我執を吹き飛ばす出会い

昨晩は久しぶりにトークショーに一観客として参加し、めっちゃ興奮していた。ジュンク堂梅田店で開かれた、内田樹先生と青木真兵さん、青木海青子さんの対談である。内田樹さんは日本を代表する思想家で、青木夫妻はオムラヂで対話させて頂く「若き友人」である。こないだは海青子さんと「彼岸、幽霊、狂うこと」についての対話が盛り上がった。(「声がなんだ」

最もガツンとやられたのは、内田先生が「合気道の稽古とは、良導体をめざすことだ」と語られたことだ。野生のエネルギーが自らの身体を通じて発露するために、余計なことを考えたり、無駄な動きをせず、そのエネルギーがうまく通るように素直な身体をつくり、我執を捨てよ。身体の自然=良導体のパフォーマンスの最大化の邪魔をしないために、我執を捨てる必要がある、と。

何がガツンときたかと言えば、気がつけばぼく自身は「我執の塊」だったからだ。最近、自分の中で何かがくすぶり続けているな、と思ったが、それは「我執の腐臭」がくすぶり続けていたのである。それを突きつけられたようで、本当に、いてて、だった。

2009年から甲府で合気道を始めた。子どもが生まれたり、姫路に引っ越したり、コロナの自粛期間が続いたり、と飛び飛びになっているが、細々と続けている。甲府の道場でなんとか二段まで頂いていたが、それ以後、子育てに忙しく、なかなか稽古に行けていない。何より、よくわからない壁にぶち当たり、全く前に進めないように感じていた。道場が変わって、教わり方も変わったことも、ぼく自身の混乱に拍車をかけた。にっちもさっちもいかないような、閉塞感があった。

でも、もう20年も本を読み続けて、自分の中で勝手にスターであった内田先生に初めて生でお目にかかり、その謦咳に触れた際、「我執を捨てよ」と言われて、グサッときた。合気道でぼく自身が全く成長できていないのは、この「我執」に囚われているからだ、と。そして、「我執」に囚われているのは、もちろん合気道だけではない、ということも、痛感している。

トークショーの冒頭で、青木真兵さんや海青子さんの本が2刷り、3刷りと売れている、と聴いた。お二人とこの数年、仲良くさせて頂き、オムラヂなどにも出させて頂いている「若き友人」が活躍して、評価されているのは、素直に嬉しい。嬉しいのだけれど、「でも、ぼくのこないだ出した単著はまだ初版を超えていないよな」というドロドロとした我執が、つい漏れ出てしまう。青木夫妻に嫉妬や競争意識を持つことはない。でも、ツイッタで同業他者の活躍を見ると、憧れと自己嫌悪の自己愛モードに囚われて、しんどくなるときがある。そういうくすぶり=腐臭こそ、良導体のパフォーマンスを悪くする元凶である「我執」なのだ。そう、合気道だけでなく、生き様でも、我執の塊じゃん、と。そう思っていると、本当にいてて、なのである。

さらに言えば、良導体の話は、内田先生の本で何度も書かれていて、何度も読んでいる「はず」。にもかかわらず、しっかりわかっていなかった=身についていなかった、という事実にも、グサッとやられた。頭でっかちじゃん、と。

この「書かれていて情報として知っているはずのことが、現実にできていない=わかっていない」というのは、他にもあった。それが論語の「述べて作らず」である。

オリジナルな何かを自分は作れるはずだ、というのは「オリジネーター幻想」である、と内田先生は喝破する。そうではなくて、先達の師から受け継いだものを、自分なりに受け止めて、レシーブし続ける中で、自分なりに継承していくことができるよね、と青木真兵さんは受ける。そうだった、そうだった、『先生はえらい』にも書かれていたことだよね、とこの対話を聞きながら、僕は深く頷く。

実はオリジネーター幻想は、我執に強く結びついている。自分が生み出したものなのだから、自分が独占支配できるし、それによって競争に勝てるのだ。そんな弱肉強食の勝ち負け思考。意図や計らいに埋め込まれて、「我が、我が」と自らの占有権を主張しまくり、他者を蹴落とす思考。気がつけば、そんな「幻想」に何度も誘惑され、飲み込まれそうになる自分がいる。

