「なぜ?」から距離を置いてみる

気づけば研修や授業でファシリテーターをする場面が多い。とはいえ、これまでファシリの研修を受けたことなく、参考文献を我流に読み込みながら、現場で鍛えられてきた。

とはいえ、我流には限界がある。そこで今、あるクローズドな研修の場で今、学び直している。その中で、研修の本論とは関係ないが、今の僕にとっての最も大きなハードルにぶち当たっている。それは、「なぜ」を使わない質問、である。僕が参加しているその研修でも、実際に「なぜ」を使わない。それは「なぜ」か?

僕の実像を知っている人にはご案内の通り、僕は「なんで?」の竹端である。インタビューでも、授業でも雑談でも、どんなところでも「なぜ?」の問いを深めていく。それは、価値前提を問い直すために必要不可欠な問いであると思っている。これは、「哲学の巫女」で夭逝した池田晶子の産婆術から学んだもので、僕自身が20代にずっと彼女の本を読み続け、30代で研修や授業を持つようになると、その骨法を使い続けてきた。

授業でも、例えばシングルマザーの貧困問題を取り上げると、「自己責任論」に共感する学生もいる。自分が選んだ相手なのだから、仕方ないではないか、と。その時、学生がどのような根拠で「自己責任」だと思っているのか、そこにはどのような前提があるのか、その前提はどういう時には機能するが、どういう時には機能不全に陥るか。それは自分自身と関係のないことか・・・を「なぜ」をもとに考えあっていく。すると、価値前提に含まれた臆断や他人事的な視点が崩れ、自分事として物事を見つめ直せる。そんな場面に出会ってきた。これぞ、池田晶子が舌鋒鋭く書き続けてきた、「問いかけ、考え続ける中での価値前提の問い直し」である。

だが一方、この「なぜ?」はしばしば原因追及になったり、放っておけば「問い詰める」表現になりやすい。そして、研修や授業の場で、あまりに僕と価値前提が違う人に「なぜ?」を問うていると、その前提を問い直すモードから、いつしか「相手の糾弾」に転化する場面が、たまにある。そしてそういう「糾弾」モードに入ったら最後、相手も頑なになり、対話が二項対立的議論の泥沼に変化し、不全感が満載で終わる。最近ではそんなことは少なくなったが、以前はたまに「やらかしていた」。

僕が受講している研修では、「対話が二項対立の泥沼」にはまらず、良き未来を想起するための方法論を学んでいる。その際、「なぜ?」と「説明」を求めるのではなく、「いつ?」「どこで?」といった「行動」を促す質問が大切だ、と学びつつある。

この逸話に関連して、ファシリテーターの知り合いが「こんな本ありますよ」と教えてくれた本がある。指摘された本は、実は僕自身が以前読み、線まで引いていながら、実践できていなかった本でもある。

「一般に、質問をする場合、英語の5W1Hを聞いていくようにするとよいと言われています。しかしながら、5WのうちWhyは避け、残りの4つ『When=いつ』『Where=どこで』『Who=誰が』『What=何を』の4つに置き換えるよう努めてください。中でも一番簡単かつ強力な質問が『いつ?』というものです。何か相手が問題を語り始めたら、『どうして?』と原因や動機を尋ねるのではなく、『一番最近それが起こったのはいつですか?』と尋ねます。さらに『その前は?』と聞いていく、相手はどんどん思い出してきます。次には、『それはどこですか?』『誰と(あるいは誰が、誰に)?』『何を?』などと聞き込んでいきます。そうしているうちに、相手は、原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップに気づき、自らそれを語り始める、というのがこの対話術の基本中の基本です。」(中田豊一『対話型ファシリテーションの手ほどき』ムラのミライ、p10-11)

僕が研修や授業で扱うテーマも、「原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップ」について、である。ただ僕自身はこれまで、それを僕から「なぜ?」「どのように?」と問いかけることで、相手に気づいてもらおうとしてきた。でも、それは僕から相手に対する問いかけである限り、相手は「応答」モードである。しかも「糾弾」されている、と思うと、相手は必死になって自己防御的に自分の価値前提に固執しようとする。それがコミュニケーションの悪循環を創り出すとしたら、僕の「なぜ?」という問いかけ自体が大問題だったのだ。

では、どうすればよいか。そのヒントは、次の二カ所にある。

「事実を聞くつもりで、相手の意見や考えを聞く質問をしてしまい、結果として、相手の思い込みや思惑を引き出してしまうことで、ものごとをよりわかりにくしている」(p79)

「対話型ファシリテーションの技法の中心は事実質問にあり、『なぜ』という質問は禁句と繰り返して述べて来ました。しかしこの場合はそれを逆手に取りました。つまり、あえて『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証することで、新たな学びと気づきを引き起こすという方法をとった」(p97-98)

「なぜ?」質問が全く駄目、なわけではない。そうではなくて、「事実質問」と「相手の意見や考えを聞く質問」の違いに常に自覚的である必要がある、ということだ。もっといえば、質問者が今話題にしているのは「事実」なのか、「相手の意見や考え」なのか、に自覚的になることが大切なのだ。そして、僕はそこに無自覚なまま、「相手の意見や考え」を聞き続け、糾弾モードになり、泥沼にハマル局面があったのだ。

ということは、今の僕がすべきファシリの実践上の変化とは、「『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証する」ということである。価値を問う質問一辺倒、ではなく、出てきた価値についてまで「なぜ?」とたたみかけず、「いつからそう考えるようになりましたか?」「誰からそういう考えを学びましたか?」「その考えは、何と似ていますか?」など、「事実質問を使ってそれを検証する」ことが大切になってくるのだ。

更に言えば、「相手の間違った固定観念」と決めつけなくても、力まなくても、事実質問は魔法のように状況を変える力がある、と筆者いう。

「事実質問の訓練を重ねていくうちに、人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組みがだんだん目に見えるようになってきます。それとともに、その糸を相手にみてもらうために効果的なものや出来事を捉まえて、『これは何ですか?』『それはいつですか?』と聞いて行けばよいということがわかってきたのです。」(p58)

「人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組み」。これこそ、ファシリテーターが常に手綱を握るべきポイントなのかもしれない。そして、その「糸」を事実で辿っていきながら、相手に「糸」の存在を「みてもら」い、そこから「意識と行動と感情」のダイナミズムに事実質問を通じて働きかける。そのプロセスの中で、「相手が自分で気づくことによって行動変化を起こすのを促す」(p65)ことも可能になる、というのだ。

さて、それは僕の場合にも当てはまるだろうか? 明日の授業から早速、①なるべく「なぜ」「どのように」を使わないこと、②使う場合でも「固定観念」に気づいてもらう場面に限定し、その後は「事実質問を使ってそれを検証する」ことをしてみようと思う。

果たして、どうなることやら。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。