年若い友人である青木真兵さんが、『資本主義を半分捨てる』(ちくまプリマー新書)という刺激的なタイトルの本を出された。ちくまプリマー新書は、僕も『ケアしケアされ、生きていく』と『福祉は誰のため?』の二冊を刊行しているので、馴染みのレーベルである。中学生向けに8万字程度で、読みやすい入門書的な本として書かれているのだが、割と幅広い層に読まれているレーベルである。今回、僕の本の担当編集でもある鶴見さんから早速お送り頂き、一気読みする。
「僕たちは、商品化を自己実現のために欠かせないプロセスとして受け止め、当然のものだと考えてきました。自己実現によって得られる『自己』は、商品価値の高いものである必要がありました。そもそも商品とは市場という他者のニーズによって成り立ちます。誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます。消費者の立場から見れば、競争によって優れたものだけが残り、質の高い商品を手にできるという利点があるかもしれません。しかし、商品の側に立ってみれば、常に『欲しがってもらえる』よう努力し続けなければならない。
商品に囲まれて育った僕たちは、この『商品の論理』を内面化してきました。つまり、誰かに必要とされなければ価値がないと思い込むようになってしまったのです。そのため、何かを始めたり発言する際、最初に考えるのは『他の誰かがどう思うか』ということになってしまいました。確かに、生きるとは労働力を商品に変えお金を稼ぐことにほかならないのですが、他者ニーズに基づく生という原理を内面化し過ぎてしまうと、妻のように働けなくなったときに、『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまうのです。市場原理だけで動く社会とは、常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡りのようなものなのです。」(p40-41)
『他の誰かがどう思うか』
最近の学生たちが感じている不安を見事に射貫くようなフレーズである。なぜ「迷惑をかけるな憲法」を日本国憲法以上に若者達は必死に護っているのか。それは、そうしないと、「他者から選ばれないから」という補助線を引くと、めっちゃクリアに事態が見えてくる。
私たちは自分自身が働くことによって、つまり労働力を商品化することによって、対価を得る。そういう資本主義社会のなかで生きている。そして、資本主義の仕組み自体が、「誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます」という論理を内包している。そして、この商品は、チョコレートやゲームなどのモノやデータだけでなく、労働力を商品として売っている私たち人間にも当てはまる。私たち一人ひとりも、労働力商品として欲しがられない場合、「棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれ」る恐怖と隣り合わせにいるのだ。
「誰かに必要とされなければ価値がない」というのが、「『商品の論理』の内面化」であると青木さんは喝破する。これは、自分自身の価値の有無を、自分以外の評価軸に差し出すことでもある。僕は中学時代から受験勉強を始め、「偏差値」という外部の評価軸に身を捧げるようになってしまった。偏差値の高い学校に行き、社会的評価の高い職業に就くことで、労働力商品としての魅力を上げようと、必死になって頑張ってきた。だが、それは「他者ニーズに基づく生という原理」が僕自身の中でしっかりと刻み込まれたプロセスでもある。すると、他者評価を常に気にし、他者から評価されなくなるような事態に陥ると、「『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまう」のである。
僕も、子どもが生まれた42才の時に、それとまざまざと向き合うことになる。何度か書いているが、妻に「出張や飲み会に以前と同じように出かけるなら離婚する」と突きつけられ、それまでずっと出ずっぱりだったのに、外の仕事を全部断って家事育児をしていた。その時に感じた「戦線離脱」の感覚は、青木さんのことばを用いるならば、労働力商品からの「戦線離脱」であり、労働力商品としての無価値性への恐怖だったのだ、と今となっては気づく。
ただ、労働力商品の「外」にだって、実は世界はあるのである。
「僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。」(p41)
青木夫妻が「市場原理では測れない価値」に気がついたのは、奈良県東吉野村という「山村に移り住むこと」であった。ただ、移住しなくても、気づけるルートは色々ある。ぼくの場合は、他ならぬ娘の存在だった。赤ちゃんの娘は、数時間放置したら死んでしまいかねない脆弱性の塊であった。娘は、眠いときに眠り、腹が減ったらおっぱいを所望し、不機嫌になったら泣いて親に不快の解消を求め、という形で「他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在している」のだった。そんな娘をケアしながら、僕自身は労働力商品化からの「戦線離脱」と感じながらも、これまで自分自身が支配されてきた「市場原理」とは全く別次元で生きている娘に翻弄されながら、それ以外の世界を少しずつ、学習し始めたのである。
さらに言うと、「市場という他者のニーズ」と、「他ならぬ娘さんという具体的な他者のニーズ」では全く違う。抽象度の高い他者のニーズに応えるためには、世間で評価されているスキルや技能、簡単に言えば労働力商品として換金性の高い何かが求められているはずだ、と絡め取られやすい。でも、目の前にいる娘や妻の具体的なニーズに応えるためには、食事を作ったり、洗濯をしたり、一緒に歌ったり、ボール蹴りをしたり、と関係性を深めることが求められるのだ。それによって、娘や妻の他者性とつながることで、僕自身の唯一無二性も、金や労働力商品化を介在しなくても、担保される。それが、他者比較ではない、自分自身の自信につながる。そんな気づきを、『家族は他人、じゃあどうする?』というエッセイなどに、書きながら考え続けてきた。
そして、それはイバン・イリイチのヴァナキュラー概念と繋がる。