でも、だからこそ、内田先生の言葉は、まっすぐ僕に届いた。「先生が、他でもないこの僕宛に、何かを伝えてくださった」という「コンテンツはわからないけど、宛先は僕だ」という「思い込み」を持つことができた。これも、内田先生が贈与論を用いながら何度も書いておられるけど、この「私宛に届いた」という「被贈与の感覚」が、「述べて作らず」の原点にある。師から受け継いだものは何か、を探り、やがてそれを語るようになる、というポジショニングは、まさに「我執」や「オリジネーター幻想」を超え、「述べて作らず」の「良導体」になる第一歩なのだ、と。その「被贈与の感覚」を、まさにライブで感じることができた瞬間だった。

実は、2005年からこのブログを始めたのは、内田先生のブログのまねだった。2003年に博論を書いた後、禁欲していた読書生活を再開した時に、当時話題になっていた『「おじさん」的思考』を手に取って、めっちゃくちゃはまった。以来、ブログを読みまくり、出される書籍は次々に読み進めていった。ぼく自身にとって、ほぼすべての本を読み続けているのは、内田先生と村上春樹、池田晶子だけ、である。そして、2005年に大学教員になった際、文章修行をするに当たって、内田先生がブログで書かれている骨法をまねて学ばせてもらおうと思った。

そして、山梨で県庁の仕事をしていた時に、ずっとお世話になっていた担当者のTさんが合気道の有段者だと知り、彼に導かれて合気道の道場に通うようになったのが2009年。以来、本だけで読んでいた合気道の世界を体感できるようになり、通っていた合気道三澤塾の先生や同門の方々のフレンドリーで開放的な姿勢に受け止められて、熱心に合気道に通うようになった。2013年には初段を、2018年には二段を頂いた。

こうやって勝手に師事していたが、内田先生ご本人には直接お目にかかったことはなかった。こういうのは「ご縁」であって、無理に接点を求めて近づくもんじゃない、と感じていた。そのときが来れば、どこかでつながるはずだ、とも感じていた。なので、2020年に青木真兵さんから突然メールが来た時、あの内田先生のブログやツイッタで登場する人から直接連絡が来た、とめちゃくちゃ嬉しかった。以来、真兵さんや海青子さんと何度も対話をする中で、すごく豊かに学ばせてもらっている。

そして、もう一つの結節点となったのが、無形庵の山本さんだった。これも内田先生が以前ツイートで姫路に来られていたのを見覚えていたことがきっかけ。凱風館の門人で合気道の有段者の山本さんが、三軸修正法の施術家として開業したのでお祝いに出かけた、と書かれていた。三軸修正法といえば、内田先生と池上六朗さんの対談ももちろん読んでいたので、その記憶が元になって、昨年から通い始めた。無形庵は、すごく独特な外観なのだが、施術されている間に空が見えて、狭いはずの空間なのに圧迫感が全くない、気持ちよい空間。聴けば、凱風館を設計した・そのご著書も読んだ光嶋裕介さんの設計だという。僕が読んできて、勝手に慣れ親しんだ世界が、そこにある・つながっている、とびっくりした。以来、施術を受けながら、合気道話にも花が咲いている。前回のエントリーで書いた「ファスティング」も、山本さんに助けてもらって、達成できた。

そして、その山本さんに誘われて、昨日のイベントに出かける。様々な弱い結びつきが、一気につながった瞬間だった。お手紙を入れた拙著は持って行ったが、膨大な献本があると山本さんから聴いていたので、内田先生にお渡しするのは迷惑かな、と逡巡していた。でも、内田先生が話すのを聴いているうちに、「宛先は私だ」と感じてしまったので、終了後、拙著をお渡しすることもできた。

そして、終了後の凱風館門人の皆さんが参加された食事会にも、ちゃっかり混ぜて頂き、その帰りの電車の中で、光嶋さんとお話しすることもできた。「今日は初対面とは思えない、懐かしさがありました!」とツイッターに書いてもらったが、まさにその通り。ぼく自身が読んできて、勝手に慣れ親しんできた世界に一気につながったような、懐かしさ満載、であった。

我執を捨てることは簡単ではない。でも、述べて作らず、を大切にして、良導体になるような文章を書き続けることは、僕にとって日常的にできる練習だ。このブログの備忘録メモもその一つ。最近、色々な閉塞感を感じていたが、それが一気に吹き飛ぶような、良い時間を頂いた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。