二段組みで本文だけで400ページくらいある本を、しかも自分の専門領域ではないのに読み通すのは、簡単なことではない。俊英な岡部さんとの読書会で候補に挙がらなかったら、多分読み通せなかった、けど読んですごく勉強になったのが文化人類学者アナ・ツィンの『摩擦 グローバル・コネクションの民族誌』(水声社)である。同じ著者の『マツタケ』(みすず書房)も面白かったのだが、これも分厚くて、こちらは途中で挫折している。
今回なんとかこの本を読み終わって、改めてこの本は何の本だったのだろうと辿り直してみると、それはアブラムシの本だったのだ。え、なんだって?
「APHIDS(アブラムシ)、すなわちArticulations among Partially Hegemonic Imagined Different Scales(部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合)である」(p127)
この本ではインドネシアの辺境の熱帯雨林の開発と保護をめぐる様々なアクターの物語が「分厚い記述」で描かれている。地元住民のなかでも、山林開発企業の買収に応じて現金を手に入れたい人もいる一方、環境保護のアクティビストと同調する人もいる。焼き畑農業をやっている伝統的農業における村落共同体と、国や州における官僚的な支配システムにもズレがある。幻の金山騒動では、カナダの鉱山会社や投資家まで巻き込んだグローバルな投資活動が活発化した後、実はそれは贋物鉱山で金は全くとれなかった、というお粗末な結果も描かれている。スカルノからスハルト、その後の政権における政治腐敗が開発独裁とどのように繋がっているのか、も描かれている。一方で、インドネシアの中産階級の大学生達が自然を再発見し、環境保護アクティビストになっていくさまも描かれる。
一見すると、位相が違いそうな様々な記述が書かれているが、このような「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」によって、インドネシアの熱帯雨林地帯におけるグローバル・コネクションの摩擦と連鎖が描かれているのが本書である。そして、アブラムシの記述を見て思い出したのが、アリの話だった。
「以前は、アクター‐ネットワーク‐理論のラベルをはがして、「翻訳の社会学」、「アクタン‐リゾーム存在論」、「イノベーションの社会学」といった具合にもっと精緻な名称を選ぶのもやぶさかではなかったが、ある人から指摘されて考えが変わった。つまり、ANTという頭文字は、目が見えず、視野が狭く、脇目をふらず、跡を嗅ぎつけて、まとまって移動するものにぴったりであると言うのだ。アリ(ant)が他のアリたちのために書く。これは、私のプロジェクトにぴったりではないか。」(ラトゥール 2019a:22-3)
上記はラトゥールの主著『社会的なものを組み直す』の訳者の伊藤さんが引用されているHPから持ってきたActor Network TheoryはANT(アリ)である、という一節である。
アリもアブラムシも、実に小さくか弱い存在である。一匹で世界を変えられるような存在とは真逆である。でも、それぞれのアリやアブラムシが動き続けるなかで、より多くの構造が動き出す。それぞれの個体の間でも、あるいはアリとアブラムシの間でも、異質な諸スケールが「結合」されていくことによって、「部分的な覇権」が生まれてくる。
ムラトゥス山脈西部の山麓にあるマングールという焼き畑農業の移動耕作民の村は、グローバルヒストリーにおいてはアブラムシやアリのような小さくか弱い存在である。だが、この村の開発を巡って、州や国の役人だけでなく、ASEANのジャーナリストやグローバルな環境保護アクティビストとつながり、開発中止のうねりが出来ていく。しかし、この中で、村人達は外部者と一致団結し、大きな物語を作り出したのではない。「異なる位置にいるアクティビストたちが異なるストーリーを語るのは、彼らがマングールの森について明らかに異なった歴史を築いてきたから」(p361)という意味では、一見するとバラバラな、あるいは同床異夢な物語が描かれている。でも、実はこの同床異夢性の中に筆者は「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」というアブラムシの本質を見る。
