二項対立を超える為に

最近ご一緒させて頂く事の多い、財政社会学者の井手英策さんが新著『富山は日本のスウェーデン-変革する保守王国の謎を解く』(集英社新書)を出された。僕は発刊直後に駅の本屋で買って読み始めたが、その後井手さんからご恵贈頂いたものも届いた。この本は、新書で読みやすい文体なのだが、僕個人にとっては時間のかかる読書となった。それは、井手さんが二項対立を越える為の問いかけを、本書に沢山埋め込んでいて、途中で立ち止まって考える場面も多かったからだ。

「社会民主主義は、共産主義や社会主義とはちがって、議会制民主主義の廃止、共産党の一党独裁、私的所有権の否定といった革命的な変革をもとめてはいない。むしろ基本的な制度の枠組みを維持しながら、自由や公正、連帯といった価値の実現を追求している。
たしかに、追求する価値が古い文化や伝統のあり方なのか、自由や公正、連帯なのかというちがいはある。だが、それぞれにとっての大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく点に目をつければ、マンハイムらのいう保守主義と社会民主主義との距離は意外と近いものに見えてこないだろうか。」(p26)

この井手さんの発言は、蒙を啓かれる、というか、自分自身に欠けていた視点だった。僕は14年前にスウェーデンに半年住んでいたこともあり、社会民主主義的な価値観は凄く大切だ、と思っている。特に子どもを授かってからは、公立保育園が近所にあって、1才から必ず入れられるので、パパが朝から連れて行った風景を、羨ましく思い出していた。ああいう社会を日本でどう実現出来るのだろう、と自分事として考えている。

そういう僕にとって、「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」点では、社民主義と保守主義では構造は同じだ、という指摘が興味深く映った。大学生の頃から随分スウェーデン贔屓で、「スウェーデンでは」と「出羽の神」のごとくいつも引き合いにだしていた。でも、そういう言い方をしても、日本では全然響かない。「すごいですね」「いいですね」という声が挙がったとしても、必ずセットで「人口が違いすぎるから」「日本の風土に高福祉高負担は似合わない」などと否定されることも多かった。井手さんも、きっとそういう経験もされたのではないか、と思う。だからこそ、重視する価値ではなく、「永続的な運動」という側面で富山を捉え、それをスウェーデンと結びつけようとしたこの著作は、多くの問題提起を僕にも投げかける。

富山とスウェーデンがどう似ているのか、は同書を手にとって頂くとして、僕に刺さったフレーズを幾つか抜き出したい。

「富山を『保守的な社会だ』と斬って捨てることは簡単だ。おそらく多くの左派・リベラルはこうした社会を望もうとはしないのではないだろうか。だが、本書で明らかにした諸指標、そして富山の人たちがつくりだしたマクロの社会循環は、リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿にきわめて近いこともまた事実である。
一方、保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であることは、多くの人にとって生きづらさと紙一重というのが実際のところだろう。だが、そうした傾向は富山だけでなく、日本社会のいたるところに存在している。それをただ『保守的だ』といって批判するだけでは思考停止と変わらない。
保守的だと斬り捨てる前に、保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だし、実際にそうした萌芽が富山社会にも数多く存在している。
僕は富山をユートピアだと思わない。無前提に賞賛するつもりはない。そうではなく、富山社会のこれまで、いま、に深く入り込み、学び、そのなかでの発見をつうじて、よりよい社会の条件について考えてみたいと思っている。そのヒントが富山に無数にあることを僕は知っているからだ。」(p74-75)

長い引用になったが、この部分に井手さんの視点が凝縮されていると感じる。「保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であること」が、団塊の世代を中心に多くの反発を招き、故郷を捨てて大都会に人口移動させる契機になった。少なからぬ若者にとって、上記の傾向は「生きづらさ」に直結していた。団塊の世代がリベラルや左派的視点に親和的になっていったのは、この「伝統主義的、家族主義的な傾向」への反発の意味も大きかったと思う。

だが、そんな「保守王国」富山が、持ち家率や女性の正社員比率で全国1位だと言う。これを指して「リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿」があるではないか、と井手さんは指摘する。保守王国で社会民主主義的な結果と類似した内容が出現しているのはなぜか、と問うているのである。その上で、井手さんは、一見すると相容れない二つを繋ぐ隘路を、「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だ」と整理している。

