時の精霊

2023年3月26日、娘のこども園の卒園式が開かれた。雨が降って春冷えの園内で、心暖まる素敵な卒園式に参加しながら、ぼくはクロノスとカイロスの二つの時間を考えていた。

クロノスというのは、昨日から今日へ、過去から未来へと客観的に刻む時のことを指す。一方カイロスは、主観的な時間であり決定的な「いま・ここ」という瞬間のことを指す。子どもたちは、この卒園式を少し緊張しながらも笑顔で過ごし、園の先生とわかれるのはさみしいけど、4月から始まる小学生に向けて、前途洋々な気分でいる。その一方、保護者や先生方は、子どもと共に作り上げてきた園生活が終わるのか、と思うと様々な思いがこみ上げてきて、あちこちで何度も涙を流し、鼻をすする音が聞こえる。ぼくも何度か涙を流し、胸が熱くなっていた。これからどんどん時間が早くなっている娘たち。一方、「いま・ここ」の時が永遠であってほしい保護者や先生たち。ここで、クロノスとカイロスが交差するのだ。

そして、これは5日前の3月21日に本番を迎えた卒園記念親子ミュージカルのテーマでもあった。「時の精霊」と題されたミュージカルのあらすじは、こんな感じだった。

「時間の無い国で、人々は毎日幸福に暮らしていました。ある日、広場の真ん中の大きな木の前でひとりの子どもが言いました。「この木、花が咲かないね」。そこで子ども達は魔法使いを訪ね、「木に花を咲かせる」方法を聞きます。魔法使いは、「やめておけ」と子ども達の願いを聞いてくれません。ところが、双子の魔法使いの妹ボタンが、子どもを弟子にすることを条件に、願いを聞き入れます。ボタンは、時間の扉を開いて、閉じ込めていた時の精霊クロノスを解き放ってしまいます。やがて、時間は動き始め、木に花が咲きました。しかし、クロノスは暴走し、時間はますます早く動いて、花は枯れ、大地は荒れ果ててしまいました。人々はその国に住めなくなり、散り散りに別れていきます。「貧困」や「争い」に巻き込まれた人々は、放浪を続けます。やがて、子ども達が平和な国を取り戻すため、立ち上がります。」

娘がこども園に入った3歳の頃、大混乱の最中だった。そもそも娘は、親と離れることに不安が高まっていた。しかも、2020年春はコロナ危機のせいで臨時休校になり、出鼻をくじかれた。そんな情勢で、親も相当緊張感が高く、それが娘にも伝わって、娘は園でじっとしていず、ギャアギャア言って、一人で座っていられなかった。それは、今から思えば、命がけのSOSの表現だったのかもしれない。全身で「苦しいこと」を表現しようとしていた。でも、親も子どもにどう関わってよいかわからず、親子三人の「苦しいこと」が続いていた。

だが、娘が通ったこども園では、大人が全力になって「子どもの成長を止めるな」を合い言葉に、コロナ下でも、出来る限りふつうに子どもと接してくれ、子どもの遊びを保障してくれた。コロナ下でも夏祭りは近所の山から竹を切り出して櫓を組んだし、運動会では子どもたちが一枚一枚クレヨンで描いた重い万国旗がはためていていた。8キロハイキングやマラソン大会など、親も一緒に出場する行事も多く、四季折々のイベントもあった。日々の基本は毎日園庭でサッカーや泥遊びに興じ、ダイナミックに遊び続けていた。先生方は、娘の不安をしっかり受け止め、娘の可能性を沢山見いだし、応援してくださった。そんな環境の中で育ったおかげで、娘は安心してエネルギーを発散することができ、大混乱はいつの間にか鎮まっていった。時間の無い国で、娘たちは毎日幸福に暮らしていた。

そんなカイロスの時間を二年経て、娘は混乱期を超え、少しずつ落ち着いて、園での生活に安心感を持っていった。そんな心の拠り所が出来たあと、小学校との移行期にあたる年長組あたりから、意識的にこの園では時間の扉を開き、カイロスではなく、閉じ込められていた時の精霊クロノスが解き放たれるように、一気に時間が動き始める。年中組までの緩やかな雰囲気とは一変して、年長さんとして年下のお友達のお世話をし、小学校に向けて数字の書き取りやクロスステッチ、サッカーのリーグ戦など、頭も身体もフル活躍する。

実は、父も母も娘も、この卒園式を、夢物語のように迎えている。それは、たった5日前まで、園行事の集大成として、先述の親子ミュージカルの練習にかかりっきりだったからだ。妻は、時間のない国にクロノスを解き放つ魔法使いボタンの役を演じ、娘は魔法使いの弟子、父は暴走するクロノスを演じた。それは、実に象徴的な舞台だった。

クロノス役の父ちゃんは、子どもが生まれるまで、「クロノスは暴走し、時間はますます早く動いて、花は枯れ、大地は荒れ果ててしまいました」という世界を生きてきた。まさにそれは、生産性至上主義にどっぷりつかっていた時代であり、身も心も枯れ果てていた。父ちゃんは、馬車馬の論理にどっぷりはまり込んでいた

でも、こども園の3年間で感じたのは、そのような暴走する時間とは対極の、「いま・ここ」を大切にする、主観的な時の感覚だった。娘が混乱している時も、あるいは落ち着いていたり、家で荒れているときも、すべて「いま・ここ」を真剣に生きるからこそ、娘なりの世界観を必死に構築しようともがいているからこそ、の表現である。それは、「早くしなさい」というクロノスの指導や叱責が及ぶことない、「いま・ここ」のしたいことがぎゅっと濃縮されて詰まったカイロスの時間である。そして、娘は3歳から6歳の三年間で、そのカイロスの時間をこども園で十分に体験出来たからこそ、小学校以降のクロノスの時間に飛び込む勇気と自信を与えられたのだ、と思う。

一方、クロノスの時間にどっぷり浸っていたお父ちゃんとお母ちゃんにとって、この三年間は、カイロスの時間を取り戻す日々であった。全力で子どもと共に楽しもうとする先生方や他の保護者たちと出会う中で、「いま・ここ」の時間を子どもと全力で過ごすようになっていった。他の子どもと比較して出来ているとか出来ていないとか比較する視点を横に置き、他のお友達の名前もどんどん覚え、我が子のように他のお友達も愛おしくなり、その成長を喜べた。この1年くらい、彼ら彼女らの成長にじんわりきて、行事でも娘よりも他のお友達をじっくり観察することもあったくらいだ。そして、同じようにこども園生活を乗り越えてきた同志のお父ちゃん、お母ちゃんと沢山仲良くなった。

それは、日本社会の同調圧力的な標準化された時間とは別の、「いま・ここ」を娘やお友達、その父ちゃん母ちゃんと共に楽しむ、まさにクロノス的なせき立てられた時間から一歩距離を置いた、祝祭的な時間だった。園の行事は沢山あり、土日も含めてめっちゃ忙しかったけど、それはクロノス的な時間に追い立てられるのとは逆で、いま・ここ、の濃密なカイロスの時間を堪能するプロセスでもあった。

その集大成のような親子ミュージカルは、親子三人にとって、文字通りの試練であった。この園は、子どもも大人もみんな本気で容赦しない。本番前日のリハーサルで、娘は立ち位置を覚えずそわそわていると、総合監督の理事長先生から娘に向かって「たけばたぁ、何やってんだ!」と怒声が飛ぶ。娘が泣くと、理事長は「自分の頭で考えろ、泣いたらそれで済むわけではない」とさらに追い詰める。でも、その後担任の先生が「なぜ怒られたか?どうしたらよいか?」を本人が納得できるように時間をかけて説明してくださったので、娘は当日間違えずに立ち位置に立て、「今日は出来ているな」と理事長先生からも褒められた。

同じように、父も母も、浴びるほどダメ出しをされて、腹が立ったり、落ち込んだりする一ヶ月だった。でも、それは娘が新たな学習回路を開き、未知で不確実な世界に飛び込んで試行錯誤するときに、感じる不安やしんどさそのものである。夫婦とも、親子ミュージカルに出演させて頂き、葛藤の最大化場面に立ち会ったからこそ、娘がどのように暴れたり、しんどい思いをするのか、がわかった。おそらく小学校に入った移行期においても、同じように混乱するだろう。だからこそ、3歳の葛藤の最大化を乗り越える支援をしてくれた先生方が、6歳で小学生になるための移行期混乱の時期に、別の新たな試練をあえて親子三人に与えてくださったことに、文字通り「有り難い」と感じた。

時間の扉は、一度開いてしまうと閉じることが出来ず、その時間はもっともっと早く過ぎ去るばかりだと、娘が三歳の頃まで、思い込んでいた。でも、この園に親子三人がどっぷり関わる中で、カイロスの時間は十分に取り戻すことが可能なのだ、と学ぶことができた。むしろ、カイロスの時間を安心して生きることが、クロノスに魂を奪われないこつなのだと、知ることができた。

ミュージカルの練習においては、クロノス役の父親たちにも、総監督の理事長先生からの怒声が飛ぶ。「もっと飛んでみろ」「子どもたちの方が立派に飛んでいるぞ」「ちゃんと子どもたちと戦え」・・・これらの声が、今でもぼくの中で、こだましている。そして、実はクロノスのぼく自身は、カイロスの子どもたちと、ほんまもんの戦いをせねばならなかった。頭でっかちの父ちゃんにとって、カイロスの子どもたちの純粋さや謙虚さを、クロノス世界の要領の良さとか「わかったふり」で誤魔化してはならなかった。だからこそ、本気で子どもとぶつかることが求められたのだ。おかげで父ちゃんは、ミュージカル当日はクロノスの「時の精霊」に憑依して、めっちゃ悪くなれたと思う。それは、子どもたちがクロノスを退治するのに、本当に必要不可欠な要素だった。そして、子どもたちのクロノス退治のおかげで、お父ちゃんはカイロスやファンタジーを取り戻しつつある。

子どもを預けるだけ、ではなく、フルに子どもと共に親が関わることが求められたのが、こども園の3年間だった。それは、正直に言えば、最初の頃は面倒だった。でも、そうやって、面倒に感じるクロノスの父を揺り動かしてくださったからこそ、いま・ここ、の子どもの喜びを共感できる、カイロスの時間を父が持つことが出来た。そういう意味では、時の精霊がこの園に宿っていたおかげで、娘や母だけでなく、父までも、平和な世界を取り戻すことが出来たのだと思う。

今つくづく痛感するのは、こども園で育てられたのは、子どもだけでなく、父も母も同じように鍛えられた、ということだ。子どもが生まれて6年、親業もたった6年である。知ったかぶりも出来ないし、いつまでも子どもに翻弄される。でも拙著のタイトル『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』の副題である、育ち直しをこの3年間、みっちり伴走してもらえた。こんなに豊かなカイロスの時間を味わえたのは、子どもにとっても、父母にとっても、まさに値千金である。

偽解決と紋切型を越えるために

ある問題が繰り返し生じている。そういう悪循環が生じたとき、その問題そのものだけでなく、悪循環を解決する営み自体をも問題を抱えていることがある。それは、30年前に書かれた本に、以下のように書かれている。

「悪循環とは、ある人が自身の置かれている状況を問題のあるものとみなし、これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまうというメカニズムを持ち、しかもこれが反復的に繰り返されるものを言う。」(長谷正人『悪循環の現象学』ハーベスト社、p78-79)

家族療法を学んだ社会学者は、悪循環は問題行動と偽解決とセットである、と指摘する。偽解決とは、「これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまう」解決方法であり、問題行動と偽解決の循環メカニズムは、「反復的に繰り返される」ことによって悪循環が構成されていく。こう考えてみると、実はぼく自身のアプローチも、「偽解決」だったかもしれない、と暗澹たる気持ちになっている。

2023年2月25日に放映された、NHKのETV特集「ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」をみた。この番組が放映される前から、ルポの舞台である滝山病院に関する様々な記事も出されている。それらをみて、そこで行われているひどい虐待や人権侵害にも唖然としたが、大変悲しいことに、目新しいことではなかった。なぜなら20年前、ほとんど同じ構造的問題を持った事件と出会っていたからだ。

大学院生のころ、埼玉県の朝倉病院で、患者の身体拘束や過剰で不必要な医療処置などを行い、不正請求によって保健医療機関の認定が取り消され、病院が廃院になった。この時はテレビ朝日のスクープ映像によって問題が発覚したのだが、その際、師匠の大熊一夫はそのスクープ映像が取り上げられた番組でコメンテーターとして出ていた。そんなご縁もあり、僕もその後の朝倉病院事件については追いかけ続け、行政の病院監査の杜撰さなどを指摘した論文「日本の精神病院への行政監査の現状と課題」を書いた。院生の頃に必死に書いた論文で、前半は幾分冗長な説明が続くが、その後の宇都宮病院事件から大和川病院事件、そして朝倉病院事件へと続く精神病院での不祥事の連鎖や、それがなぜ生じているのか、その構造的背景も描いていた。そして、残念ながら20年前に書いたこの論文で指摘した内容を、今回はまた「再演」している。

20年前の論文で、僕は行政監査の課題を「繰り返される不祥事」「行政の認識の甘さと書類中心主義」「事前通告」「性善説」「医師の裁量権」「情報の非公開」という六点に整理した。そして、この六点は、今回の滝山病院事件にも全て当てはまる。

まず、朝倉病院の院長は、過去に保険医を取り消された後、再び保険医指定を取り戻し、滝山病院の院長になっていた。そして、透析患者への不適切な治療や、患者の身体拘束、虐待などを容認してきた。これは朝倉—滝山病院事件に限ったことではない。2020年には神出病院事件が起こり、今年はふれあい沼津ホスピタルでの虐待事件が報じられている。不祥事は繰り返し繰り返し起こり続けている。

