「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(「ためらいの倫理学」内田樹著、角川文庫より)
この基準で判断すると、僕は結構「おばかさん」だと思う。自戒を込めて。
「自分の善意に紛れ込んでいる欲望」の「意識化」は、そうとう自分自身に言い聞かせないと難しい。ましてや組織に属している人間にとって、組織的行動における様々な自身の発言・行動に対して、この視点でのスキャンをし続けることは、結構大変だ、と思う。でも、このスキャンをしない「生」の考えや行動は、「僕は見たことがあるから」「経験したから」「これは論理的に正しいから」という一面的で偽善的な部分がある。だが、ものごとは論理的、だけではうまくいかない、とこないだお会いしたある会社の社長さんも言っていたっけ。論理的に正しい、ことを言っても、心情的にみんながついてこれるものではなかったら、どれだけ「正しい」と経験的・論理的にわかっていても、うまくいかない、と。だって、ある人の正しさと、他の人の正しさは微妙にその方向性や位相が「ズレ」ているから。ならば、その「ズレ」を自覚した上で、自分のみの「正しさ」に固執せず、周りの人々の「正しさ」の方向性や位相との「ズレ」も包含するような統一的見解を、その考えが受け入れられる、という環境が整うまで待って、そのタイミングを逃さずに「それとなく」ひろめていった方が、実質的にモノは動くのだ、というその方の発言は、まさに卓見だなぁ、と思った。
でもまだ僕は色んな局面で、まだ自分が「見た」「経験した」「考えた」正しさを、周りの温度や環境、雰囲気も考えずに「正しい」と提示している部分があると思う。しかも、それを自分の善意に基づいている、と信じ込んで提示しているから、「おばかさん」度も結構大きい。こういう「おばかさん」こそ、もともとタケバタ君自身が一番お友達になりたくないタイプなので、これなら近親憎悪ではないか、と気付いてしまう。あれまあ。
ま、それでも去年までは一匹狼でやってきたから、被害は自分自身にふりかかるだけで済んでいた。しかし、今は大学に雇っていただいてお給料を頂く組織人。なのに一匹狼の時のノリでやっていると、足すくわれるだけでなく、何より組織全体に迷惑をかけかねない。自分の器の小ささを自覚した上で、出来る限りおしゃべりタケバタの言動をスキャンディスクにかけながら、あまり調子にのらずにコツコツやっていこう、そう思う。あと、調子に乗りすぎない為にも、真面目に論文を書く準備と授業準備に専心しなきゃ、とも。そう、本業を本気でしなさい、ということなのです。