僕はしばしば書くものが小難しくて、哲学的だ、と言われる。福祉やケアを研究対象にしているが、支援現場職員への研修では、僕は技法論や法解釈の話はほとんどしない。昔はしていたが、最近は政策の話もほとんどしなくなった。そんな僕が最近もっぱら研修テーマにするのは、支援現場の価値観を問い直す「モヤモヤ対話的研修」である。それはなぜか? 実は、福祉現場でどのような支援をすべきか、というのは、価値対立の問題でもあると僕は考えているからだ。
たとえば支援者の常識的な指示に従わない対象者は「どうしようもない人」なのか「学習性無力感」に陥っているのか? 前者であれば、「甘やかすな」と一括されておしまいになる。でも、虐待やいじめを受け続けてきて人生に絶望し、自暴自棄になっている後者なら、どうエンパワメントできるか、という支援課題が見えてくる。そして、しばしば同じ人が両方の側面を持っていたりもする。
そんなときに、法律や制度的知識だけでは、太刀打ちできない。対象者とどのような関係を結ぶか、という際に、支援者は相手や自分をどのように捉えているのか、という価値前提が常に問われているし、それは倫理や哲学の問題だと思っている。だからこそ、福祉哲学が必要なのだが、なかなかそれにピタリとくる一冊がなかった。だが、今回取り上げる新書はまさに、切れ味鋭い福祉哲学の入門書でもある。
「自尊とは、①自分にとって重要な生きがいがあり、②それを実際に追求することを実感できる、そのような場合に可能となる、重要な道徳感情である。」
「現実に目を向けると、残念ながら、自尊(セルフ・リスペクト)の社会的基盤はまだ充分なものではない。人種やジェンダーによる差別は依然として残っている。また、そこまで明白な不平等出ないとしても、近年では「セルフ・ネグレクト」と呼ばれる現象が注目を集めている。払ってしかるべき自身へのケアを怠ってしまうという問題である。生活が疎かになり、体調に異変を覚えても病院に行かない、身の回りの整理ができず、といったことが起こる。度合いがひどくなれば、絶望死にゆきつくこともあるだろう。
これはたんに当人の性格の問題ではなく、きちんとした生活をしていた人が、わずかなアクシデントをきっかけに陥ることも少なくない。私も生活が苦しかったころ、乱雑な部屋を片付けもせず、帰宅するとすぐ横になって自堕落に過ごす、という不健康な暮らしになりがちだった。」(田中真人『平等とは何か運、格差、能力主義を問いなおす』中公新書、p33-34)
田中さんは政治哲学が専門で、ロールズという政治哲学者の研究をしている。そして、この本では平等な社会を自尊をキーワードに述べようとしている。その際、自尊(セルフ・リスペクト)の対置として「セルフ・ネグレクト」が書かれていて、おお!とうなった。僕は虐待や権利擁護も専門にしていて、よく聞く言葉なのだが、自分が研修をしていても、セルフ・ネグレクトの反対は「自尊(セルフ・リスペクト)」である、とは言えていなかった。でも言われて見たらその通りで、自分自身の無視・放置であるセルフ・ネグレクトは、「①自分にとって重要な生きがいがあり、②それを実際に追求することを実感できる」という自尊感情が奪われている、失われていく中で、忍び寄ってくる感情である。
しかもこの本が良いのは、政治哲学を論ずる田中さんご自身の「自尊」が脅かされた経験も語ってくれている点である。雲の上の政治哲学、でなく、「きちんとした生活をしていた人が、わずかなアクシデントをきっかけに陥る」「自堕落」について、自身の経験を元に記述してくれていて、セルフ・ネグレクトは決して「他人事」ではない、と書いてくれている点である。こういう記述を見ると、信頼が出来る。ぼく自身は『権利擁護が支援を変える』『困難事例を解きほぐす』といった本を書いているくらいなので、セルフ・ネグレクトは「自分事」問題なのだが、政治哲学を論じる人が、こういうアクチュアルな関心を寄せてくれていると、嬉しくなる。
そして、この本は支配なき関係の平等が大切と主張しているのだが、支配は何故だめか、という整理もすごくよい。
「支配は必ずしも苛烈なかたちをとるとは限らない。支配者が独裁者となるケースもあるが、支配者は慈悲深い主人でもありうる。配下に一見やさしく接し、財やサービスをふんだんに提供してくれるかもしれない。だがそれは、配下が主人に反抗しない限りにおいてである。支配者は配下の自律や独立を嫌う。エンパワメントするのではなくクライアントにするのである。
支配関係—非対称的な関係の固定化—がある社会は平等なものとはいえない。」(p18)