そして、ETV特集でも、神出病院事件の第三者委員会報告書においても、行政監査の杜撰さや事前通告の問題は指摘されている。監査の日は身体拘束の用具を隠すなどの隠蔽行為は日常的に行われていた、と双方の病院では言われている。これは医師の性善説を「建前」とした監査であるがゆえに、不正がないかをチェックする技量がない行政事務職による書類中心主義の監査であったのが背景にある。さらに言えば、朝倉病院事件でも滝山病院事件でも、過剰な医療による保健医療点数の過剰請求が問題になっているが、そもそもここには医師の性善説が背景にあり、医療内容について踏み込んだ審査が日常的に行われていない、という背景もある。そして、こういう行政の不作為については、情報公開がなかなかなされない、という問題もある。

・・・と書いてみたところで、虚しさがすごく残っている。20年前に指摘しても、今もそのままで、変わっていないじゃん、と。ただ、そのことについて、20年前と今の自分では、スタンスが違う。20年前は、「ここが問題だ、これを変えなければならない!」と熱い想いでこの論文を書いていた。もちろん、今でもその想いを捨て去ってはいない。だが、冒頭に引用した悪循環の話に戻ってみよう。20年前、繰り返される不祥事に対して、それを解決しようとしてこの論文を書いた。だが、20年後も同じ悪循環が反復的に繰り返されている。確かに、虐待や人権侵害をする個々の病院・組織・スタッフの問題性は許しがたい。だが、それを指摘し、告発しても、同じ事が繰り返されるとしたら、その指摘や告発をするぼく自身のアプローチが、「偽解決」になってはいないか。そう思い始めているからである。

ただ、急ぎ断っておきたい。ETV特集や神出病院事件の第三者委員会報告書は、すごく大切で、重要な指摘をしている。報道機関による虐待報道もすごく大切だ。そういう優れた仕事にケチを付けたいのではない。そうではなくて、僕はこのETV特集を見たときに、「20年前と変わっていない」と思ってしまった。20年前に書いた論文で指摘した構造的問題がそのままではないか、と。そこから、深く自分に問い返すのだ。「それが問題だ」と指摘する、タケバタヒロシ自身の批判や指摘の仕方自体が、「これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまう」解決方法であり、偽解決ではないか、と。再び『悪循環の現象学』に戻ってみたい。

「例えば『金銭は諸悪の根源である』と言う人々は、自分もまた『諸悪の根源』であるところの『金銭』と日常的に関わっているにもかかわらずに、こう語ることによって自分だけは『諸悪』と関係ない人間であるかのような顔をするだろう。それは、まさに社会学者の顔だったのである。このように、紋切型の普及は、社会学的な認識が人々に共有されていることによって陳腐化されてしまっていること、つまりは社会学もまた紋切型の一種になっていることを示しているのである。」(p142)

精神病院への批判は、これまで繰り返し繰り返し書き続けてきた。例えばウェブで読めるものだけでも、「誰のため、何のための「改正」? 精神保健福祉法改正の構造的問題」とか、「精神病棟転換型施設を巡る「現実的議論」なるものの「うさん臭さ」」などあるし、紙媒体にも何度も書いてきた。あるいは、一年前のETV特集については、「隔離収容とコロナ危機」というブログ記事も書いた。盛んに精神病院を批判し続けてきた。でも、こうやって批判するぼく自身の文体や内容が、「紋切型」ではないか、と思い始めている。

「○○は諸悪の根源である」と語るとき、自分自身はその「諸悪の根源」であるところの「○○」とは関係ない、高みの見物をしているという前提がある。このことを長谷さんは、自戒を込めて「透明人間」の失敗だと語る。

「社会学者は家族療法家のように振る舞うことに失敗し、むしろ神経症を促進するような役割を担ってしまった。なぜか。それは社会学が『透明人間』の視点から社会を観察し、分析し、批判してきたからである。『透明人間』とは、観察者としての自分だけが当該社会のなかに含まれないという前提で、社会を観察する者のことであった。つまり、社会学は、社会学という学問や社会学的な認識が現実には存在していないかのようにして、社会を分析してしまった。このことが近代社会の病理に対する社会学の処方箋を狂わせたと言えよう。結論的に言えば、透明人間の視点から為された社会学は、第一に『不器用さ』を分析する側にではなく、『不器用さ』を促進する側にたってしまったし、第二に紋切型を分析対象とすることなく、自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまったのである。」(p138-139)

「隔離拘束は諸悪の根源である」とは書いていないが、似たような事は「クローズアップ現代」に出演した後のブログ「身体拘束を減らす4つの視点」などでも指摘し続けてきた。この際、ぼく自身は、確かに「透明人間」的な書き方だったかもしれない。自分は現象を客観的に観察している観察者であり、観察者は現場に影響を及ぼさない、と思い込んでいた。だが、精神病院に対するジャーナリストや研究者による批判は、確実に当の精神病院に影響を与えている。それは師匠の大熊一夫が半世紀前に書いた『ルポ・精神病棟』の中でも、精神医療従事者からの反論として掲載されている。つまり、批判の声が全く現場に届いていないから何も変わっていないのではなく、その声が現場に届いているにもかかわらず、現実が変わっていない・固定化されているという前提で物事をみる必要がある。

その上で、長谷さんの指摘する「透明人間の視点から為された社会学は、第一に『不器用さ』を分析する側にではなく、『不器用さ』を促進する側にたってしまったし、第二に紋切型を分析対象とすることなく、自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまったのである」という点について、分析する必要がある。

この際の「『不器用さ』を促進する」を、悪循環の再演と捉えると、どのような事が言えるだろう。精神病院における不祥事の告発や批判が「透明人間の視点から」なされた場合、当の問題を繰り返し反復させる。そして、精神病院への批判が「自ら紋切型となって」=偽解決になって、精神病院での虐待や人権侵害という「神経症的悪循環」を生み出している。このような仮説を抱いたら、どのようなことが言えるだろうか。

再び、滝山病院を巡るETV特集に戻ってみたい。あの報道の中で、この種の病院は「必要悪」だと何度も語られていた。透析が必要な精神科の患者を受け入れてくれる病院はなく、遠方からも入院要請があると。そして、院長とされる音声でも、自嘲気味に、死亡退院が多いのも仕方ないといった発言をしていた。それは、「透明人間」ではなく、アクチュアルなタケバタヒロシとして、見覚えのある話だった。

精神疾患と人工透析を併発した直接面識のある人のこととを思い浮かべると、その「必要悪」という言葉が、重くのしかかる。アルコール依存症で透析をしながらも、こっそり隠れてアルコールを飲み続け、失踪したり、家族にも暴言を振るい続けてきた。家族は見放さなかったが、「打つ手無し」と一般の透析病院から見捨てられかけていた。家族の働きかけがあって、何とかその病院での治療は継続し、結果的にそこで亡くなったが、もし病院からの強制的退院が通告されたなら、滝山病院やそれに類する病院に入院するしかなかっただろう。すると、あの人も、映像内に出てくる人と同じような処遇をされたかもしれないのだ。

社会的なルールを守れない。それは、アルコール依存症で腎臓も肝臓も壊れかけていて、人工透析で何とか保っているのに、隠れてアルコールを飲み続けた彼も、まさにそうだった。でも、今から思うと、彼は「苦しいこと」をアルコールを飲む形でしか表現出来ない状況に構造的に追い込まれていた。「苦しみ」として昇華できず、アルコールを飲みつづけ、友人や仲間、仕事も亡くし、家族にも愛想を尽かされながらも、でも必死で飲んで「苦しいこと」を表現しようとしていた。だが、それは理解されず、一般の透析病院でも見放されてきた。

それはなぜか? ぼく自身も含めて、この社会では、一般的なルールを守れない人の内在的論理を理解しようとするアセスメントがなされず、「ダメな人」「困った人」「周囲に迷惑をかけるひと」とラベルが貼られ、社会的に排除されているからである。そして、そういう人に医療が必要な場合、引き受ける病院は限定的であり、それが「必要悪」とされた滝山病院のような収容所を温存させることになる。事実、ETV特集の中では、生活保護のワーカーが率先して入院に切り替えていた様子も報じられていた。その患者さんは、透析治療を無断で辞めたから、滝山病院への入院だとも報じられていた。

ここから、透明人間ではなく、この社会の一員として、分析しなければならないことがある。「周囲に迷惑をかけてはいけない」という不文律の、しかも強固な日本社会の価値前提をあなたも私もシェアしている。そして、その不文律を破った人は、排除されても仕方ない、と思い込んでいたり、そういう人を処遇する場も「必要悪」だと思い込んでいる。この価値前提がぼく自身にないか、が問われているのだ。

これは、様々な神経症的悪循環の連鎖である。まず、この社会で「頑張って迷惑をかけずに生きている」と思い込んでいる人は、自分とは違う「迷惑をかける、注意しても聞かない他者」の事が容認できない。だから、そういう人は劣等処遇されても仕方ない、と無意識・無自覚に思い込みやすい。また、そういうメンタリティを持ったまま、「困難事例」「問題行動」とラベルが貼られた人を支援すると、「あいつが悪い=私が悪くない」と思い込みやすい。この二項対立に支配されると、患者への劣等処遇や虐待、人権侵害も、「私は悪くない」と容認されてしまう。そして、その二項対立に支配されているのは、個別の看護師や病院に限ったことだろうか? 「迷惑をかけ続ける人は自業自得だ」という二項対立的発想に、ぼく自身もあなたも罹患していないか? すると、滝山病院への批判の眼差しは、「必要悪」だと容認している、日本社会に暮らすぼくたちの認識前提そのものにも問い返さなければならないのでは、ないだろうか?

そう考えていくと、かつて相模原での障害者連続殺人事件に関してブログ(不幸な二項対立に陥らないために)に書いた児玉真美さんの悲痛な叫び声も聞こえてくる。

「障害を社会モデルで捉えるように、親の様々な思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。『親は一番の敵だ』で親をなじって終わるのではなく、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか。」(児玉真美『殺す親 殺させられる親』生活書院p264)

こういう事件が起こるたびに、入所施設や精神病院に入れる家族が悪い、という紋切型の批判も出てくるし、かつては僕も似たようなことを書いたことがある。でも、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向ける、ということは、滝山病院問題に戻れば、「滝山病院が必要悪として温存されてきた日本社会」そのものに、共に目を向ける必要があるのだ。そして、そのような「必要悪」構造の悪循環を解消するための方法論が模索されないと、「周囲に迷惑をかける人の行き場所」という「ニーズ」は社会的に残り続け、それが滝山病院的な収容所の温存に繋がる。これは精神科だけでなく慢性期の老人病棟の中にも、同種の構造が残り続けていると思う。そして、それを必要としている家族や社会があるのだ。

個別の病院や医療従事者の権利侵害を免責するつもりはない。法を犯す行為に対して、厳正な処罰は必要不可欠だ。でも、個々の病院を糾弾するだけでは、偽解決であり、悪循環は増幅していく。10年後も20年後も、同じような問題を起こす病院の問題は、繰り返し出てくる。それは、『ルポ・精神病棟』が書かれて半世紀後にも、同じ構造が残っていることからも、明らかだ。

では、どうすればよいか。それも、以前のブログ(『チッソは私であった』と向き合って)で書いた緒方正人さんのことを思い出す。

「私自身も今では車も運転し、船も木造からFRP(強化プラスティック)になって、情報を新聞やテレビから得、電化製品の中にあるわけです。確かに私自身が水銀を流したという覚えはないですけれども、時代そのものがチッソ化してきたのではないかという意味で、私も当事者の一人になっていると思います。しくみ全体が、そういうふうに動いてきているということがあると思います。かつては、チッソへの恨みというものが、人への恨みになっていた。チッソの方は全部悪者になっていて、どっか自分は別枠のところに置いていた。しかし、私自身が大きく逆転したきっかけは、自分自身をチッソの中に置いた時に逆転することになったわけです。水俣病の認定や補償や、医療のしくみを作ることではすまない責任の行方が、自分に問われていることを強く感じていました。」(緒方正人著『チッソは私であった』、河出文庫、p73)

緒方さんは、チッソ被害者の1人である。裁判でも戦い、「チッソの方は全部悪者になっていて、どっか自分は別枠のところに置いていた」という意味では、「透明人間」的だった。だが、かれは自分がチッソ化した時代の中で、チッソの恩恵にあずかっている、という当事者性を自覚してしまった。そうすると、「水俣病の認定や補償や、医療のしくみを作ることではすまない責任の行方が、自分に問われていることを強く感じ」たのだ。

「透明人間」から脱するためには、「問題の一部は自分自身である」と捉え直す必要がある。使い古されたが、今でも大切なフレーズである。問題行動と偽解決の連鎖を解消したければ、問題行動を指摘する己自身のアプローチが、偽解決ではなかったか、を検証し、コミュニケーションパターンを変えて行く必要があるのだ。

2年ほど前、こんな文章を書いた。

「精神病院やそこで働く人々が、そのような「問題行動」「処遇困難事例」 に対して、率直に自らが治療できていないと認められない場合、トラウマ症状の人が引き起こすのと同じ解離現象が生じるのではないか、という妄想すら浮かぶ。解離現象は、圧倒的なトラウマ経験をした人が、そのトラウマの直面やフラッシュバックを避ける為に自己の 一部を解離させる現象であるが、精神病院やそこで働く人々も、支援者自身や支援組織のトラウマへの直面を拒否するために、支援者自身の人格の一部を解離させて、直視せずに・な かったことにしている可能性はないか。精神病院における度重なる人権侵害や暴力の背後 には、そのような支援者や支援組織の「解離性障害」の可能性すら感じてしまうのだ。」(「支援者の脱施設化の思想 : トラウマ化された病院を越えて」