「多くの環境主義の擁護者が環境学者に問うているのは、データを結合して地球規模の見取り図を作成するために、いかにして互換可能なデータセットを収集できるかである。この見方からすると、現地の視点は技術的な問題として乗り越えるべき課題となる。私のストーリーはそれとは逆のアプローチを切り開く。私たちが互換性のないデータセットに注目したらどうなるだろうか? 換言すれば、社会的な立場やジャンル、実践的な知識が、私たちの集めるデータを形成するあり方に着目したらどうなるだろうか? 互換不可能性を排除するのではなく、その不可能性がどこに差異をもたらすのかを明らかにする必要があるのだ。」(p374-375)
互換可能なデータセットとは、比較可能な数値化されたデータである。気温や湿度、森林面積や開発された大地の面積、土壌汚染の証拠となる各種の有害物質の含有量・・・、これらは何らかの「客観的な評価基準」で比較検討が可能なものである。環境保護などを主張する際も、このような互換可能なデータセットの収集に基づいた議論が、説得力があるとされる。
だが、アナ・ツィン氏は「私のストーリーはそれとは逆のアプローチを切り開く」と述べる。比較可能な数値に縮減されない互換性のないデータセットである「社会的な立場やジャンル、実践的な知識」が、「部分的に覇権を握る、想像された異質な諸スケールの結合」を生み出していく。その有様が「摩擦」や「差異」を生み出す。マングールの環境保護の動きに関して、村人の中でもその歴史的記憶が違って語られる。それは外部のアクティビストや州政府関係者との語りとも異なる。だが、唯一の正解がある、というfact信仰とはこのアプローチは異なる。違って語られる記憶にいかなる摩擦や差異があるのか。それはなぜ・どのようなプロセスで作り出されていくのか、をアクター間の連接(ネットワーク)を手繰りよせながら描いていくのだ。これはアクターネットワーク理論とは言わないANT、アリとアブラムシの結合の物語なのである。
「摩擦はグローバル・コネクションをより強力かつ効果的なものにする。また同時に、意識せずとも、摩擦はグローバルな力のスムーズな動作を邪魔しにくる。差異は混乱を招き、日常的な機能不全や予期せぬ天変地異をもたらしうる。グローバルな力が良く油を注された機械のように動作するというまやかしは、摩擦によって否定される。加えて、差異は時に反乱を揺動する。摩擦は、象の鼻に入るハエになれるのだ。
摩擦に注目することでグローバルな相互のつながりを民族史的に記述する可能性が開かれる。(略)私たちが問うのは、普遍が真実なのか虚偽なのかということではなく、普遍が持つ種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)である。」(p29)
僕がブログを書くのは、本の紹介の意味もあるが、こうやって文章を筆写する中で、筆者の論理構造を追体験する意味も大きい。今回この部分を筆写しながら、アブラムシはハエでもあったのか、と気づかされた。それだけでなく、この本は色々なややこしい話がたっぷり書かれていて、読んでいて疲れるし、どこにいくねん、と思いながら読んでいるのだが、実は社会運動といわれるものは一枚岩では全然なくて、差異は混乱を招くし、スムーズな動きは摩擦によって否定されるのだけれど、そのような動的混乱や反乱、揺動こそが、金融資本主義やグローバライゼーションといった大文字の政治に抵抗する「蟻の一穴」になりうる、ということだ。普遍はシュッとしたスマートな真実なのではない。本書を読んでいても感じるが、「普遍」として歴史的に記述・記憶されるものも、実は「種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)」の極めて薄氷を踏む動的平衡のなかで成り立っているのである。
これと同じ記述を、自分の専門で出来るか、と言われたら、大変心許ない。でも、精神医療の構造を問い直すのなら、こういう形での「種々の厄介な関わり合い(エンゲージメント)」による「摩擦」や「差異」を描く方法もあるのだ、と学ぶことができたのは、大きな成果だ。