社会人男性のケアレスな歴史

面識のない著者の方からお送り頂いた本が、「あたり!」だった。

「本書の特徴は、四半世紀にわたって継続的にインタビューを重ねてきた莫大な事例をもとに、ケアと向き合えずに懊悩する男性たちの実像を浮き彫りにしていることである。国内外の社会動向や統計資料、社会学者や政治学者らによる理論、分析も紹介しているが、根幹をなすのは、あくまでも今を懸命に生きる人たちだ。
(略)
取材・分析方法としては、最長で20数年に及ぶ同じ取材対象者への継続インタビューを実施した。現在の年齢で20代後半から60代後半の男性を中心に1500人近くに上る聴者協力者の中から、長時間に及ぶ『語り』と、表情、身振りといった非言語コミュニケーションの記録を分析。職場や家庭・私生活などのシーンと問題・テーマごとに分類し、12の代表的な事例を紹介している。」(奥田祥子著『抱え込む男たち:ケアで読み解く生きづらさの正体』朝日新聞出版、p6-7)

この本が非常に面白いのは、「最長で20数年に及ぶ同じ取材対象者への継続インタビュー」をする中で、「ケアと向き合えずに懊悩する男性たち」がどのように変化していくのか、の経年変化をインタビューで追っている点である。元新聞記者で今は大学教員に転じた筆者は、かなり多くの「今を懸命に生きる」男達に取材をしてきた。しかも、それは仕事でどのように頑張っているか、という部分ではなく、「ケアと向き合えずに懊悩する」部分である。取材に応じた男性達は、著者を前に、黙り込んだり、嗚咽したり、そもそも数年以上取材の連絡に応じなかったり、という「長時間に及ぶ『語り』と、表情、身振りといった非言語コミュニケーション」を行っているのだが、それを著者の奥田さんは取材メモに克明に書き込んで、本書の中でも描写していく。そのなかで、社会人として弱肉強食の闘いの中で頑張らされている男性達の、決して外には見せようとしない・自らも気付こうとしない「弱さ」が主題になっている。

具体的に、どんなストーリーなのか?

自分がかつて若い頃、職場のサポートレスな環境&「厳しい指導」で休職した過去を持つ高井さんは、営業本部長にまで出世した後、パワハラ加害の認定を受けて懲戒処分を受けた(第2章)。共働きで子育てにも協力的だった坂口さんは、「良き夫」と世間から評価されたいと頑張るものの、妻が昇進する一方で自分が昇進出来ないことや子どもの「お受験」で夫婦のコミュニケーションがズレていき、その後別居することになった(第3章)。専業主婦の妻から「家出」された竹内さんは、妻が居なくなって初めて自分が妻に「モラハラ」を繰り返していたことに気付かされ、その後妻子がローン返済の終わった家に住む一方で、自分は家の近くの賃貸マンションで暮らすようになった(第4章)。家族介護者支援に悩む人事部長だった畑中さんは、妻が認知症で介護休職し、介護うつで閉じこもり気味だった時期の後、民生委員の粘り強い訪問によって男性介護者の会に繋がり、社交性を取り戻した(第5章)。

どれも、「市井の隣人男性の”あるある”話」である。パワハラ被害者がパワハラ加害者になってしまう。家事育児に協力的だったが、「良い夫」像に縛られ、自らの弱さを相手に伝えられずに関係が冷え込む。我慢の限界を超えて家出をされた夫が、妻の不在で始めて己の一方的なモラルハラスメントの実態に思い当たる。自分自身がケアラーになると抱え込んでうつ状態になるも、セルフヘルプグループで救われる・・・。こういう話は、会社員人生として成功した・失敗した・大過なく過ごした・・・という男性のA面のストーリーでは語られざる歴史である。だが、現にそれが存在し、しかもそれが見過ごされてきたこと。本書が膨大な取材データを元に浮かび上がらせるのは、「なかったこと」にされてきた(認知や意識化されてこなかった)社会人男性のケアレスな歴史の記録である。