今回の滝山病院問題を見て、この時に書いた内容を改めて思い出す。トラウマ化された支援者や病院が、その「不器用」な構造から抜け出せない。それを外から正義の論理で批判しても、支援者や支援組織が「罹患」している、組織病理としての「解離性障害」を乗り越えることは出来ない。そして、透明人間としてそれを客観的に語ると、その悪循環は増幅される偽解決になる。その偽解決を超えるためには、組織的・構造的トラウマをどのようにしたら乗り越えるのか、別のやり方がありうるのか、を精神病院の中の人と共に考えることなのではないか、と思う。

これから何が出来るかわからないが、「自ら紋切型となって神経症的悪循環を作り出してしまった」ことを認めた上で、それ以外の方法論を模索したい。そう感じている。

「昭和98年」的世界は嫌だ

子どもが生まれた2017年から、「ケアの倫理」に関する科研費研究班に混ぜてもらった。そこでジョアン・トロントの本を読むというので、しかも翻訳が出ていないというので、赤子をスリングに入れながら英語文献を読んでいた。その時、彼女の大著Caring Democracyを読む前に、とりあえず講演録として出ていてすっと読めてめっちゃ面白かったのが、今日ご紹介するWho cares?である。で、その研究会で同じく読んだ名著『フェミニズムの政治学』の著者の岡野八代さんが翻訳してくださった。それを今回改めて読んで、学ぶことが多かった。

「ケアとは、必要を満たすものであり、だからこそ、常に関係的です。たとえば、自転車で転んだ子どもの擦り剥けてしまった膝は、擦り傷やばい菌をどう処置するのかといった問題だけでなく、この世界でそのことが安全だと感じる条件をどう想像するのかといった問題にも関わってきます。」(ジョアン・トロント『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』白澤社、p25)

子どもがけがをする。痛いと泣き叫び、時には血を出したりしている。そういう時に、傷の処置をして、泣いている子どもをあやす。それは可及的速やかに求められるケアである。でも、子どもが同じけがを繰り返さないように、けがをしない遊び方について一緒に考えたり、アドバイスをすることは、けがの処置が終わり、子どもも落ち着いたらすべきケアである。更に言えば、子どもが普段自転車で走る環境のなかで、けがをしやすい場所がないか、とか、少し俯瞰的に見直してみることも、中長期的なケアにあたるかもしれない。トロントが指摘するように、それらはすべて関係的である。そして、具体的な関係性の中で、個別的な事象(今回なら自転車で転んだという出来事)を通じて、ケアは発動する。これは標準化も規格化も出来ない、一回限りの出来事の連続としてのケア、である。

一般的に、ケア関係とは、子どもや障害者、高齢者など、特定の社会的弱者に提供される、固定的なイメージと受け取られやすい。でも、トロントが言うように、ケアは関係的なのである。ぼくだってあなただって、必要がひとりで満たされないような状況に構造的に追い込まれたとき、それを満たしてくれる人との間で、ケア的関係性が生まれる。

「おそらく、賃労働の六分の一は、いまやケアに費やされています。人生の指南役、犬の散歩、病院での介助士、料理人、教師、結婚プランナー、自動車整備、そしてソムリエまで、あらゆることがケア実践に関わっており、市場でこうしたケアは売られています。」(p51)

確かに、来月オイル交換の時期だが、ぼくは自動車整備士の人に交換業務をしてもらい、ついでに定期点検をしてもらって、車の調子についてケアしてもらう。好きなワインを買うのは、馴染みのソムリエさんのお店であり、ぼくの好みとかお財布事情を知っていてコスパのよい&美味しいワインを勧めてくれるケアを享受する。このように、ケアの一定程度は賃労働を通じて消費されている。でも、ケアはそれだけには限らない。

トロントは、ケアについて、従来の議論では4つの類型に分けられていた、という。

1,関心を向けること(Caring about)
2,配慮すること(Caring for)
3,ケアを提供すること(Caregiving)
4,ケアを受け取ること(Care-receiving)

この4つは、皆さんもイメージしやすいことだと思う。公園で小さな子どもが自転車に乗っていると気づいた上で(caring about)、こけそうになったら走り寄る配慮をし(caring for)、泣いていたらケアはないかと確かめる(caregiving)。なだめてもらった子どもは、痛いけど大丈夫と言って(care-receiving)、また自転車をこぎ始める。これはケアのプロセスとして、日常的に行われている。

だが彼女の議論の特筆する点は、そこに新たな項目を付け足しているところである。

5,ケアを共にすること(Caring with)

彼女はこの第五の局面を「新しい民主主義の理念だ」として、以下のように述べている。

「私たちが平等化しなければならないものは、ケア提供という行為そのものではなく、ケアに対する責任であり、そしてその前提条件として、いかにしてその責任が[社会の中で]配分されるべきかについての議論なのです。こうして、わたしたちは、新たな民主主義の定義を手にすることになります。民主主義は、ケア責任の配分に関わるものであり、あらゆるひとが、できるかぎり完全に、こうしたケアの配分に参加できることを保証する。」(p39)

一気に難しくなったようにも思えるが、さにあらず。

子どもが公園で自転車に乗って遊んでいるとき、それを見守るケアを誰がしているか。土日なら、近所の公園ではお父さんが結構見守りをしている。でも、平日の未就学児のケアとか、あるいは夏休みの小学生のケアとかを誰がしているか。それは、圧倒的にパートタイム労働や専業主婦の女性である。夫婦共働きも増えてきたが、子どもが熱を出した、風邪を引いたときに早退するのも、圧倒的に女性である。更に言えば、家の洗剤や歯ブラシなどの消耗品を買うのは誰か、それを収納するのは誰か、PTAとか町内会の役を引き受けるのか誰か、子どもの習い事やお友達と遊ぶ際の送迎やスケジュール管理をするのは誰か・・・これらは圧倒的に女性なのである。つまり、ケア責任の配分に関しては、現代日本社会において、圧倒的に女性に偏っている。

それは、男尊女卑的事態である、だけでなく、日本社会が職場で働かせ過ぎている社会であり、夜中まで残業しないとラットレースに残れないような、弱肉強食の社会であるからだ。それを夫婦のどちらかが出来ないというと、管理職から下ろされてしまう。まさに、昭和的な「24時間戦えますか?」マインドが未だに続いている。それを朝日新聞の連載で「昭和98年」と銘打った連載にしていて、思わず唸った。そうか、昭和が終わって40年近く経つのに、未だに昭和98年なんだ!と。本当に、たまらんしんどさである。

最近、あちこちで「昭和的価値観をどう成仏して乗り越えられるか」について語っている。これも実はネタ元はトロントである。彼女はこんな風に語っている。

「『共にケアする』という代案は、あらゆるひとに、より少なく働くこと、つまり、日々のケア実践にある一定の時間を割くように要請します。もちろん、こうした変革が実際に効果を発揮するためには、わたしたちが自分の時間や、働く場所、そして自分の労働に対していかに対価を受け取るかについての考え方に革命を迫るでしょう。いまは多くの労働者は、毎日二十四時間自分の仕事に義務を感じていて、家からEメールに返事をしたり、深夜に世界の反対側で行われているプロジェクトの状況をチェックしたりして、一日を終えるのです。[このような状況のなかだからこそ]誰もこんなふうに完全に、仕事をケアの必要より上に位置づけるべきではないと、社会全体でわたしたちが決めることは、より一層、とても意味のあることとなっているのです。」(p57-58)

この文章を最初にkindleで読んだ6年前も、線を引きながら読んでいたので、深く覚えている。そうそう、ぼくは子どもが生まれた頃までは、まさに24時間戦闘態勢で、ずっとメールを見ていたし、休み無く働き続けてきた。それが社会から求めらていることだし、そうしないと研究者として評価されない、と思い込んでいた。でも、他者がケアをしないと死んでしまう赤子を前にして、己の「ビジネスモデル」がいかにケアを無視したものであるか、ケアを放棄した上で成り立っているか、を、本当に痛いほど感じた。まさにケアを度外視して、仕事をしていたのである。そして、それでは子どものケアは出来ない。そして、仕事中心主義から降りた時に、まさに「戦線離脱」の恐怖を感じたのだ。

だからこそ、トロントは、これは個人の問題ではなく、政治の問題であり民主主義の問いだ、とハッキリ指摘する。子どもが生まれてみて、「仕事が忙しいから」とケア役割から逃げていたら、それは不平等に加担することになる。そういう「昭和98年」的な抑圧的世界に加担することになる。それがいやなら、ケア責任の配分に参加しなければならないし、それを通じてケアの平等を実現しなければならない。それは、仕事の仕方を変えることであり、仕事にのめり込んでいた自分の生き方をも変えることを求められたのだ。でも、戦線離脱の恐怖の中で、ぼくにとって一筋の光になったのが、このトロントの講演録だった。

「わたしたちはこれまで、物事を逆さまに捉えてしまいました。すべてのひとにとって、善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです。すなわち、必要なときにひとは他者から、良くケアされ、あるいは自分自身でケアできる生活です。そしてそれは、他の人びと、動物、そして、自分の人生に特別な意味を与える制度や理念のために、ケアを提供する余裕がある生活です。」(p66)

ぶっちゃけて言うと、ケアは余裕がなかったら絶対に出来ない。ケアは余裕の産物なのだ。でも、現代社会において、それが過度に商品化されている。すると、購買力のあるパワーカップルは商品購入で代替できるが、専業主婦やパート世帯、あるいは非正規カップルやシングル世帯などは、自分たちで何とかするしかない。そこにケアの格差が生じてしまう。それは、あまりに不平等である。

この状況は「物事を逆さまに捉えて」いた状態なのだ。前提としてあるのは、善く生きるために必要なものは仕事ではない。「善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです」。ということは、仕事に埋没できる環境を保証するのではなく、ケアに満ちた生活を送るための前提条件こそ、社会的に保証されなければならない。そのために、制度や政策を変えていく必要があり、そのための政治が求められているのである。

この点に関して、訳者の岡野八代さんは、「特権的な無責任さ」と指摘している。

「既存の政治、既存の社会の中心が、特権的に、ケア活動に関心がなく、担わなくてもよく、<自分が知ったことではない Who cares?>と誰かに押しつけておくことのできる者たちの無責任さに覆われていることに、否応なくわたしたちは気づくことになる。」(p111)

そう、この「特権的な無責任さ」を持っていたのは、育児に関わる前までのぼく自身だ。岡野さんの指摘でハッとしたのは、「誰がケアをするのか? (Who cares?)」って、<自分が知ったことではない Who cares?>とダブルミーニングだったのだ。言われてみたらその通りなのだけれど、そのことに気づいていなかった。そして、「昭和98年」を生きる多くのサラリーマン男性や管理職が、「<自分が知ったことではない Who cares?>と誰かに押しつけておくことのできる者たち」であり、彼らは「特権的な無責任さ」を持ち、そのことにすら自覚的ではないのだ。まるで、以前のぼくと同じように。

だからこそ、誰かにケアを押しつけていることを、<自分が知ったことではない Who cares?>と言い放つことは、民主主義に反することであるし、アカンことや!と指摘することから、ケアを共にするCaring withがはじまる。あなたも私も、ともにケア配分の責任を引き受けようよ、男も女も平等にケア責任を配分できるような社会にしようよ、そのために働かせ過ぎの職場環境を変えようよ、と。それでは仕事が回らないなら、そもそもその仕事の回し方こそ変えようよ、と。ワークライフバランスなるものを本気で突き詰めようとするなら、このCaring withのラディカルさを引き受ける必要がある。そうしないで表面的に育休を男性でも1週間ならとってもいいよ、とか、その間にリスキリングしておいてね、という発想は、まさに<自分が知ったことではない Who cares?>という特権的な無責任さを手放していないと告白しているようなものだ。

そして、そんな社会はいやだ。「昭和98年」的世界は嫌だ。

男と女で、賃金に格差をつけない。より少なく働き、トータルの労働時間でカバーできるような社会に変えていく。<自分が知ったことではない Who cares?>という「特権的無責任さ」を自覚化して距離をとり、ケア配分の民主化を目指す。そのために、業務内容や働き方を徹底的に効率化する。こういうことこそ、ほんまもんの「創造的破壊=イノベーション」なのだと思う。そういうプロセスを積み重ねることで、「昭和98年」をやっと成仏出来る。20世紀型システムと、区切りをつけることができる。

そんな風に感じた。

ファンタジーとcaring with

最近、児童文学を通じてファンタジーの世界に少しずつ「お近づき」になっている。ルチャ・リブロの司書、青木海青子さんにお薦め頂いて、『フィオナの海』『夏の王』『鬼の橋』『新月の子どもたち』『トムは真夜中の庭で』と読み進めてきた。どれもすごく面白い。『鬼の橋』については、こないだオムラヂ(生きるためのファンタジーの会)で2時間くらい、青木真兵さんや現代書館の編集者、向山夏奈さんも交えて熱く語った。

で、次に海青子さんからお薦め頂いたのは『まぼろしのすむ館』である。これも読み出したらめちゃくちゃ面白くて、まさか最後に『トムは真夜中の庭で』とつながる展開になるとは思いも寄らなかったのだが、読みふけってしまった。そうやって色々素晴らしい児童文学を読みながら、ぼく自身が気づきつつあることがある。

