コミュニティワーカー必読の「地域学」

こないだ、兵庫県社協の研修で、地域体制整備事業のコーディネーターの基礎研修を行った。このコーディネーターは、厚労省が地域福祉や地域での互助活動の推進を目指して45年前から全国に配置しており、地域福祉の要役として期待されている。だが、実際のコーディネーターは地域づくりやコミュニティワークの経験のない人が配置される場合が多く、成果目標は何で、何からどのように動いて良いのかわからない、という声は、以前から聞かれていた。

個別支援の場合なら、そうはいってその人の障害や疾病、困窮さなどを聞き取った上で、必要な支援に繋げる、というアプローチであれば、ある程度「こんなふうにすれば良い」というパターンが出来上がっている。もちろん、パターン化にそぐわない人もいるし、予断を持ってパターン化に埋没してはいけないのだが、そうは言ってもある程度、最初に何をしたら良いのかのとっかかりができやすい。

だが、地域支援になると、では何をどこから始めて良いのか、が見えにくい。どのようにすれば「正解」なのかが見えにくいし、そもそも「こうすれば支援の成果がある程度作れる」という「唯一の正しい解法」がないのだ。だからこそ、マニュアルは役立たない。そして、マニュアルなき仕事は、多くの人にとって戸惑いが生じる。一方で、その中から試行錯誤をする中で、魅力的な、その現場で成功する解決策である「成解」が生まれてくる。こないだのオンライン研修では、そんな魅力的な実践例を伺った。

ある地方の町社協のワーカーのMさんは、ご自身がコーディネーターになった時の、「何をどのようにして良いのかわらからない」という不安やモヤモヤ経験の話をしてくださった。お年寄りが集まるサロンとか、色々な会合の場に訪問するのだが、「何しに来たの?」「社協さんなら、何か情報提供してくれるの?」と問われて、ただ単にその現場を訪問すること自体を苦痛に感じていた。そして、ある時期から地域カルテのようなものに各地区の基本的情報を埋めるようになったら、ヒアリングの目的ができてきたし、その中で地域のお祭りとか行事のことも知れて、その行事についてお尋ねして話が膨らんでいくうちに、その地区のリアリティが見えてくるようになった、という。

そして、Mさんの話で面白かったのは、彼女は地域カルテを埋めることを、ある時期から目的にしなくなった、というのだ。例えば初めての地区を訪問するときは、必ず地域の神社を訪問する、という。手入れがされずに荒れていく神社がある一方、丁寧に掃除がされたり、榊が供えられている神社もある。高齢化率がどれくらいか、という数値データでは見えてこない、地域のお年寄りがどれくらい元気か、とか、地区の公共的な場への気遣いができる余力があるか、とか、そういうことが、いくつもの神社を訪問して、その話を住民さんとする中で、見えてくる、という。

確かに、田舎に行けば行くほど、神社やお祭りが、その地区の象徴的なイベントや柱になっている場合も多い。だからこそ、その神社やお祭りが、例えば限界集落であっても意外と支えられている場合、週末などに都会から子ども家族が戻って来て、メンテナンスがされている可能性もある。逆に、そこそこの人口がいても、祭りが維持できず、神社も荒れている場合、お年寄りに活力がなく、若い人はいても寝に帰るだけで昼間は地域に人がいない、住民の地区への愛着も薄れている、なんて可能性も考えられる。

そういう視点の話を聞きながら、そうそう、こういう、一見すると福祉と関係のない地域のことを知る視点が、ある地区の地域福祉を包括的に理解する上で大切なんだよねぇ、と感じていた。そして、その話を聞いた後、書棚で積読だった地域学の入門書を読み始めて、それがよりクリアになってきた。

「地域とは『生き物』なのである。村も町も自治体も、みな生き物なのだ。国が治める領土は広漠たる原野だけではない。そこには生きた人間の集団が張り付いており、その活動が多層になって、絶えず新陳代謝が行われている。村や町が、その生命力で様々な問題を解決し、また新たな力をみなぎらせ放出する。その生命力を束ねて地方自治体は成り立ち、それをさらに相互に関係させることによって国家の生命力も初めて得られる。」(山下祐介『地域学をはじめよう』岩波ジュニア新書p29-30)

この本は中高生向けに書かれた地域学の入門書だが、地域学初心者にとっては、極めて役立つ一冊である。何より、地域を「生き物」と捉える視点が、いい。しかも、この本で詳述されているように、この本が射程に入れる地域とは、市町村の行政自治体単位ではない。江戸時代の村が明治以後の市町村合併で、字という単位になった、そんな小地域単位を、「生き物」としての地域として捉える。そして、その字の寺社仏閣や道路、川など様々な地理的条件が、昔からどのように引き継がれているのか。明治以後の度重なる市町村合併の中で、村から字に変わり、さらには村同士の合併で町や市に統合されていく中でも、字単位のつながりがどのように残っているのか。あるいは、生業に関連して、別の市町村とその字がどのようにつながっているのか。そういうことを、聞き取りなどをもとに明らかにしていくのが、「生き物」としての地域を理解しようとする地域学である。これは、コミュニティワーカーに必要な視点そのものではないか。