なるほど。先ほどの「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」と結びつけると、見えてくるものがある。保守王国でも、さすがに三世代同居や地縁組織の加入率も低下しつつある。これは全国の傾向と変わりない。このような「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆し」に対応して、家族主義的な限界を乗り越える為に、「より、自由で、公正で、連帯できる社会」を目指すようにシフトチェンジできるのではないか、という提言である。

つまり、二つの異なる価値体系の結び目にも見える富山という現場を観察することで、「よりよい社会の条件について考え」る「ヒントが富山に無数にある」と彼は指摘する。だからこそ、この本は富山礼賛本でも富山否定本でもない、富山というケーススタディーを通じて「思考停止」を乗り越える方法を模索する本だと僕は受け取ったのだ。

「リベラルな政策を志向する人たちのなかには、『家族』という言葉を聞いて眉をひそめる人が多いように思う。それは、家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』として認識されるからだ。(略)だが、ここで重要なのは、家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくかということである。」(p150)

この前段では、惣万さんの「この指とーまれ」に代表される富山型デイサービスと、その進化形態としての「あしたねの森」、そして射水市のふるさと教育を取り上げている。そして、その章のタイトルには、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」と書かれている。ここに「家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくか」という井手さんの問題意識が詰まっている。

これまで「家族主義」が批判されてきたのは、「家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』」という意味で、「家族という『場』」の問題性ゆえであった。だが、社会変化に基づく「永続的な運動」という視点に基づけば、このような「場」は限界が来ている。それが、「この指とーまれ」のような宅老所や共生型ケアが全国で求められている理由でもある。そこは、家族規範を護持する「場」ではない。そうではなくて、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」という家族の「原理」を社会化し、制度化したものである。そして、そのような家族における「場」から「原理」への変化こそ、保守主義の曲がり角において「永続的な運動」として選ばれた論理であり、この「原理」は「より、自由で、公正で、連帯できる社会」とも接続可能だ。これが、保守主義と社会民主主義を繋ぐ隘路なのだ、と腑におちる整理であった。

本の最後で、再びスウェーデンに言及し、井手さんはこう総括する。

「スウェーデン自身も、自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経て、いまのスウェーデン型社会民主主義をつくりあげてきたわけである。リベラルが『保守的だと思ってきたもの』を『保守的だ』と批判することにとどまるとすれば、彼らの欲する社会変革は永遠に実現不可能のまま終わってしまうだろう。」(p198-199)

保守的だと批判することそのものを批判しているわけではない。そうではなくて、リベラルや左派が本当にスウェーデンを見習いたいと思うなら、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」をしっかり自分たちの国の中で受け止め、実践していくべきではないか、と提案していると受け取った。そして、富山のケーススタディーは、そのような「保守的な価値のなかから新しい価値を生み出」す土壌であり、かつ「保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」、つまり「場」から「原理」への移行や相克が表面化する現場である、と整理しておられると受け取った。

僕自身も13年間山梨で暮らし、また三重や岡山などで定点観測を続ける中で、都会人の言う保守/リベラルの二項対立では収まりきらない何かを感じていた。そしてそれを説明する言葉を僕自身は持っていなかった。井手さんのこの本で学ばせて頂いたのは、価値前提が違っても、ある価値を大切にするための永続的な運動というプロセスは同じではないか、という提起である。また核家族化や少子高齢化の影響の中で、保守とリベラルの中間のような領域に実態が変化している事も踏まえると、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経」ることによって、「いまのスウェーデン型社会民主主義」のような「より、自由で、公正で、連帯できる社会」が実現出来るのではないか、と問いかけているのである。

僕自身は日本社会が「より、自由で、公正で、連帯できる社会」であってほしいと願っている。なので、この本は、ではその価値の実現の為に批判に終始せずに何をすべきか、を考える上で、非常に大切な補助線を引いてくれた、と感謝している。そういう意味では、この本は二項対立の閉塞感から抜け出すガイドブックなのかも知れない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。