井手英策さんに頂いた『令和ファシズム論—極端へと逃走するこの国で』(筑摩書房)を拝読する。本書の帯には「肯定的未来への道を切りひらく入魂の書!」「生活苦にあえぎ、不安を抱える私たち。極端な主張で人々を煽り立てる〈身近な指導者〉たち。最後の防波堤としての〈ラディカルな中庸〉を提唱した希望の書!」と書かれている。
読み始めてしばらくすると、難解な森の中にさまよっている感覚がした。読み終えることが出来るだろうかと不安になった。そのあたりのことを、後書きで以下のように率直に書かれている。
「こうして執筆が始まったのだが、いきなりつまずいてしまう。財政の歴史に学ぶのはよいが、過去のできごとを現実にあてはめるのは、歴史家のタブーにちかかったからだ。
分析の厳密性と政策的なインプリケーション、どちらを優先すべきか。学者としての決断に迫られた。悩みに悩んだが、自分の能力の許すかぎり史実をしっかりと描き、そこから抽出された歴史条件をもとに、現実におきていることを説明することに決めた。
決断の正誤はわからなかったが、このまよいによって、本書が難解になったことだけは確かだった。」(p358)
そう、僕が難解な森に入っている、と思ったのは、「第二章 昭和恐慌からの脱出と高橋是清の苦闘」から「第三章ファシズムへの道程でなにがおきたのか?」にかけて。高橋是清は戦前に積極財政を行うと共に軍事費抑制も行い、226事件で殺された人、ぐらいにしか知らなかった。それが、「令和のファシズム論」においては、二章分をかけて、高橋の取り組みのみならず、「政争を繰りかえした政友会と民政党/皇道派と統制派の対立」や「力を発揮した官製の国民運動/日本精神へと接続した共同体主義」といった、「史実をしっかりと描」いていく。今から100年前に高橋がどのような文脈の中で、何を取り上げ、どこは切り捨てたのか、という「そこから抽出された歴史条件」を精緻に描き、「分析の厳密性」を担保しようとする。すると、100年前のことを全然知らない素人の読者(私)にとって、このあたりの章は「難解」な森のように感じたのだ。
最後まで読み終えられるかしら、と途中で心許なくなった。
だが、「第四章 ファシズムの条件をさぐる――ドイツとの対比から」にさしかかると、その印象ががらりと変わる。ドイツで第一次世界大戦の敗退後、賠償金に苦しみながらも、「雇用創出から軍備拡張へ」と変遷していった「史実をしっかりと描」いていくプロセスの中で、先の章で予習した日本とのちがい・おなじが見えてきた。そして、ヒトラーが登場するまでのプロセスを読み終えた後に、次の記述を読んで、やっと難解な森を抜けたのだと知る。ちょっと長いが、大切なポイントなので抜き書きする(p211-212)。
「本書は、ファシズム期におきたことを知り、そのうえで現在の日本の財政やそれにまつわる問題をみれば、<ぼんやりとした不安>に輪郭をあたえられるのではないか、自由と民主主義の死とはことなるルートを発見できるのではないか、という問題意識から出発していた。
だから、ここまでの章では、財政史という分析手段をもちいて、「ファシズム前夜」の歴史をえがいてきたわけだが、ファシズム的な状況、自由と民主主義があとずさりした歴史の断層は、以下にしめされる現象の総体として構成された、ひとつの「均衡」であった。
①中間層もふくめた広範な人びとの生活不安
②税・社会保障をつうじた生活保障の不十分さとその内容
③中央銀行への依存、財政と金融の一体化
④経済的な合理性と政治的な非合理性の並存
⑤雇用創出から軍備拡張へのなしくずし的な政策変化
⑥予算を統制する議会の力のよわまり
⑦思想的な垣根の溶解、呉越同舟というロジック
⑧集権的な意思決定や政治的主体の喪失」
この①から⑧は、100年以上前のファシズム期に日本とドイツで共通しておきたことを抽出している。そして、すでにお気づきの方も多いと思うが、今の日本社会でも、この8つが「均衡」として現れている。井手さんが本書の前半で、素人にはとっつきにくい財政史の森に読者を誘ったのは、「自分の能力の許すかぎり史実をしっかりと描き、そこから抽出された歴史条件をもとに、現実におきていることを説明する」ためだった。それが、この8点で示されると、確かにと頷くし、そこからの後半は、今の日本社会でこの8つの均衡がいかなる状況で繰り返されているか、という説得力ある説明につながっていく。
後半こそ、赤線を引きまくって引用したい。増税なき積極財政やMMTを批判し、今の政治状況の右派左派の溶解や呉越同舟性をするどく分析し、<ぼんやりとした不安>の総体を提示していく筆致は実に鮮やかだ。その後半をちゃんと読んで欲しいからこそ、敢えて前半の難解な森で本書を読むのを挫折しないで、斜め読みでも5章までたどり着いてほしい、と思う。