ぼくは4回目の年男なのだが、1回目の年男の時に果たせなかった通過儀礼というか成熟課題に、いま・ここ、で出会っているのかもしれない、と。

小さい頃は、「こどものとも」が大好きでよく読んでもらっていた。その後、小学生以後、かこさとしや『ズッコケ3人組』『怪盗ルパン』など読んできた。だが、小学校高学年から物語から遠ざかり始め、小学校高学年から中学生くらいが対象年齢の児童文学は全く読んでいない。代わりに小学校高学年から趣味の本を読みあさるようになり、「鉄道ファン」→「鉄道ジャーナル」→「アサヒカメラ」を中高と読み続けてきた。鉄道ジャーナルとかアサヒカメラは、毎月2,3回読んだ後、バックナンバーも読んで、翌月号に備える念の入れよう。鉄道ジャーナルに関しては古本屋で過去のバックナンバーも色々買いそろえていたように思う。その間、中学校くらいから星新一の『ボッコちゃん』に始まり、北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズ、『十五少年漂流記』に『大地』などの翻訳物も含めた一般小説に手をつけ、高校生では遠藤周作や太宰治、椎名誠に灰谷健次郎などを読み、大学生以後はら村上春樹にどっぷりはまり込む、というパターン。でも、新書やノンフィクション、哲学や社会学などの本を読むのに比べたら、フィクションを読む量は極めて限定的である。マンガはほとんど読めていない。

そして、最近、児童文学を読み進めながら、何が素晴らしいのか、なぜ今読みたくなっているのか、が少しずつ、自分にも理解でき始めた。

ぼくがお薦め頂いて読んでいる児童文学は、まさに思春期における通過儀礼が主題になっている。主人公は、大人になる前の、身勝手だったりわがままだったり智恵が十分についていない、端的に言えば「未成熟」な子どもである。そして、日常から離れた異空間の中に放り込まれ、様々なハプニングに遭遇し、追い詰められたり、切り抜けていきながら、まったく自分でコントロールできない状況を少しずつ把握し、パッチワークのように手がかりを集めながら、やがて地図の断片から少しずつ核心へと迫っていく。それは一人では出来ないので、仲間が必要だ。ぼくが読んできた児童文学では、異性の仲間が重要なパートナーとなる。ただ、村上春樹の小説と違うのは、セックスは入らず、恋愛感情があってもほのかなレベルで終わる。大切なのは、独りよがりにならず、仲間を信じて、仲間を助けて・助けられて、タフな旅にこぎ出すのだ。その中で、大きな試練にも立ち向かう。

そして、その試練に立ち向かう中で、気づけば未成熟な「子ども」を超えて、青年期の仲間入りをしていく。それは、身体的成長というより、精神的な成熟である。成長とは測定可能で目に見えるものであるが、成熟は目に見えないが明らかに以前とは異なっていると本人も周囲も気づく内的変化である。成長がスペクトラム上の連続性の中での変化なのに対して、成熟は連続性ではなく、以前とは全然違う姿への変容である。後戻りの出来ない変容であり、位相や世界観、パラダイムがごっそり変容している。その中で、深みが増し、陰影というか「陰」の部分を備えるようになったために、「光」の部分も増していくのだと思う。後戻りできない悲しみ、何かを乗り越える辛さ、にもかかわらず前に進まなければならないという覚悟、それらをない交ぜにした陰影をしっかり自分に刻み込むからこそ、他者の陰影もしっかり理解し、受け止める事が出来る。

そして振り返ってみると、「こどものとも」や「ズッコケ3人組」にはまだ陰影が現れていないし、太宰治や村上春樹になると、確かに成熟も描いているが、複雑な様相になってくる。すると、10代の思春期における陰影や変容を、そのものとして同時代的に描いているのは、児童文学の特色であり、まさにそれらの作品を通過することによって、思春期のこじれやしんどさが和らいだり、あるいは物語世界における成熟プロセスを読みながら、自分自身のこれから目指すプロセスを夢想することが出来るのである。そして、ぼくはその貴重な世界に触れないまま、ある種の通過儀礼を経ないまま、大人になってしまった。それは、なぜか?

今から思い返すと、小学校5,6年生の頃、いじめがクラス内に蔓延し、いじめられ、その後いじめる側の末端に加担した。クラスは学級崩壊状態で、先生を排除し、授業もろくに受けられなかった。その反動で、中学1年の時、「公立中学の勉強について行くため」に入った塾が猛烈進学塾で、夜中まで勉強していた。そういう環境であるが故に、子どもの自分が嫌で、一刻も早く大人になりたいと背伸びしていた。大人の会話に首を突っ込みたがるという元々の性質も手伝って、大人の雑誌を読みふけり、大人の小説に手を出して、大人的世界を経験しようとした。覚えていないけど、もしかしたら児童文学を、読んでもいないのに馬鹿にしていたのかもしれない。思春期の通過事例の時期に、その大切な主題を飛び越えて、「早く大人にならねば」と焦っていたのかもしれない。それゆえ、ある種の欠落を抱えたまま、コマを無理矢理進めることになったのだ。

6年前から子育てをし始めて、自分の中の子どもっぽさや、未成熟さが、嫌と言うほど目についてきた。一応社会人で、それなりに人生経験をこなしてきて、なんとか社会化されてきた、ほどほど社会を渡り歩いてきた、と思い込んできた。でも、運良く他者の目をごまかせたとしても、自分の未成熟課題は、目の前の子どもとの関係性の中で、容赦なく突きつけられる。子どもにむっとしたり、怒ったり、感情的になったり。そういうことを通じて、ぼく自身は「成熟せよ」と子どもから、何度も呼びかけられているのだ。

そういう時期だからこそ、児童文学が染み入る。ぼくが引き受けてこなかったかもしれない成熟課題をそのものとして引き受け、しっかり旅をしている。そして、児童文学って、そのどれもが、最近考え続けている「ケアを共にする(caring with)」が通奏低音の主題になっている。独りよがりな、自分さえ良ければそれでいい、とか、自己責任論とは真逆の、仲間と共に助け合いながら、苦境や困難、試練を乗り越えて行く旅。それは言い換えれば、「ケアを共にする旅」であるし、他者とケアを共にするからこそ、成熟していく、とも言えるのだ。

そうか、児童文学を読むことによって、ぼく自身も「ケアを共にする旅」に今からでも参加できるのか、というのが大きな発見だし、娘と共にある世界を希求するためにも、ぼくがまさに未成熟だった課題に向き合うためにも、この旅に「いま・ここ」で気づけた、出会えたのはすごく素敵なことなのだ、と思い始めてきた。

欠落している人生課題は、どこかで落とし前をつけるチャンスが現れる。ぼくにとっては、まさに生き延びるためのファンタジーであり、それは1度目の年男の時に出来なかったことを、4度目の年男でやっと果たすことなのかも知れない。あと二年で50歳という「知命」の時期を迎える。その前に、自らの宿命を理解するためにも、未解決だった成熟課題と「いま・ここ」で向き合えるのは、めっちゃ価値あることだ、と改めて感じている。

エピファニーと自己物語

自分自身に関する・開かれた、アカデミックな文体や論理で語る自己物語。直訳するとそんな感じになる『オートエスノグラフィー:質的研究を再考し、表現するための実践ガイド』(新曜社)という解説書を読んだ。その中で興味深かった内容を、オートエスノグラフィックに紹介したい。

「オートエスノグラファーは、エピファニーについても書く。それは、私たちを変化させ、自らの生に疑問を抱かせる、驚くべき、日常からかけ離れた、人生を変えるような経験である。その過程で、エピファニーはトラウマを刺激し、悲しみや不快を感じさせ、そして時にはより満たされた人生をもたらしもする。」(p28-29)

エピファニー(epiphany)を英英辞典で引くと、こんな風に書かれていた。

a moment when you suddenly feel that you understand, or suddenly become conscious of, something that is very important to you

「『これは自分にとって大変重要なことだ』と、ぱっとわかったと感じたり、ぱっとそう意識化できた瞬間」

僕にとって上記のようなエピファニーの瞬間は、東日本大震災以後の混乱期であり、子どもが生まれたあとの混乱期だった。どちらも、これまでの自分の当たり前や生きていく規範のようなものが大きく揺さぶられ、ぼくを「変化させ、自らの生に疑問を抱かせる、驚くべき、日常からかけ離れた、人生を変えるような経験」となった。そして、ぼくはそのしんどい時期を、自らの内的感覚を言語化しながら一体どういうことなのかを考察しようとした。それをブログnoteに書きながら考え、結果的には『枠組み外しの旅』『家族は他人、じゃあどうする?』という形で書籍化を果たすに至った。

今まで全く意識化できていなかったが、確かにこの二冊の出発点は自分にとっての大きな人生の転換期という意味で、エピファニーだった。前者では、それまで「すべきだ・しなければならない(shold, must)」で思っていた被災地支援と、「今の自分には無理だ」という「したい・したくない(would like to)」のズレが最大化し、気が狂いそうになっていた。だからR・D・レインの『ひき裂かれた自己』を読んで、まさに自分がその状態だと気づいて、そのことをブログに書いた。その後、ぼく自身の引き裂かれは、社会に求められたshould, mustを内面化して、魂が植民地化されているのではないか、という視点から、「魂の脱植民地化」に関する「枠組み外し」を掘り下げていき、1年後には本ができあがっていた。ちなみに、この「ボランティアのしんどさ」については、3月に出る『モヤモヤのボランティア学』の中でも深掘りしたオートエスノグラフィー的文章を書いている。

後者では、子育てを始めて以来、業績至上主義で馬車馬のように働いてきて、業績を積み重ねないと生き残れない(Publish or Prish)を内面化して、出張しまくる生活が、すべて立ちゆかなくなった。それは、生産性至上主義とかワーカホリックを無自覚に内面化していたぼくにとって、仕事依存を絶つ、という意味では、ある種の禁断症状や生き方への大きな問いがもたらされることだった。でも、この生産性至上主義を問い直す中で、ケアを基盤とした社会とは何か、を体感的に理解し始めたので、それを言語化していった。

つまり、僕が遭遇したエピファニーの意味や価値を考え、書いているうちに、本になってしまったのである。

「エピファニーは、私たちのなかに残る印象、『危機的な出来事が終わった後もおそらく長く』持続する『想起、記憶、イメージ、感情』を生み出す。これらのエピファニーは私たちを立ち止まらせ、省察へと導き、その出来事の前には探求する機会も勇気も持ち得なかったであろう、他者や私たち自身の姿を探求するよう促す。」(p50)

確かに、二つの書籍につながる言語化も、エピファニーとの出会いという圧倒的な体験がなかったら言語化することは決してなかったことだと思う。その圧倒的な出会いの中で、「私たちを立ち止まらせ、省察へと導き、その出来事の前には探求する機会も勇気も持ち得なかったであろう、他者や私たち自身の姿を探求するよう促」してくれたのだ。自分が所与の前提にしていた「枠組み」を問い直すこと、さらに言えば「生産性至上主義」というこの社会の前提を問い直すこと、そんな「勇気」は、圧倒的体験としてのエピファニーがないと、問い直せなかった。というか、問い直さないと、僕は生きていけなかった。

それでいうと、義父が亡くなった、というのもエピファニーの一つだ。その前後で、妻も大きく苦しみ、妻と共に生きるぼくも大きく揺り動かされてきた。そのことを言語化しておきたいと、葬儀が終わった後、忘れないうちにノートPCにメモを取り出したことが、「死にゆく者が生者を束ねゆく : アクターネットワークセオリーで辿る義父の死」という論文になっていった。

ただ、これらの文章が論文として機能するためには、「ナラティブ合理性」が求められるという。

「ナラティブ合理性は、ナラティブ蓋然性(probability)とナラティブ忠実性(fidelity)の二つの要素からなる。ナラティブ蓋然性は、物語が首尾一貫しており、つじつまが『合って』おり、そして矛盾がないときに存在する。物語に、読者はこう尋ねるる。『この物語は、語り手やキャラクターが述べたように起きることが可能だったのだろうか?』 ナラティブ忠実性は、物語の『真実性の質』を問う。つまり、『推論の健全性とその価値の真価』である。その物語について、読者はこう尋ねる。『その物語のなかの行動や相互作用は、『十分な理由』によって起きているか?』 そして、『この物語の教訓は、私の人生に関係していて、価値があるか?』」(p102)

「ナラティブ蓋然性」と「ナラティブ忠実性」という概念は知らなかったけれど、ぼく自身が上記の論考を書くときも、ここで語られた二つの合理性は大切にしていたことである。ナラティブ蓋然性については、首尾一貫した物語になるためには、ストーリーテリングが大切になってくる。特にエピファニーに基づいた記述の際、そのエピファニーが圧倒的なものであればあるほど、「ほんまかいな?」と疑いたくなる。だからこそ、それが「ほんまなんやなぁ」と読者に納得してもらうようなストーリー展開の記述が求められるのだ。それは、義父の死にまつわる記述でも、意識したポイントである。

ナラティブ忠実性について書かれた『推論の健全性とその価値の真価』というのも、深く頷く。圧倒的なエピファニー体験と、それが一体どのような意味や価値があるのか、理論的世界をロジカルにつなぐためには「推論の健全性とその価値の真価」が問われる。子育てをしながら己の生き方を問い直した際、それが生産性至上主義とどのようにつながっているのか、という「推論の健全性とその価値の真価」を丁寧に述べようとしたし、でもそれは理論の具体例で終わらないように、現実の現象と理論の結びつきを丁寧に辿ろうとした。

自分自身に関する記述であるオートエスノグラフィーだからこそ、その自分に関する語り=ナラティブの合理性はかなり重要視される。エビデンスはその語りにしかないのだから、ナラティブ忠実性やナラティブ蓋然性といった二つの合理性をしっかり打ち出さないと、信頼してもらえないのだ。

