天畠大輔さんから新著『<弱さ>を<強み>に』(岩波新書)をご恵贈頂く。めっちゃ面白い。副題にあるように「突然複数の障がいをもった僕ができること」が、本人のライフヒストリーに沿って浮かび上がってくる。
中学時代に入院先の治療ミスで重篤な障害が残り、言葉で表現することも出来ず、「植物状態で、知能は幼児レベルまで低下している」(p8)と医師に宣告され、文字通り暗闇に取り残されていた時、母親が「会社員時代に使用していた、テレックスタイプライターを思い出し、母音と子音の50音を組み合わせるやり方で、意思疎通をとることを思いついた」(p13)おかげで、「あかさたな話法」として彼は外界とのコミュニケーションを取り戻す。それによって、特別支援学校から浪人の上で大学に進み、大学院で自らの意思決定の困難性について研究し、博士論文を書き上げ、そのプロセスを本書にしていった。
それは、意思決定支援が必要不可欠な天畠さんのライフヒストリーであり、かつ意思決定支援とは何か、に関する世間の「常識」をも問い直す、という意味で、メタ的な内容まで凝縮されている、でも読みやすくてあっと言う間に読めてしまう、不思議な一冊である。
彼は、大学や大学院で、支援者に介助されながら論文を書き始めた時、深刻なジレンマに陥った。
「大学院で博論を書いていたころ、論文執筆支援の中心メンバーだった介助者Aさんから、『一文字一文字自分の言葉で書くべきだ』と要求されました。
僕は一語伝えるにも人の何百倍もの時間を要し、さらに自分の目で見て文章を確認することもできません。なので、長い時間をともに過ごし、共有知識を豊富に持つ介助者に僕の短い言葉を解釈してもらうことで、その障がいを補っています。試行錯誤のうえ、自分に残された『考える』という能力を最大限に活かすものとして、行き着いた手法でした。」(p129)
実際に動画などで天畠さんのコミュニケーションの方法論を見ていると、何文字かを彼から読み取った介助者が、「○○ということですか?」と確認する。その上で、天畠さんがその解釈に同意すると、その先読みした内容について相手に介助者が伝える。つまり、「人の何百倍もの時間を要し」てでも『一文字一文字自分の言葉で書く』ことはせず、「共有知識を豊富に持つ介助者に僕の短い言葉を解釈してもらうこと」=先読みをしてもらうことで、その時間を短縮しようとしている。それは「自分に残された『考える』という能力を最大限に活かすものとして、行き着いた手法」だった。だが、それは従来の障害者支援の文脈で言われている「合理的配慮」の考え方からも逸脱していた為、ジレンマに陥った、と彼はいう。
「全盲でバリアフリー教育の専門家である星加良司氏によると、教育や就労における合理的配慮は、能力を公正に評価するためになされるもので、『本質的な能力』の評価を歪めるものであってはならないとされています。つまり、合理的配慮が障がい者の本質的な能力を水増しするものであってはならない、という主張です。
この定義に当てはめると、僕が介護者に求める合理的配慮は、その範疇を超えていることになってしまいます。しかし、そうすると僕のようなコミュニケーションに介助者の介入が欠かせない障がい者は、そもそも本質的な能力を評価される機会すら持てない、ということになってしまうのです。」(p72)
これは「本質的な能力とは何か」を巡る深刻なジレンマである。合理的配慮とは、その人が内側に持っている(=その人の本質に備わっている)能力を十全に発揮するためのものであり、PCやめがね、スマホや介助者といったものはあくまでも「補助具」であり。その能力を拡張してはならない、というのが、「能力を公正に評価する」ということが前提にしている価値観である。それゆえ、同じく大学院生だった介助者のAさんは天畠さんに「『一文字一文字自分の言葉で書くべきだ』」と迫った。Aさんにとって、「本質的な能力」とは、どれだけ時間がかかっても、自分の言葉で論文のすべての文字を書くこと、を意味していた。
だが、天畠さんは、そのAさんが考える「本質的能力」の見方とは異なる立ち位置を取る。彼にとっての「本質的能力」は「考える」ことである。書くことは、その考えを他者に伝えるための方法論に過ぎない。しかも、彼は手足も口も動かせず、視力で文字盤を追うことも出来ない重度障害を持っているため、その方法論が他者に比べて極度に制限されている。であれば、「一文字一文字自分の言葉で書く」という方法論的能力主義は捨て、「考え」を伝えて介助者に「先読み」してもらい、それを通じて考えを言語化して他者に伝える事の方に、「本質的能力」が詰まっているのではないか、と考え、それを実践していった。
つまり、どれだけ時間をかけてでも「一人で表現すること」が本質的能力ではくて、介助者に先読みしてもらいながら「考えを言語化すること」に本質的能力がある、と本質的能力のパラダイムシフトを図ったのである。更に言えば、これは能力を個人にのみ属するものと捉えるのか、関係性のなかでの能力として捉え直すことか、というパラダイムの違いにも繋がる。
「能力は、決して一人の人間の内側にあるだけではありません。それを他者との関係の中でどう発揮できるか、そうした関係性のうえに存在する能力も間違いなくあるのです。僕は介助者と協働で論文を書きながら、『自分の本質的な能力とはなんだろう・・・』『介助者ありきで書き上げる論文では、僕の能力は普遍的であるとはいえないのではないか・・・』という問いに繰り返し苛まれました。
その僕にとって、こうした能力の社会モデル化という考え方は、その問いに対する一つの答えでした。僕は個人モデルから社会モデルの考え方に移行することで、自分の生きづらさが緩和されていくことを感じていたのです。」(p191)
「一文字一文字自分の言葉で書く」というのは「一人の人間の内側にある」能力のことである。そして、旧来の「本質的能力」の見方は、この能力のことを指してきた。「合理的配慮が障がい者の本質的な能力を水増しするものであってはならない」という価値前提は、まさに「人間の内側にある」ものに、他者が「水増し・底上げ」してはならない、という価値規範である。そして、それは「出来ないことは個人の障害であり、不幸だ」という「障害の個人モデル」の考え方と、軌を一にしている。
だが、能力を「他者との関係の中でどう発揮できるか」を追求することにより、「関係性のうえに存在する能力」を高めることが出来る。天畠さんに残存している「考える」という能力を、先読みという手法によって介助者に最大限引き出してもらうことにより、「関係性のうえに存在する能力」を高めることが可能だ。それは、障害は個人の不幸ではなく、社会構造上の障壁である、という障害の社会モデルの視点である。そして、その社会モデル的な意思決定支援により、先読みをしてもらうことで、天畠さんは「長い時間をともに過ごし、共有知識を豊富に持つ介助者」との関係性の中から、今回ご紹介するこの新書も書き上げたのである。それはそれで、すごく意味や価値があることではないか!
