」の方が多かった。論文などを書いていても、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しか書けていない場合が多かったのではないか。

たとえば入所施設や精神病院に対する「脱施設」論。僕自身は、入所施設の構造的問題について、論文でもたびたび取り上げ、書いてきた。それがどう構造的に問題か、について、論証し、「考え」たつもりだった。でもその一方で、未だに入所施設や精神病院は無くなる気配はない。欧米では脱施設が進んだ、と言っても、日本では施設を残す政策は、自立支援法になっても温存されている。こんなに入所施設型一括管理処遇は問題だ、と言っても、全然政策にまで届かない。入所施設や精神病院の改革につながらない。なんでだろう、と思っていたが、池田さんの言葉を借りるなら、僕の論調は、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しかかけていない場合そのものだったような気がするのだ。

この点に関しては、最近お気に入りの方法論についての一冊でも、同じような指摘がなされている。

「現実に起きている現象は、人間の心理というような要因も論理の一こまとして考えると、きちんと理由があって起きている。多くの要因が論理的に絡み合って、起こるべくして起きているのである。その現象が既存の理論では説明できないのなら、現実が間違っているのではなく、理論が不十分なのである。だから、そうした論理的な現実を詳細に追っていけば、論理的に意味のある仮説が生み出せる可能性は高い。」(伊丹敬之著「創造的論文の書き方」有斐閣 p152)

僕が入所施設や精神病院の問題を論じるとき、「現実が間違っている」という「意見」を書くことが多かった。でも、それは伊丹氏が言うように、「理論が不十分なのである」。自分の中で「考え」が練りきれないまま、「意見」という形で突っ走ってしまうので、世間から受け入れられないような気がする。

その際肝心なのは、声高に「意見」主張をするより、むしろ「論理的に意味のある仮説」を導き出すために、「論理的な現実を詳細に追ってい」くことなのだ。その中で、感情的な自分の意見を徹底的に疑い、排除し、「本当に正しいこと」(=考え)を少しずつ醸成させていく事なのだ。そして、意見を異にする相手側とも共通のプラットフォームとなりうる「理論」を少しずつ精緻にこしらえていくこと。これが、迂遠なようでも、日本の「脱施設」論に一番求められているような気がする。

コーチに教えられたこと

 

ようやく冬休みがくる。この秋以来、土日が出張、ということが多かったので、どっと疲れが出る。

で、週末はまず一日ゆっくり寝て「臨戦態勢モード」を解除する。何にもしてないと、「何かしなくちゃ・・・」と脅迫観念的になっていたので、「とにかく休みなのだから・・・」と何度も言い聞かせる。「臨戦態勢モード」だと、仕事はちゃっちゃと片づく代わりに、ストレスといらいらが蓄積されていくようだ。で、ストレスは体重、いらいらは余計な一言、という一番嫌な形でのリバウンドでどちらも返ってくるので、こういう「モード」は期間限定にして、とにかくふつうの暮らしに戻らねばならない。

で、ふつうの休日を楽しむべく、白樺湖を超えたところにある、エコーバレースキー場に出かける。

標高は1500mもあるので、雪は降っていなくても、さすがに寒い。降雪機の雪がパウダースノーになっている。これはよい。昨年からスキーを始めたのだが、ボーゲンでもおぼつかないので、思い切ってレッスンを受けてみる。これがすごくよかった。

何が良かったって、休日の午前なのに参加者は僕一人、つまりはマンツーマンのレッスンだったのだ。普通こういうプライベートレッスンは1時間6000円とか取られるのが相場なのに、僕は2時間3000円しか払っていない。何というラッキー。そして、教えてくださった初老のコーチが実によかった。ここ最近、福祉組織の変容や支援者教育のことを研究しながらコーチング論などもかじっているタケバタにとって、実に多くのことをこのTコーチから学べた。

最初、中級コースでいろいろ言われながら格闘するのだが、正直言われた事が頭で理解できても、身体で表現出来ない。もともとスポーツ音痴のタケバタなので、飲み込みは悪い。さらに、中級コースは角度も柔くなく、怖いし気が焦るし、うまくできないし・・・で全身から汗は噴き出るし、頭はパニックだし、全然さっぱりうまくいかない。その状態をみたTコーチは、とにかく下に滑ったあと、あっさり方針転換。「じゃあ、初級コースへ行きましょう」

そう、中級コースを見栄はってすべるより、一番出来ない一番下の下まで行って、そこから基礎からたたき込むことが大切。これは、予備校講師時代の鉄則だった。それを、受ける側で実感したのだ。しかもこのコーチ、タケバタが言語的説明で一杯いっぱいになるタイプと悟るや否や、二度目以後では戦略を変える。なだらかなコースで安心したタケバタに、何度も「リラックスして」と伝えながら、感覚的にわかりやすい言葉を巧みに用いてアドバイスしていく。