その上で、オートエスノグラフィーに関する「関係性の倫理」についても、以下のように描かれている。

「・著述の動機や方法を批判的に省察することで自己満足を回避する。
・『抑圧的システムを永続化していたり、その対象である事への自身の関わり』を吟味することで、経験を表現するときに、非難したり恥じたりすることを避ける。
・フィールドワークの経験を謙虚に、批判的に省察することによって、英雄視することを避ける。
・不正義や抑圧の批判的分析を提起することなく、自己や他者を犠牲者として位置づけることを避ける。
・研究者としてのアイデンティティと特権を認識することによって、自己正当化を避ける。
・あなたが表現する文化や経験の歴史、文化、ポリティクスについて学び、自己/他者との関わりを失うことのないようにする。」(p102)

「著述の動機や方法を批判的に省察する」というのは、オートエスノグラフィーにおいては肝となる関係性の倫理だと思う。自伝や自慢話のような「自己満足を回避」するためには、エピファニーに遭遇した後、どのように自らの生を生きてきたのか、それはそれまでの人生とどう違ったのか、なぜそのような価値観を抱いたのか、といったことに、批判的に省察を加えて行く必要がある。これは「英雄視することを避ける」ことにもつながる。

一方、ぼく自身が子育てを始めた際に、生産性至上主義にはまり込んでいると気づいて、深く自分を恥じた。だが、それは自分の個人的な問題というより、この社会の抑圧的システムの永続化が個人化された問題と捉えなければならない。だからこそ、個人化された問題の社会的意味や価値を省察することによって、「経験を表現するときに、非難したり恥じたりすることを避ける」ことが可能なのである。これは安易に「犠牲者として位置づけ」ることを禁じる、ということにもつながる。

最後の二つについては、研究者が自分のことを言語化する際への戒めである。「あなたが表現する文化や経験の歴史、文化、ポリティクスについて学び、自己/他者との関わりを失うことのないようにする」というのは、言語化の鍵になる。この本については、セクシャルマイノリティの当事者の語りについて書かれていたが、障害者文化であれ、子育てであれ義父の死であれ、その当事者文化の歴史やポリティクスをしっかり学んで言語化する必要がある。自分が代表例だ、という安易な標準化や普遍化をしないように、その物語が「表現する文化や経験の歴史、文化、ポリティクス」にリスペクトを常に抱きながら、その文化や経験の一表現に過ぎないし、他の表現だってもちろんあり得る、という立ち位置が求められるのだ。それが同じ文化や経験を共有する「自己/他者との関わりを失うことのないようにする」ためのポイントなのだと思う。

そういう意味で、この本に書かれていることは、ぼく自身が書いてきたものを確認する上でも、そして今後の自分の書くものを考える上でも、大切なリフレクションをもたらす一冊だった。

「会話がシステムをつくる」

対話についてずっと考えて、実践して、そういう場作りもしてきたのだが、自分自身の実践を振り返る上でも、すごく意味のある一冊と出会った。それが、トム・アンデルセンの原典・原点に触れる一冊である。

「膠着したシステムにいるすべての人があれかこれかのどちらかの観点から考えすぎていて、正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争いがちだということである。リフレクティング・チームは、あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方を示そうとしている。」( 『トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡』矢原隆行&トム・アンデルセン、金剛出版、p56)

対話が失敗するのはどういうときか。これは、アンデルセンが言うように、「あれかこれかのどちらかの観点から考えすぎていて、正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争いがち」な時である。「正しさ」を巡る争いは、時として「膠着したシステム」に帰着する。宗教や政治の話はタブーとされるのは、「正しさ」が一元的になりがちで、それが「あれかこれか」の話になりがちだからだ。コロナ下の3年間では、ワクチンやマスクを巡る話も、残念ながら「正しさ」を巡る「あれかこれか」になってしまった。だから、話題として避けるし、対話がしにくい。

そこで、彼は正しさを巡る争いから抜ける手段を明快に提示する。「あれかこれかのどちらか」でバトルになるなら、その視点を捨てれば良い。その代わりに、「あれもこれもやあれでもなくこれでもない」という視点を提示する。そして、それを提示するための手段として、支援対象者やその家族が話すのをじっと聴いた上で、支援者が「あれかこれかのどちらか」を指導するモードを捨てて、「あれもこれもやあれでもなくこれでもない」という可能性を示唆するトークをすれば、そこから会話システムが転換するのではないか、という実におもろい提案をする。そして、それをリフレクティングと名付ける。リフレクティングとはもちろんオープンダイアローグでも出てくる言葉なので表層的に知っていたが、「あれかこれか」を超える方法論だ、といわれて、深い部分で腑に落ちた。

そして、もっともしびれたのが、次のフレーズである。

「会話がシステムをつくるのであって、その逆じゃない」(p144)

たとえば「あの人困った人だよね」とか、「わからず屋だよね」という会話はしばしば聞かれる。その際、「困った人」や「わからず屋」というのは、名指しされたAさんならAさんの問題と俗人化される。リアルにもめ事に巻き込まれていると、Aさんたまらんなぁ、とつい言ってしまいたくなる。そして、そういう困った人にどう対策したら良いか、という「会話」がなされる。そこでは、困った人と被害を受ける人、というシステムが先に規定されていて、そのシステムに関する「会話」がなされる。

でも、「あの人困った人だよね」とか、「わからず屋だよね」という「会話」が、困難事例や問題行動という「システム」を作り出す、と考え方を転換させたら、何が見えてくるだろうか。困った人だよね、という「会話」が、「あの人は困らせる人で、私たちはそれに困っている」「あの人こそが悪い人で、私たちは悪くない」という「あれかこれか」の二項対立を生み出す。一方、相手の方も「私は○○の意図があってやっているのであって、私は悪くない」と思う場合がしばしばだ。すると「正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争い」が生じ、「膠着したシステム」になってしまう。

それを解きほぐすためには、会話を変えればよいのだ、とアンデルセンは教えてくれる。「あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方を示」すことによって、「あれかこれか」の二項対立で視野狭窄になっている、その袋小路から抜け出すことが可能だ、というのである。

「もし、二人もしくはそれ以上の人々がいくらか異なる意味を保有していて、互いに聞き合うことができるならば、彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう。もし、二人もしくはそれ以上の人々がとても異なる意味を保有していたら、彼らは互いに聞き合うことが難しいと思うだろうし、互いに遮ったり、相手のことをただそうとしたりするかも知れない。そのようなことが頻繁に起きると、会話は壊れてしまうだろうし、そうなったときこそ本当に大きな問題が生まれるだろう。」(p172)

これは、トム・アンデルセンからバトンを受け継いだ一人、トム・アーンキルが『あなたの心配事を話しましょう』の中で書いている、「適度に異なるアプローチ(appropriately diffent approach)」を想起させる。同じ事を反復していては悪循環を増幅させる。でも、全く新しいやり方(=とても異なる意味)を提案したら、誰もそれに賛同してくれない。そのときに、同じやり方の反復でも、全く新しいやり方でもない、「適度に異なるアプローチ」をすると、相手も納得して受け入れてくれる可能性が高い。それを、アンデルセンは「二人もしくはそれ以上の人々がいくらか異なる意味を保有していて、互いに聞き合うことができるならば、彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう」と述べる。この意味は大きい。

まず、複数の人の間で意見は一致している必要がなく、「いくらか異なる意味を保有していて」もOKだし、それは違っていてもいい、という。ただ、「互いに聞き合うことができる」かどうか、が問われている。意見を言おう・押し付けようとせず、相手の内在的論理を丁寧に掘り下げて教わる、というスタンスである。そこで大切なのが、お互いが「いくらか異なる意味を保有」している相手の話を聞き合うことで、「彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう」と整理することである。

そして、これに深く頷くのは、僕が普段、実践していることををまさに言語化してくれているからだ。

例えば自治体や社協、福祉現場などの会議に呼ばれた際、以前の僕は、ある理念や価値観を重視して「○○すべきだ」と伝えていた。「有識者」として、それを「伝えなければならない」と思っていた。そして、それを受け入れられない場合は、「相手がわからず屋だ」と思い込んでいた。それは、完全なるモノローグである。

6年前にオープンダイアローグの集中研修を受け、ダイアローグ体験を重ねる中で、最近の僕は、自分が先に理念なり価値観を伝えることはしなくなった。それよりも、そこに参加する人々の「いくらか異なる意味」をじっくり聴くモードになっていった。その中で感じた疑問を口にし、「あれかこれか」ではなく、「あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方」を膨らませていく会話を繰り広げていく。すると、一見するると「膠着したシステム」のように見えた事態も動き始め、「会話は容易に新しく有用な意味を創出する」のである。そういう意味で、会話が「新たなシステム」をつくる場面に遭遇することが、数多くある。そして、それは想定外の展開であり、その会話が深まっていくほど、そこに関わる僕は深く感動する。そういう事態が、しばしば生じている。

最近そういう対話の質の変化を感じていたので、それは一体何だろうか、と思っていた。でも、アンデルセンの本と出会って、「そうか、ぼくの対話への関わりが、相手やその場にとってのリフレクティング・プロセスになっていて、膠着したシステムを溶かす・緩める、新たなシステムを生み出す会話になっているからかもしれない」と思い始めている。そして、新たなシステムを生み出す会話では、次の様な展開が動き出すとアンデルセンは語る。

「会話は、まさにいま生き直している過去の経験の瞬間の動きへと話し手を連れ戻す。しばしば、聞き手は目の前の感情に引き込まれ、自分自身の表現に心をふるわせている話し手を見て心を動かされる。両者の心が動くこうした瞬間は、何が言われたことで相手の心が動かされたのかを探求するための絶好の機会だ。
そうした表現を『おし広げ』、ニュアンスを持たせることは、変化した記述や理解、あるいは現在の困難な瞬間から、願わくばより困難でない次の瞬間にどんなふうに進んでいくかという新たなアイデアに寄与するかもしれない。」(p150)

上記の記述を書き写しながら、「めっちゃわかるわぁ!」としみじみ感じていた。

ゼミ生や福祉現場の人と、1:1でじっくり話し込んでいるうちに、「心が動く」瞬間がある。対面であっても、オンライン越しであっても、涙を流したり、心をふるわせている相手と出会うことが、しばしばある。その際ぼくという「聞き手は目の前の感情に引き込まれ、自分自身の表現に心をふるわせている話し手を見て心を動かされる」のである。圧倒される瞬間であり、ああ、繋がったな、ちょっと前のブログで言うなら「結びが出来たな」と感じる瞬間である。

そして、そのような結びが出来る瞬間とは、確かに会話の中で、「まさにいま生き直している過去の経験の瞬間の動きへと話し手を連れ戻す」時に始まる。これまで「そういうもんだ」「どうせ」「しかたない」と思い込んでいた、膠着したシステムが、僕という聞き手が「いくらか異なる意味」をもって問いかけることで、揺れはじめる。それを感じたぼくは、さらに問いを重ねていく中で、「そうした表現を『おし広げ』、ニュアンスを持たせる」ことを意識する。「こうすべきだ・ねばならない」というshould,mustの言語を手放し、「いま・ここ」の相手に集中してお話しを伺っているうちに、「変化した記述や理解、あるいは現在の困難な瞬間から、願わくばより困難でない次の瞬間にどんなふうに進んでいくかという新たなアイデアに寄与する」ことが、自然と出来てしまっている。

その自分自身のプロセスを振りかえり、それがリフレクティング・プロセスだったのだ、と言葉を与えてもらったようで、すごく味わい深い、素敵な一冊だった。また、トム・アンデルセンに出会い、彼のリフレクティング・プロセスに魅了され、彼の足跡を訪ね歩き、刑務所でのリフレクティング・プロセスなど多くの現場に訪問していた矢原さんが訳してくださったからこそ、トム・アンデルセンが伝えたかったニュアンスが伝わってきた。読みやすい訳文や紹介文で、言語や文化を越えて、会話哲学のエッセンスのバトンを託してもらえた。本当に得がたい、有り難い読書体験だった。

心理社会的援助の醍醐味

今まで、精神障害者への支援に関する本はそれなりに読んできた。でも、今日ご紹介する本は、これまで読んできた本とは、少し毛色の違う本である。母の目の前でリストカットを繰り返す人に聞き取りをしたエピソードに関して、このように書かれている。

「なぜ、こんな行為を繰り返したのか。ゆりさんに聴いてみた。ゆりさんは『手当てをしてもらっているときは自分だけのお母さんっていう感じしてた』と語りながらこう続けた。『今思うと・・・、お母さんは辛かったと思うよ。血だらけなんやもん。ほんまに悪いことして迷惑かけてって。冷静になったらわかるんやけど、そんときはそんなことは考えない、ただただ、自分がしんどいからコントロールがきかへんのよ。お母さんに甘えて、お母さんにあたって。そんなことの繰り返し。私、酷いよね』。母親が抱えたであろう痛みに対して申し訳ないという思いを抱えているのだが、『手当をしてもらう 』ということで母親のぬくもりを感じようとしていたゆりさんの思いも理解できないことはない。たとえ、方法は間違っていたとしても、必死でお母さんを求めていたんだなと思う。」(山本智子『「家族」を超えて生きる−西成の精神障害者コミュニティ支援の現場から』創元社、p28-29)

山本さんは公認心理師で、心理的援助スタッフとして、副題にあるように、西成の精神障害者コミュニティ支援の現場で、精神障害者の声を聞き続けてきた。この本は、彼女が聴いてきたたくさんの声の物語を編み直した、素敵な一冊である。そして、類書と何が違うのか。それは、聴かせてもらった語りと、それを聴いて山本さんが感じたことや心に浮かんだことを交錯させながら、審判や評価をするのではなく、生きづらさの問題を「共に眺めよう」とする視点にあふれている点である。