なぜ、このようなケアレスな男性に焦点化することができたのか。それは、筆者が新聞記者を務めながら母親の介護をし、両立困難で介護離職をした経験が大きいと読んでいた感じた。介護離職後に博士号を取得し、大学教員と母の在宅介護を兼ねながらも多くの著作を出しておられる、という点で、ものすごく能力主義的なスキルの持ち主なのだろうと推察できる。その一方、こんな記述も見つけた。

「介護者である私と、被介護者である母との関係性をはじめ、母とホームヘルパーら介護事業者、私と介護事業者、そして私と職場の人々・・・。食事や排泄の介助などの身体的行為を伴うケアだけでなく、自己と他者との関係における気遣いや思いやりといった情緒面のケアのあり方について、自省も込めて深く考えさせられてきた。と同時に、互いにケアし合うことの難しさと尊さを身をもって体験している最中でもある。」(p5)

この部分を拝読して、僕が『ケアしケアされ、生きていく』『能力主義をケアでほぐす』で考えてきた、生産性至上主義とケア中心の世界という相反する二つの価値観に、奥田さんご自身も引き裂かれながら、取材を続けて来られたのではないか、という「妄想」が浮かぶ。本書のような迫力あるルポタージュを書く取材力や筆力を持ちながら、家族介護と夜勤を含めた新聞社の労働形態が両立できずに10年前に新聞社をされた、というのは、僕自身が子育てを始めて「戦線離脱」と感じたのと、似た感覚のように勝手に感じた。

「食事や排泄の介助などの身体的行為を伴うケアだけでなく、自己と他者との関係における気遣いや思いやりといった情緒面のケアのあり方」は、仕事「だけ」をしていると知り得ないし、外部化・市場化することにより、自分とは関係のない「他人事」にも出来うる領域である。そして、残念ながら多くの日本の労働者男性は、それをないがしろにしてきた。だからこそ、職場でのパワハラや、家庭でのモラハラなど、ハラスメントという形でのパワーの濫用をしてきた。そこには、「互いにケアし合うことの難しさと尊さ」といった視点・側面が欠如している。そのことに、ご自身の介護離職体験を経て気づかされた奥田さんだからこそ、それが抜けている、新聞社的な働きをしている、これまで取材で出会われた社会人男性達の、「ケアと向き合えずに懊悩する男性たちの実像を浮き彫りに」することが出来たのだろうと、拝読していて感じた。

最後に、本書の最後に出てきた印象的な箇所を引用しておく。

「筆者はジェンダー平等は女性だけでなく、男性にも必要であると考え、男性を対象に彼らの生きづらさを軽減するためのジェンダー平等政策の必要性を訴え続けている。
男性中心の企業社会では、特権と引き換えに長時間労働や出世競争による生活の質の低下、社会関係資本の乏しさなどを彼らは受け入れてきた。男性が自分を大切にできず、相手をケアする能力が低い傾向にあるのは、伝統的な『男らしさ』規範を具現化し、男性優位社会で手にした特権を維持するための『代償』を払った結果でもあるのだ。その末に、男性は憤りや不安、孤独感などのネガティブな感情も、職場や家庭・私生活におけるさまざまな問題も、すべてを抱え込んでしまっている。」(p247)

ハラスメント被害者が加害者に転化する。その背景にあるのは、「伝統的な『男らしさ』規範を具現化し、男性優位社会で手にした特権を維持するための『代償』を払った結果」であると筆者は結論づける。「自分を大切にし、相手をケアする」という基本的な能力は、競争に勝つことが至上命題の生産性至上主義の個人主義的能力主義においては、後回しにされる。それがケアレスな職場の蔓延する理由にもなるのだ。自分自身の生きづらさを軽減するだけでなく、職場の仲間達も心地よく働けるように、「自分を大切にし、相手をケアする」というケア能力をどう職場で活かすことが出来るか。それは、ハラスメントを再生産しないだけでなく、職場でネガティブな感情を抱え込まず。ケアしケアされながら、居心地のよい職場を作る上での鍵のような気もする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。