「とにかくリラックスして、変におしりを出してかがんだりせず、膝小僧を前にぐっと押し出す感じで」「ストックで身体のバランスが保てるよう、前に突きだして楽に持っていたらいい。時にはぶらんぶらんさせながら。」「身体は前を向きながら、ちょこっと顔だけ右を向くと、自然に右に曲がる」「足底を気にして、斜面を板でなでるように」「左に曲がりたければ、右の膝を突き出してすっと持って行けばいい」

こういった言葉を聞くなかで、僕自身考えるのをやめてリラックスして、こちらを見ながら(つまり後ろ向きで)滑るコーチを追いかけながら滑っていくと、あら不思議、我流だった時とは全然違う、楽なスキーが出来るのだ。そして、身体が楽なので、滑るのがついつい楽しくなる。すると、ずんずん滑れてくる。一石三鳥、とでも言おうか。こういう上手なコーチに身をまかせると、どんどん恐怖心が薄れ、あっという間の2時間がたった最後、中級コースでもう二本、最終仕上げ。一回目の苦戦が嘘のように、斜面でもわりとリラックスして滑れる。こういうコツがあるんだ、と身体が納得した二時間だった。

そのTコーチと一緒にリフトに乗っているとき、コーチングについていろいろ伺ったのも、実に面白かった。

「コーチにもうまい下手があります。滑るのは上手でも、伝えるのが下手な人がいる。また、形ばっかりを教え込もうとして、その人がどこでつまずいているのか、にお構いなしの人がいる。」「私の場合は、相手を見ながら、2時間の中での教えるデザインを変える。この人なら、このくらいまで到達出来るだろう、と。この予想は、相手が極端に体力がなかったり、恐怖心がとれない場合を除けば、だいたい当たる。」「私自身は、数回しかレッスンを受けていない。でも、言われたことを自分の頭で反芻していく中で、自然と自分自身や他人に伝える際にも、応用することが出来るようになった。」

福祉の現場では「本人中心の支援計画(Person Centered Individual Program Plan)」なるものの重要性が謳われて久しい。ケアマネジメントも、本当はこういうPerson Centeredであるべきだったのだが、どうも日本の現場ではズレているようだ。実際に、「本人中心」というからには、この僕が習ったコーチのように、相手の実情に合わせて臨機応変にプログラムを変える力量と、相手の求める形でサービスが提供できるような引き出しの多さ、その為の現状分析や反芻能力の高さ、などの複合的な力が求められるのだなぁ、と滑り終えた後、白樺湖畔の日帰り温泉につかりながら考えていた。

いかんいかん、まだ臨戦態勢モードから抜けていないようだ。
今年も鳥一でかった鳥の丸焼きをお供に、さて、今からシャンパンに合う料理でも作りながら、頭を切り換えるとするか。

ダイエットと民主主義

 

ようやく筋肉痛が治る。

月曜夕方にテニスをしたのだが、火曜から水曜にかけて、本当に階段の上り下りがつらかった。で、ようやくその痛みが治ってきた頃に、さらに追い打ちをかけるようなお知らせが、木曜日に届く。健康診断の結果である。眼はいい、血圧もまあよい、そして見ていくうちに、肝臓系などの数値が「要再検査」。やはり、飲み過ぎがたたっているのか・・・と急に落ち込む。ただ、その結果は今、実はよくわからない。というのも、研究室に持ち帰ったはず、の結果が書かれた紙の入った封筒が、どこをどう探しても、見あたらないのだ。30分以上研究室を探しまくったが、出てこない。うーん、フロイト先生の言うところの、無意識的な意図による失錯行為、なのだろうか。

で、この無意識的な意図による物忘れなどの失錯行為、といえば、その日に調べ物をしていたら、こんな風に述べている文章に出会った。

「もしかすると、ジェンダーフリーに反対する人は、『男らしさや女らしさは生まれついてのものだ』という信念を実験で検証すること自体が嫌なのかもしれない。試すというのは、仮定の上にせよ、その信念が間違えている可能性を視野にいれることだからだ。
 私も保守的な人間なので、そういう気持ちはわからないでもない。だが、自分は絶対的に正しいとするのは、民主主義ではやってはいけない反則である。フェミニズムに反対する人も、賛成する人も、お互い間違うかもしれない人間として、いっしょにやっていく。それが民主主義の大原則であり、あえていえば『日本人らしい和の心』でもあるのではないか。
 そういう原則や心を見失うとき、私たちは男らしさや女らしさよりも、もっと大事なものをなくす。私にはそう思えてならない。」(佐藤俊樹「『ジェンダーフリー』叩き」山梨日日新聞20061213日)