心理的なアセスメントの視点は持ちつつ、本文の中では、その評価やアセスメントの視点で「病状」の「解説」や「分析」をすることはない。そうではなくて、ゆりさんの生きづらさ・苦しさの内在的論理を本人の語りから辿りながら、聞き手の山本さんが理解できたことをそのものとして差し出す。道徳的な非難や批判をせず、どんな思いでそのような行為がなされたのか、を辿ることで、他者の合理性を理解しようとする。その営みが、全編にあふれているのである。その意味では、理解社会学の方法論と極めて近いと感じる。以前のブログでも引用した、社会学者の岸さんの言葉を思い出す。

「他者の合理性を再記述する、つまり、行為の合理性を理解するとどうなるか。その帰結はいろいろあると思いますが、そのひとつは、行為責任の解除です。「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」というのが理解でしょう。」(「インタビュー 社会学の目的 岸政彦」

山本さんの聴く姿勢も、まさに「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」という姿勢である。だからこそ、彼女に語る人々は、安心して、これまで胸の内にしまっておいた事を語り始める。

「『10代後半からの十数年、精神科病院と施設で過ごしたという話をしましたけど、そこが自分の人生の中から抜け落ちているっていう感覚がわかりますか? 取り返しのつかない、たぶん、人にとって一番元気で楽しかったはずの時間を僕は失ってるんですよね。これから生きていてもなんの意味があるんでしょうか。』
この言葉を聴いて、淳さんが死にたいと語るその理由の一つにこの『失われた時間』が深く根付いていたのだなと思った。」(p95)

精神障害者の人はしばしば「希死念慮」がある、と語られる。教科書的には、それが病状の一つと整理されている。だが、淳さんの語りを聴いた山本さんは、病状としての希死念慮より、諦めざるを得なかった・取り返しのつかない・抜け落ちた感覚が「失われた時間」につながり、「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」と、病状ではなく、淳さんの内在的論理として理解し、受け止めようとしていく。

精神障害の支援においては、脳の器質性の理解やそこに働きかける薬物療法のような生物学的なアプローチと、山本さんが専門としているカウンセリングや発達支援のような心理的アプローチ、そして居住支援や生活支援、就労支援などの社会的な(ソーシャルワークの)アプローチの三つの重ね合わせが大切にされている。そして、病院中心医療においては、生物学的アプローチに偏り、心理・社会的アプローチが不足してきた。山本さんがチーム支援の一人である、西成の精神障害者コミュニティ支援の現場においては、心理・社会的アプローチが豊かであると感じたし、山本さんの物語にも、その視点から、ゆりさんや淳さんの語りを受け止めようとする彼女の姿勢が色濃く出ている。

急性期に家族に多大な迷惑をかけ、妻から離縁され、娘からも愛想を尽かされ、息子とのつながりをかろうじて保っている祐さんの物語にも、それが濃厚に詰まっている。

「祐さんとの面談を重ねていく中で、なぜ初回面談のときに切羽詰まった様子で『早く働くためにどうしたらいいのかを教えてほしいです』と言ったのか、その理由が少しだけわかったような気がしていた。祐さんはもう一度、家族に戻りたいのだろう。そのためにも、ちゃんと働いて、夫として、父親として、認めてもらいと思っていたのではないだろうか。奥さんに対して、息子さんや娘さんに対していままで自分がしてきたことは、一生、許されることではないということも十分わかっている。そして、幸せな家族を自分が壊してしまったという思いから逃れることもできていない。しかし、面談も終わりに近づくにつれ、『できたらもう一度、家族と一緒に暮らしてみたいです。奥さんや子どもたちがもし許してくれるなら』と言った。これが祐さんの心からの願いなのだろう。私はそれを聴きながら、家族一人一人の心には許しがたい深い傷が残っているだろうし、時間はかかるだろうが、祐さんがそれをあきらめない限り、いつか実現するのではないかと、密かにそう期待した。」(p144)

仲間たちと作った『「困難事例」を解きほぐす:多職種・多機関の連携に向けた全方位型アセスメント』というアセスメント本の中でも、支援対象者の主観的世界の理解が大切だ、と整理した。ゴミ屋敷や自傷他害に代表されるように、「迷惑行為」や「暴力・暴言」などを繰り返す支援対象者は「困難事例」とラベルが貼られやすい。それは、本人が困難だ、というより、本人に関わる家族や支援者、周囲の人にとっての困難さが大きい場合、そのようなラベルが貼られる。でも、そのような行為をしてしまう本人にも、主観的な世界があり、それなりの行為の理由や、その行為に関しての主観的な思いがあるのである。祐さんは、自分が家族に振るった暴力や暴言、迷惑行為によって、家族を壊したことを理解している。でも、「ちゃんと働いて、夫として、父親として、認めてもらい」、それを通じて「家族に戻りたい」と切実に願っている。だからこそ、「対人関係に困難があって定職に就きにくい」とラベルが貼られている状態であっても、山本さんに対して「切羽詰まった様子で『早く働くためにどうしたらいいのかを教えてほしいです』と言った」のである。

山本さんや西成の精神障害者コミュニティ支援のチームの素敵なところは、この祐さんの語りを読み解きながら、その内在的論理を辿り、その主観的な思いや願いを実現するために、現実的に何ができるか、をチームで考えていこう、という姿勢が明確な点である。それは、太郎さんを支援する久美さんという支援者のエピソードに象徴されている。

「ある日、太郎さんが『一人で暮らしてみたい』と久美さんに言ったそうだ。その頃の太郎さんは、幻聴も酷く、身体は常に震えていて、歩くことさえおぼつかない様子だったので、支援会議の中でも『無理じゃないか』という話になっていた。私が、過去に同じような困難がある人が周囲からの援助を受けながら一人暮らしを実現できた経験を話そうとしたときに、久美さんが『なんで? やってみんとわからんことを無理とかいうのはおかしい』と言った。それでも、ほぼ全員の援助者が太郎さんの一人暮らしには反対だった。そこで、久美さんはこう言った。
『私ら援助者は、そもそもその人の『自己決定を支える』ために何をすればいいのかを組み立てるだけであって、『無理やろ』とか、実際にやってもみないうちから予想して、援助者の考えを押し付けるのはどうかと思う。どうすれば、一人暮らしが可能になるのかを太郎さんと一緒に考えたらいいんじゃないの。」(p164-165)

ある状態の当事者のアセスメントをした上で、「無理じゃないか」と判断する。それは、きつい言い方をすれば、リスク回避的なやり方であり、「できない100の理由」を述べることでもある。でも、「太郎さんが『一人で暮らしてみたい』と久美さんに言った」ということを、久美さんはすごく大切にする。久美さんの中には「そもそもその人の『自己決定を支える』ために何をすればいいのかを組み立てる」のが援助者の仕事であるという明確な方針があり、そこから「どうすれば、一人暮らしが可能になるのかを太郎さんと一緒に考えたらいいんじゃないの」という戦略が生まれる。結局、この久美さんのブレない姿勢に他の支援者も感化され、一人暮らしをするための、「できる一つの方法論」をチームで考え、それを実現していくのである。

これぞ、精神病院や入所施設ではなく、地域で障害者を支え続ける醍醐味だと感じた。自己決定を大切にして、それを支える、というのは、標準化・規格化された生活に障害者を合わせるのとは真逆の発想である。「○○ができたら自立生活可能」という発想自体、能力主義的な発想であり、医学モデル的な発想である。そうではなくて、「幻聴も酷く、身体は常に震えていて、歩くことさえおぼつかない様子」であっても、その太郎さんが『一人で暮らしてみたい』と語った、その状態の太郎さんの「いま・ここ」をそのものとして尊重する。それが、自己決定支援の原点である。無理難題をかなえる、のではない。人間として尊厳のある暮らしを支えるために、「できる一つの方法論」を共に考え合うのが、支援チームの醍醐味なのだ。そして、山本さんの関わる西成の精神障害者コミュニティ支援の現場においては、そんな素敵な支援が展開されているのである。

脱施設化とは、このような「できる一つの方法論」の積み重ねなのだと思う。そして、標準化・規格化された施設や病院の中では「ないこと」や「病状」にされ、消されていた・諦めさせられていた当事者の語りが豊かになり、他の人とは違う、太郎さん、祐さん、淳さん、ゆりさんの大切な物語として語られ直されるプロセスなのだと思う。そして、そのプロセスを豊かにする上で、心理・社会的な援助が豊かに展開され、それが太郎さん、祐さん、淳さん、ゆりさんの「唯一無二性」がそのものとして再度花開いていくのだと思う。

実に良い本を読んだ。

対話と「結び」

最近、ゼミをしていても、あるいは福祉現場の人との対話の場においても、相手の話をじっくり伺っているなかで、相手と「つながった」と感じることが少なくない。今日は午前中、1:1で福祉現場の方のモヤモヤのお話しを伺った後、卒論〆切Ⅰ週間前の4年ゼミでの対話の時間だったのだが、どっちも深く「つながった」感覚があって、なんかめっちゃいいなぁ、とほっこりしていた。

この「つながった」感覚って何だろう、と考えていたら、それは合気道で言うところの「結び」かもしれない、と思い始めている。合気道は、武道の一つなのだが、勝ち負けを目的にしていない。相手を負かすことではなく、相手とつながり、二つの身体が一つのものとして機能していこうとする。ぼくは、合気道の稽古が十分に出来ていないこともあって、技にこだわってしまい、相手との「結び」が出来てない。だが、日常生活に置き換えてみると、対話の場においては、もしかしたら「結び」が出来つつあるのかもしれない、と思い始めている。

相手と対話する際に、邪な意図を持っていては、絶対につながれない。話を導いてやろうとか、こういうことを聴きたいとか、こちらが勝手な先入観や意図を持っていると、その自分の意図に支配されて、その枠組みでしか、相手と出会うことが出来ない。すると、その意図が相手に伝わり、その枠内に縮減して話を伺うことになったり、それに不同意で怒った相手にこちらの枠組みをぶち壊されたりする。いずれにしても、相手の話を部分的にしか理解出来ないことになる。相手が伝えたい全体像を、そのものとして受け取ることは出来ない。

だから、最近では、対話の場では、向こうが用意して下さった資料があっても、事前に目を通すことはあっても、なるべくそれを手放して、ぼんやり話を伺いはじめる。

相手の話をじっくり聴きながら、いくつかのきっかけになるような質問を出してみながら、その人の思いや全体像のようなものを、語られる中身や雰囲気を味わいながら、聴き続けていく。感じようとする。すると、ジワジワ、言外の想いも含めた、その人のありようみたいなものが、みかん汁で書いた「あぶり絵」のように、浮かび上がってくる。こちらも感応できはじめる。それをさらに掴もうと、「いま・ここ」で感じる感想や質問をしてみた上で、さらに「あぶり絵」がし見えてくるのを、一緒に探る。

ここで大切なのは、実は話を聴く相手も、最初から結論(あぶり絵の中身や実態)をわかっていない場合が多い、ということだ。自分にとって当たり前すぎて、考えたこともなくて、わからなくて・・・言葉にしたことも人に伝えたこともないことを、ぼくの質問がフックになって、話し始めてみる。その中で、対話を深めていくなかで、ふと口をついて出たフレーズが、実はすごく大切なその人の「思いの核」になっているような何かで、それが出てくることによって、これまで寸止めしていた・言語化出来なかった・せき止めていた感情や感覚が、あふれ出る泉のように湧き出すことがある。そういう場面に、数知れず立ち会ってきた。嬉しくて溢れるような笑顔になって見る見る自信が持てた瞬間とか、蓋をしていた感情があふれ出して涙が止まらなくなる瞬間とか。対面であれ、オンラインであれ、そういう瞬間に立ち会うことが、ほんとうに最近しばしばある。

そして、そういう瞬間とは、対話を通じて、自分と相手の区別を越えて、相手と「結び」を作れた瞬間なのではないか、と思い始めている。聞き手のぼくが溶け込んで、発話者の相手の思考が開かれて、それが拡張し、華開いていく瞬間に立ち会う喜び。こちらが相手の中に意図して入り込む、とかではない。計らいは邪魔なだけだ。そうではなくて、ぼくの存在が自然と消えていき、相手の思いや感情がそのものとして賦活され、流れが生まれはじめ、その流れが蕩々と言葉になってあふれ出し、その物語の豊穣さが対話空間にあふれる瞬間、ああ「つながっている」と感じるのだ。そして、その感覚こそ、相手の身体と一つに繋がる「結び」の感覚なのではないか、と。

たまに、「相手の顔に書いてある」ことをこちらが言うだけで、「そうそう、それこそがいいたかったんだ!」とか、「なんで、誰にも言えなかったあのことがわかるんですか?」とびっくりされることがある。ぼくには別に超能力があるわけでもないし、相手の心が読めるわけでもない。ただ、じっくり相手の話を聞いているうちに、相手の伝えたいポイントが見えてくるのだ。それを言語化して、それってこういうことですか、と差し出すと、さっきのような反応が来る。これは、本当に「相手の顔に書いてあること」を読み取るかのように、相手の話をじっくり聞いて・感じて、理解できたことを伝え直すだけなのだが、もしかしたらそれはなかなか世間ではできていないのかもしれない。だからこそ「こんな深い話を初めてしました」と驚かれることが最近しばしばあるのだ。

そういう対話のコツはなにか。純粋な興味を持って聴き続けること。その際に、「相手の思いの背景や全体像のようなものまで教えて欲しい」とただ願うこと。そう願いながら聞いているうちに、全体像につながる「あぶり絵」が浮かび上がってくる瞬間がある。そうすると「それってこういうことですか」と差し出してみる。そこから聞き手のぼくが徐々に消え始め、語り手である相手の全体像が、ぐわーっと対話の中で、その姿かたちを表し、動きはじめる。そうすれば、しめたものも。後はその動き出したなにか、がどんな感じなのかを、相手と一緒に探求していくだけで、物語が大きく動き始める。