その上で、井手さんのぶれない軸について、引用しておく。
「財政の目的は、私たちのニーズを充足するためにある。だが、税を前提とするからこそ、私たちは、支出の要・不要を議会で話しあい、負担と受益のバランス、税と借金のバランス、そして、社会的な公正さのありようを論じることができる。だからこそ、社会的な合意、連帯の基礎としてととのえることができる。これらは、予算制約があるからこそ、実現できる。私は、健全財政主義者でもなければ、放漫財政主義者でもない。財政民主主義を重んじる、ひとりの財政学者だ、と。」(p270-271)
予算制約があることは、民主主義の制約ではなく、可能性である。これは、言われてみればその通りだけれど、僕にはなかった発想である。私たちはどのようなニーズを充足するために、税を投入するべきか。その「支出の要・不要を議会で話しあい、負担と受益のバランス、税と借金のバランス、そして、社会的な公正さのありようを論じる」のが、国会であるはずだ。政治を語るとは、政党の呉越同舟性を語ることではない。財政民主主義を基盤として、「社会的な合意、連帯の基礎としてととのえる」ための議論こそが必要、にも関わらず、直近の選挙で最も抜け落ちていたのがこの部分だ。それは、<ぼんやりとした不安>を短期的に解消できそうな表面的な処方箋(103万円の壁、日本人ファースト、ばらまき給付・・・)ばかりが示され、予算制約をどうするか、という真っ当な議論が先送りされていたからである。
そして、僕自身素人なので、井手さんの本を読み進めて、「支出の要・不要を議会で話しあい、負担と受益のバランス、税と借金のバランス、そして、社会的な公正さのありようを論じる」ことが財政民主主義なのか、とようやく腑に落ちた。
「本書では、「財政民主主義」ということばを何度もつかってきた。財政は、共同の意思決定をつうじて、人間の自由の条件を考えることにその要点がある。それは、手ばなしで行使できる、むきだしの自由ではなく、対話と対立、そして合意によってはぐくまれた自由である。よろこびだけでなく、いたみもわかちあう、あるべき社会への態度を決定するいとなみである。だからこそ、財政をつかいこなせば、民主主義と自由を調和させ、社会に秩序をもたらすことができるのである。」(p325)
難解な森をくぐり抜けたからこそ、「財政は、共同の意思決定をつうじて、人間の自由の条件を考えることにその要点がある」という言葉の重みを僕は受け取ることが出来た。小さな政府で自己責任社会を追究しなさい、と言えば、1%の金持ちにとっての自由の条件は最大化するが、99%のそれ以外の人々にとっては、<ぼんやりとした不安>が具現化・最大化していく。だからこそ、金持ちも貧乏人も、左翼も右翼も無党派層も集まって、「共同の意思決定をつうじて、人間の自由の条件を考えること」が大切なのだ。税はどれほど集めた方がよいのか、何にどれほど配分すべきか。防衛費をアメリカの言うままに上げるのか、大学無償化や介護職員の給与増額に使うのか。それは、赤字国債の発行で補うのか、消費税の増税も視野にいれるのか。そこには「よろこびだけでなく、いたみもわかちあう、あるべき社会への態度を決定するいとなみ」がある。「対話と対立、そして合意によってはぐくまれた自由」がある。これが財政民主主義なのか、と。そして、この財政民主主義のプロセスが、現下の状況では、無視・放置され、日銀券は無尽蔵に刷っても大丈夫なもの、借金をし続けてもなんとかなる、と思い込んではいないか、と。
「国民や住民に責任や任務をおしつけないために、財政というしくみをつくりかえ、自由と民主主義が共鳴する社会をめざす。たとえそれが政治的に不人気でも、社会の多数者が手取りをふやす道具だと断定しようとも、連帯のいしずえとしての財政本来の姿を再生させ、自他の責任とよろこびが調和する社会をつくりだす。<ラディカルな中庸>の精神にしたがって、公共性を再生させていく地道な努力こそが、社会を成長、進化させる条件である。
ヒトラーは、無条件の服従と忠誠をもとめる指導者原理をとなえて、自由と民主主義を否定した。私は、財政原理をかけて、民主主義と自由を徹底的に擁護する。」(p342-343)
「連帯のいしずえとしての財政本来の姿」とは、「税を前提とするからこそ、私たちは、支出の要・不要を議会で話しあい、負担と受益のバランス、税と借金のバランス、そして、社会的な公正さのありようを論じる」財政民主主義のあり方だった。このような、税というお金の使い道に関する継続的な対話こそが、「公共性を再生させていく地道な努力」につながる。その意味で、「財政原理をかけて、民主主義と自由を徹底的に擁護する」という、財政史の詳細な分析に基づく井手さんの渾身のインプリケーションは、誠に腑に落ちる内容であった。
皆さんも途中で挫折せず、最後まで読んでみて欲しい。