四半世紀前の大学院生のころ、所属講座の教員からアカデミック・ハラスメント(アカハラ)を受けていた。僕にアカハラをした教員は、確かに支配者だった。その人は、「一見やさしく接し、財やサービスをふんだんに提供してくれる」「慈悲深い」人と僕は最初思っていた。だが、その人の思うことと違うことをした時、相手は「配下が主人に反抗」したと感じて、強烈なバッシングをした。「あなたみたいな弱い人は、大学院を辞めてしまいなさい!」とはっきり明言された。以後大学に行くのが怖くなり、実際その人の車が大学にあるのを見ると、僕はサッと帰宅することもなんどもあった。
それは、大学院生をエンパワメントするのとは真逆で、自分に従わせるクライアントにするのであって、非対称的な関係の固定化、だったのだ。本当にあの支配は、辛かった。その当時は、、「①自分にとって重要な生きがいがあり、②それを実際に追求することを実感できる」という自尊感情が根こぎにされる状況だった。
では、自尊の社会へと転換するにはどうしたらよいのか。田中さんは二つの条件が満たされる必要がある、という。
「まず消極的には、差別や多大な格差が是正されなければならない。そのうえで積極的には、多様な価値観や生き方が社会に認められていることが重要になる。」(p196)
その上で、この本は差別と格差と差異という三つの不平等を、次の様に書き分けている。
「①差別=否定される不平等—原則としてあってはならないもので、もし存在するとしたら、優先して対策が講じられなければならない。
②格差=容認される不平等—少なくなることが望ましいものだが、実際上ゼロにすることはできないために、一定の範囲内に収まるならば認められる
③差異=承認される不平等—一人ひとりのユニークな違いに由来するもので、これを消去しようとすると、むしろさまざまな問題が生じる。」(p64)
この整理は非常に明確であり、福祉哲学の基盤にもなる三つの不平等の整理である。障害者差別、在日外国人差別などのようなものは、あってはならないものである。また所得格差は、現実に存在しているが、アメリカの大企業のCEOなどはあまりに給料を取り過ぎであり、その格差は「一定の範囲内に収まる」べきものである。他方、差異は、あなたと私は違うのであり、その他者の他者性や己の唯一無二性を消し去ることは問題だ、という事になる。
これを書き写しながら、ノーマライゼーションの同化的側面と差異化的側面についての論争を思い出していた。ノーマライゼーションの原理とは、障害のある人も障害のない人と同じ環境を提供すべきである、という理念であり、後に障害者権利条約の基盤となる「他の者との平等を基礎として(on an equal basis with others)」もこの原理から来ている。(詳しくは以下のブログや拙著を参考にして欲しい)。
で、このノーマライゼーションはnorm(規範)という言葉から派生しているのであり、健常者の規範を押しつける、という誤解が広まっていった。そのことに対して、障害当事者の側から、障害という「差異」を消し去るような取り組みはよくない!という異議申し立てがなされていた(例えば横須賀さんの論文など)。これは、さっきの三つの用語を使うなら、障害者への「差別」はアカンし、障害者ゆえに健常者との経済的「格差」があるなら、それは年金や所得保障、就労支援などを通じて最小化する必要がある。でも、障害者は健常者に同化する必要ななく、障害という「差異」はそのものとして認められ、承認されるべきである、という整理になる。
田中さんもこんな風に書いている。
「平等は、あらゆる違いをなくすことではない。差異の消去や個性の画一化は、いわば等しく不自由になることだ。それは支配の不在の対極に位置する。そしてもちろん平等は、苛烈な差別や著しい格差の放置を認めない。関係の平等主義がめざす『対等な存在としての人びとからなる社会』とは、分離すれども平等(separate but equal)ではなく、差異ゆえに平等(different and equal)というヴィジョンをかかげるものなのである。」(p72)