でも、ふと引いてみてみると、「関係性のうえに存在する能力」というのは、実はこの社会で結構デフォルトではないか、とも思えるのだ。僕は今、「ケアと男性」という連載を書いているが、あれは間違いなく、娘さんと妻との「関係性」のなかで、僕が後天的に気づきつつあるケアという能力について考察している文章である。しかも、あの連載は、現代書館の力量ある編集者であるMさんとコラボして、彼女が読みにくい、意味が通じにくいと感じる部分に徹底的にコメントや赤を入れてもらっている。僕一人で書くと小難しくなるし、今回は子育て中のママパパに読んでほしいので、「伝わる文体」を作り上げるために、Mさんに強力にアシストしてもらっている。そのような「関係性のうえに存在する能力」を少しずつ高めている途上である。
そういう意味で、あの論考は『一文字一文字自分の言葉で書くべきだ』という規範から大きくずれた、社会モデル的な文章である。でも、それは娘さんや妻との、そして編集者のMさんとの協働作業のなかで紡ぎ出されるものであり、チームとして関与するなかで、あの連載が生み出されている。
それと同じように、実は天畠さんも「チーム天畠」の棟梁である、と考えると、話がわかりやすい。大工さんの棟梁でも、一人で作り上げるわけではない。建築家も、デザインの方向性は示すけど、それは自分の弟子や設計事務所の仲間に細かい指示を出して、作り上げる事が多い、というのも、以前読んだ『建築家として生きる』のなかで描かれていた。
同じように、天畠さんは、介助者達を率いる「チーム天畠」の棟梁なのである。天畠さんは「考える」棟梁であり、それを短い言葉で表現しようとする。介助者たちは、天畠さんの考えを「先読み」するなかで、その考えの方向性を理解し、言語化していく。その中で、「チーム天畠」の作品として、新書が仕上がる。でも、建築家が設計した建物に建築家の名前しか残らないように、天畠さんの岩波新書には、彼のクレジットのみが記される。そういう形で最終責任をとるのが、「チーム天畠」の棟梁としての役割と責任ではないか。そんなことも考えた。そして、それは彼だけではなく、ALSの科学者スティーブン・ホーキングだって同じ事をしている、というのは、彼が「薦めたい本」リストに載せていた『ホーキング Inc.』でも描かれていた世界だった。
最後に、この本を読んでいてふと感じた、精神病院に幽閉されている人と天畠さんの経験との共通点について触れておきたい。
天畠さんは当初、「植物状態で、知能は幼児レベルまで低下している」とラベルを貼られていた。この「植物状態」を「幻覚、妄想、錯乱状態」と言い換えると、精神科病院に急性期で閉じ込められる人も、同様のラベリングをされてはいないだろうか。「あの人には言ってもわからない」「注射などで強制的に鎮静させるしかない」というのも、本人の必死の訴えを力尽くで黙らせる手段だと思う。
天畠さんのお母さんは「テレックスタイプライターを思い出し、母音と子音の50音を組み合わせるやり方で、意思疎通をとることを思いついた」し、その後様々な介助者とのコミュニケーション支援の蓄積の中で、このような論文の言語化までたどり着いた。でも、それ以前の、「植物状態で、知能は幼児レベルまで低下している」とラベルを貼られていたままで、彼の思いを読み取る方法が思いつかなかったら、おそらく今だって病院や入所施設に社会的に入院・入所させられたまま、かもしれない。
そう思うと、強制入院をさせられ、本人の意思や思いを読み取ってもらえず、未だに退院できない、とされている人の中には、「一人の人間の内側にある」と見なされる「能力」だけで評価されている人が沢山いるように思う。本来、医療や支援とは、関わり合う関係性である。下駄を履かせる、水増しをする、のではなく、「関係性のうえに存在する能力」を発揮するなかで、地域で暮らしていく方法を模索するのが、退院・退所支援であり、ほんまもんの地域生活支援における大切な要素ではないか。そんなことも感じた。
とにかく読み応えがあるので、お勧めの一冊です。