自らの「信念が間違えている可能性を視野にいれる」ということは、大変つらいことだ。前回のブログ同様卑近な例でいけば、木曜日に届いた検査結果によると、僕がこれまで毎日のようにパートナーと晩酌していたことや、ジムにお金を払っているけど忙しさを理由に週1回程度しかいけてない、そのような事実を「良し」とするその信念自体が「間違えている可能性」が高い!という指摘なのである。人間何が嫌って、自分の生活習慣を変えることが一番嫌だから、わざわざその手の病気に「生活習慣病」と名付けられたくらいだ。当然、この自身の「信念」を変えるのは本当にかなわない。特に、もともと体を動かすのが好きでもない、お酒や食べ物を我慢するのも好きではない、という人が、わざわざその「好きではない」ことに取り組まねばならない、という現実を突きつけられても、なかなか認めたくないのだ。そう、頭では「そろそろ酒も控えんとなぁ」「やっぱり週に二日はプールにいかんと」と認めなければならないのはわかっているのだけれど、やっぱり嫌だ、という無意識が先走る時、検査結果をなくす、探し出せない、という失錯行為といて、無意識的意図のコントロール化におかれてしまうのである。

この無意識的意図のコントロール化に身を置くこと、つまりは「信念が間違えている可能性を視野にいれる」への拒否状態、について、よく引用する内田先生も次のように書いている。

「私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは『アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから』ではなく、『中国が嫌いだから』(そして『どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない』)という自身の原点にある『欲望』と『無知』のことは心にとどめていた方がいいと思う。」(内田樹ブログ2006年1月11より)

この引用の語句の「中国」を「ジェンダーフリー」に、「アジアの国際状勢」を「日本人の情操教育」とでも書き換えてみたら、あら不思議、佐藤氏と内田氏は、テーマは違うけど、結構近似している枠組みでものを眺めていることがわかる。そして、佐藤氏の言う「信念が間違えている可能性を視野にいれること」が出来る人の事を、内田氏はその日のブログで、「欲望を勘定に入れる習慣をもった人間」とも言っている。自身の無意識化の意図(=欲望)を、完璧にコントロールするのは難しい。フロイト先生が言っていたのは、どんな人間であれ、そうやってコントロールしようとしても、するりと抜けて出てくるのが、失錯行為と呼ばれる産物であった。それは、どういう「信念」を持った人でも、共通である。でも、その失錯行為の背景にある「欲望」がある、ということについて、「勘定に入れる習慣を持った人間」か否か、には大きな違いがある。両氏はそう教えてくれている。

確かに、「『欲望』と『無知』」を心にとどめておけない場合、人間は論理的な推察が出来にくくなる。自身の健康診断の検査結果を見て「なんで俺に限って」「一生懸命働いているのに」と言い訳をはじめるのは、まさに他責的であり、「欲望」の温存と、その状態に関する「無知」そのものである。そして、そういう自分の「欲望を勘定に入れる習慣」を度外視することは、「自分は絶対的に正しいとする」ことそのものであり、「民主主義ではやってはいけない反則である」のだ。そうか、僕自身が生活習慣を変えようとせずに、ダイエットをしないことにいろいろ小理屈をつけるのは、民主主義の根幹を揺るがすことにつながっているのか。あな、恐ろしや。

ダイエットと自己変革

 

「遅発性筋肉痛」になってしまった。

と書くと、何となく格好良さげだが、何のことはない。昨日、久しぶりにコッテリとテニスのストロークをしたものだから、今日内股がいてて、で、階段の上り下りが辛いのだ。単なる運動不足の結果である。ああ、情けない。

テニス部の顧問の先生が音頭を取られ、学内の教職員有志で、立派な強化選手用のコートを使わせて頂く。国際試合も可能な立派なコートは、私のようなヨチヨチプレーヤーには何とも勿体ない。でも、すごく打っていて、気持ちの良いコートだ。あとは、この筋肉痛さえ何とかなれば・・・。これから毎週開催のようなので、テニスとプールで、何とか冬の間に少しは痩せれるかしら・・・。

そういえば昨日は冬空にもかかわらず、他の人の倍以上のドップリとした汗をかく。帰ってパートナーに報告すると一言、「太りすぎやからやで」とのこと。何だか寂しい限りだ。そう言えば、先週末出張で上京した折、大学時代の友人に10年ぶりに再会した。その友人曰く、「全然変わってないけど、お腹がねぇ・・・」。このように、ここ最近釘を刺されまくっているので、ええかげん「口だけでなく行動」が求められているのだ、と深く反省。でもこの問題、反省だけでなく、反省を通じて変わらなければ、その昔の広告じゃないけど、「反省だけならサルでもできる」からねぇ・・・。