ひとたび「結び」ができてしまうと、そのつながりを邪魔しなければ、物語は自己生成的に豊かに膨れ上がっていく。だがそれは、ChatGPTといったオープンAIのように既に語られた何かから生成されるものではない。相手の心の中に確かに存在していて、でも未分化な、言語化されてない、もやもやな何か。そんな何かが、ぼくとの対話の中で立ち上がってきて、初めて自己生成される瞬間なのでる。オープンAIのプロセッシングなんか比べものにならないほど、感動するし、予測不能な創発が生まれる瞬間である。

それって絶対内田先生ならブログに書いているはずだ、とググってみると、2005年に「コヒーレンス合気道」と言語化されていた。

「「コヒーレンス」coherence というのは「一貫性、整序」という意味であるが、ようするに「足並みが揃っている」状態を表す。」
「強いコヒーレンスをもった生物がコヒーレンスの弱い生物とコンタクトをとると、強いコヒーレンスに「足並みが揃ってしまう」ということがあるのではないか。」

ここで書かれている「足並みが揃う」、というのは「空気を読む」とか「同調圧力」とは次元が違う量子物理学の話であり、「それぞれの波動の位相が揃い、同調するにつれ、ひとつの巨大な波やひとつの巨大な原子内粒子として活動しはじめる」という話である。それを読み返していると、最近読んだ別の本にも触れたくなった。

「『存在するもの』は、その網のはかない結び目(ノード)でしかない。その属性は、相互作用の瞬間にのみ決まり、別の何かとの関係においてだけ存在する。あらゆる事物は、ほかの事物との関係においてのみ、そのような事物なのだ。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている—美しくも過激な量子論』NHK出版、p196)

一貫性や整序がより整った存在が、そうではない存在と相互作用をすると、相手に同期して、弱いコヒーレンスの人の足並みが揃ってくる。相手との相互作用の瞬間における「結び」が「はかない結び目(ノード)」を生み出し、それが「そのような事物」性(=存在するもの)となる。

今まで書いてきたことを整理するならば、対話という場面において、何をどう言っていいのかわからない、言葉が出てこない、モヤモヤしていて訳がわからなくなっている場面の人(ゼミ生や福祉現場の人)とお話しする機会が多い。その際、僕が自分の一貫性や整序を大切にして、ぼんやりリラックスしながらも、「いま・ここ」を大切にしながら相手の話をゆっくりじっくり聴いていく。すると、相手の中での一貫性や整序(コヒーレンス)も整いはじめる。その中で、相手との「結び」が生まれ、そのはかない結び目(ノード)が徐々に複雑で豊かな結び目として立ち現れ、それが圧倒的な物語の自己生成につながっていくのではないか。だからこそ、ぼく自身は、対話で邪な意図や計らいを捨て、自分自身とつながる。自分自身の一貫性や整序を大切にして相手に向き合えば、自ずと相手がそのものとして存在しはじめるのではないか。そんな仮説を抱いている。

問題は、これが合気道では上手く出来ないこと。また、稽古をしながら考えてみよう。

復讐よりも連帯可能性を

ウェンディ・ブラウンの最新刊『新自由主義の廃墟で』を読む。前作では、「新自由主義的合理性」の内在的論理が骨太に描かれ、自分自身がその論理をしっかり「所与の前提」にしてしまっていることに気づかされ、圧倒された。そのことはブログにも書いた。

今回の本は、アメリカ社会において、この新自由主義的合理性が、女性や黒人、LGBTQや障害者を保護する為になされた様々なアファーマティブアクションという「社会的なもの」と「政治的なもの」を毛嫌いし、「表現の自由」を縦に、政府による規制や介入を外していく様が描かれていて、背筋が寒くなった。

「拡張された『個人の保護領域』の保護は、伝統と自由がその敵−すなわち政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの−を撃退するための方法である個人の自由が、正しくも制限をとりはずされた領域を広げることは、伝統的な信念や習律が、もしくはハイエクが『人間の交際に関する・・・しきたりや習慣』と呼ぶものが、かつては民主主義に支配されていた場所における市民的なものと社会的なものを合法的に取り返し、さらには再植民地化することを可能にする。」(p145)

この本で味噌となるのは、「政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの」という社会民主主義的な価値前提を破壊しようとするのが、「伝統と自由」である、という点だ。家族主義とキリスト教原理主義が、市場原理主義と結びついたとき、経済の領域だけではなく、アファーマティブアクション全体への攻撃となる、という点である。

「コスモポリタン的な都市住居者たちがフェミニズム、非規範的なセクシャリティ、非伝統的な家族、世俗主義、学芸、そして教育を擁護するのに対して、傷ついた白人の内陸居住者たちは反射的に中絶、同性婚、イスラム教、『白人に対する攻撃』、神を信じないこと、そして知性主義に反対する叫び声をあげる。ここで声を上げているのは『伝統』でもなければ道徳でさえなく、彼らの伝統や道徳を押し流したいと願っていると認識された世界に対するヘイトの声なのだ。」(p162)

「政治的なものと社会的なもの、合理的なものと計画されたもの、平等主義的なものと国家主義的なもの」という社会民主主義的な価値前提それ自体が、poor whiteと呼ばれる「傷ついた白人の内陸居住者たち」を攻撃している訳ではない。ただ、社会的なものや政治的なものが、異性愛的で家父長的でキリスト教原理主義的な価値観以外のものを認める多様性(diversity)や包摂性(inclusion)を社会制度の中に取り込んだとき、「傷ついた白人の内陸居住者たち」は、「彼らの伝統や道徳を押し流したいと願っていると認識された世界に対するヘイトの声」をあげ始めた。それが、ケーキ店と妊娠相談センターを舞台とする裁判において象徴的に描かれる。

アメリカ合衆国憲法の修正第一条には「連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」と書かれている。これを土台に奇妙な裁判が起こされた。

「マスターピース・ケーキショップに同性の結婚式のためにケーキを作って売ることを要求することで、修正第一条の権利が侵害されるだろうというジャック・フィリップスの主張は、そのひとつひとつは単独では成立しないさまざまな主張の布置の上になりたっている。この布置は表現の自由と宗教活動の自由を結びつけて、公的領域における伝統的道徳のための新たな空間と力をつくりだす。」(p182)

同性婚に反対するケーキ屋の店主が、ケーキの注文を拒否した。これは公共施設法の違反であり差別である、と、カップルは不服申し立てをコロラド州市民権委員会(CCRC)に行い、CCRCはカップルの主張を受け入れる。だがその後、連邦最高裁判所において、公共の店舗が差別的な扱いをしてはならない、という社会的・政治的な判断を、「表現の自由と宗教活動の自由を結びつけて」拒否したのだ。彼は普通のケーキ店の店主であり、彼のケーキはことさらキリスト教のテーマや図像、メッセージが入っていた訳ではないのに、「最高裁は同性婚のためのウェディングケーキを作ることは『彼のもっとも深いところで信じている信仰に反するようなお祝いに参加すること同等だろう』と断言している」(p186)のである。

この最高裁判決も実に変なのだが、さらに変なのが「妊娠相談センター」とカリフォルニア州法務長官の裁判である。

アメリカには今、約4000の緊急妊娠相談センターがあるが、これらは中絶やアフターピルに関する相談を受け付けるのではない。逆に「望まない妊娠をした女性たちに、中絶をしないように説得をすること」(p198)が目標とされている。キリスト教保守主義団体から組織的な援助を受けている。しかも、「資格のある医療スタッフはいないにもかかわらず、彼らは白衣やスクラブを着て、受付書類に健康状態の情報を書かせ、病院のような見た目や雰囲気を模倣している。フェミニズム団体の精神や調子を登用するセンターもある。」(p199)

こういうセンターに対して、カリフォルニア州法は、「非認可の緊急妊娠相談センターに、自分たちは医療施設ではないという通知を明示し、すべての緊急妊娠相談センターに、両親のケアや妊娠中絶もふくむ、カリフォルニア州によって提供される無料もしくは低価格の総合的な生殖医療が利用可能であることを示す通知を掲示もしくは頒布することを要求した。」(p197)

この訴訟に関するブラウンの整理に、アメリカ社会の変質の本質が詰まっている。

「<マスターピース・ケーキショップ>訴訟と同様に最高裁は、表現の自由が、保守的キリスト教が私的領域から離脱して、商業的・公的領域における勢力となるための手段となることを許し、また同時に商業的・公的領域を規制する法から、それを宗教だから(「信仰」だから)という理由で保護するものである。これこそが、修正第一条の適用範囲を考える際に、『職業上の表現』には何も特例的な部分はないという最高裁の主張の真の重要性なのである。この訴訟を、職業上の表現についての訴訟であり、同時に深い信仰の場における表現規制についての訴訟であるとあつかうことによって、誤表象さらには詐欺行為を保護された表現へと変換するための理路を、最高裁は創造しているのである。真実、透明性、説明責任はすべて、職業的なサーヴィスの仮面をかぶった宗教的な目的のために、二の次にされてしまうのだ。」(p209)

同性婚に反対するから、ケーキショップが同性カップルにケーキを売らない。中絶に反対するから、妊娠相談センターが相談者に中絶に関する情報を提供しない。どちらも、商業的・公的領域の施設であり、信仰施設ではない。そして、商業的・公的施設では、対象者に差別的な取り扱いをしてはならない、という社会的で政治的な配慮がなされている。この社会的で政治的な配慮より、修正第一条で保証された信仰の自由の方が勝るのだ、と、連邦最高裁は判断したのである。つまり、信仰施設だけでなく、商業的・公的領域の施設であっても、同性婚への反対や中絶への反対行動は、そこで働く人々の「信仰上の理由」に基づき、差別とは当たらない、と判断されたのだ。これは、女子教育を制限・禁止したり、ブルカをかぶらない女性を思想警察が取り締まることも許されるイスラム原理主義と同様の宗教原理主義が、アメリカにおいても最高裁で認められた、ということでもある。

トランプ政権で、最高裁判事の勢力が逆転し、保守派に牛耳られた、という報道は耳にしていた。表現の自由に関する修正第一条については、たまにニュースでも聴く。だが、これらが合わさることによって、公的・商業的な施設における差別的な取り扱いを禁じる法規制という政治的・社会的なものよりも「表現や信仰の自由」が勝る、とされてしまうと、1960年代からアメリカ社会が構築してきたものを、根底から根絶やしにするのではないか、という戦慄・旋律が、本書には通底している。

黒人解放運動に端を発し、フェミニズム、障害者運動、先住民の権利回復、LGBTQや宗教的少数者の権利確保など、アメリカ社会では「未だ優遇されていない人々」のエンパワメントと尊厳を重視する法政策がとられてきた。不平等な状態を是正するためのアファーマティブアクションも制度化されてきた。だが、その一方で、アメリカの白人労働者階級は、製造業の没落と共に衰退し、ラストベルトとして放置された。もともと労働者の党であった民主党は、マイノリティの権利擁護に邁進する一方、エリートな知識層はpoor whiteを馬鹿にしているのではないか、キリスト教的な家父長主義や異性愛主義は重視されていないのではないか、と白人男性労働者たちは感じていた。だからこそ、「福音派キリスト教徒たちは、文化的エリートに軽蔑され、世俗的な勢力によって攻撃されたという共通の経験のために、トランプに深く同一化した」(p130)のである。

そして、ブラウンはトランプや、トランプを応援する内陸部の白人男性に共通するのは、怨嗟や怒りであり、脱昇華されたルサンチマンであり、「復讐しかなく、出口も未来もない」(p245)と言い切る。本書の結論部でそう書いていて、はっきり言って、何の夢や希望もなく、本書は締めくくられる。

本書の元々の副題は、「西洋における反民主主義的な政治の隆盛」であった。アメリカ社会において、民主主義的な政治の成果として、アファーマティブアクションといった政治的で社会的なものが半世紀以上書けて法制度化されてきた。だが、それが、白人労働者階級の没落と特権の剥奪される事態を前にして、彼らはマイノリティを攻撃し、「反民主主義的な政治」を遂行するドナルド・トランプを選んだのである。そして、この攻撃に対して、「いかなる種類の左派の政治批判やビジョンが、それをとらえて変容させることができるだろうか?」(p256)という締めくくりで本書は閉じられている。つまり、それができていない現状への、著者の嘆きのようなものが、本書の結末になっているのだ。

これを読んでいて、思い出さざるを得ないのが、選択的夫婦別姓に頑なに反対するのが、日本会議と統一教会という二つの宗教団体であり、そこにつながる自民党の保守勢力であった、ということである。また、児童手当の拡充に反対するのも、家族の役割が制約されるから、という同じ保守勢力の意向が働いた。これは「子ども庁」発足時に「家庭の役割が大切だから」と「子ども家庭庁」と名前を変えさせた経緯にもつながる。異性愛的で家父長的な家族主義が宗教原理主義と結びついた時、洋の東西を問わず、社会的・政治的な法規制や国会による制度の拡充に反対し、「家族のことは家族で」と責任を押し戻す流れになるのである。個人の自由と伝統的道徳(家族主義と家父長制)は、社会的なものや政治的なものより優先される、というのは、日本も同じなのだ。ただ、アメリカの場合は、何事も極端なので、それが最高裁レベルの判例にまでなってしまった。でも、アメリカのトレンドの10年遅れで日本でも同じ事が起こる、と言われているのでは、日本だってこのトレンドが現実になる可能性があるのである。

では、これはどうやったら回避可能なのか。それは、年末にブログでご紹介した、江原由美子さんの本の中で、以下のように示されている。

「異なる属性をもつ人々の間でも、『経験の共有』は可能である。アイデンティティの回復そのものを求めるのではなく、『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ。このような連帯を可能にするためには、『アイデンティティの非本質化』という第二波フェミニズムの『文化主義』的方法論が、有効に機能するはずである。」(江原由美子『持続するフェミニズムのために – グローバリゼーションと「第二の近代」を生き抜く理論へ』(有斐閣)p195)