「イリイチによれば、ヴァナキュラーという語は『根づいていること』や『居住』を意味する言語に由来します。ラテン語では家で育て、家で紡ぎ、家でつくり出した、つまり自家産、自家製のものすべてに対して使われていたといいます。ヴァナキュラーな営みとは、生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであり、貨幣による交換や上からの配分に依存した生活とは根本的に異なります。イリイチはまた、ヴァナキュラーな言葉のあり方についても述べています。それは日々の生活のなかで人々が互いに語りかけ、伝えたいことを伝えることを通して自然に広がっていくものだといいます。教えられる言語とは異なり、ヴァナキュラーな言葉は生きた関係性のなかで育まれます。
一方で、学校によって制度化された『教えられる言語』は、しばしば自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱することを模範とします。イリイチは、このような言語観こそ近代の離床した教育や社会構造を象徴していると指摘しました。つまり、ヴァナキュラーとは単に自家製の物を指すのではなく、人々の自己ニーズに基づいて生まれる働き方や言葉のあり方、そして関係のつくり方そのものを示しているのです。」(p101-102)
世の中には、自分の頭の回転の良さを、難しい用語を畳みかけるように用いてひけらかす人がいる。でも、そういう人が用いている言語って、大概「学校によって制度化された『教えられる言語』」である。大量のテキストを読み、英語でもフランス語でも理論書でも読み漁ると、そういうフレーズが増えて行く。だが、それって生成AIなら一瞬でやってくれる時代には、屁の突っ張りにもならない「かしこさ」である。「自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱すること」こそが、プログラムの最も得意とする点だから、である。
「生きた関係性のなかで育まれ」るヴァナキュラーな言葉とは、「伝えたいことを伝えること」である。それは、他者評価を気にして、他者に評価されるように(=他者ニーズに基づいて)話すこととは真逆の営みである。娘さんは、歌いたい時は歌い、踊りたいときは踊る。最近はおっさんもよう知らんXGとかaespa、そしてオッサンも知っているレディー・ガガなどをかけて踊りまくっておられるが、これも「他人の考えを正確に復唱すること」を目指しているのではなく、「自己ニーズに基づいて生まれる」踊りであり、心から湧き上がる何かを表現しておられる。
それはダンス・コンクルールで入賞したいとかそういう他者比較の欲望とは無縁の、純粋なる楽しみとしてのヴァナキュラーなダンスなのである。
では、この本のタイトルである「資本主義を半分捨てる」とはどういうことで、それは本当に実現可能なのか。
「僕たちがなかなか自己ニーズを認め合う関係を築けないのは、個人の努力や性格の問題ではありません。それは現代社会そのものが他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されているからです。まさにイリイチが生涯をかけて批判し続けたのは、この『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』でした。」(p163)
資本主義社会そのものが「他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されている」。この認識に立つと、自己ニーズという尊厳をどう取り戻せるか、が課題になる。『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』とは、広告やマーケティング、AIなど、人間がつくり出した欲望喚起装置に支配され、強迫観念的に追い立てられ、他者の視線に怯えて苦しむ社会のことである。そんな社会は嫌だ! だからこそ、他人の言葉ではなく自分の言葉を取り戻し、自己ニーズという尊厳を保持し続けることが重要なのだ。
その際の入り口が、他者の目を気にせず、気になったとしても「半分捨て」て、「嫌なものは嫌だ!」と言い続けることだと、僕自身は思っている。「常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡り」は嫌だと思い、労働力商品化とも最低限度のお付き合いはするけれど、必要以上に他者の顔色をうかがうことなく、自分の違和感やヴァナキュラーな言葉を丁寧に用いて暮らす。生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであるヴァナキュラーな営みの部分を、資本主義社会のなかでも、少しずつ増やしていく。
都会暮らしでも、馴染みのお店、店員さんを増やしていきながら、労働力商品という取り替え可能な標準化された店員ではなく、「他ならぬ○○さんと私」のヴァナキュラーな関係性を作っていく。それが、商品購入を介在させた形でも、人間的な・属人的な出会いやつながりになるし、そういう関係性の豊かさが、「資本主義を半分捨てる」営みの先にある。そう思うと、他者と繋がり直すことを通じて、労働力商品の店員であっても、新たな関係性を結び直すのは、「一人ひとりの自己ニーズという尊厳」を取り戻すうえで、大きな一歩になりうるのだ。
『他の誰かがどう思うか』ではなく、じぶんが食べたいから食べ、会いたいから会い、話したいから話す。言いたいから言う。そういうヴァナキュラーな言葉を用い、ヴァナキュラーな他者との関係性を切り結ぶなかで、自律や自尊を取り戻すことができるのだろう。そんなことを思った。
そして、難しいイリイチの概念をわかりやすく解説できる青木真兵さんは、ヴァナキュラーな生き方を知識として解説するのではなく、生きて実践して体得できているからこそ、平易な言葉で大切な何かを伝える事ができているし、その営みこそが思想家青木真兵の真骨頂なのだと感じた。
この本と出会って、多くの人が、自らに巣食う「商品の論理」と葛藤してほしいし、可能ならちょびっとは捨ててみてほしいと、改めて感じた。
*この本の装画とイラストを、パートナーの青木海青子さんが実に素敵に書いている。絵を見ているとほっこりするのも本書の大切な魅力の一つです♪