田中さんの本書には「痺れるフレーズ」が何カ所も出てくるが、「分離すれども平等(separate but equal)ではなく、差異ゆえに平等(different and equal)というヴィジョン」ってめっちゃ格好いい。障害者は隔離や拘束など、分離されてきた歴史がある。そして、入所施設や精神病院、特別支援学校という特別な場所を作り、「分離すれども平等(separate but equal)」と言い張ってきた。でも、これは差別であり、是正すべき事情である。具体的には、普通学級の中で、地域生活のなかで、「差異ゆえに平等(different and equal)」が満たされることの方が、遙かに価値があるのだ。そして、福祉的実践とは、まさに「分離すれども平等(separate but equal)ではなく、差異ゆえに平等(different and equal)というヴィジョン」を掲げ続け、その方法論を模索することに、醍醐味があるのである。
また、僕も2月に『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)という本を書いたが、この本にもめっちゃ通底する箇所がある。
「しばしば功績の概念は、各種の不平等、とりわけ経済上の多大な格差を正当化するために用いられる。だがみてきたように、純粋な功績の概念はほとんど効力をもっていないし、かりに市場メカニズムによって評価に多大な違いが生まれるとしても、市場はあくまでも制度の一部であって全体ではない。一部の価値を全体の評価に短絡させるのは、典型的な論理の詐術である。」(p97-98)
新自由主義化された社会に暮らす私たちは、あまりにも『要は経済なんだよ、バカ!』という侮蔑的なフレーズを「そういうものだ」と内面化してきてはいないか。確かに市場原理は重要であるが、田中さんの言うように、「市場はあくまでも制度の一部であって全体ではない」のである。でも、金を稼げないこと=価値がない、かのようにYouTuberなりインフルエンサーが大手を振っている現象って、「一部の価値を全体の評価に短絡させるのは、典型的な論理の詐術」そのものだよなぁと思いながら読んでいた。
これについては、もう一つ引用して起きたいフレーズもある。
「ある思想家がホンモノかニセモノかの基準のひとつは、『まやかしの言論』への感度にある。この問題に意識的でない者は、イデオローグやインフルエンサーではあるかもしれないが、けっして政治哲学をきちんと学んだ者ではない。『よい差別もある』『貧乏になる自由もある』といった粗雑な言葉づかいをまともに受け取るべきではない。」(p7)
ここまではっきり言明してくれると、実に痛快である。そう、学者と名乗る人の中にも、そしてイデオローグやインフルエンサーにも、「『よい差別もある』『貧乏になる自由もある』といった粗雑な言葉づかい」をしている人がいる。その方がPVが稼げて、再生回数も上がって、広告収入が増えるのかもしれない。でもそれは『まやかしの言論』である。そして、忙しい人生において、そんなニセモノの『まやかしの言論』に惑わされている暇はない。本書を読んで、それも改めて思った。
その上で、評価上の平等を目指す上で、重要なことも指摘しておられる。
「アーレントのいう富(資本)のプロセスに回収されない事柄や時間を大切にすることである。金銭が(さほど)介入しないギブアンドテイクの関係性を築くこと、具体的で直接的な人間関係を重視すること、他律的でない趣味に打ち込むこと。それぞれじぶんの時間を生き、忘れがたい一瞬の光景を記憶に刻み込むこと。時間どろぼうに対してノーと言える、自分なりのスタイルをつくりあげることが重要なのだ。そうした人びとが多くなるに連れ、コミュニティや開かれたドアの数もまた増えてゆくだろう。」(p212)
これは、手触り感のあるコミュニティをどう作っていくか、という問いでもある。例えばぼくの場合、ワインを買うのはこの店で、服についてはこのショップの○○さんにおたずねし、Macは△△さんに質問し、キャンプなどは□□さんが詳しいし・・・というかたちで、「金銭が(さほど)介入しないギブアンドテイクの関係性」を結構築いてきた。もちろん相手から頼まれたら、自分が出来る範囲で何とかしようとする。また、合気道や山登りを通じて、「じぶんの時間を生き、忘れがたい一瞬の光景を記憶に刻み込むこと」ができた。でも、僕にとっては子育ても、まさに娘や妻との大切な時間を生きるきっかけになっている。子育てをしたからファンタジーと改めて向き合い、「「時間節約家」からの戦線離脱」も、少しずつはじめている。
そして、こういう営みを少しずつ積み重ねる中で、「①自分にとって重要な生きがいがあり、②それを実際に追求することを実感できる」という自尊感情が改めて育まれつつあると本書を読んでいて、改めて感じた。
そういう意味で、この本は平等や運、格差、能力主義を問い直す上で格好の一冊だし、福祉や支援を支える基盤的な思想・哲学を提供してくれている「福祉哲学のバックボーン」になりそうな一冊でもある。