特権が失われた、という「貶められた経験」。ここから、「復讐」に向かうしか方法論がないと、白人労働者階級は思い込まされている。でも、「復讐」しなくてもよい。障害者や女性、黒人や様々なマイノリティは、そもそも以前から「貶められた経験」を持っていた。今ようやく、白人男性も、その経験を共有できた。それを奪い返すという復讐モードではなく、誰もが貶められるのは嫌だから、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯しないか、と提起することは可能だと江原さんは述べる。これは、確かに時間はかかるけど、希望だと思う。

SNSにおいても、表現の自由を建前に、社会への怨嗟やルサンチマンに基づき、復讐心に燃えた書き込みをしばしば見かける。でも、そのような「貶められた経験」は他者への復讐ではなく、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯するための原動力として活用することもできるはずだ。そのような社会的な連帯の可能性、つまりは政治的・社会的なものを否定するのではなく、アップデートして、これからのよりよい幸せをもたらす原動力として用いることはできないか。そう、夢想している僕がいる。

初めてなのに、懐かしい

先週の土曜日に、内田樹先生と青木真兵・海青子夫妻のトークショーで初めて出会った建築家の光嶋裕介さんに、日曜日に拙著を三冊お送りしたら、火曜日にサイン入りのご著書三冊が届く。そのうちの一冊を読み出したら面白くて、圧倒されてしまった。

光嶋さんは自らの生き様を”Always Think, Always Feel”(p250)と表現している。建築家は美的感覚に優れた人が多いが、光嶋さんの場合、思弁的で美的であるだけではない。地べたの感覚をしっかりつかんだ上でのThinkであり、Feelなのだ。だからこそ、ほんまもんの迫力がある。

彼はお子さんが生まれて気づいたことを、こんな風に書いている。

「赤ちゃんの行為についていくのは、なかなか大変です。大人の体力も消耗します。しかし、赤ちゃんは、生きることに必死なので、こちらも必死に応えてあげないと、すぐにうまくいかなくなります。自分の思うようにならない子育てという時間において、何かを計画通り執行することは難しく、その場その場で柔軟に対応するしかありません。
これこそ、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュではないでしょうか。予定調和に事が進まない中で、いかにして、身体知のようなもの、あるいは野生の思考を発動させながら娘と豊かな非言語的コミュニケーションを成り立たせるかを考えています。この自分が最も愛情を注いでいる対象が、まったく思い通りにならないことが、自分という個人の枠を大きく広げてくれるように日々感じています。
合気道のお稽古のように、僕はこの娘をこの胸の中に抱えて、可能な限り彼女と同期しようとしています。まさに自分の想像を一気に凌駕するような行動をする娘とのかけがえのない時間を介して、生命力の神秘を少しの間だけ体験しているのかもしれません。」(光嶋裕介『建築という対話』ちくまプリマ−新書、p198)

光嶋さんに出会ったその日、梅田から帰りの新快速で芦屋でお別れする前、少しだけしゃべった後、「今日は初対面とは思えない、懐かしさがありました!」とリプライを頂いた。それは、この本を読んで本当にそうだと感じた。自分が感じてきたこと、言語化してきたことを、別のアプローチから言葉にしておられる。子育てがままならないこと、娘が圧倒的に他者性を持っていること、その中で娘の声に耳を傾けながら父が変わる柔軟性が求められていること。それらは、僕も6歳になる娘から教わり、その一部は『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』という拙著に書かせてもらった。

だが、光嶋さんの手にかかると、この生活実感の「わかる、わかる」に、ブリコラージュと合気道、そして美しさが乗っかってくる。僕は娘と可能な限り同期しようなんて考えてこなかった。合気道の稽古を続けてきたけれど、娘と結びを作ってつながる、とは意識してこれなかった。また、ブリコラージュはもちろん知っていたし、僕の仕事のあり方も、福祉現場の人から問いを投げかけられて、その現場やメンバーの持っているものからなんとか解を導き出そうという「ありもの仕事」なのだが、娘との関わりが「ブリコラージュ」だとは想像してもいなかった。計画制御で頭でっかちの父ちゃんが、娘に予定調和を投げ倒されてとほほ、という記録は、上記のエッセイには書き込めた。確かにそのプロセスのなかで、父の枠は広がったと思う。でもその先に、「自分の想像を一気に凌駕するような行動をする娘とのかけがえのない時間を介して、生命力の神秘を少しの間だけ体験している」と言われてみて初めてそうだと気づいたけど、そんな風に言語化する力が、僕にはなかった。この深い思考と、それを表現する美しい言葉に、そしてそこにこもっている思いの力強さに、圧倒されていた。

こんなに僕が光嶋さんの考えに圧倒されるのは、先に光嶋さんの建築物を「体感」しているからかも、しれない。彼の建築物の一つである無形庵に通い、開放的なスペースで施術を受けている。もともと駐車場だったスペースに建てられた、文字通り小さな庵なのだが、中に入ってみると、天井が高くて、窓も大きくて、木のぬくもりがあり、開放感がある。ベッドで仰向けになると、細長い窓から空をずっと見上げられる。そこで、山本さんが好きなジャズやボサノバなどのLPをかけてもらいながら施術を受け、彼と合気道話で盛り上がっていると、何というか第二の我が家というか、ほっこりとした安心感に包まれるのだ。有名な建築家の設計した建物、といえば、使い勝手よりオリジナリティや美的感性が先立つもので、暮らしづらそう、と思い込んでいたのだが、無形庵はその逆で、もうちょっといたいなぁ、と思わせる、気持ちの良い庵なのである。

彼がそのような建築を生み出す理由を、「クライアントと同化していく」ことにあげている。

「自分が溶け込んでいくと、何か設計しているというより、自然と立ち上がる感覚、つまり、設計させられているように感じることがあります。過剰な作為が消えて、そこにあるであろう自然に形を与える作業のように思えるときがあります。自らデザインしているという気持ちが強すぎると、つい作為的な線になってしまうもの。クライアントと同化するということは、なるべくそうした自我を抑制しながら設計するということだと思っています。
そういうときは、途中でクライアントに何か言われたとしても全然嫌な気になりません。なに注文つけてるんだ、と怒るのではなくて、なるほど、そういう可能性もあったかと一緒になって考えるようにしています。相手と対立しないで、同化することは、対話を通して習合的に合意形成を図ることであり、そのようにして強度ある建築を作りたいと思っています。」(p157)

「過剰な作為が消えて、そこにあるであろう自然に形を与える」というのは、まさに無形庵を思い浮かべてぴったりな表現である。その場と対立しない、その場に溶け込んでいく、クライアントの生き様に同期しながらも、「対話を通して習合的に合意形成を図る」からこそ、光嶋さんの建築家としての英知が、山本さんの主催する場の中で花開く。そんな風に感じている。

そして、「初対面とは思えない懐かしさ」と言えば、実はぼく自身も、自分の仕事の仕方そのものが、「クライアントと同化していく」ことにあるのだ。

20年前、博論を書き終えて仕事を始めた頃は、誰も自分のことを見てくれない、評価もしてもらえない、と、「我が、我が」「僕見て、僕見て、ワンワンワン!」と吠えまくって自己主張していた。単にうるさいやつだった。でも、それで頭を打って失敗する中で、あるいは当時住んでいた山梨で様々なクライアントから非定型な相談が持ち込まれる中で、気がつけば、「自らデザインしているという気持ち」が消え始めた。なんともならない現場をなんとかしてほしい、というオーダーに応えるためには、ただひたすら現場の人々の声に傾ける必要がある。その中で、「相手と対立しないで、同化すること」によって、真の課題がおぼろげながら見えてくる。すると、「対話を通して習合的に合意形成を図ること」によって、依頼された仕事は、時には想像も及ばない方法で、深化していく。そうすると、研修でも講演でも、こちらの自意識をできる限り抑えて、「そこにあるであろう自然に形を与える作業」に没頭していくうちに、オーダーメイドの、唯一無二の、そしてクライアントがしたかった研修なり講演が実現できる。これは、僕が20年かけて生み出した極意なのだけれど、こんな風にやっている人が他の業界にいたんだ、しっかり言語化されていたんだ、と思うと嬉しくなった。

そんな光嶋さんの半生が綴られたこの本は、元々中高生向けの新書であり、将来娘さんに読んでもらいと彼女を想定読者(宛先)にして書いているので、彼の青春時代の葛藤も、隠すことなく綴られている。その率直さも、すごく共感できる。

「自分はあの人たちと違う、あの人たちは輝いているように見える、それに比べて自分は・・・と、劣等感を感じていた中学時代と違って、いま、俺は俺のフィールドをちゃんと開拓していけばいいのだ、と感じるようになっていました。要するに、そもそも他人と自分を比較することをしないということかもしれません。
何かを排除することでつくった表層の統一感よりも、ときにノイズのような雑多なもの、異物をも同居させることの方がよほど豊かなのではないかと思うようになって、ずいぶんと気が楽になりました。」(p113)

憧れと自己嫌悪の牢獄である他者比較に囚われると、その自己呪縛から抜け出すのは、簡単ではない、ぼく自身も若い頃はずいぶんそこでがんじがらめになってきたし、今でもたまに亡霊のようにとりつかれる時がある。でも、光嶋さんが書いてくれているように、自分のフィールドをどう開拓するか、の方が大切なのも、中学生から30年以上経って、本当にそう思う。さらに言えば、僕は正直、「○○の専門家です」という一芸に秀でた存在ではない自分への引け目をずっと感じてきた。結局はブリコロール(ありもの仕事)をする人なのだけれど、その雑種性への引け目、とでも言おうか。でも、光嶋さんはその有り様を、「何かを排除することでつくった表層の統一感よりも、ときにノイズのような雑多なもの、異物をも同居させることの方がよほど豊かなのではないか」と書いてくれている。そうなんだよね。ぼくはノイズや異物がたくさん自分のポケットに入っていって、興味関心もあちこち移り変わるし、「表層の統一感」がぜんぜんない。でも、そのほうが、「よほど豊かだ」と言われたら、そりゃそうだ!と思うし、嬉しくなる。引き出しが多いほど、対応力が豊かになる。一見すると関係ないAとBを掛け合わせ、Cという異なるものを作り出したり、AやBの世界を豊穣にすることだってできるのだ。

この本は、共感する部分が多すぎて、ドッグイヤーだらけなのだが、もう一カ所だけご紹介しておきたい。

「目の前の現実に満足しないで、より豊かな天命とのご縁のために、日々自分の中の人事を尽くす、そうした積み重ねは、果てしなく続きます。何かができるようになるための準備を怠らないということです。
その準備のための実りある対話を目指すには、やはりタイミング(時間)とシチュエーション(場所)が鍵となってくるのではないでしょうか。自分の行動力に対して、自分のセンサーが反応したとき(いわゆる「ピピピ」ですね)に、ふと我に返って考えて、少し間をとることだと思うのです。ゆとりを持つこと、それは、心の声を聴くための時間と言えるのかもしれません。物事には偶然と必然があると先にも書きましたが、誠意を持って他人と接していると、ご縁は『向こうからやってくる』と思うに至りました。
奇妙に聞こえるかも知れませんが、僕にとってのご縁とは、本当にそういうものなのです。理屈を超えています。運もとても大切な要素でしょう。ただ、自分なりの人事を尽くすことの先にある運だと思います。」(p50-51)

これも「初めてなのに、懐かしい」フレーズである。僕の人生そのもの、でもある。

大学院生では、ジャーナリストの弟子入りをしていた。福祉社会学も社会福祉学もどちらもなじめず、その境界領域にいた。50の面接に落ちて、初めて採用されたのは、法学部政治行政学科だった。誰も知り合いのいない山梨で、13年間対話を続けてきた。それは、「より豊かな天命とのご縁のために、日々自分の中の人事を尽くす」こと、そのものだったのだと思う。そして、どんなに忙しくても、「誠意を持って他人と接」することだけは、ぶれない軸として持ち続けていたと思う。だからこそ、確かに「ご縁は『向こうからやってくる』」と感じている。

「ただ、運が良さそうな人と一緒にいるのが一番いいように思います。そうした嗅覚が備わってくると、これぞというタイミングを逃さず、必ずしかるべき機械がくると信じて、備えつつ、じっと待つことができるようになります。そして、たいていの場合、そのタイミングとは「いま」なのです。」(p51)

光嶋さんと出会って本を贈り合う関係になったのは、ほかでもない2023年1月という「いま」だった。でも、だからこそ、彼の書いていることが、「初めてなのに懐かしい」ほどよくわかる。僕は建築家ではない。でも、彼が愛読してきた内田樹先生や村上春樹の作品を僕も読んできて、深い井戸を掘る感覚は、僕も共感している。このブログを書くのも、井戸を掘る、井戸の中で自分一人でたたずむ感覚である。そこからどこに向かうのか、書く前にプランがあるわけではない。書きつつあるプロセスのなかで、そのときの文章や思考に導かれて、文章を紡ぎ出していく。合気道で、光嶋さんほど、自分の感覚を研ぎ澄ますことはできていないけど、どこかで身体感覚を回復させたいと右往左往している。そういうプロセスの共通性があり、お子さんの年齢も近いこともあって、明らかに運の良さそうな光嶋さんと「いま・ここ」で出会えたのが、めっちゃ嬉しい。

書いてみたら、結局彼へのラブレターのような読書感想文になってしまった。

あと、この本を読んでいると、生命力のある家に住んでみたくなる。実家を出て四半世紀、ずっと借家暮らしだったのもあって、快適で生き心地のよい家に住んでみたい、志ある建築家と対話を重ねみたい。そんな夢想を抱かせる一冊でもある。