さらに同書ではある過疎山村で暮らす独居老人Aさんのネットワークとして、以下のような実態を明らかにしてくれている。

「この村に住むAさんは当時を80歳代で、長い間1人暮らしをしてきた。しかし本当に1人なのかといえば、そんなことはない。子どもたちが近くにいて、この家にしょっちゅう顔を出している。Aさんが亡くなった後は、この家が持っている農地は麓の集落に住む長男がやっていて、農繁期には毎日来る。結婚した長女もすぐ近くに住んでおり、月に数回は訪れる。妹も弘前にいて、車で30分ほどの距離。必要な時には手伝いに来てくれる。盆と正月には夫の兄弟たちもこの家に集まる。こうして、世帯としては分かれて暮らしているが、互いに行き来し、支え合っているので、限界集落に暮らすお年寄りは孤独でもなんでもないわけだ。それどころか地域の仕事やお年寄り同士のつきあいがあって、けっこう忙しく暮らしている。実際に限界集落のお年寄りに話を聞くと、こういうケースは珍しくない。」(p100

そうそう、こういう動的なネットワークの把握が、実は「生き物」としての地域の把握の際に、必要不可欠なのだと思う。2012年に出された山下さんの『限界集落の真実』(ちくま新書)を買ってすぐ読んだときに、もこの限界集落のリアリティにはびっくりしたけど、僕もその後、これを傍証するリアリティに遭遇する。山梨の最南端の南部町に伺って、限界集落と呼ばれる地域を視察させて頂いたおり、地元の包括の方が、「そう入っても週末人口が多いから」とおっしゃっておられた。特に、新東名ができた後、近くのインターまで車で15分とかの距離になったので、都会で暮らす50代、60代の子ども世帯が、頻繁に実家に戻ってくるのだ、という。これは、まさに道の変化により、地域のつながりを取り戻した事例でもある、と言える。こういう動体的な変化をそのものとして掴むのが、地域学のアプローチの真骨頂である。

すると、地域カルテの情報を書き込むだけ、では限界があることも、見えてくる。

地域カルテに関しては、ネットでググれば、素敵な先行事例も見られる。

だが、このような一覧表を作るのは、あくまでも「方法論」であって、その方法論が自己目的化してはならない。こないだの研修では「地域カルテのフォーマットを欲しい」という新人さんの要望がいくつか寄せられた。確かに、そういうフォーマットや先行事例は参考にして良いが、それと同じようにやれば良い、と思い込んでしまうと、方法論の自己目的化であり、これさえしていれば良い、という唯一の「正解」幻想に落ち込み、マニュアル主義に陥ってしまう。それでは、木を見て森を見ず、になってしまう。

地域学的なアプローチがコミュニティワーカーに必要なのは、地域カルテを作成するためではない。字ごと、小学校区ごとに違う「生き物」としての地域の特性や実情を掴んで、その地域の人々の実情に合わせた地域福祉の展開を一緒に考え合うための、比較ととっかかりの材料として、「生き物」をそのものとして動体的に掴むことが大切なのだ。

そう言えば、件の研修の際にも、「ある地域がコミュニティワーカーの関わりに拒否的で・・・」という話が出た。どういう背景があったのかわからないけれど、その地域の世話役たちは、「よそものに関与されること」にネガティブな思いを持っているのかもしれない。あるいは、これまで自分たちでなんとかしようと頑張ったけど、結局うまくいかずに絶望しているのかもしれない。いずれにせよ、閉塞感という「生き物」がどのようにその地域の中で醸成されていったのか、を動的に理解するために、まさに人々の繋がりやネットワークをたどる視点が、ここでも求められているのだ。

だからこそ、神社とかお墓とか、その地域の共有地がどのように整備されていたり、放置されているのか、お祭りや行事はどれくらいの規模で維持されているのか、を見ていくことも、その地域における人とモノの関係を辿ることになり、その結節関係を他の地域と比較する中で、その地域の特性を立体的に理解する糸口になるのではないか、と思う。

そして、山下さんの『地域学をはじめよう』には、地元の神社やお寺の歴史をどうやって調べたら良いか、とか、水や道の歴史、市町村合併の歴史を辿るにはどうしたら良いか、とか、地図をどう活用すると何が見えてくるか、とか、地域学のノウハウや基本的なスタンスが中高生にもわかるように、わかりやすく書かれている。地域への関わり方に戸惑っているコミュニティワーカーは、まさにこの本を携えて地域に出て、「生き物」としての地域の動的な姿を理解してほしい。そう感じる一冊だった。

付記:これを書き終わった後、Aという方法論でうまくいかない人に、Bという方法論を示しているだけでは、というご指摘をいただく。確かに、その通り、地域カルテがダメなら、地域学で行こう、となると、方法論の自己目的化の弊害に取り込まれてしまう。そうではなくて、AでダメならBをやってみよう、というプロセスの中で、地域住民の方々と出会い、対話し、その語りから学び、試行錯誤し…という積み重ねがあるからこそ、AとかBとかいう方法論を超えた、その地域やその現場で成功する解決策としての「成解」を模索できるのだと思う。

さらに言えば地域カルテも地域学も、本当に実践して深く地域を理解しようとすれば、単に質問紙調査の穴を埋める、だけではなくて、そこで出会った物語を膨らませながら、地域の人と一緒に考え合いながら、過去をたどりなおしつつ、今のその地域の姿を再解釈して、未来に繋げる、というプロセスを必然的に含んでいる。

あくまでもその「とっかかり」にしか過ぎないし、それをやれば正しい、とかそういう話ではない。コミュニティワーカーに求められるのは、深く相手を知ることであり、地域カルテも地域学も、その地域ののことを深く知り、現場の人と対話するための補助具にしか過ぎない、ということを、繰り返し強調しておく。

 

 

 

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。