「会話がシステムをつくる」

対話についてずっと考えて、実践して、そういう場作りもしてきたのだが、自分自身の実践を振り返る上でも、すごく意味のある一冊と出会った。それが、トム・アンデルセンの原典・原点に触れる一冊である。

「膠着したシステムにいるすべての人があれかこれかのどちらかの観点から考えすぎていて、正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争いがちだということである。リフレクティング・チームは、あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方を示そうとしている。」( 『トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡』矢原隆行&トム・アンデルセン、金剛出版、p56)

対話が失敗するのはどういうときか。これは、アンデルセンが言うように、「あれかこれかのどちらかの観点から考えすぎていて、正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争いがち」な時である。「正しさ」を巡る争いは、時として「膠着したシステム」に帰着する。宗教や政治の話はタブーとされるのは、「正しさ」が一元的になりがちで、それが「あれかこれか」の話になりがちだからだ。コロナ下の3年間では、ワクチンやマスクを巡る話も、残念ながら「正しさ」を巡る「あれかこれか」になってしまった。だから、話題として避けるし、対話がしにくい。

そこで、彼は正しさを巡る争いから抜ける手段を明快に提示する。「あれかこれかのどちらか」でバトルになるなら、その視点を捨てれば良い。その代わりに、「あれもこれもやあれでもなくこれでもない」という視点を提示する。そして、それを提示するための手段として、支援対象者やその家族が話すのをじっと聴いた上で、支援者が「あれかこれかのどちらか」を指導するモードを捨てて、「あれもこれもやあれでもなくこれでもない」という可能性を示唆するトークをすれば、そこから会話システムが転換するのではないか、という実におもろい提案をする。そして、それをリフレクティングと名付ける。リフレクティングとはもちろんオープンダイアローグでも出てくる言葉なので表層的に知っていたが、「あれかこれか」を超える方法論だ、といわれて、深い部分で腑に落ちた。

そして、もっともしびれたのが、次のフレーズである。

「会話がシステムをつくるのであって、その逆じゃない」(p144)

たとえば「あの人困った人だよね」とか、「わからず屋だよね」という会話はしばしば聞かれる。その際、「困った人」や「わからず屋」というのは、名指しされたAさんならAさんの問題と俗人化される。リアルにもめ事に巻き込まれていると、Aさんたまらんなぁ、とつい言ってしまいたくなる。そして、そういう困った人にどう対策したら良いか、という「会話」がなされる。そこでは、困った人と被害を受ける人、というシステムが先に規定されていて、そのシステムに関する「会話」がなされる。

でも、「あの人困った人だよね」とか、「わからず屋だよね」という「会話」が、困難事例や問題行動という「システム」を作り出す、と考え方を転換させたら、何が見えてくるだろうか。困った人だよね、という「会話」が、「あの人は困らせる人で、私たちはそれに困っている」「あの人こそが悪い人で、私たちは悪くない」という「あれかこれか」の二項対立を生み出す。一方、相手の方も「私は○○の意図があってやっているのであって、私は悪くない」と思う場合がしばしばだ。すると「正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争い」が生じ、「膠着したシステム」になってしまう。

それを解きほぐすためには、会話を変えればよいのだ、とアンデルセンは教えてくれる。「あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方を示」すことによって、「あれかこれか」の二項対立で視野狭窄になっている、その袋小路から抜け出すことが可能だ、というのである。

「もし、二人もしくはそれ以上の人々がいくらか異なる意味を保有していて、互いに聞き合うことができるならば、彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう。もし、二人もしくはそれ以上の人々がとても異なる意味を保有していたら、彼らは互いに聞き合うことが難しいと思うだろうし、互いに遮ったり、相手のことをただそうとしたりするかも知れない。そのようなことが頻繁に起きると、会話は壊れてしまうだろうし、そうなったときこそ本当に大きな問題が生まれるだろう。」(p172)

これは、トム・アンデルセンからバトンを受け継いだ一人、トム・アーンキルが『あなたの心配事を話しましょう』の中で書いている、「適度に異なるアプローチ(appropriately diffent approach)」を想起させる。同じ事を反復していては悪循環を増幅させる。でも、全く新しいやり方(=とても異なる意味)を提案したら、誰もそれに賛同してくれない。そのときに、同じやり方の反復でも、全く新しいやり方でもない、「適度に異なるアプローチ」をすると、相手も納得して受け入れてくれる可能性が高い。それを、アンデルセンは「二人もしくはそれ以上の人々がいくらか異なる意味を保有していて、互いに聞き合うことができるならば、彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう」と述べる。この意味は大きい。

