謹賀新年
今年もよろしくお願いします
2009年になった。この正月は本当に何もない「寝正月」。年中ジタバタドタバタしているタケバタにとって、4日まで全く予定がない、というのは珍しい。おかげで毎日9時頃まで寝て、完全にゆるゆるモードである。
普段めったにDVDや映画も見ないのだが、たまには、ということで年末に大学の図書館で借りた「靖国」を見てみた。話題騒然となり、上映自粛の事態にまで発展した映画、と言うから興味津々で見てみたが、うーむ、そんな騒ぐ価値ある映画なのだろうか、と思った。確かにあの神社に行かないと見ることが出来ない「断面」が切り取られている。しかし、その「断面」ともう一つの主題である「刀」を巡る物語のつなぎ方が、何だかブツ切り的挿入で、直線的過ぎて、違和感を覚える。またグレツキの「悲歌のシンフォニー」(交響曲第3番 作品36)を主題歌的に用いているが、映像との取り合わせ方もかなり「煽っている」感が強かった。歴史解釈の正否よりも、「作品」としてはいかがなものか、という不満が一番残る作品だった。
せっかくの休日に見たDVDでモヤモヤしてしまい、困ったなぁ、と読みかけの本を「風呂読書」していたら、ようやくスッキリする言葉に出会う。
「正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着できない)。正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。この付託によってのみ、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に『生き延びるチャンスを与える』ことができる。信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。そのことを私は『受信者への敬意』、『受信者への予祝』、あるいは端的にディセンシー(礼儀正しさ)と呼んでいる。それは『呪い』の対極にある。」(内田樹「呪いと言論」鷲田清一・内田樹著『大人のいない国』プレジデント社、p88-89)
あの映画そのものが「原理主義的」なのかどうかは判断を留保する。でも、僕はあの映像の通奏低音には同語反復的なものを感じた。それが、観る者の内部に鈍く響きつづけて、気持ちよくなかったのだ。「正否の判定を他者に付託」するという意味での「ディセンシー」が不十分である、といえば良いだろうか。そういう編集を2時間も見させられると、少し胸焼けがする。
ある価値に基づいて何かを表現する事に異論を挟むつもりはない。何かを表現すれば、自ずと「偏った」見方になる。それはいい。でも、その偏差に自身が気付いた上で、それとは対極の「受信者」も含めた他者への「信認」の姿勢があるか。『受信者への敬意』は、どのポジションでどういう主張をするか、という差し出されるコンテンツの前に守るべき形式のような気がする。その形式段階での逸脱が、多くの他者の逸脱を喚起したのではないか、と感じた。
「森達也が撮ったらもう少し面白い作品になっただろうに」
そう思わずにいられなかった。