で、反省や内省を行為へと変えていく、ということについて、最近調べる中で興味を持ったあるフレーズを引いてみる。

「行為の中で省察するとき、その人は実践の文脈における研究者となる。すでに確定した理論や技術のカテゴリーに頼るのではなく、独自の事例についての新たな理論を構成している。彼の探求は、その目的について、あらかじめ一致が見られる手段について考察するにとどまらない。彼は手段と目的を別々にしておくのではなく、問題状況に枠組みを与えるように目的と手段を相互作用的に規定する。彼は思考することと行動することを分けていない。行為へと後で変換していく決定の方法を推論しているのであり、彼の実験は行為の一種であり、行為の事項が探求へと組み入れられていく。このように『行為の中の省察』は、『技術的合理性』の二分法に縛られていないので、不確実な独自の状況においてさえも、進むことが出来る。」Schon, D.1983Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action (『専門家の知恵』佐藤・秋田訳、ゆるみ出版、引用は訳書p119-120

このReflective Practitionerとは、教育の分野や医療福祉といった「現場での知」が大切にされる分野で「使える理論」として、日本でも90年代以後、少しずつ導入され始めている。これを先のタケバタの事例でいけば、次のようになるだろうか。

「何だか最近ベルトを一つゆるめてしまった」「大学時代に買ったブランド物のスーツがとうとうパッツンパッツンになっている」という状況を「問題状況」として「枠組み」化するために、「口だけでなく本当にやせたい」という目的と、「でも仕事も忙しいので週に1度のテニスと後は週に1・2度のプールの時間を何とか確保しよう」という手段を「相互作用的に規定する」。「技術的合理性」からすると、食べる量を減らす、酒を飲まない、夜8時以後は食べない、などの解決策もあるが、それでは不規則な生活時間や押し寄せてくる急な仕事といった「不確実な独自の状況」を解決出来ないので、あくまでも「相互作用的」「規定」をそのつど捉え直しながら、目的を果たすための最前の手段を、そのつど再定義し直す。

ダイエット話になると実に馬鹿馬鹿しい例だが、障害者支援の現場でも、こういう「そのつどの再定義」はすごく大切になってくる。だが、従来の支援者の価値観・経験・知識に縛られている支援者ほど、「そのつどの再定義」を拒む人も少なくない。「俺はこうやってきた(乗り越えてきた)のだから」ということは、謙虚な自信に繋がればよいのだが、時として唯我独尊的なモードに変わってしまう。ダイエット話でいえば、「今まではこういう食事量やライフスタイルでも太らなかった」という言明は、現に変わっている体重を前に、何ら説明因子として機能しない。単純な分析だが、大阪にいた時代は「駅まで自転車で通っていた」「いろんな現場を掛け持ちしていたので、とにかくよく歩いた」という状況があったが、山梨に来てから「家の目の前の駐車場から大学の駐車場まで車で通勤」「平日は学内以外を歩くケースは少ない」という状況自体に変更があるのだ。すると、もし僕自身がReflective Practitioner(内省する実践家)ならば、与えられた今の問題状況を適切に枠組み化した上で、目的と手段の相互作用的規定が求められるのだ。単純にいえば、「昔の理屈で行くと、もっと太る。だから、痩せるためには、ちゃんと運動せねばまずい」とね。

でも、人間、この以前まで実践してきた論理を変更し、新たなミッションなり目的を内在化させること、そしてそのための手段を忠実に履行すること、これは、自己変革が求められている部分が大きければ大きいほど、超えねばならないと感じるハードルのバーも高くなる。特に、もともと運動が好きでない僕にとって、この「運動せねば」という新たミッションは、すごく超えづらい壁だ。わざわざブログにそんなつまらん分析を書いているのも、自分のハードルを外在化させて、プレッシャーをかけるのと、少しでもバーを下げよう、というささやかなる試みゆえである。

多分、現場で自己変革を拒み、昔のやり方に固執している支援者の中には、組織論の大家であるシャイン博士の言う「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」が大きい人も多いのかもしれない。自己変革や新たな学びへの不安は、その閾値(ハードルのバー)を下げる個人の側の努力と、それを暖かく見守る組織の後押しの両方が繋がるなかで可能になる。僕の場合も、自分が努力するだけでなく、テニスの同好会が出来た、とか、ジムに毎月会費を払ってしまっている、という外的要因が、「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」の閾値を下げてくれているのだ。なので、今科研の研究費を頂いてやっている支援者変革の研究でも、こういった「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」を下げて組織変革に結びつけるために、組織側、個人側に求められている課題は何か、を追求していきたい、と考えている。

とうだうだ書いてきたが、えっ、何だって? 「能書きの暇があったら早くプールにでも行ったらどうだ?」ですって。だから言ったでしょ。今日は筋肉痛でいけないのです。とほほ。