まず、複数の人の間で意見は一致している必要がなく、「いくらか異なる意味を保有していて」もOKだし、それは違っていてもいい、という。ただ、「互いに聞き合うことができる」かどうか、が問われている。意見を言おう・押し付けようとせず、相手の内在的論理を丁寧に掘り下げて教わる、というスタンスである。そこで大切なのが、お互いが「いくらか異なる意味を保有」している相手の話を聞き合うことで、「彼らの間の会話は容易に新しく有用な意味を創出するだろう」と整理することである。

そして、これに深く頷くのは、僕が普段、実践していることををまさに言語化してくれているからだ。

例えば自治体や社協、福祉現場などの会議に呼ばれた際、以前の僕は、ある理念や価値観を重視して「○○すべきだ」と伝えていた。「有識者」として、それを「伝えなければならない」と思っていた。そして、それを受け入れられない場合は、「相手がわからず屋だ」と思い込んでいた。それは、完全なるモノローグである。

6年前にオープンダイアローグの集中研修を受け、ダイアローグ体験を重ねる中で、最近の僕は、自分が先に理念なり価値観を伝えることはしなくなった。それよりも、そこに参加する人々の「いくらか異なる意味」をじっくり聴くモードになっていった。その中で感じた疑問を口にし、「あれかこれか」ではなく、「あれもこれもやあれでもなくこれでもないという考え方」を膨らませていく会話を繰り広げていく。すると、一見するると「膠着したシステム」のように見えた事態も動き始め、「会話は容易に新しく有用な意味を創出する」のである。そういう意味で、会話が「新たなシステム」をつくる場面に遭遇することが、数多くある。そして、それは想定外の展開であり、その会話が深まっていくほど、そこに関わる僕は深く感動する。そういう事態が、しばしば生じている。

最近そういう対話の質の変化を感じていたので、それは一体何だろうか、と思っていた。でも、アンデルセンの本と出会って、「そうか、ぼくの対話への関わりが、相手やその場にとってのリフレクティング・プロセスになっていて、膠着したシステムを溶かす・緩める、新たなシステムを生み出す会話になっているからかもしれない」と思い始めている。そして、新たなシステムを生み出す会話では、次の様な展開が動き出すとアンデルセンは語る。

「会話は、まさにいま生き直している過去の経験の瞬間の動きへと話し手を連れ戻す。しばしば、聞き手は目の前の感情に引き込まれ、自分自身の表現に心をふるわせている話し手を見て心を動かされる。両者の心が動くこうした瞬間は、何が言われたことで相手の心が動かされたのかを探求するための絶好の機会だ。
そうした表現を『おし広げ』、ニュアンスを持たせることは、変化した記述や理解、あるいは現在の困難な瞬間から、願わくばより困難でない次の瞬間にどんなふうに進んでいくかという新たなアイデアに寄与するかもしれない。」(p150)

上記の記述を書き写しながら、「めっちゃわかるわぁ!」としみじみ感じていた。

ゼミ生や福祉現場の人と、1:1でじっくり話し込んでいるうちに、「心が動く」瞬間がある。対面であっても、オンライン越しであっても、涙を流したり、心をふるわせている相手と出会うことが、しばしばある。その際ぼくという「聞き手は目の前の感情に引き込まれ、自分自身の表現に心をふるわせている話し手を見て心を動かされる」のである。圧倒される瞬間であり、ああ、繋がったな、ちょっと前のブログで言うなら「結びが出来たな」と感じる瞬間である。

そして、そのような結びが出来る瞬間とは、確かに会話の中で、「まさにいま生き直している過去の経験の瞬間の動きへと話し手を連れ戻す」時に始まる。これまで「そういうもんだ」「どうせ」「しかたない」と思い込んでいた、膠着したシステムが、僕という聞き手が「いくらか異なる意味」をもって問いかけることで、揺れはじめる。それを感じたぼくは、さらに問いを重ねていく中で、「そうした表現を『おし広げ』、ニュアンスを持たせる」ことを意識する。「こうすべきだ・ねばならない」というshould,mustの言語を手放し、「いま・ここ」の相手に集中してお話しを伺っているうちに、「変化した記述や理解、あるいは現在の困難な瞬間から、願わくばより困難でない次の瞬間にどんなふうに進んでいくかという新たなアイデアに寄与する」ことが、自然と出来てしまっている。

その自分自身のプロセスを振りかえり、それがリフレクティング・プロセスだったのだ、と言葉を与えてもらったようで、すごく味わい深い、素敵な一冊だった。また、トム・アンデルセンに出会い、彼のリフレクティング・プロセスに魅了され、彼の足跡を訪ね歩き、刑務所でのリフレクティング・プロセスなど多くの現場に訪問していた矢原さんが訳してくださったからこそ、トム・アンデルセンが伝えたかったニュアンスが伝わってきた。読みやすい訳文や紹介文で、言語や文化を越えて、会話哲学のエッセンスのバトンを託してもらえた。本当に得がたい、有り難い読書体験だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。